耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“一茶”の「被差別者」への熱いまなざし

2008-01-10 12:27:16 | Weblog
 いわゆる「」問題を具体的に認識したのは、1959年から60年にかけて発生した「三井三池闘争」だったと記憶する。当時、佐世保重工臨時工労働組合(組合員約900名)の書記長をしていた私は、「臨時工制度撤廃」を掲げて闘っていたが、この「臨時工制度」は労働現場における明らかな“身分差別”であると受けとめていた。「三井三池闘争」が激化したのは丁度この時期で、ついに会社側が雇い入れた暴力団と組合員が衝突する事態が発生する。そこに労働組合支援のため登場したのが「解放同盟」である。暴力団員には「」出身者が多いと言われ、彼らは「解放同盟」が掲げる“荊冠旗(けいかんき)”を一目見るなり逃げ去った、とのニュースが伝えられた。周知のとおり、“荊”は「ノイバラ」で、“荊冠”はイエス・キリストがかぶる受難と殉教の象徴である。

 “荊冠旗”(戦前):http://www.jca.apc.org/~hirooka/keikan.jpg
 “荊冠旗”(戦後):http:/
/www3.kcn.ne.jp/~bllyokoi/App0001211.jpg


 「臨時工制度」という“身分差別”を目の前にしつつ、この「三井三池闘争」での出来事が“差別”問題の本質に目覚めるきっかけになったのは確かである。こんにち、「被差別」をはじめとする“差別”問題に関しては新たな格差社会の出現によって、解消されるどころか形を変えて再生産されていると言ってよかろう。この“差別”問題は学問的にも多角的に論じられていて、ここでその分野に深く踏み入るつもりはないが、二、三の記憶に留めておきたい「話」を記しておく。


 前回の記事で水上勉が『良寛』を執筆した動機の一つに、「差別戒名」に関する『朝日新聞』の記事(1981年8月30日)をあげていると書いたが、その具体的な内容は「江戸時代の高僧・無住道人が書き残した『禅門小僧訓』という教え。無住道人は、わざわざ『(えた)之事』という項目を立てて、仏教が長年にわたって被差別の人びとに差別的な戒名をつけてきたことを記し、つけ方を具体的に教えている。たとえば、一般庶民の戒名と混同されないよう『には「僕男」「僕女」と書くべし』『その者ども死したるときは位牌(いはい)に「連寂」「革門」などと書くなり』とし、『仏いわく、戒名は格式に従って書くべし…』と記している。」とある。

 この『禅門小僧訓』には「良寛禅師一口戒語」が収録されているというから、無住道人は江戸末期の人らしいが、仏門における「差別戒名」はかなり古くから存在していて(浄土宗には同種の差別書『無縁慈悲集』がある)、当然のことながら“良寛”さまもご存知だったことだろう。禅門での露骨な人間「差別」を純粋無垢な“良寛”さまがどんな気持ちで見ておられたか、想像に難くない。

 “良寛”さまとほぼ同時代に生きたのが俳人の“一茶”である。“良寛”さまの父・以南(俳号)は“一茶”と交遊があったといわれ、『殺生』の題でこんな答贈の句がある。(参照:水上勉著『良寛』)

 やれうつな蝿が手をすり足をする     一茶

 そこふむなゆふべ蛍の居たあたり     以南

 “一茶”については11月19日(『今日は“一茶忌”~晩年の異常性欲』)の記事で一部書いたが、実は肝心な点に触れずにおいた。それは“一茶”と「差別」問題である。自身が被差別の生まれで解放同盟長野県連合会書記長、全国同和教育研究協議会常任委員を歴任した中山英一著『被差別の暮らしから』(朝日選書)の第四章は「むらと一茶」と題され、同じ信州に生きた人間“一茶”を著者の中山英一氏は熱いまなざしで提示している。

 著者はこの本の中で「私の生いたち」を書いている。詳しくは本書を見てもらうしかないが、「父やんと母やんの慟哭」としてこう綴っている。

 <母やんが慟哭したのは、私が「ちょうり」(注:差別語「」のこと)のことを尋ね迫ったときでした。私の体を力いっぱい抱きしめていいました。「そんなこといわれたって、おらだって知らねえんだからこまるだあ」と。
 小さい声でしたが、私にははっきり聞き取れました。私が母やんの手をはずしたら、母やんの目から大粒の涙がポトンポトンとおちていました。>

 これは小学校に入って間もなくのことだ。著者は同級会には、お互いに嫌な思いをするだけだから、当番だった三回以外は出席していないと言う。担任の先生も同級生も差別した人ばかりだからだ。この人が“一茶”を語るとき、千軍の味方を得たような筆致である。(<>は同書からの引用)

 <この世のすべてのものに「平等」と「慈悲」の心を向けた小林一茶。封建社会で被差別民衆に熱と光をあてた一茶。人間に誇りと美しさと生きる喜びを与えた一茶。芭蕉や蕪村とともに、学校の教科書に登場している一茶である。>

 “一茶”は百姓の子として生まれ、三歳で生母と死別、八歳のとき継母が来る。十歳のときに弟が生まれている。十五歳で江戸に出奔、転々と奉公生活をしていたらしい。いわゆる下層民の生活に身を置き、それが出自と相俟って彼の思想を形成することになったのだろう。

 <一茶は、およそ二万句詠んでいる。そのうち「えた」を11句(連句2句)、「団(弾)左ェ門」を1句、「春駒」を5句、「番太」を4句、「隠坊」を4句、「皮剥」を1句、「皮かふ」を1句、「棒突」を6句、「わらじ(草履)売り」を14句、「辻村」を1句(「」を連句で1句)詠んだ。>

 以下同書からいくつか“一茶”が詠んだ「被差別民衆」の句と中山英一氏の解説を抜粋してみよう。

 穢太(えた)町に見おとされたる幟哉

 <町内の被差別で節句を祝う幟が白くはためいていた。「えた」町の幟の方が立派で、隣接の町の幟が貧弱で「えた」町から見おとされている。「えた」町の人びとの力強い心意気が彷彿と感じられる。>

 穢太(えた)町も夜はうつくしき砧(きぬた)哉(かな)

 <「砧」(きぬた)とは、布につやを出すため、木や石の上に布をのせて、木の槌(つち)でたたくことである。秋の季語である。澄みきった静かな秋の夜、満天にきらきらと星が輝いている。そんなとき、ふと「えた町」から砧を打つ音がトントンと美しく聞こえてきた。
 昼は「えた」「えた」と差別されている町も、夜はこんなに美しい人たちの労働の音が響いているではないか。>

 えた寺の桜まじまじ咲きにけり

 <「えた寺」とは、の中にある寺のことである。…「まじまじ」とは真っ向からじっとの意である。世人は、「えた寺」に咲く桜なら、小さく卑屈な姿で咲くだろうと思い込んでいるが、事実は、毅然と姿も色も香も立派に見事に咲いているではないか。>

 苗代や田をみ廻りの番太郎

 <「番太郎」は「番太」のことで、…「」階層のことである。主要な任務は、木戸番、火の番、水番、野番・宮番などである。…
 「番太」が田の見回りにきた。これも任務の一つである。苗の育ち具合は、耕作の進み具合は、そして水の加減は、盗水はないかなどと。「番太」の誠実な姿が浮かぶ。>

 隠坊(おんぼう)がけぶりも御代(みよ)の青田哉

 <「隠坊」は「墓守」または「死骸を焼く職の人」のことで、身分は「番太」と同じ「」とされた。
 この句は、人を焼く、つまり、荼毘(だび)のけむりが立ち昇っている、その下の方に青田がひろがっている情景を詠んだものである。…「隠坊」のけぶりの下に「御代」(徳川将軍の治世)の青田があるというのだ。>

 皮剥(かわはぎ)が腰かけ柳青みけり

 <「皮剥」はけものの皮をはいで、なめす作業をする人で「えた」の職業の一つであった。川端に根の曲がった柳があり、そこが「皮剥ぎ職人」の仕事場にもなっている。その柳の木は、春が訪れて、みどりの葉を開き始めている。だがそこは世人から無視されている。>

 売るわらじ松につるして苔清水

 <…「わらじ」や「ぞうり」を作り、売る仕事は、信濃(長野)では主として「」の仕事であった。
 私の父は小作人兼ぞうり売りで、年間の三分の二はぞうりとわらじを売り歩いた。母はぞうりやわらじ作りの名人であった。ぞうりは二十足を連ねて一竿(ひとさお)といい、わらじは三十足を組んで一舟(ひとふね)といった。>


 こうしてみると、“一茶”の句がどこか違って見えてきはしないだろうか。著者は、“一茶”を総括するように書いている。

 <人間には、自己の意思や選択でなく、心がけや努力ではどうにもならないことがある。その不可抗力の一つに、身分制度があった。当時の身分はそこから抜けだすこともできなかった。社会の最低辺に押さえ込まれて、人間の尊厳と自由と平等を侵害された立場の者は、生きるために表面上は体制に順応し、妥協はしても、反権力、反権威の潜在意識は堅持していた。
 一茶のしたたかな百姓魂、被差別者としてのド根性が、その面目を躍如とさせている。>


 次回は、「一向一揆と」について考えてみたい。