耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

被差別部落形成は“一向一揆”の敗退後~本願寺も一役

2008-01-12 10:58:13 | Weblog
 「被差別の発生」には諸説あって未確定とみてよさそうだが、「一向一揆」との関係を重視する有力な説がある。つまり、織田・豊臣政権が天下統一を成し遂げるには「一向一揆」衆の討伐が最大の課題だったが、このとき討伐された「一向衆」が身分を貶められ、一定地域に定住させられたというのである。

 周知のとおり「一向」とは「浄土真宗」の別称「一向宗」を指す。浄土真宗第3代法主“覚如”が祖師“親鸞”の遺志に背いて本願寺を創設したが、“親鸞”の関東門徒衆、中でも高田専修寺や仏光寺教団が隆盛で、本願寺は「さびさび」たるありさまだった。本願寺の興隆は第8代法主“蓮如”の功績によるとされている。比叡山など旧仏教の妨害を受けながら“蓮如”は、持ち前の人柄と「六字名号」(南無阿弥陀仏)や「十字名号」(帰命尽十方無碍光如来)の下付という独特の布教法で近江、美濃、越前、越後などへ教線を拡げていく。“蓮如”には5人の妻に27人の子どもがあり、それぞれ各地の寺院と縁を結んで地盤を強化していった。(参照:5月28日の記事:『浄土真宗・中興の祖“蓮如”をどうみるか』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070528
 
 この“蓮如”の教線拡大の過程で生まれたいわば「鬼子」が「一向一揆」なのだ。

 中世後半になると、いわゆる「下克上」の時代。1467年に守護大名同士が争った「応仁の乱」をきっかけに、戦乱は全国に広がり約一世紀続く。史上初の一揆は1428(正長元)年に起きた「正長の土一揆(徳政一揆)」。このあと民衆の政治的要求である「土一揆」はあちこちで頻発する。一方、「一向一揆」は信仰と結びついて団結した民衆の強力な権力闘争へと発展するが、最初の「一向一揆」は1466年、近江で発生した。後に「王法為本(国法を本とする)」を鮮明にする“蓮如”は、この「一揆」を押さえにかかるが、民衆の政治的要求は高まるばかりで、1474年越前、1480年越中、1488年加賀、1532年畿内、1563年三河、1567年伊勢、そして1570年の「石山本願寺合戦」へとなだれ込んでいく。特に加賀では、「百姓の持たる国」(加賀100万石)がおよそ100年続いたのである。

 天下統一を目指す織田信長の最大の課題は、この「一向衆」の平定にあった。“蓮如”が隠居寺として建てた石山本願寺(1497年建立:現在の大阪城一帯)は、孫の証如の代(1533)には寺域が拡大され、堅牢な堀・塀を擁する要害と化していた。1554年、死んだ証如の跡を継いだ第11代法主・顕如が織田信長陣と対決することになるが、この「石山本願寺合戦」は1570年から足掛け11年間にわたる壮絶な戦いであった。結局、信長は殲滅手段をとらず「勅命講和」を選び、講和条件に「惣赦免」(全員の生命の保証)と「大坂退城」を提示、本願寺方はこれを受け入れ降伏する。

 信長死去(1582)のあと、天下統一事業を継承した豊臣秀吉は、各地に残る一揆討滅に力を注ぐ。たとえば1585(天正13)年3月、紀州の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆討滅には10万余の大軍をさしむけた。根来寺衆の城といわれた千石堀城には雑賀・根来衆1500人とその家族を含めて5000人近い人が立て篭もっていたが、秀吉軍に包囲され全員焼き殺された。雑賀衆の砦・太田城を攻撃した秀吉は、同年3月27日、家臣前田玄以にあてた書状で、雑賀衆を獣とみなし「鹿垣(ししがき)」をめぐらして一人も漏らさず「干殺(ひごろし)」にするといい、秀吉得意の水攻めで雑賀衆は一ヵ月後に降伏、百姓は助命したが、首謀者53人は首を刎ねさせ、わざわざ天王寺・阿倍野に運び、そこに晒して見せしめにし、さらにその女房たち23人を太田村において磔にした。
 
 秀吉は一揆解体をすすめる一方「刀狩り」を始め、また明智光秀を破った直後から「検地」にとりかかる。検地は1歩を6尺3寸四方とし、300歩を1反とした。田畑の等級も上・中・下・下々に分け、石盛(こくもり:反当り平均収穫量)も定められ、枡(ます)も京枡に統一された。この検地政策は政治的、経済的、社会的影響がきわめて大きく、近世身分制の根幹をなす兵農分離が推進され、やがて士・農・工・商・(えた)・の階級社会を形成する。

 「近世の成立過程」を考察した寺木伸明は「寺院の開基年代に古いものが少なくなく、実際、一向一揆にかかわっていたの先祖も確認されることから、一向一揆、とくに最後まで頑強に抵抗した部分が粛清されて身分貶下(へんか)され、近世に組み込まれた場合のあった可能性は否定できない。」(『被差別の起源』/明石書店)と述べているが、もっと直截な見解を示しているのは石尾芳久著『続・一向一揆と』である。
 注:「貶下」=身分や地位を落とすこと。

 石尾芳久は、といわれる人々の原型である「かわた」(牛馬等の皮剥ぎなど卑賤な職の者をさす)、警察・行刑役(首討ち役など)を科せられた「かわた村(役人村)」、一向一揆が勅命講和によって終息した1580(天正8)年以降に変化する「差別戒名」にふれつつ、次のように述べている。

 <天正13年(1585)これは最後の一向一揆といわれる根来・雑賀一揆が粛清された重大な時です。寺社領の検地がこの粛清により可能になったといわれます。全国的な太閤検地といいますのは、最後の一向一揆を滅ぼした時から可能になったのですが、丁度その時に「かわた」身分差別と「役人村」と「差別戒名」の三者が必然的な関係をもって、権力とそれに合体した転向宗教によって行使されたということは疑うことのできない事実であると思います。>

 ここで「転向宗教」というのは、10年にもおよぶ信長との戦いに門徒衆を巻き込みながら「勅命講和」を受け入れて権力に恭順した顕如・「本願寺」を指している。実は本願寺は「転向宗教」であるばかりか、最後まで抵抗した末々の門徒衆を無惨にも裏切っているのだ。一例を挙げれば、秀吉による天正13年の根来寺攻撃に際し、根来の裏坂よりの攻略の道を教えたのは顕如の指示を受けた貝塚願泉寺の坊主だという。さらに、信じ難いことだが、「寺(穢寺ともいう)」の創設に本願寺が深く関与していることである。

 参照:「寺」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%A2%E5%A4%9A%E5%AF%BA

 石尾芳久は、一向一揆が勅命講和で終息した天正8年(1580)、「差別戒名」が決定的な変化を示していることに注目している。最古の「差別戒名」手引書である『貞観政要格式目』の「三家者位牌」には“連寂白馬開墳(某甲)革門○”とあるのに対し、天正8年以後には“連寂白馬開墳(某甲)革門卜○”と、「○」が「卜○」に変化している。「○」は「霊」の略字、「卜」は「歩」の略字で、「歩」は十分の一という意味だから「卜○」は十分の一の仏性となる。こう指摘して石尾芳久は次のように言っている。(注:○は大の上にヨと書き、霊の略字とされている)

 <…天正8年以後、差別戒名が決定的となり、本格的になったのです。これは真の仏教では考えられないことです。人間性の絶対平等こそ真の意味の仏教、すなわち救済宗教としての仏教の本義であろうと私は考えます。これが死後も十分の一の仏性しか認めないということでは、現世の身分体制が死後も続くということを認めることになります。…権力の手先になってしまって本来の宗教を忘れて呪術に転化してしまった形骸的宗教・転向宗教と考えられると思います。>

 この後、石尾芳久は本願寺・顕如が太田城で戦って助命された「残之衆」にあてた手紙「太田退衆中へ 顕如」を取り上げ、<最後の一向一揆を闘った人たち、「太田退衆」「残之衆」がたしかに「かわた」身分に身分をおとされているという事実をここに確認することができる。>と結論している。

 参考資料:神田千里著『一向一揆と真宗信仰』(吉川弘文館)
      寺木伸明著『被差別の起源』(明石書店)
      石尾芳久著『続・一向一揆と』(三一新書)
      大阪人権歴史資料館編『日本の歴史と人権問題』(解放出版社)