耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“地獄の釜の蓋”(キランソウ)~『池さん』のブログに学ぶ

2008-06-30 08:54:03 | Weblog
 生活全般にストレスの多い今日この頃だが、気分爽快にしてくれるブログがある。ハンドルネーム「池さん」の『芦生原生林の博物誌』である。写真が素晴らしい。そして、自然観察の目が行き届いて、まさに「博物誌」をめくるように学びながら楽しめる。

 『芦生原生林の博物誌』:http://forestwalk.exblog.jp/

 5月17日の記事に「地獄の釜の蓋?~キランソウの花」の写真があって、子どもの頃から「イシャタオシ(医者倒し)」と教えられていたのが、別名「地獄の釜の蓋」と呼ばれているのをはじめて知った。

 およそ40年前になるが、在京時に東京・立川で義母が大腸がんを手術したあと郷里に帰って養生していた折、花をつけているこの「イシャタオシ」を陰干しし、煎じて飲ませればいいと聞いて、あちこちから採取したことを想い起こした。末期がんだったため、「イシャタオシ」の服用の甲斐もなく5年生存期を過ぎて間もなく亡くなったが、その当時地植えしたこの野草はいまも庭に元気に生えている。
 
 手持ちの薬草関連書には掲載がなかったので、ネット検索で調べたら、気管支炎、解熱、健胃、下痢、腹痛、高血圧に効能があり、虫刺されには茎や葉をもんで患部に塗ればよいとある。畑にはたくさん生えているので、蚊やブヨに刺され苦労しているみんなにも、さっそく教えておこうと思っている。

 参照:「キランソウ(筋骨草)」:http://www.geocities.co.jp/Outdoors/6286/kiransou.html


 (学び心旺盛な皆さんに、気分一新のため、素晴らしい写真をぜひご覧いただきたいと思い、「池さん」には無断でリンクさせていただいた。ご容赦のほどよろしくお願いします。)

宗教法人を名乗る政治団体“創価学会”~分裂への道?

2008-06-28 10:50:05 | Weblog
 “創価学会・公明党”に関しては、これまで4回(07/2/21・4/8・7/12・10/18)記事にしている。40年前、編集責任者をしていた組合機関誌に長文のルポ「創価学会をさぐる」を執筆以来、強い関心を持って見つめ続けてきた集団だが、新興宗教の中でも異常な“増殖”を続けながら中央、地方議会に勢力を伸ばしてついに与党化し、国・地方の政策を牛耳るまでになった。それも当初は、「平和と福祉」の政党を標榜していたはずなのに、いつの間にか「自衛隊イラク派遣」や「テロ特措法延長」あるいは「定率減税の廃止」や「後期高齢者医療制度」など憲法を蹂躙し、弱者切り捨ての政策を主導しているのである。フランスでは「カルト」と断定されるこの集団を黙って見ているわけにはいかないのだ。

 ところで去る5月12日、矢野絢也元公明党委員長が東京地裁で記者会見し、同日付で宗教法人・創価学会と創価学会の最高幹部7名を被告として、名誉毀損に基づく損害賠償請求訴訟を東京地裁に提訴するとともに、5月1日付で家族揃って創価学会を退会したという。朝日、読売、毎日など主要メディアは、この「重大事件」を一切報じていない。この国のジャーナリズムは一体どうなっているのか。これまでたびたび指摘してきたことだが、最近目立つ警察権力の暴走とあわせ、まことに恐ろしい現象と言わねばならない。

 参照:「You Tubeー矢野絢也元公明党委員長が創価学会を提訴」:http://jp.youtube.com/watch?v=8RvaVzg0fI0&feature=related

 さらに6月25日、矢野絢也氏は日本外国特派員協会で会見を行っている。

 「オーマイニュースー創価学会は「反社会的」「人権蹂躙」団体だ」:http://www.ohmynews.co.jp/news/20080626/26778

 質疑応答の模様をみれば、事の重大さがひしひしと伝わってくる。
 
 「オーマイニュースー元公明党委員長・矢野絢也氏 質疑応答」:http://www.ohmynews.co.jp/photo/20080625/26745

 創価学会の池田大作名誉会長が、初代牧口常三郎会長が信仰の根拠としていた“日蓮正宗”から破門されたのは周知のことで、現在、創価学会は「池田教」の“信者団体”にすぎない。というより、矢野絢也元公明党委員長が言明するように、創価学会は「宗教法人」を名乗りつつも、実態は公明党と一体化した「政治団体」なのだ。選挙のたびに、創価学会員が目の色を変えて飛び回わるのは、集票能力次第で幹部への道が開かれるシステムが用意されていて、学会幹部への昇進がすなわち公明党議員への出世、つまり「サイコロの上がり」となっているからだ。

 『週刊新潮』4月17日号に「公明党のドンが警察に圧力をかけた “創価学会”学会工作事件」の見出しで、創価学会と対立する日蓮正宗・妙観講の信徒2名が逮捕されたとある。(参照:http://toride.org/enzai/shincho-komei-hujii.pdf

 この事件に関しては次の「妙観講」のサイトに詳しく書かれている。

 「妙観講」:http://www.myokan-ko.net/2008/04/post_71.htm

 自らの正当性を誇示するがために、寸毫の忠言、批判も許さず、気に食わなければ手段を選ばず相手を誹謗・中傷し、そればかりか陰湿なスパイ工作・恫喝、はては警察権力を使って身柄を拘束するという、なんとも恐るべき「カルト」団体というべきだろう。こんな団体がわが国政治の中枢で、国民の生殺与奪の権限を我が物顔で行使しているのだ。しかも、この団体に洗脳された有名タレントが、NHKをはじめマスコミに頻繁に登場し、巧みな宣伝活動に余念がない。これも、創価学会の資金力に取り込まれたマスメディアの哀れな姿と言わねばならない。

 「学会タレント」:http://jp.youtube.com/watch?v=t7b0MKqHbBY


 前にも指摘したことだが、“絶対的権力は絶対に腐敗する”と言われるとおり、巨大集団・創価学会の腐敗分裂は時間の問題とみていた。今回の矢野氏の「闘い」で事態がどう展開するか、注目したい。

“同病相憐れむ”~水上勉と不破哲三の対談

2008-06-26 22:19:12 | Weblog
 ともに「心筋梗塞」を患い、“同病相憐れむ”気持ちで、毎日新聞記者を通じ水上勉の電話から始まる両者のつき合いである。最初の電話からおよそ十年後、出版社の企画で実った対談(2000年2月)が『一滴の力水~同じ時代を生きて』(光文社)だった。

 水上勉は、ともに心臓病を患ったこともあって不破哲三を「心友」と呼ぶ。対談は、交際のきっかけから対談までの十年間を振り返ることから始まる。ついで少年時代のことが想い出として語られ、不破哲三が小学校三年(1939年)で四百字詰原稿用紙百五十枚の小説(?)二つを書き、『綴方學校』という子供雑誌にその一つが掲載されるのだが、水上勉の文章がはじめて活字になったのが奇しくも同年の1939年だったという。

 ここから吉川英治の話になる。不破哲三は父親に「作家で誰が好きか」と聞かれ即座に「吉川英治」と答えた。しばらくたって、父が「こんど、吉川さんの家に連れて行く」と告げる。聞くと、手紙を出したところ返事を貰ったというのだ。その手紙が残っていて文面が紹介されている。

 <いつか御芳書をいただいて居りました その折早速御返事を出すべきでしたが
 問題後大切な御愛児の将来に関はることだし 又忙中自分勝手な方にもまぎれ失礼してをりました あしからず御海容下さい
 其後又 机上に重ねた中から御芳書を出し 失礼を詫び 同時に考へてみたことですが 御親子の情 小生の如きへ御懇篤な御手紙 ともあれ 小生はまだ まったく机塵の中の一書生に過ず 人間もだめ 自信は猶もてないのですが 単にいちど いや時折にでも御遊びに御出で下さる程度なら 気軽だし それならいつでも御目にかかります そしてはなしぐらゐなら時間のゆるす折は いくらでもします
 小生今夜より十日間ほど 九州方面に旅行します 来月五、六日頃には帰ります その頃御電話でもして下らば いつでも さしつかえありません
 ちゃうど 御子息も 暑中休暇のところ ひと朝御訪ね下さいまし
 右まで
 たいへん取遅れましたが 御返辞を    拝具
                        英治生
   七月廿八日
 上田庄三郎様
     研北 >

 「吉川英治」という人物が滲み出た手紙である。この手紙は東京・青梅の『吉川英治記念館』に寄贈されているそうだが、水上勉は吉川英治の思い出をこう語っている。

 <…先生が亡くなる前の年(1961年・昭和36年)に、私が『雁の寺』で直木賞候補になりまして、軽井沢でお目にかかるのですが、そのときの話です。行った先のゴルフ場で、おばあちゃんがキャディを務めているのを見て、「今日はやめようじゃないか」と奥さんに語られて、車を引き返してしまったんです。年取ったおばあちゃんが草取りなどしているのを見ながら、ボールで遊ぶ気持ちはとてもしない、と言った。>

 文壇で超有名人でありながら、貧乏で苦労人だった吉川英治の人格は終生変らなかった。この対談でもう一ヶ所、吉川英治に関連した話が出てくる。1972(昭和47)年、水上勉は『兵卒の鬃(たてがみ)』で吉川英治文学賞をもらうが、この作品は自らの軍隊経験~輜重輸卒(しちょうゆそつ)として馬の世話係~を書いたものである。輜重輸卒は軍隊の階級秩序の最底辺といわれ、「輜重輸卒が兵隊ならば電信柱に花が咲く」と歌われたらしい。そんな酷い軍隊生活を書いた小説が「吉川英治文学賞」に選ばれ、水上勉の喜びは格段のものだった。

 1989(昭和64)年1月、昭和天皇が亡くなり、朝日新聞が「昭和と私」という文章を十人に書かせるが、その一人に選ばれた水上勉は「戦争呪う今日を生きる 欺瞞の過去に感慨無量」と題し、『兵卒の鬃』で描いた“輜重輸卒”としての軍隊経験を織り交ぜ書いている。

 <…丙種合格で現役には行かなかったが、19年にぼくは招集で京都の伏見輜重隊に入った。「輜重輸卒が兵隊ならば蝶やとんぼも鳥のうち」と村の盆踊りでうたわれたその兵科だった。Fという鬼軍曹がいて、「お前らは一銭五厘であつめられたが、馬はそうはゆかぬ。天皇陛下のお馬ゆえ、放馬したり、傷つけたりしたら重営倉だぞ」といった。朝から晩まで馬の尻ふき、傷つけぬよう荷駄を負わせたり、馬房のそうじをしたりして、馬とくらした。…
 F軍曹が一日に何どかその名を出して、ぼくらを直立不動で「気をつけ」の姿勢にさせた大元帥陛下は、昭和20年に終戦を英断され、やがて人間宣言された。まるで悪夢のようだったな、と輸卒時代をぼくは若狭へ帰ってふりかえったが、生きてこそそれもいえたことで、死んでいった友や馬はこの終戦を知らなかった。このことがいまも悲しい。…
 天皇の崩御で、昭和の64年が終った。天皇の名をつかって、戦争をおこし、相手国を侵略した軍閥の専横を、どの新聞も、テレビも報じた。まことぼくにも昭和20年、26歳までは重苦しい昭和だった。戦後の43年間は、背中にへばりついたうしろめたさを感じながら生きた歳月であった。そうして、七十歳になっている。母が自作田をもらってよろこんだ年齢(とし)より老いたのだ。…>(平成元年一月十一日)

 水上勉も吉川英治に劣らず貧乏で苦労人だった。長く日本共産党の委員長を務めた不破哲三が、この両者と気脈が通じ合っていたことは、案外に知られていないのではないだろうか。

“隆達節”の『君が代』~江戸時代の「ラブソング」だった

2008-06-24 15:37:44 | Weblog
 “ウコン”の花:

 生薬の“ウコン(鬱金)”は、一般に「肝臓にいい」と聞くが、それは“秋ウコン”を言い、いま咲く“春ウコン”の方は薬効も違うらしい。上にアップしたのは昨日、畑の脇の藪の中で見つけた花。地主のおばさんに聞くと、“ウコン”だという。珍しいのでアップしておいた。


 さて、“ウコン”とは全く関係のない話だが、工藤晃著『エコノミスト、歴史を読み解く』(新日本出版社)を読んで、こんにち国歌とされる『君が代』の由来に新たな視点が当てられていることを知った。著者は「『君が代』の生誕史全体にわたって、従来の通説(注:『古今和歌集』由来説など)を再考するといったものではない」としながらも、次のように言っている。

 <…私のこの一文は、最近私たちがおこなった調査にもとづき、当時大山(注:大山巌(1842~1916)は鹿児島出身。陸相・参謀総長を努め、日露戦争では満州軍総司令官)が、大山に限らず彼のまわりの薩摩藩の若い武士たちが愛唱した「君が代」は、もっと別の歌であった可能性が見えてきたことをあえて提唱することにした。もちろんこれで決着がついたなどとは思わない。しかし、この問題をめぐってまだ多くの真実がかくされていることはまちがいないと思う。>

 著者は偶然に、新村出編『広辞苑(第4版)』(岩波書店)で、『君が代』の歌詞が「江戸時代の隆達節(りゅうたつぶし)の巻頭第一にあるものと同じ」とあるのを見た。“隆達節”は「江戸初期の流行歌。泉州堺にある日蓮宗顕本寺の僧隆達(1527~1611)が創めた小唄。1600年ころに流行、近世小唄の源流をなした。隆達小歌。」(『広辞苑』)という。

 いろいろ調べていくと、隆達ゆかりの寺・堺の顕本寺に行きつく。ここには隆達の墓があり、現住職夫妻は“歌謡の元祖”隆達の顕彰のため心血を注いできたといい、戦前顕本寺にあった隆達の屏風がボストン美術館にあって、この返還を求めて努力するもかなわず、その屏風の「写し」が寺に存在することを知る。

 屏風は六曲一双で、自由奔放な遊里の風景が四面分に描かれ、両側に隆達の筆による書がある。1602(慶長7)年、隆達75歳。最初の[一面]第一首が『君が代』の歌詞と同じの「君が代は千代に八千代にさざれ石の岩ほとなりて苔のむすまで」である。
 他には、
[一面]
・おもいきれとは身のままか誰かはきらむ恋のみち
・雨の降る夜の独り寝はいずれ雨とも涙とも
[二面]
・人は知るまじ我が仲を頼むぞ側の扇も帯も
・この春は花にまさりし君持ちて青柳の糸乱れ候
[三面]
・花を嵐のちらすような雪に袖うち払ひ誰かおりやらうぞの
・悋気(りんき)心か枕な投げそ投げそ枕に咎はよもあらじ
[四面]
・月もろともに立ち出でて月は山の端に入る我は妻戸に
・そなた忍ぶと名は立ちて枕並ぶる間もなやの

などの「恋歌(ラブソング)」が並んでおり、『君が代』の「君」は明らかに親しい人、愛する人を指している。(参照:「日本共産党大阪府委員会:“君が代”のルーツが堺の寺に!?顕本寺の僧創作の隆達節」2007.05.25)

 これらの調査結果を踏まえ、著者の工藤晃氏はこう言っている。

 <明治初年にどんなどさくさで始まったにせよ、その後の「君が代」の国歌への昇格の過程で、明治政府の権力者どもによる天皇制イデオロギーのでっち上げの進行―軍人勅諭から教育勅諭へ―とともに、これまで民衆が大事にしてきたこの歌の中身が抜き取られ、代わりに天皇制賛歌と忠君愛国の歌にすり替えられてしまったことは、重大な欺瞞である。
 我々の結論は次の通りである。
 第一、以上述べたところから、「君が代」は国歌にふさわしくないと考える。付け加えて言えば、酒の席などで歌っていた歌を、子どもたちに厳粛な顔をして歌わせるのはいかがなものか。
 第二、「君が代」問題は、日本の文化のあり方にかかわっている。日本の古典芸能を大事にする立場から、「君が代」の問題を再考しなければならない。いつの日かまた、隆達が隆達節の第一に「君が代」をおいた平和を愛する心を考え、隆達のこの心が復元される日が来ることを願うものである。>
 
 
 民主国家の国歌として、戦前の「天皇制」を引き摺る天皇讃歌の『君が代』が不適切であることは、良識ある国民なら否定しようもあるまい。『君が代』信奉者はそのルーツを『古今和歌集』などに結びつけ、権威付けしようとしているようだが、薩摩藩で盛んに歌われていた江戸時代の「恋歌」が元歌だったというのが真相のようだ。若い世代の人たちが、自分たちにふさわしい「国歌」を創作してくれることを望むばかりである。

 ちなみに、作曲家・水谷川忠俊氏(近衛秀麿(文麿の異母弟)の子息)は『君が代』の曲は「二十一世紀の若者にふさわしくない」と断じているが、もっともなことである。わたしも改めて言うが、この陰陰滅滅たる歌を歌おうとは思わない。

 「君が代のひみつ」:http://www.geocities.jp/polaris721/amato-network-miyagawa01.htm

 (参照:「わたしは“君が代”を歌わない: http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/m/200702

「伝わらぬ“他力本願”」~真宗教団の嘆きは解消されるか?

2008-06-22 13:44:36 | Weblog
 昨日の『中外日報』は、「伝わらぬ“他力本願” 本願寺派が布教使大会」との見出しで次のように伝えた。

 <浄土真宗本願寺派(不二川公勝総長)の第十二回全国布教使大会が17,18の両日、本山本願寺で開かれた。「往生浄土」「他力本願」など浄土真宗の教えの根幹にかかわる言葉が現代人に伝わりにくくなっているとされる中、五百人余りの布教使らが「どうすれば僧侶と門信徒、現代人との溝を埋めることができるか」などの課題をめぐり討論を重ねた。>(「中外日報」:http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/08/news0806/news080621/news080621_01.html
 
 いやはや、なんとも情けない話である。本願寺派に関しては先月17日の記事(『巨大教団の宗教行事~目のくらむ金集め』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20080517)で、「こんなことでいいのですか?」と書いたばかりだが、ゆかりの本願寺の現状を知れば“親鸞”の歎きはいかばかりであろうか。「親鸞聖人750回大遠忌」などと大仰な行事にかこつけて大金をかき集める暇があったら、“親鸞”と真摯に対峙し、“親鸞”の声に耳を傾けるべきではないか。

 “親鸞”は弟子唯円房が、「念仏を称えますが、踊りあがって喜ぶような気持ちにはなれません。また、一刻も早く浄土へまいりたいという気持ちになりませんが、これは一体どうしたことでしょう」と尋ねたことにこう語っている。

 <親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこゝろにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまふべきなり。よろこぶべきこゝろをおさへてよろこばせざるは煩悩の所為(しょい)なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよ頼もしくおぼゆるなり。…>(『歎異抄』第九章)

 唯円の問いに、「おゝ、お前さんもそうだったか。このオレもまったくおなじ気持ちじゃよ」と、親鸞が身を乗り出して応じている姿が、この文面からありありと読み取れる。こうして「他力本願」が本物であることを、親鸞は弟子とともに再認識していくのである。体ごとぶつけてくる師の言葉から、唯円は仏法開眼の喜びを『歎異抄』に残した。今の坊主が、果たして体ごとぶつけて門徒と対峙しているのかどうかが問われているのではないか。さらに『歎異抄』をみてみよう。

 <…親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに、別の子細なきなり。念仏はまことに浄土にむまるゝたねにてやはんべるらん。また地獄におつべき業(ごう)にてやはんべるらん。惣じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、自余の行もはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはゞこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。…>(『歎異抄』第二章)

 「ひとすじにただ念仏をとなえて、弥陀にたすけて頂け」という法然上人のお言葉そのままを信じているだけで、そのほかに格別いいたてるようなことはない。念仏をとなえていれば、本当に浄土へいけるのか、それでも地獄に落ちてしまうことになるのかわからないが、万一、法然上人の言葉にだまされて地獄に落ちたとしても、なんら後悔することはない、と親鸞は語る。

 師に対するこの絶対不撓の信従こそが親鸞の“安心(あんじん)”のタネであった。こんにちの寺僧たちと信徒の間にこんな信頼関係があるだろうか。私の知人の家に来る東本願寺派(浅草)の坊主は、とっかえひっかえした外車で法要に来て、なんとも知れない話をしてお布施を懐に帰るが、情けないというか、哀れというか、お寺の先が見えているとしか言いようがない。

 
 (法然上人と親鸞の浄土教理解の相違については改めて書いてみたい。)



『ドイツは過去とどう向き合ってきたか』を読む

2008-06-20 12:00:31 | Weblog
 著者の“熊谷徹”氏は、もとNHK記者。90年からフリージャーナリストとしてドイツ・ミュンヘン市に在住。「過去との対決、統一後のドイツの変化、欧州の政治・経済統合、安全保障問題を中心に取材、執筆を続けている」という。本書の「はじめに」で言っている。

 <…私は1990年からドイツに住み、「なぜドイツは過去との対決を今も続けているのか」というテーマを取材の重点の一つにしている。
 …アジア人である私は、ドイツ人の過去との対決への執念に目を見張らされることがある。欧州とアジアを単純に比較できないとはいえ、彼らの執拗さは、欧州に相互信頼関係の回復という果実をもたらしつつある。
 これに対し東アジアでは、戦後半世紀以上経っても、「過去」をめぐって、ドイツが周辺諸国と築いてきたような強固な信頼関係はない。むしろ中国の経済力が増大する中、各国でナショナリズムが強まっている印象を受ける。国際関係が行き詰ると、歴史認識をめぐる不満は表面に浮かび上がる。欧州で、各国が主権の一部を国際機関に譲り、「事実上の連邦」へ向けて歩んでいるのとは大きな違いだ。…>

 わが国政府の歴史認識は、戦後、新体制になっても戦前の体質を温存し、周辺諸国との乖離はひどくなるばかりで、相互信頼が築けないままである。熊谷氏の指摘は良識ある日本国民に共通する思いといえよう。

 <本書の目的は、現地にいなくては分からない、過去との対決のディテールについて、報告することにある。同時に、私が東アジアの歴史認識をめぐる状況について、危機感を抱いていることも、執筆の動機の一つだ。欧州では残念なことに、日本について「歴史認識をめぐり頑迷な態度を崩さず、周辺諸国と融和しようとしない国」というイメージが定着しつつある。>

 わが国を見る目が、ここまで厳しいものになってしまったのはなぜか。考えるヒントがこの中にはある。本書は全五章で、「Ⅰ政治の場」「Ⅱ教育の場」「Ⅲ司法の場」「Ⅳ民間の取り組み」「Ⅴ過去との対決・今後の課題」とあり、このうち「Ⅰ」「Ⅱ」は次の項からなっている。

Ⅰ 政治の場で
 1 ベルリン・ホロコースト犠牲者追悼碑
 2 賠償の出発点・ルクセンブルグ合意
 3 ドイツはいくら賠償金を払ったか
 4 なぜブラント首相は追悼碑の前でひざまずいたか
 5 「歴史リスク」とはなにか
 6 いつから加害責任と向き合うようになったか
 7 イスラエル・アラブの双方から信頼されるドイツ
 8 ドイツ軍の国外派兵が周辺国の反発を招かない理由
 9 アウシュビッツ生存者の団体を支援する政府
 10 全国数千ヵ所に広がる追悼施設

Ⅱ 教育の場で
 1 ナチス時代を重視する歴史教科書
 2 歴史の授業は「暗記」ではなく「討論」が中心
 3 国際教科書会議の歴史
 4 東西冷戦下での西ドイツとポーランドの教科書会議
 5 独仏共同教科書の誕生
 6 加害責任の追求に積極的なマスコミ

 これらの項立てから、およそ他の内容も類推できるだろうが、ドイツの「過去との対決」が尋常ではなかったことは、支払われた賠償金の額を見ればわかる。

【1952年から2002年末までに支払われた賠償金】
・連邦賠償法         430億7900万
・連邦返還法          20億2200万
・賠償年金法           6億4800万
・ナチスによる迫害の賠償金  8億3800万
・ルクセンブルク合意      17億6400万
・二国間協定           14億6000万
・その他の賠償(公務員など) 45億8600万
・ドイツ州政府による賠償    14億2000万
・その他の賠償          20億7300万
・政府と企業の賠償基金    25億5600万 
  総    額     604億4600万ユーロ
        (資料:ドイツ連邦財務省)

 1ユーロが150円だから総額9兆0669億円になる。半世紀にわたってドイツ国民は目のくらむような巨額の「戦争のツケ」を背負ったのだ。「ツケ」の一部は今後も続くという。著者は言う。

 <ドイツ政府は、金による償いが不可能であることを認めながらも、迫害のために健康を損なったり、トラウマ(精神的な傷)に苦しんだりしている人に対して、経済的支援を通じて謝罪し、生活の負担を少しでも軽くしようとしているのだ。
 したがって、ドイツ政府も金銭による賠償についてはあまり対外的に強調しない。むしろこの国が過去と対決し、被害者たちからの信頼を回復しようとする中で重視しているのは、政治家の態度、教育、司法など、非金銭的な面であるように思われる。>

 昨年3月29日の記事(『“強制連行・強制労働”とドイツ国家の姿勢』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070329)でふれたが、戦争被害者の訴えに対し、わが国の司法は「時効」として切り捨て、行政に責任を転嫁している。一方、行政は「国家間の賠償」条約で解決済みとの姿勢で、戦争責任から逃避し続けてきた。ドイツの場合を具体的に見てみよう。

 1970年、ワルシャワ・ゲットーの記念碑を訪れたブラント元ドイツ首相は、記念碑に献花した後、突然ひざまずいた。その映像は全世界をかけめぐり、被害者たちに強い印象を残した。1989年、著者はブラント元首相を訪ねた。ドイツ政府の「過去との対決」を理解する大きな手がかりと思うので、この部分を全文引用する。

熊谷:碑の前でひざまずいた時に、何を考えていましたか。
ブラント:私は最初からひざまずこうと予定していたわけではありません。記念碑に向う時に、「単に花輪を捧げるだけでは形式的すぎる。何か他に良い表現方法はないものか」と考えをめぐらせていました。
 そして碑の前に立った時に、こう思いました。
 <私は、ドイツ人が何百万人ものユダヤ人、ポーランド人を殺した惨劇に、直接は加わらなかった。しかし惨劇を引き起こしたドイツ人のために、自分も責任の一端を負うべきだ。>
 私はこの気持ちを、ひざまずくことで表現したのです。
熊谷:「過去」と対決することはなぜ重要なのですか。
ブラント:2つの理由があります。
 第1の理由は、ナチス時代の恐るべき暴力支配について、「なぜこのようなことが起きたのか」「悲惨な事態が将来繰り返されるのを防ぐにはどうすれば良いのか」を、若い人々に説明することです。若者たちは、歴史と無関係ではありません。彼らも歴史の大きな流れの中に生きているのです。従って、過去に起きたことが気分を重くするようなものであっても、それを伝えることは重要です。
 第2の理由は、ドイツが周辺諸国に大きな被害をもたらしたことです。従って、今後のドイツの政策が国益だけでなく、道徳をも重視することをはっきり示す必要があったのです。これは人間関係についても言えることですが、自分のことばかり考えずに、他の国のことも考えるという姿勢を、周辺諸国に対して示していくということです。

熊谷:過去と対決する努力は永遠に続くのですか。
ブラント:私は自国の歴史について、批判的に取り組めば取り組むほど、周辺諸国との間の深い信頼関係を築くことができると思います。たとえばドイツとフランスの関係は、対立と戦争の歴史でした。しかし今や両国の関係は、若者たちが「ドイツとフランスの間に戦争があったなんて信じられない」と考えるほどの状態に達しています。
 同時に私は、過去の重荷を必要以上に若い世代に背負わせることには反対です。ドイツは、悪人に政治を任せた場合に、悲惨な事態が起きることを心に刻む作業については、かなりの成果をあげていると思います。私自身、周辺諸国の人々が我々に対して、過去について余りにも批判的な態度を取る場合にはこう言います。
 「我々の過去を批判的にしか捉えないという態度は、いつかはやめてください」。

熊谷:過去の問題に無関心な若者にはどう対処するべきでしょうか。
ブラント:若者たちが過去のことについて無関心になるのは当然のことです。彼らが、前の世代の犯罪について、重荷を背負わされることを拒否するのは、ごく自然なことです。若者たちには、父親や祖父がしたことについて責任はありません。しかし彼らは同時に、自国の歴史の流れから外へ出ることはできないということも知るべきです。そして若者は、ドイツの歴史の美しい部分だけでなく、暗い部分についても勉強しなくてはならないのです。
 それは、他の国の人々が、我々ドイツ人を厳しく見る理由を知るためです。そしてドイツ人は、過去の問題から目をそむけるのではなく、たとえ不快で困難なものであっても、歴史を自分自身に突きつけていかなくてはならないのです。>

 ブラントの政治哲学は、きわめて平易で、明解、普遍的な精神に充ちている。わが国にこのような志(こころざし)を持って語れる政治家がいるだろうか。『論語』為政第二にこうある。

 <子曰はく、之を道(みちび)くに政を以てし、之を斉(ひと)しうするに刑を以てすれば、民免れて恥なし。之を道(みちび)くに徳を以てし、之を斉(ひと)しうするに礼を以てすれば、恥ぢ且つ格(いた)るあり。>(宇野哲人『論語新釈』/講談社学術文庫)

 「徳」や「礼」は人間哲学の根源とみていいが、ブラント元ドイツ首相は古代東洋哲学の実践者なのかも知れない。「人生いろいろ…」などととぼけた話しかできないどこかの首相と、なんと違うことか。 
  
 
 ドイツの「過去との対決」で見のがせないのは、教育面での対応である。とくに歴史教科書に関しては、半世紀以上前から、周辺諸国との間で内容を相互に吟味する作業を続けてきた。1975年に設置された「ゲオルク・エッカート国際教科書研究所」は、世界各国の歴史教科書21万冊を持つ世界に例のない研究所である。

 <研究所の最も重要な任務は、歴史学者、歴史教師、教科書執筆者の国際会議を開催し、お互いの歴史教科書の内容を点検し、討議することだ。他国の教科書の記述が、不正確もしくは一面的と思われる場合には、率直に指摘し、両国が受け入れられる記述や表現を見つけるように努力する。教科書会議で合意した内容については、勧告を作成し、両国の文部省、教科書の執筆者、教科書出版会社に通知する。勧告に法的な強制力はないが、教科書の出版社は通常、勧告の内容を配慮して編集を行う。>

 たとえば、沖縄の「集団自決」をめぐって教科書改竄を強行した文部科学省が、わが国の歴史教育をいかに歪めているか、「真実」から目を逸らさないドイツ教育行政に学ぶべきことは多いはずだ。わが国教育行政の貧困は際立っている。


 「ドイツの企業はいくら賠償したか」という見出しでこう書かれている。

 <2008年8月、ドイツの経済界は、過去と対決する上で重要な一歩を踏み出した。約6400社のドイツ企業は、連邦政府とともに、ナチス政権下で強制労働などの被害にあった市民のために、賠償金「記憶・責任・未来」をベルリンに創設した。この賠償飢饉の総額は100億マルク(約5000億円)で、政府が50%、企業が50%負担する。>

 2006年6月21日に、賠償基金運営者の報告では、ウクライナ、ロシア、ポーランドなどに住む165万7000人の強制労働者に対して、43億1600万ユーロ(約6470億4000万円)の賠償金が支払われ、受け取った人の内訳ではユダヤ人とポーランド人が圧倒的に多いという。わが国では、強制労働の実行企業が過去の資料を隠蔽したり、司法判断で一部支払いを命じられても控訴したりして、「罪」を逃れることに汲々としているが、ドイツ企業のこうした「過去との対決」に関しては、マスコミがもっと積極的に国民に知らせる責任があるはずだ。


 第二次世界大戦で敗北したドイツは東西に分断され、1990年10月2日の国家統一まで約半世紀近く異質な二つの国として存立してきた。その深い傷は今も癒えてはいない。ドイツの「過去との対決」で、それが大きな障害として立ちはだかりつつあるようだ。著者は最後の章で、東ドイツを中心にした「極右勢力の伸張」を憂いながら、一部知識人の間で、「ナチスの過去を心に刻み、反省する努力を疑問視する動きが強まっている」と指摘している。「過ち」を繰り返してきた人類の歴史を、われわれは決して忘れてはなるまい。だが、これまでのドイツ政府の誠実で地道な「過去との対決」をみれば、ドイツの若者たちは、ゆるぎない未来に自分を託すに違いない。

 そして、わが国の未来は……

自分の「名前」に満足ですか?

2008-06-18 14:02:27 | Weblog
 恐らく、自分の「名前」の由来に関心がない人はいないだろう。生涯といわず死後も、くっついて離れようのないシロモノの「名前」。実は、この「名前」をめぐっては、思いもしないさまざまな話題が存在する。まず、作家“井上ひさし”さんの話を聞いてみよう。

 <…他人に読めない漢字は名前に使うものではないと考えている。ひっくるめていうと、「どんな漢字を使おうと、それは親の自由であって、お上が口を出す筋合いのものではない。しかしその自由をよほど慎重に使わないと、子どもが一生、苦労する」ということになるだろうか。その好例が、このわたしであって、「廈」という名前にどれほど苦労したか知れやしない。…>(井上ひさし著『ニホン語日記』/文芸春秋社)

 「廈」(屋根のある家の意味)にはゲ(呉音)とカ(漢音)の二音があるだけで、日本語の読み方(和訓)がないという。だから、「一度でぴたりと読んでもらったことがないという悲しい仕儀に」なった。そして、こんなことがあった。

 <…実害も蒙った。高校の漢文の教師は、大学教授も青くなるほどの実力を蓄えていると評判の碩学であったが、最初の時間に彼が、
「イノウエ・カか。変っているな」
 と云ったので、わたしは、
「カではありません。ヒサシと読みます」
 と答えた。すると彼はにわかに気色ばんで、
「そういう読み方は認めない」
 と荒い声で云い、一年間、わたしをカ、カと呼びつづけた。そればかりではなく、どんな答案を書いても六十点以上の点はくれなかった。いま思えば彼の立腹はもっともである。漢文教師としては、ありもしない訓を認めるわけには行かなかったのだ。…>

当市が友好都市としている中国・廈門(アモイ)の「廈」で、滅多に出会いそうにない字である。“井上ひさし”さんの苦嘆は想像できる。

 最近の子どもの名前には、私たち世代と明らかな相違が見られる。今日の新聞地方版にある「お誕生」欄で見てみよう。読みは不明である。
・男子=飛翔、和馬、大愛、拓実、映斗、航喜、京馬
・女子=優衣、葉月、安純、香織、朱里

 ついでに、明治安田生命が調べた昨年の名前ランキングを男女それぞれ5位までを記す。
[男子]       [女子]
1.大翔(ヒロト)  1.葵(アオイ)
2.蓮(レン)    2.優奈(ユウナ)
3.大輝(ダイキ)  3.さくら
4.翔太(ショウタ) 4.結衣(ユイ)
5.悠斗(ユウト)  5.陽菜(ヒナ)

 サイトにある『変った名前コーナー』(http://www.tonsuke.com/kawa.html)をみると、びっくりさせられる。50音順で掲載されている「あ」欄には、男子では「地球(アース)」「日日日(アキラ)」「天晴(アマテラス)」などがあり、女子では「愛以星(アイシャ)」「愛夏羽(アゲハ)」「空飛漓(アトリ)」など、頭を傾げたくなるのが並んでいる。一体、親はどういうわけでこんな「名前」をつけるのだろう。

 女性で「便」という「名前」の子がいて、しょっちゅういじめられていたため「たより」と改名したという記事もあったし、「鼎」と名づけられた男性が長じて父親を殺害した事件が起こっている。何時だったか、わが子に「悪魔」と名づけ届け出た親がいて新聞沙汰になったが、あれはどうなったのだろう。親の“勝手”で迷惑な「名前」を付けられた子の苦労は一生続く。

 吉田兼好も『徒然草』第116段で言っている。

 <…人の名も、目慣れぬ文字(もんじ)を付かんとする、益なき事なり。
 何事も、珍らしき事を求め、異説を好むは、浅才(せんざい)の人の必ずある事なりとぞ。>(新訂『徒然草』/岩波文庫198頁)

 「才浅き者」にかぎって、小難しい事を好むと言うのだ。心して聞くべき言葉である。ちなみに私の名前「五郎」の由来は、“横手五郎”から採ったと亡父から聞いている。無骨な父だったが、父は父なりに、愛情こめて名づけてくれたことに心から感謝、感謝!

 参照:「横手五郎」:http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/shoukai/k_minwa.html#6

“幻の国歌”があった!~「われら愛す」を聴きたい

2008-06-16 13:39:17 | Weblog
 『東京新聞』6月13日夕刊(WEB版)に「戦後の復興期に草の根から生まれ、忘れ去られた“幻の国歌”が14日、東京・日比谷公園の小音楽堂で披露される」とあった。敗戦後、“君が代”にかわる「国歌」がなぜ制定できなかったのか疑問を抱き続けている当方にとって、このニュースは新鮮な驚きだった。“幻の国歌”の題名は「われら愛す」で、作成の経緯をこう伝えている。

 <1953年、サンフランシスコ講話条約発効一周年を機に新しい国民歌を作ろうと、寿屋(現サントリー)が全国規模の新聞広告で公募。歌詞に約5万点、曲に約3千点が寄せられ、サトウハチローや山田耕筰らが審査して選んだ。>

 作詞者は山形県の教師だった芳賀秀次郎(1915~1993)。戦時中、軍国主義教育を推し進め、戦争賛美の国民歌謡も手がけた人らしい。芳賀秀次郎は自著『わが暗愚小傳』に「私は実にやすやすと戦陣訓を愛唱した翌日に、新憲法を語ろうとしている自分を見ないわけには行かない。…そのみにくさ、そのひくさ、そのおろかさ、これを双の目に焼きつくすほど凝視…しないわけには行かない」と告白しているという。作曲した西崎嘉太郎とともに多くの童謡、校歌も作っている。まずは、『われら愛す』の歌詞をみてみよう。

『われら愛す』
       作詞 芳賀秀次郎
       作曲 西崎嘉太郎  

一、われら愛す
  胸せまる あつきおもひに
  この国を われら愛す
  しらぬ火 筑紫のうみべ
  みすずかる 信濃のやまべ
  われら愛す 涙あふれて
  この国の 空の青さよ
  この国の 水の青さよ
二、われら歌ふ
  かなしみの ふかければこそ
  この国の とほき青春
  詩ありき 雲白かりき
  愛ありき ひと直かりき
  われら歌ふ をさなごのごと
  この国の たかきロマンを
  この国の ひとのまことを
三、われら進む
  かがやける 明日を信じて
  たじろがず われら進む
  空に満つ 平和の祈り
  地にひびく 自由の誓ひ
  われら進む かたくうでくみ
  日本の きよき未来よ
  かぐわしき 夜明けの風よ


 2005年、歌の由来を『われら愛す~憲法の心を歌った“幻の国歌”』にまとめた著者の元高校教師生井弘明氏の話は次のリンクをご参照頂きたい。

 「憲法の心を歌った“幻の国歌”」:http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20050912.html

 わが国の国歌は『君が代』とされているが、私はこの歌を歌おうとは思わない。その理由は昨年2月28日の記事(『わたしは「君が代」を歌わない』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/m/200702)で書いたので省略するが、わが国の歴史、とりわけ現代史を忠実になぞるならば、これが戦前・戦中を肯定する「天皇讃歌」の歌で民主主義国家にふさわしくないのは明らかだからだ。“小皇帝”石原慎太郎の意を受けた東京都教育委員会は、学校現場で「日の丸・君が代」を強制し、これに反した者は処罰を強行するという愚行を続け、司法の独立を放棄する裁判所の一部がこれを追認しているが、時代のネジを巻き戻すことが不可能であることは歴史が示している。

 アメリカをはじめ、ヨーロッパの立憲君主国でも学校での国旗掲揚や国歌斉唱を強制してはいない。「国旗掲揚、国歌斉唱に関する諸外国の判例・事例」をみれば、わが国の異常さがわかるだろう。アメリカの1989年最高裁判決を読めば、石原慎太郎は仰天するに違いない。

 <国旗を床に敷いたり、踏みつけることも、表現の自由として保護されるものであり、国旗の上を歩く自由も保障される>

 参照:http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/aoyama-col1200.html


 先の本ブログにリンクしておいた『あなたは「君が代」を歌いますか』には、アメリカ在住の文学者・米谷ふみ子さんの談話がある。

 <私の息子の嫁が、ドイツ生れオランダで育ったから、「学校で国旗に宣誓とかあったの」とたずねると、「そーんなことドイツでもオランダでも、したことはなかったわ」と驚いたように言われた。フランスの領事館に電話してたずねてみると「フランス人に政府の言うことを聞けと言えると思いますか? そんなこと法律にしたら革命が起こりますよ。ネバー」ということであった。日本の文部省は何が教育であるか熟考したことがあるのだろうか?>(『朝日新聞』1999年6月14日)

 『君が代』に代わる国歌が制定されてはじめて、わが国は民主主義国家としての第一歩を歩み始めることになるだろう。その意味でも、この『幻の国歌』を広く国民に知らせ、敗戦後間もない時代に、志高く、真実を語り、未来を見つめて、高らかに新たな歩みを始めた自国を褒め称える歌をつくった日本国民がいたことを誇りにしたいと思う。

 参照:「幻の国歌“我を愛す”」:http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/maborosinokokka.htm

米国が経済封鎖する“キューバ”に行ってみたい

2008-06-14 14:06:37 | Weblog
 私たちの世代にとって“チェ・ゲバラ”は「理想の革命家」だった。先月、キューバで医師をしている娘のアレイだ・ゲバラさんが来日し、わが国ではその“チェ・ゲバラ”が「復活」している。アレイだ・ゲバラさんの講演は、『リベラル21』で岩垂弘氏が「娘、アレイダが明かした父親像」と題して書いてくれているからご参照下さい。

 『リベラル21』・「チェ・ゲバラはいかなる人間だったか」:http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-369.html

 同時に、「カリブ海の社会主義国家」“キューバ”に関する情報が目立つようになった。1962年、ケネディ大統領の経済封鎖以後、ソ連の支援に頼っていた“キューバ”は、1991年のソ連崩壊によって経済的に困窮を極めている。それでも「スローライフの国」として人びとの注目を浴びるのはなぜか。話題の本『小さな国の大きな奇跡』(吉田沙由里著/WAVE出版)を読んで何となく納得した。

 本書の内容は次の目次から想像して頂きたい。

1.ALWAYS~小さな国のささやかな暮らし
2.奇跡を生んだヒーローたち~小さな国の歩んできた道
3.反・格差社会に生きる幸福~小さな国の生きる智慧
4.祈りとプライド~小さな国の文化と教育
5.世界をリードする医療と国際貢献~小さな国の大きな奇跡

 これに『特別寄稿』としてアレイダ・ゲバラさんの「チェ・ゲバラがつないだ私と日本」が収録されている。

 著者が「時が止まったような国」と驚く貧しい“キューバ”。「なんとまぁ、辛抱強いキューバ人よ!」と“文明人”から冷笑されかねない文明に取り残された生活。古いものを大切に、一つの物を小さく分け合って、自由よりも平等を選択した“キューバ”。これは、本ブログで何度かとりあげた「知足安分」の心にもっともかなった生き方ではないか。極貧の中で、「こんな国は真っ平だ」と思う人びとが“豊かな国アメリカ”目指して手漕ぎの筏で脱出し、わずかながら成功した者もいる。だが、それは例外で、国民の多くは“フィデル・カストロ”を愛しているという。その精神は何に由来するのか。著者は、キューバ独立の使途ホセ・マルティを挙げている。

 <ホセは1853年に生まれ、16歳で第一次独立戦争に参戦し、その後もスペインからの独立やラテンアメリカの米国支配からの脱却を求めて戦い抜いた。1887年にキューバの利権をめぐって米西条約が締結されると、米国の資本が本格的にキューバへ進出し始めた。それにたいして、米国に亡命中だったホセはキューバ国民に警告を発した。

 “米国はキューバを単なる美味しいご馳走としか見ていない。キューバ人にとって、主人を変えることは、自由になることとは違うのだ。”

 ホセはスペインからの独立後の米国の進出を恐れた。そして、ラテンアメリカを北のもうひとつのアメリカと区別して、米国のラテンアメリカ進出を帝国主義と批判し、1890年には著書『我らのアメリカ』を発表した。

 “我らのアメリカについて何も知らない強大この上ない隣国が、軽率な行動に出ることが、我々の最大の危険なのである。この国が進出してくる日は近い。それだけに、我らのアメリカを軽視させぬよう、我らのアメリカを理解させる必要があるのだ。”

 ホセは共産主義者ではない。キューバ独立の暁には、政治的民主主義の上に、社会的な平等を実現しなければならないと強く訴えた。

 “人間を分けたり限定したり、切り離したり、囲いに入れたりすることは、すべて人類に対する罪である。平和は自然の共通の権利を求める。自然に反する差別の権利は平和の敵である。孤立する白人は黒人を孤立させる。孤立する黒人は白人を孤立させるよう仕向ける。人間とは白人、混血、黒人を超えたものであり、キューバ人は白人、混血、黒人を超えたものである。真の人間とは黒人にせよ白人にせよ誠実と自愛を持ち、価値ある行動を喜び、生れた国を尊ぶことに誇りを持って黒人もしくは白人に遇するのである。(『椰子より高く正義を掲げよ ホセ・マルティ思想と生涯』より)

しかしホセは42歳の若さで祖国の独立を見届けることなく戦死した。その後、生誕から100年の歳月を経て立ち上がったフィデル・カストロによって、ホセの思想が息を吹き返すことになる。フィデルは、後述するモンカダ兵営襲撃で逮捕されたとき、指導者は誰かと問われて、「思想的指導者はホセ・マルティである」と毅然と答えた。…>(『小さな国の大きな奇跡』81~82頁、以下<>は同書)

 「キューバ革命」を支えた思想は、マルクスやレーニン、毛沢東らの革命思想にくらべ、きわめて素朴で明快で尊い。ホセが求めた「平等理念」は、こんにちのラテンアメリカ諸国が“市場原理主義”を拒否して“社会民主主義”的社会を追求する精神に乗り移っていると言えないだろうか。

 近代社会とはワンテンポ遅れた“キューバ”だが、平均寿命は78歳で先進国並みの長寿国。これは教育や医療が無料で、貧富の別なく「機会均等」社会であるため、生計上の余計なストレスが排除されているためかも知れない。そればかりか“キューバ”では現在、2万5000人の医療専門家や技術者がラテンアメリカをはじめ70ヶ国で人道支援や医療協力を提供している、という。さらに、1999年、ハバナに「ラテンアメリカ医科大学」が開設され、ラテンアメリカやアフリカ諸国をはじめとした貧困層を対象に、外国人が医師になるための6年間の総合基礎医師養成プログラムが設けられていて、すべて無償で受けられる。また留学のための渡航費や在学期間の宿泊費、食費といった最低限の生活費が保証されている。

 <2001年、フィデル・カストロは制裁を受ける米国にたいしても、黒人コミュニティの深刻な医療問題を危惧して、「米国において医学の学位を得るには20万ドルかかる。我々はそれを支払う余裕がない多くの貧しい若者たちに、奨学金を提供する準備ができている。卒業後は祖国米国へ戻り、貧しき人々に医療を施さなければならないというだけだ」と語っていた。>

 現在、この医科大学では、毎年500人の米国人学生が無料で受講できるよう枠を用意し、多くの米国人がこのプログラムに参加しており、2007年には米国人8名が卒業したという。“アメリカ帝国”の経済封鎖で国民が痛め続けられているのに、寛大というか、「能天気」というか、皮肉というか、それとも米国への当てこすりなのか、他国には見られない“キューバ”のラテン特有の陽気な国民性を示していると思うのは、こちらの思い違いだろうか。

 “キューバ”は、第三世界の貧困層を対象とした医療、教育支援に熱心らしい。たとえば、2005年10月8日朝、パキスタン北部で発生した地震で8万人以上が命を失い、約400万人が被災したが、6日後の14日、“キューバ”は2260人の医療技術者と医師、それに230トン以上の医薬品を送り、30以上のテント製野外病院を作って、7ヶ月間、延べ100万人以上の人びとに治療や手術を施した、という。

 米国の深刻な医療問題を告発したマイケル・ムーア監督の映画『シッコ』(本ブログ07.10.20『映画“シッコ”を観る~米国の病理はわが国に伝染する』を参照)では、最終場面で“キューバ”のなにもかも「タダ」で受けられる医療現場が紹介されていたが、「市場原理主義」国の米国、日本にとっては信じ難い話である。とくに、「後期高齢者医療制度」などという人間の尊厳にかかわる悪政がまかり通り、一方では年間数千万トンもの食糧廃棄を続ける飽食国家の住人には、“キューバ”はぜひとも「行って見るべき国」の筆頭にあげらるのではなかろうか。


 アレイダ・ゲバラさんは「特別寄稿」でこう語っている。

 <…この本に描かれているようなキューバ国民の暮らしが、この国のすべてを語ってくれています。ソ連の崩壊によって訪れたスペシャル・ピリオドと呼ばれる経済難の時代は、私の家族にとっても大変な時期でした。そして、国民は強くなりました。私たちはいつでも、どんな苛酷なときでも、踊ったり歌ったりできるのです。どんなに大変な事態に追い込まれても、冗談を言ったり、笑いを取ったりできるのです。それがキューバ国民です。…

 厳格だった父は、閣僚時代も国民が享受できない利益や快適さを放棄していました。ですから、当時からわが家も、ほかのキューバ人家庭と同様に食料が不足していたのです。そんな父の教育の影響もあるのでしょう。私たちは贅沢を覚えずに、強く生きることを学べたのです。…>

 「足ることを知って、分に安んじる(知足安分)」の国“キューバ”。中南米諸国でアメリカ離れが顕著になっているのも頷ける。

 
 参照「キューバの歴史」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%90%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
 

“狂っている”のは人か、社会か?

2008-06-12 09:05:25 | Weblog
 東京・秋葉原で起きた「無差別殺人」はまことに痛ましい事件である。近年、この種の事件が頻発しているが、本年1月26日の記事(『“犯罪と失業率の相関”~注目の「松尾匡のホームページ」』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20080126)でふれたとおり、「犯罪の9割は失業率で説明がつく」との研究結果をみれば、事件の根源は深刻と言わざるをえない。犯罪者を庇うつもりはさらさらないが、事件が起きるたびに、本質を問うことなく、犯罪者の身辺にまつわる「話」を書きたてて騒ぐマスコミにはうんざりさせられる。

 「練炭自殺」や「硫化水素自殺」あるいは「誰でもよかった殺人」や「死刑になりたかった殺人」など、ある種の“伝染性”をおびた事件をみるかぎり、当事者本人の資質というより社会的な側面に要因が潜んでいると言えないだろうか。今回の事件も直近に、いくつかの類似事件が発生していることを思いおこしてみるべきだろう。

 ひとまとめに「非正規雇用」と称される“半失業”状態の労働者の氾濫。社会正義に反する資本・経営による異常な労働者の権利剥奪。行く先に家庭の団欒を夢見て働ける職場が存在しない若者たちは、人間としての尊厳をどうして保てるだろうか。30年前私は、在職した造船所で大合理化に直面し、仲間たちと「反合理化闘争」に明け暮れたが、この前後にハッキリしているだけで五名の“自死者”を出した。失職の不安から家族の崩壊におびえ、自らの行く末を見失っての悲劇。資本・経営の非情とともに今も、追いつめられた彼らのことを思うと胸が痛む。

 小林多喜二の『蟹工船』が若者たちに人気だそうだが、彼らの魂に寄り添う小林多喜二が生きていたなら、一体、何を語り聞かせるだろう。凶悪犯罪者と社会政策の関連を安易に結びつけて論じるつもりはないが、少なくとも、安部晋三前首相と親しかった派遣会社「グッドウィル」折口雅博会長のような人物が跋扈し、一方で、アメリカより10年遅れで出現した「ワーキングプア(働く貧困層?)」の増大する社会を無視するわけにはいくまい。先にあげた“松尾匡”教授の談話を再録しておこう。

 <失業者というのは、民族性や身分や性別と違って、個人の属性でもないし、多くの場合個人の責任でなったわけでもない。無策や誤った政策で作られたものです。そして民族性や身分や性別と違って、本来はなくすことを目指して政策がとられるべきものです。犯罪や教育や道徳のせいにして真の原因を放置することこそ、一部の人々には不幸な境遇を強いる差別につながるのではないかと思っています。>

 ここでいう「失業者」を、“ワーキングプア”“ニート”などの「半失業状態の者」をも含むと捉えれば、文意はより明確になるだろう。


 この国には「無策や誤った政策」の見本がいくらでも転がっている。いま国政を揺るがしている「後期高齢者医療制度」をはじめ、農政、国土交通政策、社会保障政策、外交政策のいずれにも民意と著しく乖離した行政の貧困がある。次の報道を見てすんなり納得する国民がはたしてどれほどいるだろう。

 ストックホルム国際平和研究所の08年版年鑑によると、07年の世界の軍事費は前年比実質6%増の推定1兆3390億ドル(約140兆円)で、米国が全体の約4割を占め、ベストテンは以下の通り。(参照:『西日本新聞』ほか)

1.米国       5470億ドル
2.英国        597 〃
3.中国        583 〃
4.フランス      536 〃
5.日本        436 〃
6.ドイツ       369 〃
7.ロシア       354 〃
8.サウジアラビア   338 〃
9.イタリア      331 〃
10.インド      242 〃

 上位5国の国民一人当たりで示すと、
 
 米国     3億人   1823ドル
 英国    0.6億人   995ドル
 中国    13.3億人   43ドル
 フランス  0.64億人   837ドル
 日本     1.3億人   335ドル

 報道では中国がフランスを抜いて3位になったと強調しているが、国民一人当たりでみると、非武装の「平和憲法」を持つ日本は中国の8倍もの軍事大国なのだ。とりあえずアメリカの異常さは別として、「平和国家」日本の増殖を続ける軍備費を世界はどのように見ているだろうか。

 先月30日、米国、イスラエル、ロシア、中国などの主要国を除く有志連合110ヵ国が、ノルウェー政府の呼びかけで苦心惨憺のすえ合意した「クラスター爆弾の使用禁止条約」案に、日本政府は米国の意向を慮って最後まで難色を示していたが、世界の良識に屈服する形で「条約案」に合意した。なぜ、日本は率先して「平和の伝道」役を演じられないのか。頭をひねりたくなるのは私だけではなかろう。

 
 ここで皆さんにお訊ねしたい。世界の軍事費が140兆円(うち、わが国は約5兆円)。

 いったい、あなたならこのお金をどうお使いですか?