耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

最後の遣唐使~“円仁”の菩薩行

2008-01-04 21:33:59 | Weblog
 わが国が中国に朝貢使を送ったのは1400年前、第一回“遣隋使”(推古8年)が最初で、618(推古18)年に隋が滅んで唐となるが“遣唐使”として朝貢は続いた。最後の“遣唐使”派遣は838(承和5)年、のちの第3代天台座主となる“円仁”もこれに加わり「請益僧」として入唐した。この“円仁”には出航日から帰国日までの9年6ヶ月におよぶ苦難の記録『入唐求法巡礼行記』がある。

 「円仁」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E4%BB%81

 “円仁”の研究者で『ENNIN’S DIARY』の著者・故ライシャワー博士(元駐日米国大使)は対談で、「有名なマルコ・ポーロの“東方見聞録と比べて、円仁の旅行記は日本人にも意外なほど知られていませんが、二つの旅行記にはどんな違いがー”と聞かれて語っている。

 <マルコポーロの方は、本が出るとすぐ有名になり資料にされたが、円仁の本はわずか二部か三部筆写されただけで長い間知られていなかった。円仁が中国に渡ったのは唐代であり、マルコ・ポーロは元時代だから四百年以上も円仁の方が早い。これ一つとってみても円仁の意義は大きい。しかも円仁の日記は彼自身が毎日毎日見聞し観察したことを事細かに記録したもので非常に正確です。ポーロの方は明らかに彼自身の書いたものではなく、ばく然とした印象をほかの人に語ったことが書物になったもので、正確さという点では全然比較になりません。…>(『入唐求法巡礼行記』付録二/中公文庫)

 『入唐求法巡礼行記』を完読したのは10数年前のことだが、“円仁”自身浅からぬ縁を持つ“鑑真和上”が、度重なる渡航の失敗を重ねようやく6回目にして来朝された苦難に優るとも劣らぬ難行苦行の記録に圧倒されたことを想い起こす。在留を何度も願い出るが唐皇帝の認可を得られず、遣唐使一行と離れて不法在唐を試みるが失敗して役所に突き出されたりする。やっと手に入れた旅行許可証を懐に、山東半島東端の港町・赤山浦から八つの州を越えて2300余里(約1270km)彼方の仏教の聖地「五台山」を目指す。

 旅行許可証は州ごとに発行されたようで、その都度「公験」(旅行証明書)の発行を願い出ているが、それにもまして飲食には悩まされたようである。840(開成5)年3月25日の日記には「登州文登県からこの青州に至る地方はここ三、四年来蝗(いなご)が大発生して五穀を食いつくすという災害が起き、役人も民間も共に飢え困窮している」とある。“円仁”は「陳情書」を役所に差し出している。

 <日本国求法僧円仁
 食事のため食糧を施してくださることをお願いします。
 右の円仁らは遠く日本国と別れて仏教を尋ね求めております。官の旅行許可書の交付をお願いしているところですので、いまのところ自由に旅行することができませんが、到るところの家々が飢えている事情は忍び難いものがあります。ことばも違いますので、ひたすら乞うというわけにもいきません。どうか閣下のご仁恩によりまして世尊の余りの食糧を喜捨して異国の貧しい僧に賜らんことをお願いいたします。前にも一日一回の食事を賜っておりますのに、いまさらお心を悩ませ申し訳ありません。伏して深く恥じ入るばかりです。謹んで弟子の惟正をつかわして書状を差しあげます。
 開成5年3月25日           日本国求法僧円仁書をたてまつる
 員外閣下 謹空 >

 願いが届いて「うるち米三斗、麺(麦粉)三斗、粟三斗を支給してくださった。」と記している。

 こうして44日かけて辿り着いた「五台山」とはどういうところか。

 <五台の地は五百里(約300km)にまたがっており、その外側には四方にみな高い峰が連なっている。五台を囲みかかえる広さは1000里(約600km)にも及ぶだろう。その刃のように鋭く尖った山々が並んでまるで炉が幾重にも重なって周りを囲んでいるといった地勢である。…けわしい高い巌の頂きを上ったり深い谷の底に下ったりして、7日間かかってやっと五台山地に到達することができるのである。…まことに知る、五台山こそ万(よろず)の峰の中心であると。>

 五台山のの峰々に点在する寺院を巡拝し、説法を聴き、天台宗関係の教典注釈書を写し終わると、さらに西南の方向2000余里(約1100km)の長安を目指すが、出立前夜宿泊した保応鎮国金閣寺の堅固菩薩院で茶飲み話で聞いたことを、“円仁”はさりげなく綴っている。

 <院の僧が茶飲み話に言うには「日本国の霊仙三蔵は昔この院に二年ほど滞在した。その後、移って七仏教戒院に向かったが亡くなった。かの三蔵は自分の手の皮を剥いで長さ四寸(約12cm)幅三寸(約9cm)のところに仏像を画き、金色の青銅の塔を造ってこれをそのなかに安置した。いま現に当寺の金閣のなかにあって長年供養されている、云々」と。>

 わが国から「法を求めて」渡海した多数の修行僧がこの『日記』には登場するが、この霊仙三蔵と呼ばれる人物も“円仁”の『日記』で歴史に蘇えった一人である。次は長安に到達して役所に提出した文書である。

 <日本国の僧円仁、弟子の僧惟正・惟暁、従者の丁雄方
 右の円仁らはさる開成3年4月、日本国の朝貢使に随行して船に乗り大海を渡って参りました。7月2日に揚州の海陵県白潮鎮に着き8月中に揚州に到着、開元寺に滞在して一冬を過ごしました。開成4年2月揚州を離れ楚州に行って開元寺に滞在しました。7月になって登州の文登県赤山院に行き滞在、さらに一冬過ごしました。今年の2月になって登州を離れて3月に青州に着き竜興寺に仮り住まい致しました。それから10日ほどしてついに節度使韋尚書のもとで公けの旅行証明書を願い出て下付されました。5月1日五台山に着き仏教の聖跡を巡礼、7月1日五台山から旅立って来て今月23日に長安城に着きました。いま願っておりますのは、いっとき城内の寺院の建物内に寄留してその間師を尋ねて仏道を聴き学び、日本に帰りたいということであります。謹んで以上のとおり述べました。どうかよろしくお取りはからいをお願いします。この件について以上のとおり文書を記しました。謹んで記す。
  開成5年8月24日                日本国求法僧円仁記す>

 唐は文宗(826~840)から武宗(840~846)へ変わり、“円仁”らは「廃仏」政策に巻き込まれる。842(会昌2)年10月以降、生々しい仏教弾圧の模様が綴られている。

 <10月9日。勅がくだり全国のすべての僧および尼僧で焼煉、呪術、禁気に通じていたり、軍隊をきらい悪事を犯して軍を逃走し、身体にムチ打ちの刑に処せられた痕(あざ)のある者、いれずみのある者、いろいろな技術を持っていながら役に立たせないでいる者、以前に姦淫の罪を犯し妻を養って戒律を守らない者、以上の者はいずれも強制的に還俗させ僧尼であることを認めない。…>

 武宗になってすぐに、“円仁”は帰国を願い出るが、およそ5年間許されない。


(つづく)