耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

明日は“法然上人”忌~「極楽往生うたがいなし」

2008-01-24 13:58:10 | Weblog
 明日は“法然上人”忌。1212(建暦2)年正月25日午後半ばごろに命終、80歳の生涯だった。“法然上人”の最晩年の病状と死因について、上人晩年に随仕した“勢観房源智”による『御臨終日記』などの記述から医師石井二郎氏は次のように診たてている。

 <視聴の衰えは「この3,4年よりこのかたは、耳目蒙昧にして色を見、声をきき給事ともに分明ならず」と記述にあるが、何れも老人性白内障と老人性神経性難聴と考えられ、疾病によるものではなく、生理的老化現象の軽度のもので、不可逆性の重症なものではないと推定してよい。…
 従って宗祖法然上人の死因は、特定の疾病がなく、加齢によってホメオスターシス(生体は生命維持のために内部環境を一定に保つ機構をもっており、この機構をいう)が維持できくなっての死であって、今日の病理解剖学的見地からしても、極めて稀な厳密な意味での老衰死と推定される。(宗祖法然上人の御生涯~その医学的見地からの研究~)>(大橋俊雄著『法然入門』/春秋社より)

 “法然上人”は入滅前の1212(建暦2)年正月3日、看病の弟子に言った。

 <ワレハモト天竺ニアリテ、声聞僧ニマシワリテ、頭陀ヲ行セシノミ、コノ日本ニキタリテ、天台宗ニ入テ、マタコノ念仏ノ法門ニアヘリトノタマイケリ。ソノ時看病ノ人ノ中ニ、ヒトリノ僧アリテ、トヒタテマツリテ申スヤウ、極楽ヘハ往生シタマフヘシヤト申ケレハ、答テノタマハク、ワレハモト極楽ニアリシ身ナレハ、サコソハアラムスラメトノタマヒケリ。>

 看病人の一人が「本当に極楽に往生されるのですか」と問いかけると、「自分はもともと極楽にいたのだから、ただそこに戻っていくまでだ」と答えた。

 さらに、入滅前後の様子はどうだったか。

 <スヘテ聖人念仏ノツトメオコタラスオハシケル上ニ、正月23日ヨリ25日ニイタルマテ、三箇日ノアイタ、コトニツネヨリモ、ツヨク高声ノ念仏ヲ申タマヒケル事、或ハ半時ハカリナトシタマヒケルアヒタ、人ミナオトロキサワキ侍ル。…聖人ヒコロツタヘモチタマヒタリケル慈覚大師ノ九条ノ御袈裟ヲカケテ、マクラヲキタニシ、オモテヲ西ニシテ、フシナカラ仏号ヲトナヘテ、ネルカコトクシテ、正月25日午時ノナカラハカリニ、往生シタマヒケリ。ソノノチヨトツノ人人キオイアツマリテ、オカミ申コトカキリナシ。>

 …上人は、慈覚大師(円仁)伝来の九条の袈裟を身に着けて、北枕で西向きに横になって、念仏を称えておられたが、1月25日の午後半ばごろ、往生された。その後、多くの人々が集まってきて、そのお姿を拝んだ。(いずれも『御臨終日記』)

 上人滅後15年の1227(嘉禄3)年6月、延暦寺の衆徒が「専修念仏の輩」一掃のため、手始めに東山大谷にある上人の墓の破却に乗り出した。いち早くそれを察知した門徒たちは上人の遺骸を掘り出して嵯峨野へ運んだ。これを「嘉禄の法難」という。『四十八巻伝』は移送の様子を伝える。

 <西郊にわたし奉るに、路次の障難を恐れて、宇都宮弥三郎入道蓮生、塩谷入道信生、千葉六郎大夫入道法阿、渋谷七郎入道道遍、頓宮兵衛入道西仏等、出家の身なりと雖も法衣の上に兵杖を帯して、お供に参じければ家子郎党などあい従いけるほどに、軍兵済々として前に囲めり。遺弟以下御供に参ずる人一千余人、おのおの涙を流し、悲しみぞふくみけり。>

 「損壊をまぬかれた遺骸は、嵯峨のニ尊院や太秦(うずまさ)の広隆寺、また西光寺などを転々とし、年が改まるとさらに西山の粟生野(あおの・現長岡京市)へ運ばれ、そこで火葬に付されたという。」(寺内大吉著『法然讃歌』/中公新書)

 三年前に訪ねた粟生野の光明寺(“法然上人”の弟子だった熊谷次郎直実が一坊を建立したことにはじまる)には、たしかに「御火葬跡」の石碑があった。

 「光明寺」:http://tabitano.main.jp/7komyoji.html

 「嘉禄の法難」は、かえって専修念仏の信仰に火をつけ、これによって“法然上人”への思慕・尊崇がますます高まったといわれる。浄土教義を明らかにした上人の『選択本願念仏集』(「嘉禄の法難」でこの版木も焼かれた)を批判した“明恵”は『[さい]邪輪』でこう言った。(注:[さい]は手偏に崔)

 <ついに(法然)滅後のころにおよんで、在家・出家、男女、貴賎、皆恋慕を凝らし、追善を修すること諸国に遍満し、称計すべからず。>

 さらに“日蓮”は自著『撰時抄』で言っている。

 <日本国みな一同に、法然房の弟子と見えけり。この五十年が間、一天四海、一人もなく法然が弟子となる。>

 “法然上人”入滅の年正月2日、最古の弟子“信空”が師に問うた。

 <古来の先徳みなその遺跡あり。しかるにいま精舎一宇も建立なし。御入滅の後、いずくをもってか御遺跡とすべきや。>

 上人は答えた。

 <あとを一廟にしぬれば、遺法あまねからず。予が遺跡は、諸州に遍満すべし。ゆえいかんとなれば、念仏の興行は愚老一期(いちご)の勧化(かんげ)なり。されば、念仏を修せんところは、貴賎を論ぜず、海人・漁人がとまやまでもみなこれ予が遺跡なるべし。>(『四十八巻伝』)

 “法然上人”は死の15年前に二章からなる『没後遺誡』を書いた。最初の章は「財産分与」。わずかな畑と建物(東山大谷の禅房三棟)。次章は「自分の死後、念仏者は一つ場所に集ってはいけない。争いを起こす原因は集会である。わが弟子、同法の者はそれぞれが草庵を結び、静かに、ねんごろに、私が新しく生まれる浄土を祈って欲しい」とあった。(寺内大吉著『法然讃歌』より)

 多数集って行う追善回向も禁じていたが、“法蓮房信空”のはからいで「中陰(死後四十九日間)法要」が営まれた。七日ごとに導師を立て、それに「諷誦文(ふじゅもん)」を献ずる檀那が付く。六七日の檀那には比叡山座主“慈円”が付いた。その「諷誦文」は以下のとおり。

 <仏子、上人(法然)存日の間、しばしば法文を談じ、常に唱導を用う。結縁の思い浅からず、済度の願、深きが如し。これによりて今、六七日の忌辰(忌日)にあたりて、いささか三敬の諷誦を修す。法衣をささげて往生の家におくる。解脱の衣、これなり。法食をもうけて化城(けじょう)の門に施す。解脱の食これなり。然れば則ち聖霊は、かの平生の願にこたえて必ず上品(じょうぼん)の蓮台に生じ、仏子は真実の思によりて、速かに最初の引接(いんじょう)を得ん。>

 これについて寺内大吉は「見事な、そして空疎な修辞である。法然が生きている間、しばしば法文を談じたという。それを説法(唱導)に用いた。お互いの人間関係は浅くなく、かつ衆生を救おうとする願いは深かった、とも言う。“建永ノ年、法然房トイウ上人アリキ”と書き出す『愚管抄』のよそよそしさが思い出される。解脱の法衣や法食を法然はどのように受けとめたことであろうか」と、醒めた目で解説している。(『法然讃歌』)


 “法然上人”入滅前後について書き置いたが、上人を偲ぶ心で“吉田兼好”著『徒然草』第三十九段を引いておく。

 <或人、法然上人に、「念仏の時、睡(ねぶり)にをかされて、行(ぎょう)を怠り侍る事、いかゞして、この障りを止め侍らん」と申しければ、「目の醒めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。
 また、「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。
 また、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。>

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 …


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