耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“坂口安吾”の『天皇にさゝぐる言葉』~いつわりの「人間宣言」

2009-01-30 08:56:09 | Weblog
 1946年1月1日に発せられた昭和天皇の「人間宣言」、正式には「新日本建設に関する詔書」(http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/ninngennsenngenn.htm)というのがある。こんにちの「天皇制」を考えるうえから必読の文である。敗戦によって体制は一変したといいながら、自らを「朕(ちん)」と称する天皇のこの「詔書」のどこをとらえて「人間宣言」と言ったのか定かではない。「権力」「権威」にめっぽう弱いマスコミが、敗戦~民主化~「現人神からただの人」へと勝手に吹聴したのだろう。

 この「ただの人」になった昭和天皇は、翌年2月から約9年かけて全国を巡幸した。記録によれば、行く先々で国民の圧倒的な歓迎を受けたという。

 <敗戦直後の地方巡幸が日本の国民に喚起した心理的反響はまことに大きい。そこには戦前の意識の残像が色濃く見出されるが、それ以上に、身近に天皇に接することによって得た貴種崇拝の感情が、ほとんど恋慕の情となってほとばしり出ていることがわかる。>(色川大吉著『昭和史世相篇』/小学館ライブラリー)

 この「恋慕の情」が吹き出した理由を同書は次のように分析する。

 <こうした国民の感情は明治以降の歴史と教育によって形成されてきたものだけに、一朝一夕に拭い去れるものではなかった。そのうえ、当時の支配階級が「国体の護持」のためには、あらゆる手段を使い全力をつくしていた。そのために黒を白といい換えることも彼らには正義であった。天皇もまた、それにこたえるべく非常な決意で積極的に行動し、敗戦、占領という大混乱のなかで国民感情をつなぎとめることに努力した。それは侍従たちの日記などに生々しく伝えられている。>

 「人間宣言」の裏で大掛かりな“演出”がなされていたわけだ。昭和天皇の戦後の歩みをみてみると、彼の意識は終生「朕」という言葉に集約されていたことがわかる。皇室に対する国民世相もまた、深層心理をさぐればこの「朕」に支配されてきたのではなかろうか。作家の“坂口安吾”は「愚かな国民世相」を痛罵するばかりか、昭和天皇その人へも忌憚のない物言いをしている。60年前のことだが、「健全なる常識」の衰え著しいこんにち、一読の価値がある。少々長いが、以下全文収録しておく。



 『天皇にさゝぐる言葉』

                   坂 口 安 吾

 天皇陛下が旅行して歩くことは、人間誰しも旅行するもの、あたりまえのことであるが、現在のような旅行の仕方は、危険千万と言わざるを得ない。
 「真相」という雑誌が、この旅行を風刺して、天皇は箒(ほうき)である、という写真をのせたのが不敬罪だとか、告訴だとか、天皇自身がそれをするなら特別、オセッカイ、まことに敗戦の愚をさとらざるも甚しい侘しい話である。
 私は「真相」のカタをもつもので、天皇陛下の旅行の仕方は、充分風刺に値して、尚あまりあるものだと思っている。
 戦争中、我々の東京は焼け野原となった。その工場を、住宅を、たてる資材も労力もないというときに、明治神宮が焼ける、一週間後にはもう、新しい神殿が造られたという、兵器をつくる工場も再建することができずに、呆れかえった話だ。
 こういうばからしさは、敗戦と共にキレイサッパリなくなるかと思っていると、忽ち、もう、この話である。

 私のところへは地方新聞が送られてくるから、陛下旅行の様子は手にとる如く分かるが、まったく天皇は箒であると言われても仕方がない。
 天皇陛下の行く先々、都市も農村も清掃運動、まったく箒である。陛下も亦、一国民として、何の飾りもない都市や農村へ、旅行するのでなければ、人間天皇などゝは何のことだか、ワケがわからない。

 朕(ちん)はタラフク食っている、というプラカードで、不敬罪とか騒いだ話があったが、思うに私は、メーデーに、こういうプラカードが現れた原因は、タラフク食っているという事柄よりも、朕という変テコな第一人称が存在したせいだと思っており、私はそのことを、当時、新聞に書いた。
 私はタラフク食っている、という文句だったら、殆ど風刺の効果はない。それもヤミ屋かなんかを風刺するなら、まだ国民もアハハと多少はつきあって笑うかも知れないが、天皇を風刺して、私はタラフク食っていると弥次ってみたところで、ヤミ屋でもタラフク食っているのだもの、ともかく日本一古い家柄の天皇がタラフク食えなくてどうするものか、国民が笑う筈はない。これが風刺の効果をもつのは、朕という妙テコリンの第一人称が存在したからに外ならぬのである。

 朕という言葉もなくなり、天皇服という妙テコリンの服もぬがれて、ちかごろは背広をきておられるが、これがもう、ともかく、諷刺の原料が二つなくなったということをハッキリとさとる必要がある、
 人間の価値というものは、実質的なものだ。天皇という虚名によって、人間そのものゝ真実の尊敬をうけることはできないもので、天皇陛下が生物学者として真に偉大であるならば、生物学者として偉大なのであり、天皇ということゝは関係ない。況(いわ)んや、生物学者としてさのみではないが、天皇の素人芸としては、というような意味の過大評価は、哀れ、まずしい話である。

 天皇というのに、実際の尊厳のあるべきイワレはないのである。日本に残る一番古い家柄、そして過去に日本を支配した名門である、ということの外に意味はなく、古い家柄といっても系譜的に辿りうるというだけで、人間誰しも、たゞ系図をもたないだけで、類人猿からこのかた、みんな同じだけ古い家柄であることは論をまたない。
 名門の子供には優秀な人物が現れ易い、というのは嘘で、過去の日本が、名門の子供を優秀にした、つまり、近衛とか木戸という子供は、すぐ貴族院議員となり、日本の枢機にたずさわり、やがて総理大臣にもなるような仕組みで、それが日本の今日の貧困をまねいた原因であった。つまり、実質なきものが自然に枢機を握る仕組みであったのだ。

 人間の気品が違うという。気品とは何か。たとえば、天皇という人は他の誰よりも偉いと思わせられ、誰にも頭を下げる必要はないと教育されている。又、近衛は、天皇以外に頭を下げる必要はないと教育されている。華族の子弟は、華族ならざる者には頭を下げる必要はないと教育されている。
 一般人は上役、長上にとっちめられ、電車にのれば、キップの売子、改札、車掌にそれぞれトッチメラレ、生きるとはトッチメラレルコト也というようにして育つから、対人態度は卑屈であったり不自由であったり、そうかと思うと不当に威張りかえったり、みじめである。名門の子弟は対人態度に関する限り、自然に、ノンビリ、オーヨーであるから、そこで気品が違う。

 こんな気品は、何にもならない。対人態度だけのことで、実質とは関係がない。対人態度に気品があって堂々としていても、政治ができるわけじゃない、小説が書けるわけじゃない、相撲が強いわけでもない。それでショウバイができるのは、実際のところ、サギぐらいのものだ。
 ところが、日本では、それで、政治が、できたのだ。政策よりもそういう態度のほうが政治であり、政党の党首の資格であり、総理大臣であった。総理大臣が六尺もあってデップリ堂々としていると、六尺の中に政治がギッシリつまっているように考える。六尺のデップリだけでも、そうであるから、公爵などゝなると、もっと深遠幽玄になる。

 ヨーロッパでも、サロンなどゝいう有閑夫人の客間では、やっぱり、こういう態度が物を言う。昔はヨーロッパでも同じことで、サロンが政治につながっていたころは、日本と同じようなものであったが、だいたい、こういう態度、育ちの気品というようなものが、女の魅力をひく、それぐらいなら、何も文句はない。天下の美女がみんな惚れても、我々がヤキモチをやくのはアサハカで、惚れるものは仕方がない。
 然し、、一国の運命をつかさどる政治というものが、サロンの御婦人の御気分なみでは、こまるのである。
 自分の恋する人を、天下特別の人、自分の子供は特別の子供、なんでも、人間の群をぬいて神格視したがるのが、これが、そもそも御婦人の流儀で、アナタ負けちゃアいけないよ、しっかりしてちょうだい、日本一になるんですよ、などゝ、たゞもう亭主をたきつけ、自分は又亭主を日本一にしようと思ってワイロを持って廻ったり、だいたい日本の政治官僚の在り方は、これ又、婦人の流儀であったようだ。
 
 日本は男尊女卑などゝいうけれども、そうじゃない。金殿玉楼では亭主関白の膳部のかたわらに女房が給仕に侍し、裏長屋ではガラッ八の野郎が女房お梅をふんづける。これが表向きの日本であったが、実は亭主は外へでると自信がないから、せめて女房に威張りかえるほかに仕方がなく、内実は女房の手腕で、ワイロが行きとゞいたり、女房の親父の力でもかりないとラチがあかない有様で、男は女に対して威張っているが、男に実質的なものはなくて、女の流儀に依存しているのが実情であった。
 これに比べると、女尊男卑的な表てむきの方がよっぽど実質的で、男は実力があるから、女を保護し、いたわる。この方が、よっぽど、男性的であり、男性がその自主的自覚によって構成した風習なのである。

 ところが、日本式のご婦人流儀のやり方であると、実質はどうでもいい、なんでもかでも、亭主を偉くし、偉く見せねばならぬ。
 この流儀の奥儀をきわめた張本人が宮内省というところで、天皇服をこしらえたり、朕という第一人称を喋らせたり、特別な敬語を使わせたり、たゞもうムヤミに、実質のないところに架空な威厳をあみだして、天皇を人間と違わせようと汲々たるものだ。
 その結果は実にアベコベとなるものなのである。朕という言葉があるから、朕はタラフクたべている、いらざる不敬問題が起きる。私が少年時代、朕という言葉は、子供たちの遊び言葉で、おかげで我々は少年時代に、余分に笑うことができた。天皇服などゝというものがある限り、又メーデーに天皇服の人形がとびだして、我々を余分に笑わせてくれるであろう。
 実質なきところに架空の威厳をつくろうとすると、それはたゞ、架空の威厳によって愚弄され諷刺され、復讐をうけるばかりである。

 私は日本最古の名門たる天皇が、我々と同じ混乱の客車で旅行せよとは言わぬ。たとえ我々の旅行がどのように苦難なものであるとはいえ、天皇の旅行のため、特別の一車を仕立てることに立腹するほど、我利我利でありたいとは思わない。
 然し、特別に清掃され、新装せられた都市や農村の指定席を遍歴するなどゝいうことは、これはもう、文化国に於ては、ゴーゴリの検察官の諷刺の題材でしかないのである。これに類するバカらしさは、中国に於ても「官場原形記」という小説によって、カンプなく諷刺せられておる。
 このような指定席を遍歴し、キョーク感激の代表選手にとりかこまれて、天皇陛下は御満足であるのか。
 国民たちの沿道の歓呼というようなものを、それを日本の永遠なる国民的心情などゝお考えなら、まことに滑稽千万である。

 一種の英雄崇拝であるが、英雄とは、天皇や軍人や政治家には限らない。映画俳優もオリンピック選手も英雄であり、二十歳の水泳選手は、たった一夜で英雄となり、その場に於ては、天皇への歓呼以上に亢奮感動をうけ、天皇と同じように、感動の涙を以てカッサイせられる。
 これを人気という。人気とは流行である。時代的な嗜好で、つまり、天皇は人気があるのだ。特に、地方に於て人気がある。田中絹代嬢と同じ人気であり、それだけのことにすぎない。
 ところが、田中絹代嬢の人気は、彼女自身が自らの才能によって獲得したものであるのに、天皇の人気は、そうではない。たゞ単に時代自身の過失が生んだ人気であって、日本は負けた、日本はなくなった、自分もなくなった、今までのものを失った、その口惜しさのヤケクソの反動みたいなもので、オレは失っていないぞと云って、天皇をカンバンにして、虚勢をはり、あるいは敗北の天皇に、同情したつもりになってヒイキにしている、その程度のものだ。

 然し、日本は負けた、日本はなくなった、実際なくなることが大切なのだ。古い島国根性の箱庭細工みたいな日本はなくなり、世界というものゝ中の日本が生れてこなければならない。
 天皇の人気というものが、田中絹代嬢式に実質的なものならよろしいけれども、現在天皇が旅行先の地方に於て博しつゝある人気は、朕に対する人気、天皇服に対する人気で、もう朕と仰有(おっしゃ)らず私と仰有る、オカワイそうに、我々と同じ背広をきて帽子をふってアイサツして下さる、オカワイそうに。まったくバカバカしい。朕という言葉がなくなり、天皇服などゝいう妙テコリンの服装が奇ッ怪千万だということを露ほどもさとらぬ非文化的、原始宗教の精神によって支持せられ、人気を博しているにすぎないのである。
 このように、実質によらず、天皇という昔ながらの架空な威厳によって支持せられるということが、日本のために、最も悲しむべきことであるということを、天皇はさとることが出来ないのであろうか。

 田中絹代嬢の人気は、まだしも、健全なる人気である。実質が批判にたえて、万人の好悪の批判の後に来た人気だからだ。
 天皇の人気には、批判がない。一種の宗教、狂信的な人気であり、その在り方は邪教の教祖の信徒との結びつきの在り方と全く同じ性質のものなのである。
 地にぬかずき、人間以上の尊厳へ礼拝するということが、すでに不自然、狂信であり、悲しむべき未開蒙昧の仕業であります。天皇に政治権なきこと憲法にも定むるところであるにも拘らず、直訴する青年がある。天皇には御領田もあるに拘らず、何十俵の米を献納しようという農村青年団がある。かゝる記事を読む読者の半数は、皇威いまだ衰えずと、涙を流す。
 かく涙を流す人々は、同じ新聞紙上に璽光(じこう)様を読み笑殺するが、璽光様とは何か、彼女はその信徒から国民儀礼のような同じマジナイ式の礼拝を受けたり、米や着物を献納されたり、直訴をうけたりしており、この教祖と信徒との結びつきの在り方は、そっくり天皇と狂信民との在り方で、いさゝかも変わりはない。その変りのなさを自覚せず、璽光様をバカな奴めと笑っているだけ、狂信民の蒙昧には救われぬ貧しさがあります。
 超人的な礼拝、歓呼、敬愛を受ける侘しさ、悲しさに気付かれないとは、これを暗愚といわざるを得ぬ。

 人間が受ける敬愛、人気は、もっと実質的でなければならぬ。
 天皇が人間ならば、もっと、つゝましさがなければならぬ。天皇が我々と同じ混雑の電車で出勤する、それをふと国民が気がついて、サアサア、天皇、どうぞおかけ下さい、と席をすゝめる。これだけの自然の尊敬が持続すればそれでよい。天皇が国民から受ける尊敬の在り方が、そのようなものとなるとき、日本は真の民主国となり、礼節正しく、人情あつい国となっている筈だ。
 私とても、銀座の散歩の人波の中に、もし天皇とすれ違う時があるなら、私はオジギなどはしないであろうけれども、道はゆずってあげるであろう。天皇家というものが、人間として、日本人から受ける尊敬は、それが限度であり、又、この尊敬の限度が、元来、尊敬というものゝすべての限度ではないか。

 地にぬかずくのは、気違い沙汰だ。天皇は目下、気ちがい共の人気を博し、歓呼の嵐を受けている。道義はコンランする筈だ。人を尊敬するに地にぬかずくような気違い共だから、正しい理論は失われ、頑迷コローな片意地と、不自然な義理人情に身もだえて、電車は殺気立つ、一足外へでると、みんな死にもの狂いのていたらく、悲しい有様である。
 天皇が人間の礼節の限度で敬愛されるようにならなければ、日本には文化も、礼節も、正しい人情も行われはせぬ。いつまでも、旧態依然たる敗北以前の日本であって、いずれは又、バカな戦争でもオッパジメテ、又、負ける。性こりもなく、同じようなことを繰り返すにきまっている。
 本当に礼節ある人間は戦争などやりたがる筈はない。人を敬うに、地にぬかずくような気違いであるから、まかり間違うと、腕ずくでアバレルほかにウサバラシができない。地にぬかずく、というようなことが、つまりは、戦争の性格で、人間が右手をあげたり、国民儀礼みたいな狐憑きをやりだしたら、ナチスでも日本でも、もう戦争は近づいたと思えば間違いない。
 天皇が現在の如き在り方で旅行されるということは、つまり、又、戦争へ近づきつゝあるということで、かくては、日本は救われぬ。

 陛下は当分、宮城にとじこもって、そして、忘れられたころに、東京もどうやら復興しているであろう。そして復興した銀座へ、研究室からフラリと散歩にでてこられるがよろしい。陛下と気のついた通行人の幾人かは、別にオジギもしないであろうが、道をゆずってあげるであろう。
 そのとき、東京も復興したが、人間も復興したのだ。否、今まで狐憑きだった日本に、始めて、人間が生まれ、人間の礼節や、人間の人情や、人間の学問が行われるようになった証拠なのである。

 陛下よ。まことに、つゝましやかな、人間の敬愛を受けようとは思われぬか。
 たゞ今の旅行のようでは、狐憑きの信仰がふえる一方に、帽子を握って手をふる背広服の人形がメーデーに現れたり、「アヽ、ソウ」などというような流行語が溢れて、不敬罪が流行ハンランするに至るであろう。

 (初出:1948(昭和23)年1月5日発行「風報 第二巻第一号」=参考:サイト『青空文庫』)

“ガザ”

2009-01-28 08:41:19 | Weblog
 アメリカとそのとりまきが“黒人大統領”誕生で沸き立っている裏側で、“アウシュビッツ”と化した『ガザ』では何が起きていたか!

 イラクの無辜の民百万余を虐殺して退場したブッシュと現代の「ナチ」イスラエルを、国際司法裁判所に裁かせずに、どうして世界の“正義”が担保されるというのか!

 目を逸らさず、次のリンク(全画像)をぜひご覧下さい!


『ガザ』:http://www.elfarra.org/gallery/gaza.htm

二度、天皇になった“女帝”の話~『日本霊異記』から

2009-01-26 15:34:31 | Weblog
滅多にない豪(?)雪:

 金曜日夜から土曜日にかけて、当地では滅多に見られない平地で15~20センチほどの大雪になった。近隣の交通機関がまったくマヒするなど、記憶にない記録的な降雪量で、素敵な雪景色に見とれた次第である。


 さて、新聞に掲載される派手な女性週刊紙の広告を目にすると、途切れなく皇室の話題が出ている。それも毎週「雅子さま」に関するものが圧倒的に多いようだ。真の民主主義実現のためには「皇室廃止」が不可欠と思うのだが、その立場から現皇室、とくに民間出身の「皇后」を観察していると、まことに「お気の毒」と申さずにはおれない。長い間、“ストレス”でやつれた美智子さんの姿は国民の目にどう映ったか、引き続き今、雅子さんの不安定な精神状態(報道?)を国民はどう受けとめているか、正確な答は知らないが想像はできる。しかも、皇位継承がからんで「女帝」問題が浮上しているともいう。日本人は「雲の上」の話がよほど好きらしい。

 
 「女帝」といえば、天下を騒がせた有名な人物“孝謙天皇”を思い出す。この女帝は二度も皇位についたことで知られ、さらにはスキャンダラスな人として名をはせ、戦前はこの女帝について語ることはタブーとされていた。女帝の名は阿倍内親王(718~770)。奈良の大仏を作った聖武天皇(701~756)と悲田院・施薬院など貧民救済で知られる光明皇后(701~760)の間に生まれた。聖武夫妻に男子がなかった(弟がいたが夭折した)ので、異例の女性皇太子にえらばれ、生涯結婚もできなかった。この時代の権力闘争はすさまじく、阿倍内親王の運命も翻弄されたということだ。挿話第一。

 <事件の第一は皇太子交代事件である。
 聖武帝はその死にあたって、未婚の、したがって、あとつぎのいないわが娘孝謙女帝のために、道祖王(ふなどのおう)という皇族(注:天武天皇の孫)のひとりを皇太子とせよと遺言した。
 ところが、この道祖王が聖武帝の喪中にもかかわらず宮中の女官と密通したことがわかったので、憤慨した女帝は早速皇太子を止めさせてしまった。
 ――父上の喪中に、なんとみだらな!
 未婚の女帝の潔癖感を思えば、その激怒ぶりも、大方察しがつく。代わりの皇太子には大炊王(おおいのおう)という別系の皇族がえらばれた。そしてこのとき、女帝の片腕として活躍したのは、当時の実力者、藤原仲麻呂だった。彼は光明皇后の甥だから、女帝とはイトコになる。…>(永井路子著『歴史をさわがせた女たち』/文春文庫)

 
 『日本霊異記』下巻第三十八話に「災(さい)と善との表相先づ現れて、而る後に其の災と善との答を被(かがふ)りし縁」という、世を騒がせた“女帝”孝謙天皇の話がある。冒頭に、「世に善悪が現れるときには、それにまつわる歌が先ず流行するものだ」といい、話ははじまる。

 <諾楽(なら)の宮に25年天の下治めたまひし勝宝応真聖武太上天皇、大納言藤原朝臣仲麿を召して、御前に居(す)ゑて詔(みことのり)したまひしく、「朕(わ)が子阿倍の内親王(ひめみこ)と道祖(ふなど)の親王(みこ)との二人以(も)て、天の下を治めしむと欲(おも)ほす。云何(いかに)。是(こ)の語(こと)受くべしや不(いな)や」とのたまひき。仲丸答へて白(もう)ししく、「甚だ勝(すぐ)れて能(よ)し」と、御語(みこと)を受け白(もう)しき。>

【現代語訳】
 奈良の宮に25年の間、天下を治められた聖武天皇は、大納言藤原朝臣仲麿をお召しになり、天皇の前に座らせ、
「わが子の阿倍内親王と天武天皇の孫にあたる道祖(ふなど)親王の二人に天下を治めさせようと思うが、そなたはどう思われるか。承知してくれるかどうか」
と仰せられた。仲麿は、
「誠に結構なことです」
とお答え申して、勅命をお受けした。
    (中田祝夫全訳注『日本霊異記』/講談社学術文庫)

 『日本霊異記』には道祖親王の密通の話はでてこないが、女帝が親王を牢獄に入れて殺したとある。永井路子著にある第二の挿話。女帝が大炊王に帝位を譲った(淳仁天皇)あと、女帝が淡い恋心を抱いていた阿倍仲麻呂が天皇と密着し、女帝をかえりみなくなる。そのうえ母光明皇后がなくなって心痛のあまり女帝は病気になるが、ここに登場するのが呪僧の道鏡である。病気治癒に専心した道鏡に女帝が惚れてしまい話がからまる。これが第二の挿話。

 <第二に、そして最大の非難は彼が天皇になろうとしたことにむけられているが、これは誤解だ。資料を読んでみると、孝謙女帝のほうが、そのことに積極的なようにみえる。女帝はしんそこからつくしてくれる道鏡に次第に心を傾けていったのだ。恵美押勝(藤原仲麻呂の役名)はそうした女帝の態度に反対し、淳仁帝に道鏡との間を非難させた。
 これをきいて憤慨した女帝は淳仁帝に、
「よくも失礼なことを言いましたね。もうこれ以後は、あなたの勝手は許さない。今後は小さい事だけに口を出しなさい。国家の大事は、私が裁決します」
 と宣言した。これが原因で恵美押勝は反乱の兵をあげるが、失敗してあえない最期をとげ、淳仁帝も廃され、女帝は皇位に返り咲く。これが称徳帝である。>

 この部分を『日本霊異記』はこう書いている。

 <又宝宇の八年十月に、大炊(おほひ)の天皇(すめらみこと)、皇后(おほみおや)の為に賊(う)たれ、天皇の位を輟(や)めて、淡路国に退き逼迫(せま)りたまふ。並(また)仲丸等と又氏々の人とを、倶(とも)に殺死(ころ)しつ。彼(そ)の先に天の下挙(こぞ)りて歌詠(うた)ひしは、此の親皇(おほきみ)の殄滅(ほろ)びたまふ表相なりけり。>

【現代語訳】
 また天平宝宇八年(764年)十月に、淳仁天皇は、孝謙天皇にきらわれ、討たれて、帝位を退き、淡路島に引きこもられた。そのときに藤原仲麿および一族の人々は一緒に殺された。これより先に天下の人々が歌った歌は、あの道祖親王がなくなられる前ぶれであったことがわかった。(前出書)

 
 さて、孝謙女帝のスキャンダラスな話は広く知られていることだが、永井路子さんによれば、女帝が道鏡にゾッコンだったのは事実として、「二人の関係は正史から姿を消し、口さがない裏面史にだけ残されたために、話はヘンな方へエスカレートし、道鏡は稀にみる巨根、そして女帝は稀にみる好色女として囁かれるようになってゆく。が、じつを言うと道鏡の巨根説が登場するのはずっと後のことである」と言っている。では、『日本霊異記』にはどうあるか。

 <又、同じ大后の坐(ま)しましし時に、天の下の国挙(こぞ)りて歌詠(うた)ひて言ひしく、
  
  法師等を裙着(もは)きたりと軽侮(あなづ)れど、そが中に腰帯薦槌(こしおびこもづち)懸(さが)れるぞ。弥(いや)発(た)つ時々、畏(かしこ)き卿(きみ)や。

又咏(うた)ひて言ひしく、

  我が黒みそひ股に宿(ね)給へ、人と成るまで。

是(か)くの如く歌咏(うた)ひつ。帝姫阿倍の天皇の御世の天平神護の元年の歳(とし)の乙巳(きのとみ)に次(やど)れる年の始に、弓削(ゆげ)の氏の僧道鏡法師、皇后と同じ枕に交通(とつぎ)し、天の下の政(まつりごと)を相(たす)け摂(と)りて、天の下を治む。彼の咏歌(うた)は、是れ道鏡法師が皇后と同じ枕に交通(とつぎ)し、天の下の政を摂りし表答なりけり。>

【現代語訳】
 また同じく光明皇后のご在世のころ、流行歌が広まって、天下の人々は口をそろえて、こう歌った。

 法師たちを裳(も)をはいとる種族なんて見さげるな。裳の下には石で飾った帯や、陽根があるのだぞ。陽根がいきり立つと、それはそれは恐ろしいんだぞ。

 また、

 わたしの黒皮の陽根をまたに挟んでねんねしな。大君も生身の体、一人前になられるまで。

 このように流行歌に歌ったのである。女帝称徳天皇の御代、天平神護元年(765)の初めに、弓削氏の僧の道鏡法師が、女帝と同じ枕に寝て情を交わし、政治に実権を執って天下を治めた。この歌は道鏡法師が女帝と同じ枕に寝て情を交わし、天下の政治を執るという、その事件の前兆であったということがわかった。(前出書)

 『日本霊異記』の著者・景戒(きょうかい)は、仏教説話に因果応報を求めて人々に善行をすすめているが、これもそのなかの一つである。どこまでが史実か定かでないが、この書の成立が787(延暦6)年というから、わずか20年前のことを景戒は話にまとめたことになる。まんざら作り話でもなかろう。


 永井路子さんは孝謙女帝をかばって「人が人を愛することがなぜ悪いのか。女帝として人間である以上は、これはあたりまえなことではないか。しかもこのとき女帝は四十を半ばすぎている。政略的な理由で異例の女性皇太子となって以来、ついに結婚の機会を与えられなかったひとの、最初にして最後の愛の燃焼なのだ」といい、最後に、「女帝が道鏡を夫とすることができたら」と仮定してしめくくっている。

 <それは孝謙女帝ひとりの幸福にとどまらず、日本の女性の歴史を少し変えたのではあるまいか。孝謙女帝のトラブルにこりたのか、それ以降日本歴史から女帝はほとんど姿を消してしまうが、女帝も結婚できるということになったら、もっと女帝が登場したかもしれないし、ひいては、女性のお値打ちも、もっと高まっていたかもしれない。>


 皇室の話題、とくに天皇をとりまく女性たちを標的に、売り上げに血道をあげる女性週刊誌とそれを支える読者たち。この現代日本の文化的?風景を『日本霊異記』の著者・景戒が知ったら何と言うだろうか。


 

『中流の力』の著者・坂爪逸子さんからコメントいただく

2009-01-24 11:20:50 | Weblog
 “読後雑感”みたいに書かせてもらった去る1月6日の記事に、『中流の力』の著者・坂爪逸子さんからコメントをいただいた。そこには執筆者の思いが述べられていて、ありがたく拝見させていただいた。

 ところが不思議なことに、この記事を書いたあと、立て続けに「中流階級」とか「中間層」とか「知足の社会」などの言葉が目についた。一つはフランス語記事を和訳して紹介しているブログ『PAGES D`ECRITURE』1月20日付け記事「フランスでも中流階級の危機(1)~(3)」(http://ameblo.jp/cm23671881/entry-10024139961.html#main)であるが、これは06年12月20日の記事を再録したものだ。また記事ではないが、つい最近NHKラジオが「アメリカ中間層の崩壊」に関し詳しくリポートしていた。中流階級といい中間層(あるいはホワイトカラーとも呼ぶ)といいながら、実は資本家階級あるいは労働者階級などのような、これについての明確な定義がなく、ある種の「所得階層」の分類で見ているようにとれ、坂爪さんが認識する「中流」とは必ずしも一致するとは思えない。だが表現はどうであれ、“安定した”社会には構成要素として必ず「要(かなめ)の勢力」(中流・中間階層)が存在したことは事実だろう。現実を注視すると、その肝心な「要」となる部分を喪失し、危機に直面しているというわけだ。

 一方、坂爪さんは中流階級と「少欲知足」の連関を省察されているが、一昨日の『日本インターネット新聞』巻頭記事に竹内謙代表が「“知足の社会”を目指す、試練のオバマ政権がスタート」(http://www.news.janjan.jp/world/0901/0901210897/1.php)と題する記事を書いている。中間層が崩壊してしまったアメリカ、時代の危機に直面するアメリカにもっとも肝腎なことは、ほかでもない「足るを知る」ことだというのだ。坂爪さんが歴史的に解明した人類の「直立二足歩行」に由来する「脳の暴走的進化」を、もはや人類それ自身が容認できなくなったのである。みんなが「もう、ほどほどにしようよ」と決意しないと、超大国アメリカの再生はないと竹内さんは言うのである。


 坂爪さんはコメントで、哲学者・木田元先生の次の言葉を引いている。

「哲学はプラトンによって形而上学として確立された。自然はイディアなしでは、無価値の物質・素材に過ぎないとみる。これは随分、不自然で反自然的考えだ。なぜ古代ギリシャにこのような、逆立ちしたような思想が生まれたのか。私自身は自分の仕事を哲学批判の意味で、<反哲学>と規定している。今哲学の課題は、これ以上豊かにも便利にもならなくていい、その思い切りを思想化することだ。この調子でいったら人類は滅亡する。技術とは何かを真剣に考える必要がある。ある段階までは技術と自然がバランスをとっていたが、ある地点で技術が自己運動を起こして均衡点を破り自己肥大化し始めた。理性や科学も、実は技術が自己運動を起こして自分の手先としてそれを作り出したのではないか。今や技術が自然も人間も食い尽くそうとしているように思われる。コントロールは不可能だとしても、せめて人類の死滅する前に、その正体を見極めなければと思っている」

 正直なところ、「少欲知足」を語るとすれば、現代の科学技術に触れないわけにはゆくまい。現代資本主義社会において資本の目的が「利益の最大化」にあることはいうまでもないが、産業革命以来、利益の最大化のために果たした「技術革新」には目覚しいものがあった。技術革新にともない「労働の疎外」が表面化し、労働者は「労働の合理化」と「労働の価値」をめぐって資本家と激しく対立し闘ってきた。その結果、近・現代にかけて労働者たちの闘いは一定の成果を上げ、都合のよいことにこれが「資本の暴走」にブレーキをかける役割を果たした。

 ところが、いわゆる「IT革命」は、これまでの「技術と労働」の枠に収まらない新たな労働の態様を生む。この労働の変容に関しては故今村仁司氏の「労働論」に沿い、かつて何回か記事にしたのでここではふれないが、「利益の最大化」を追求する資本の恣意のままに、労働者が単なる「利益を生むケージの中のニワトリ」に過ぎなくなってしまったことだけは指摘しておこう。問題は、木田先生の関心にある「技術とは何か」だが、これに関しても過去の記事で何回か取り上げた。その一つ07年2月15日の『はびこる“えせ科学”』(http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070215)の文末に引用した部分をみてみよう。

<数学史家・佐々木力氏の言葉>
 「科学の前線配置の転換」という考えを、私は尊敬する物理学者であった故朝永振一郎氏から学びました。彼には類い稀な才能と、深い科学者の苦悩のようなものがあって以前から体質的に好きでした。彼は最晩年の講演「科学と文明」(『著作集』4『科学と人間』みすず書房、所収)の中で、才能にめぐまれた学者たちの関心が素粒子論などいわゆる「基礎理論」にばかり集まって、地球物理学や気象学などの、一般の人に直接かかわってきそうな諸問題がほとんど手つかずのまま未解決の状態で残されていることを指摘していました。この考えを外挿して、私は今後の科学研究体制の重心を、数学的自然科学を中心とする機械論的自然科学から自然史に移すべきだと主張します。前者の根底には自然のテクノロジカルな操作があり、時に大きな力を私たちに与えてくれます。後者の基本的姿勢は自然の操作ではなく、畏敬です。…」

 <医学史家・川喜多愛郎の言葉>
 「グローバルな意味でも、狭く社会的な意味でも、現代のわれわれに突き付けられているかずかずの深刻な問題は、太りすぎたわれわれの欲望をどう抑えるかという倫理にかかるふしが大きいのではないかと私はひそかに考えています。…
 年寄りの長話が、もう度を越しました。一つだけ最後に言わせていただけば、アルベルト・シュヴァイツァーは初期のみずみずしい著述『水と原生林の間にて』(岩波文庫)の中で、ある現場に直面して、感慨深げにこう語っています――「人はみな死ななければならないのだ」。バイオエシックス論議に少しでもかかわる時、私はいつもこの言葉を思い出します。」(川喜多愛郎・佐々木力著『医学史と数学史の対話』/中公新書)


 現代のIT革命は軍需技術を背景に成立したというが、世界を支配するアメリカ経済が産軍官複合体を基盤としていることは周知のことである。資本の目的が「利益の最大化」である限り、(国営)軍需もまた利益に貪欲であらざるを得ない。しかもその利益を担保する手段として先端技術を独占する。軍の本質は「倫理」ともっとも乖離した関係にあるため、軍事技術が産出するものは「反倫理」的産物と言えるだろう。木田先生は「技術が自己運動を起こす」と述べられているが、そこに「悪魔」が介在することを見逃がすわけにはいかないのだ。それ故にこそ、科学技術を語り合った二人、川喜多愛郎氏は「倫理」といい、佐々木力氏は「自然への畏敬」と言っていると理解できよう。

 
 いま話題の“派遣労働”はマルクスがいう「搾取」の典型と言えるが、わが国を代表する企業のトヨタ、キャノンら経営者の経営理念を問う声が多い。識者の間では、「利益の最大化」を「生産規模の極大化」に求めた愚を指摘されているようだが、同時に「倫理観」の著しい欠落を問うべきだろう。「私利を追わず公益を図る」を座右の銘とした渋沢栄一、叙勲を断わった日清紡績の宮島清次郎などの存在を想い起こせば、資本と労働で成り立つ企業において、現代の経営者のバランス感覚はきわめて不均衡に過ぎる。

 現代の「中流階級の崩壊」は、実態上の大半が、先に述べた「悪魔」の存在とバランス感覚を失墜させた大企業経営者に起因するといえないだろうか。


 行きつくところは、“法然上人”の「自然法爾」の世界であることを、私に自覚させてくれたのは著書『存覚』を通じ坂爪逸子さんだった。川喜多愛郎氏が引くシュヴァイツァーの言葉「人はみな死ななければならないのだ」を、われわれは深く認識すべきではなかろうか。川喜多先生がなぜ、最先端技術の“脳死移植”に慎重な姿勢を崩されないかは、この言葉に隠されている。

英国・日本帝国の“アヘン”利権~中国蹂躙の闇の歴史(2)

2009-01-22 10:03:50 | Weblog
 佐野眞一著『阿片王~満州の夜と霧』(新潮社)に『秘 東亜共栄圏建設と阿片対策』(馬場鯱/1943)からの引用がある。

 <支那民族が阿片吸引の陋習に惑溺して、遂に国を破り自民族の衰亡を招くに至った原因は、イギリスの老獪無残な阿片侵略にあったことは常に信じて疑はない所である。阿片戦争に於て一敗地に塗れた支那が、政治的にも経済的にも破綻にも殯し、後日の半植民地的存在に迠転落した原因は確かに阿片の吸引にあったのであり、支那四百餘州に普ねく阿片を撒き散したのは、イギリスの阿片密貿易にあったのである>

 同書によれば、1800年から1810年までの密輸量が約三千箱(一箱約60キロ)だったのに、1835年から1839年には約三万五千箱と10倍以上にのぼったと述べ、これに悩まされた清朝政府は、アヘン流入に対抗するため、自国でのケシ栽培を奨励する策を講じるなど一か八かの強硬策をとったが、これが裏目に出てアヘン戦争を招き、アヘンの強制輸入を強いられ、莫大な国家的損失をもたらしたという。(Wikipedia:「阿片戦争」によれば、輸入量は1800~01年の約4500箱、1830~31年に2万箱、1838~39年には約4万箱とし、1830年代末にはアヘンの代価として清朝国家歳入の80%に相当する銀が国外に流出した、とある)

 <…歴代の清国政府は阿片禁断の方策を樹立しては取締に力を致して来たが、一旦之が習慣に染まった全国の癮者は、迚々強制し難いことは今も同じである>

 癮(いん)者とは中毒患者のことだが、同書は、アヘン戦争から一世紀後にいたるも、中国がアヘン患者の存在に悩まされ続けていたことを教えている。なぜ癮者はなくならないのか。言うまでもなく、アヘンが「闇の勢力」にとって貴重な収入源だったからである。


 アヘン戦争によって中国は多額の賠償金と香港割譲、主要港の開港など著しい不平等条約をイギリスに押し付けられ、これに便乗した他の欧米諸国の進出を許して半植民地化するのだが、マルクス等によれば、これが中国の近代化の契機ともなったという。つまり、西欧先進資本主義国の実情を知るきっかけとなり、改革・解放への機運が醸成されたというわけだ。のちに革命運動の中心となる“孫文”らも、「敵国外患なければ、国つねに亡ぶ」とか「多難なれば以て邦を興すべし」など中国古来思想を用いて革命に専念したというから、マルクスの指摘はあたっている。

 実は、このアヘン戦争はわが国の近代化にも大きな影響を及ぼしたばかりか、この中国を“他山の石”としながら、本家中国では成功しなかった近代化を見事に成し遂げることになる。

 イギリスが中国へのアヘン輸出を停止したのは1910年で、実に150年にわたってイギリスは「海賊、毒殺者、大詐欺師」(マルクスの言葉)だったわけだ。前述のとおり、イギリスが手を引いたとはいえ、その後も各地に割拠する軍閥や闇勢力の主要な財源としてアヘンは流通し続けた。そこに登場するのが大陸に野望を燃やす日本帝国の野心家たちである。


 2008年8月17日、NHKは「NHKスペシャル/調査報告 日本軍と阿片」を放送した。NHKオンラインには次のようにある。

 <昭和12年(1937年)に勃発した日中戦争―。広大な中国で、日本は最大100万もの兵力を投入し、8年に渡って戦争を続けた。武力による戦闘のみならず、物資の争奪戦、ひいては金融・通貨面でも激しい闘いを繰り広げた。
 「戦争はどのようにして賄われたか―」。最新の研究や資料の発掘によって、これまで全貌が明らかにされてこなかった中国戦線の「戦争経済」のさまざまな側面が浮かび上がっている。その一つとして注目されているのが、当時、金と同様の価値があるとされた阿片(アヘン)である。
 19世紀以降、イギリスなど欧州列強は、中国やアジアの国々に阿片を蔓延させ、植民地経営を阿片によって行った。アヘンの国際的規制が強化される中、阿片に“遅れて”乗り出していった日本。日本の戦争と阿片の関わりは、世界から孤立する大きな要因になっていたことが、国際連盟やアメリカ財務省などの資料によって明らかになってきた。
 また、これまで決定的なものに欠けるとされてきた、陸軍関係の資料も次々に見つかっている。軍中央の下で、大量の阿片を兵器購入に使っていた事実、関東軍の暴走を阿片が支えていた実態、元軍人たちの証言からも、日本軍が阿片と深く関わっていた知られざる実態が明らかになってきた。
 番組では、日本と中国の戦争を、経済的側面からひもとき、知られざる戦争の実相に迫る。>(「NHKスペシャル」:http://www.nhk.or.jp/special/onair/080817.html

 性奴隷(従軍慰安婦)や朝鮮人・中国人強制連行、あるいは沖縄戦自決などをめぐり政府の歴史改竄が際立つなかで、この「NHKスペシャル」は視聴者の注目を集めたらしいが、残念ながら見逃してしまった。調べてみると、この放送前後にいくつかのメディアが“アヘン”問題を取り上げていて、いずれも日本軍とアヘンに関する新資料の発見に基づくものであった。たとえば『朝日新聞』はNHK放送の前日16日に「アヘン王、巨利の足跡、新資料、旧日本軍の販売原案も」と題し次のように伝えている。

 <日中戦争中、中国占領地でアヘン流通にかかわり「アヘン王」と呼ばれた里見甫(はじめ)(1896~1965)が、アヘンの取扱高などを自ら記した資料や、旧日本軍がアヘン販売の原案を作っていたことを示す資料が日本と中国で相次いで見つかった。取扱高は現在の物価で年560億円にのぼり、旧日本軍がアヘン流通で巨利を得ていたことがうかがえる。
 日本側の資料は「華中宏済善堂内容概記」で、国立国会図書館にある元大蔵官僚・毛里英於莬(もうり・ひでおと)の旧所蔵文書に含まれていた。
 この文書には、里見の中国名「李鳴」が記され、付属する文書には里見の署名がある。毛里は戦時総動員体制を推進した「革新官僚」の一員で、里見の友人だった。内容から42年後半の作成とみられる。
 文書によると、日本軍の上海占領とともに三井物産が中東からアヘンの輸入を開始。アヘン流通のため、日本が対中政策のために置いた「興亜院」の主導で、「中華民国維新政府」内に部局が置かれ、民間の営業機関として宏済善堂が上海に設立された。>

 NHKにしろ朝日新聞にしろ、「アヘン王」と呼ばれた里見甫にはふれながら、里見を裏であやつっていた「満州国の闇の帝王」甘粕正彦(大杉栄虐殺事件の首謀者)、それにつながる岸信介、大平正芳、椎名悦三郎、愛知揆一ら戦後の代表的政治家や戦後政治を闇から支えた児玉誉士夫らの名前は一切表に出していない。これがわが国現代ジャーナリズムの正体であり、悲しむべき限界と言うべきだろう。


 日本軍とアヘンの関係については早くから知られていた。少なくとも国際連盟議事記録をもとに執筆され、1988年出版の江口圭一著『日中アヘン戦争』(岩波新書)でアヘンと関東軍の異常な関連は暴かれていたのだ。同書はいう。

 <重視されねばならないのは、この毒化政策が出先の軍や機関のものではなく、また偶発的ないし一時的なものでもなく、日本国家そのものによって組織的・系統的に遂行されたという事実である。日本のアヘン政策は、首相を総裁とし、外・蔵・陸・海相を副総裁とする興亜院およびその後身の大東亜省によって管掌され、立案され、指導され、国策として計画的に展開されたのである。それは日本国家によるもっとも大規模な戦争犯罪であり、非人道的行為であった。>

 本ブログ07年5月2日の記事(『“731部隊”~闇の扉は開くか?』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070502)で書いたが、この“731部隊”をこえる国家犯罪がアヘンによる「毒化政策」であろう。かつてイギリスが国家財政の建て直しのためとして行った許されざる犯罪行為が、100年を経た同じ中国で、日本帝国によって模倣されたわけだ。(「毒化政策」の現場を取り仕切り、“阿片王”と呼ばれた里見甫に関しては佐野眞一著『阿片王~満州の夜と霧』(新潮社)や千賀基史著『阿片王一代』(光人社)など関連書は多い)

 
 悪名高い“731部隊”のボス石井四郎が戦争責任を問われなかったのは、言うまでもなく隠し持った石井の秘密資料にあったが、里見甫が戦犯を不問とされたのも明らかに米軍の占領政策のためだった。佐野は書いている。

 <里見が起訴されなかった背景には、おそらく、当時の国際政治状況から派生したパワーポリティックスの力学も複雑にからんでいる。里見自身が被告となって極東国際軍事裁判で裁かれることになれば、その過程で、“戦勝国”中国のアヘンとの深い関係が必然的に出てくることは容易に想像できる。そうなれば、蒋介石政権も無傷では済まなくなる。蒋介石が率いる国民党軍の資金の少なからぬ部分が、アヘンによってまかなわれていたことは、いわば公然の秘密だった。>

 里見は軍事法廷の証人尋問前に、軍事裁判所宛の詳しい宣誓口述書を提出しているが、巣鴨刑務所に収監されたのはわずか半年だった。里見をあやつっていた甘粕正彦は、「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」という辞世の句を残し満州で自決し、甘粕の後ろ盾だった岸信介は、昭和天皇が戦争責任を不問とされた例にならい、占領軍の思わくによって微罪釈放となって、のちこの国の宰相を務めた。

 1932(昭和7)年、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀をかついで建国された日本の傀儡国家「満州国」は、中国人民を魔毒アヘンに溺れさせ、国の骨格をシロアリに蚕食させるがごとく人民のふところから財物を剥奪し、これを主たる財源として実質支配権を持つ関東軍の運営のみならず、「偽国家」そのものが経営されていたというわけだ。ナチス・ドイツが犯した戦争犯罪と比べて甲乙つけがたいこの国家犯罪が、わが国ではいまだに清算されずにいることに驚かざるをえないばかりか、その犯罪の中枢にいた人物が、政治のひのき舞台で復活した歴史を愧じずにはおれない。
 
 
 1965(昭和40)年3月21日、「阿片王」といわれた里見甫は心臓マヒで死んだ。佐野の著書によれば、里見の通夜は三日三晩つづき、岸信介、佐藤栄作からの花輪もあったといい、千葉県市川市の菩提寺にある「里見家之墓」の文字は、「昭和の妖怪」と異名のある岸信介が揮毫したものという。

英国・日本帝国の“アヘン”利権~中国蹂躙の闇の歴史~(1)

2009-01-20 14:26:08 | Weblog
 “アヘン”=(英 opium の中国の音訳から)①ケシの未熟な果実からとれる乳液を乾燥させた茶褐色の粉末。モルヒネを多量に含み、代表的麻薬の一種。鎮痛・催眠作用がある。常用すると中毒となり廃人同様となる。麻薬取締法などにより、一般には売買も使用も禁止されている。オピウム。(『大辞泉』)

 “アヘン”は厄介な薬物だが、その歴史をたどるときわめて古いことがわかる。
 現在のイラク・バグダッド南部から発掘された5000年前の楔形文字で、ケシの栽培、ケシ汁の採集が記載され、シュメール人(BC3000年頃)はケシを「歓喜、至福をもたらす植物」と呼んでいたという。ケシはエジプトに伝えられ、ツタンカーメン王(BC1361~1352)時代には国中がケシ栽培であふれていたらしく、それでも宗教者、魔術師、兵士以外には知られていなかったという。ギリシャの叙事詩『オデッセイ』にも「ケシは死の眠りで満ちあふれている」との記述があり、ギリシャ時代には広く知られていた。有名なギリシャの“医聖”ヒポクラテス(BC460~377)もアヘンの麻酔、鎮静、収斂作用が病気の治療に有効であることを認めていた。

 中東、欧州起源のこのアヘンを他の地域に伝播したのはアレクサンドロス大王(BC356~323)だが、中国には5世紀頃、アラビア人経由で伝えられ、陶弘景(456~536)の『本草経集注』には「アヘンの薬味は辛苦、気は平」と記載され、赤痢の治療に用いたという。しかし、のちの古代薬学書を集大成した『傷寒論』や『金匱要略方論』には記載がなく、タバコ喫煙がもちこまれて、タバコとアヘンを混ぜてキセルによる喫煙をおぼえたのは1700年頃、オランダ人によってもたらされたという。それはもちろん、密輸によってもたらされたものだ。中国人の一部にアヘン喫煙の習慣があることに目をつけたイギリスによって引き起こされたのが「アヘン戦争」(1837~42)である。

 18世紀後半、イギリスでは飲茶の習慣が普及し、茶(紅茶)の大半が中国からの輸入品(他に絹、陶磁器など)で対中貿易で大幅な入超となっていた。そこでイギリスは東インド会社を使って植民地インドで大規模なアヘン栽培に乗り出し、これを中国へ密輸して貿易不均衡を解消しようとした。いわゆる英・印・中の「三角貿易」である。19世紀半ばになると、インドで生産されるアヘンは年4,000トン(現在の世界の生産量は非合法を含め年4,000~6,000トン)を超え、うち85%が中国へ輸出され、イギリスの貿易不均衡は一挙に解消される。当時の中国清朝はたびたびアヘン輸入・販売の禁令を出したが、アヘン喫煙者は闇市場でアヘンを入手し中毒者はふえ続けた。

 アヘン禍の民衆への影響を憂慮し、たびたびアヘン取締りの布告を出していたが、国力衰微の兆しのみえる清国でその効力はきわめて乏しいものだった。そこで道光帝(在位1821~50)はアヘン禁輸を厳告すると同時に外国商館の封鎖、イギリスの中国駐在総督を監禁する措置をとった。これに反発したイギリスが清国に仕かけたのがアヘン戦争である。清朝はイギリス海軍に完敗し、香港を失ったほか多額の賠償金を支払わされ、これをきっかけに欧米列強による中国の半植民地化が始まる。イギリスが国民及び議会の圧力で中国へのアヘン輸出を停止したのは1910年で、それまで実に150年にわたってアヘンを中国に流入し続けた。その結果、1913年頃には全国民の4分の1がアヘン中毒に陥ったといわれ、アヘンの呪縛から解放されたのは、1949年、中華人民共和国成立後である。

 産業革命後のイギリスでは、新興富裕層の議員が国会に多数進出し、市場拡大を求める議員等によって清国への出兵に関する予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認された。だが、野党保守党議員からは「こんな恥さらしな戦争はない」との声があったことは記憶しておくべきだろう。

 しかし、「中国の近代化」はこの“恥さらし”なアヘン戦争にはじまるというのが通説である。横松宗は著書『魯迅~民族の教師』(河出書房新社)で「マルクスはアヘン戦争について論じたさい、紳士づらをしたイギリスが、一枚皮をはげば、実は海賊であり、毒殺者であり、大詐欺師であることを喝破している」と書き、マルクスが引用したイギリス人モンゴメリー・マーケティングの文章を引いている。

 <アヘン貿易に比べれば奴隷貿易もなおあわれみ深いものであったとさえいえる。われわれはアフリカの黒人を殺しはしなかった。けだし、われわれの直接の利益がかれらの生命をたもつことを必要としたからである。われわれはかれらの人間的本性をゆがめたり、かれらの知力を破壊したり、かれらの良心を殺しはしなかった。ところがアヘン商人は、不幸な破戒者の精神的本質を堕落させ低下させ荒廃させた上、かれらの肉体を殺すのである。アヘン商人は飽くことをしらないモロック神(子どもをいけにえとして要求するカナンの偶像神)にたえず新たないけにえをささげている。そして殺人者のイギリス人と自殺者の中国人とは、モロック神の祭壇にいけにえを供えることをたがいに競争している。
 『アヘンをこんなに多量に送るのはおやめなさい』と中国・上海のある道台は、イギリスの領事に忠告している。『そうすれば私たちはあなた方の製品を買えるようになるでしょう』」(以上マルクス「アヘン貿易」「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」1858年9月20日)>

 ただし、これより5年前に、マルクスはこうも言っているのだ。

 <……中国の財政、習慣、産業及び政治機構に同時に影響をあたえたこれらすべての破壊的要因は、皇帝の全権威を完全に失墜させ、この天国に地上の世界との接触を強いたイギリスの大砲の圧迫によって、1840年に完全に発展するにいたったのである。完全な孤立ということが旧中国維持の根本的条件であった。いまやイギリスのはたらきかけで、この鎖国に強制的な終末が準備され、密閉された棺に保存されたミイラが新鮮な空気にふれると、たちまち崩れてしまうと同じように、この瓦解もまた必至の運命にあったのである」(「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」1853年6月14日)>(横松著より)


 (この項つづく)

久しぶりに40年前の“氷焔”をのぞく

2009-01-18 11:13:36 | Weblog
 久しぶりに40年前の“氷焔”(『週刊エコノミスト』コラム:筆者・須田禎一)を覗いてみた。改めて、筆者の時代を洞察する眼力と切れ味鋭い筆力に脱帽。それにしても、40年前の世情と今日の、なんと類似していることか、驚くばかりだ。1月14日号と1月21日号の2週続けて見てほしい。


 <“オオカミは殺すことを欲し、ヒツジは従うことを欲している。それでオオカミはヒツジに(他を)殺すことに協力させる。ヒツジは進んで協力するのではないが、追従しようとするから協力することになるのだ”(エーリヒ・フロム『人間の心情』より)。

 もとより、フロム自身は、人間をオオカミ族とヒツジ族に分ける前提に、疑問を提出している。
 しかし、この世の悪行には、オオカミのみでなく、これに追従したヒツジもまた責任のあることを、古今東西の歴史が語っている。


 今69年はトリ年だが、明70年はイヌ年。
 イヌはいつでもオオカミとなる素質を持つ。

 “一犬、虚に吠ゆれば、万犬は実を伝う”という―一
 だが、トリだって、たとえば孟甞君の食客が函谷関で夜半にコケコッコと鳴いてみせると、付和雷同して一斉にコケコッコと鳴きだしたではないか。

 “人間は、楽園を追放されたからこそ、自己の歴史をつくり、「個」として目ざめなかった昔の調和のかわりに、じゅうぶん発達した「個」として、人間と自然との新たな調和に到達し得るのである”(フロム)。


 人間は、トリでもなければイヌでもない。サルでもなければヒツジでもない。
 〔ない〕ように努めようではないか。

 “人間たあでっかいものだ、そのなかに、すべての初めと終わりとがある、この世に存在しているのは、ただ人間だけだ。ほかのものはすべて、人間の腕と頭のつくるものだ。人間は尊敬しなくちゃならねえ、憐れんじゃならねえ、憐れんで安っぽくしちゃならねえ”(『どん底』のサーチン)。

 どこやらの大宰相の“人間尊重”とは、ちょっとばかりデキがちがうようだ。


 “警戒型中立予算”とは何か。
 無性格アアデモナイコウデモナイ予算のことか。

 ただ、そのなかに、“防衛”と“治安”に重点をおく、どすぐろい一本の線だけは、しだいにふとくなりつつある。


 スエズ運河開通から100年。
 函館戦争から100年。

 二月には文学座が久保榮の『五稜郭血書』を上演するという。
 たしかペンタゴンというのも“五稜郭”の意味ではなかったかな。


 “電柱の上、空がある
  とてものぼれぬところにある、
  家のすきまに空がある
  切れた四角の空がある、
  雲の上にも空がある
  雲によごれぬ空がある”
       ―余田準一―
 よしんば嫦娥(月の美女)の笑(え)くぼをなでる宇宙飛行士があろうとも、世界の庶民にはまだ空がない。>

                  (1969年1月14日号)


 <“核の点からも、戦闘作戦行動の点からも、米国は沖縄の基地を現在フルに使用している。そういう事実に対して無理解な態度ではダメだ”。

 “日本は大関になっているのに、防衛の面では幕下以下である。いったい日本は、どうやって沖縄を守ろうとするのか。大関にふさわしい、たのもしい姿を見せて欲しい”。

 歯にキヌきせずおっしゃる国務省(国防省?)日本局長ミスター・シモダ。

 幕下のベトナムが、どうして横綱をくるしめる実力を発揮しているのか(土俵をとびだしそうなのは横綱のほうだ)。
 三段目のキューバが、横綱にアタマをさげず、10年もがんばりつづけている秘密は何か。

 そういうことには、この霞ヶ関秀才のアタマはまわらない。
 番付を、宮廷席次みたいに、固定したものとしてしか考えられないところに、この秀才の(いな、日本外交の)笑劇的な悲劇がある。


 63年以降、再度にわたってサイゴン駐在大使の職にあった、したがって祖国を“竹と稲”の泥沼にひきずりこんだことについて一半の責任をもつロッジ氏が、パリ和平会談の首席代表に。

 まいたタネは自ら刈り取れ、というのか。
 それとも、毒を食らわば皿まで、という意味か。

 あるいは、新大統領の人事が、“蟹(かに)はおのれの甲羅に似せて穴を掘る”というたぐいのものであることの一つの例証か。

 “三菱”との合併問題で、頭取と会長とが対立する“第一”。
 渋沢栄一は遠くなりにけり?

 ミスター・シモダ流にいえば、横綱と大関との関係かな。
 とすると、大関だって横綱に“吸収”される危険をつねに持つ、ということになる。
 ミスター・シモダのご見解が聞きたい。


 社会党の“新しい”運動方針(案)。
 作文としては、まあまあのデキ。
 欠けているものが二つ。人間としての英知と、社会主義者としての献身の決意。
 
 総評、とくに大単産幹部に対する卑屈さ。
 赤じゅうたんや議員特権に対する憬れと未練。
 ――こんな社会党に誰がした!
 24日からの臨時大会に、大粒の雹(ひょう)でもふればいい。


 “明日もまた遊ぼう!
  時間をまちがえずに来て遊ぼう!
  子供は夕方になってそう言って別れた、
  わたしは遊び場所へ行って見たが
  いい草のかおりもしなければ
  楽しそうには見えないところだ
  むしろ寒い風が吹いているくらいだ
  それだのにかれらは明日もまた遊ぼう!
  此処へあつまるのだと誓って別れて行った。”
               ――犀星詩集より>

               (同年1月21日号)

今日は“薮入り”で“地獄”も「定休日」

2009-01-16 11:48:06 | Weblog
 今日は“薮入り”。『江戸川柳を楽しむ』(神田忙人著/朝日選書)から昔の“薮入り”を実感してみよう。

・やぶ入(いり)の母へみやげは髪の出来    拾遺二
 
 <薮入りは奉公人が主家から休暇をもらうことで正月と盆と年二回である。通常の奉公では休暇はこれだけだから現在からは想像もつかぬほどの貴重なものであった。奉公人にとっても、その来るのを待つ両親にとっても待ち遠しい日であった。半年ぶりに見る娘は髪も見事に結っており、母の目を喜ばせる。>

・薮入りの内母おやは盆で喰い         柳初

 <薮入りは男子は一日、女子は三日間だったらしい。母親は娘に膳を使わせ自分は盆の上で食事をする。ごく狭い貧しい家だ。娘に気を使ってそわそわしながらも、年ごろになり、挨拶の仕方などもどことなくおとなびてきた様子に見てとれる。>

・物思い薮入り已後(いご)の事と見え     柳五

 <生家へ帰っていた二、三日の間に、親切にしてくれた近隣の若い男がいたのだろうか。>


 落語にも“薮入り”という、ちょっと泣かせる話がある。
 
 「両親は、子供以上に息子が“薮入り”で帰って来るのを幾日も前から楽しみにしている。前日になると息子をどこに連れて行ってやろうか?とか、何を食べさせてやろうか?とか一睡もしないで待っている。
 当日は家の前を朝早くから掃除して、今か今かと待っているところに奉公に出した息子が帰って来る。
 さっそく息子に新しい着物を着せ銭湯に行かせる。置いていった紙入れの中を見ると5円札で3枚も入っている。15円といえば大金。悪い心でも起こしたのだと思い込み、息子が湯から帰ってくると親父さんはいきなり殴ってしまう。
 泣き出す息子を母親がなだめて訳を聞くと、ネズミを捕まえては交番にもって行き、懸賞に当ってもらったお金をコツコツと貯め、今日は“薮入り”という事で主人に預けておいたお金を主人から頂いて親孝行をしようと持って帰ってきたのだ、っと聞いて両親は感動し、
 “これからもご主人さんを大切にしろよ。これもやっぱりチュウ(忠)のおかげだ”」 

 参照:『招笑亭』http://web.kyoto-inet.or.jp/people/ta_inoue/index.html


 “薮入り”は奉公人の「公休日」だったばかりでなく、嫁が里親のもとに帰る日でもあったらしい。婿と連れ立っていそいそと里に帰る苦労の多かった昔の嫁の姿が想像される。鹿児島ではこの日を「親げんぞ」(親見参)といい、離れて暮らす子供たちが、親を見舞う日になっているといい(『俳句歳時記』/角川書店)、長崎県の西彼杵(にしそのぎ)半島の村々では、正月と盆の16日は、山の神があたりを歩くので、それに会わぬよう山仕事を休み、この日は家にこもっていたという。地方によって“薮入り”の風習も違っていた証しだろう。


 この16日は“地獄の釜開き”、つまり閻魔様も鬼や亡者もお休みの「地獄の定休日」とされている。閻魔様とは一体どんな方だろう。

 仏教には、人間だけでなく、生きとし生けるものはみな善悪の業の果報に応じて輪廻し、転生するという「六道輪廻」の思想がある。六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のことで、このうちとくに、極楽と対比して死後の世界を象徴するのが地獄である。極楽浄土への往生を願うというのは、地獄行きから逃れたいとの願いでもあった。死後の世界への関心が宗教の根源にあるわけだ。

 誰もが行きたくない“地獄”とはどんなところか。本ブログではすでにふれた
(08.6.10『今日は、すさまじい「地獄」を説いた“恵心僧都・源信”の忌日:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20080610)が、この地獄観は中国の冥途思想(死後の世界観)から来ている。つまり七七斎や十王の教えがそれである。

 人間は死後すぐに六道を輪廻したり地獄へいったりするのではなく、次の転生へは一定の準備期間がいるという。この期間を中有(中陰)といい、四十九日間ある。中有の世界は人間が行くべきところが決まらない状態にある。そこで、七日ごとに七回仏事をすることで死者はよりよい次の生が決定する。これが「七七斎」で、四十九日斎とも中陰詣りともいう。中陰の間、死んだ本人が行き先を決めるわけにはいかないので、遺族が死者の冥福を祈って追善供養をし、亡者のために功徳を回向するわけだ。(もっとも、生前の行いが良く仏事を修して(予修・逆修)おればあの世で迷うことはないという。)

 七七斎は亡者が迷っているためその冥福を祈るものだったが、やがてその七日ごとに亡者を審判して次の生を決定せしめるという「十王信仰」が加わる。七七斎のあとに、百ヵ日忌、一周忌、三回忌をつけ加え「十王斎」という。これは死者に対する追善回向ではなく、十王に対する供養だ。死者は、初七日秦広王、二七日初江王、三七日宋帝王、四七日伍官王、五七日閻魔王、六七日変成王、七七日泰山府君、百ヵ日平等王、一周忌都市王、三回忌五道転輪王それぞれの査問を受け、裁きを受ける。閻魔様の裁きは五七日(三十五日)に行われるわけだ。

 閻魔様の裁きの様子は「閻魔王授記経」に詳しく説かれているらしいが、その模様は大津・来迎寺の国宝『六道絵図』の「閻魔王庁図」に見事に描かれている。四方四面に門のある恐ろしく広い「裁判所」である。画面上段に裁判長の閻魔様が机に書面を広げ、目と口を大きく開いて何か怒鳴っている姿が大写しに描かれ、その周りには10人ほどの役人が事務を執っている。裁きの庭にはいかめしい獄卒に引っ立てられ、あるいは拷問を受けるあわれな亡者たちがうじゃうじゃいる衝撃的な閻魔王庁の図である。誰しもこんなところに行くのは真っ平御免だろう。

 死者の審理は通常七回行われるが、各審理の場で問題なければそこで転生し、次に行かなくてすむ。一般には五七日の閻魔様の審理が最終審判とされ、余程のことがないと次に行くことはない。だが、閻魔王庁でもかたがつかず、しかも七回の審理でも三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に落ちるような亡者に用意されたのが百ヵ日、一周忌、三回忌で、仏の救いに漏れはないことになっている。

 なお、この十王の恐ろしさの背後にはそれぞれ救いの仏である本地仏が配当されている。
・秦広王……不動明王
・初江王……釈迦如来
・宋帝王……文殊菩薩
・伍官王……普賢菩薩
・閻魔王……地蔵菩薩
・変成王……弥勒菩薩
・泰山府君……薬師如来
・平等王……観音菩薩
・都市王……勢至菩薩
・五道転輪王……阿弥陀如来
 (閻魔様に関しては『法然と浄土信仰』/読売新聞社・所載「閻魔王の世界」/解説・水谷幸正を参照した)

 閻魔様の本当のお姿が地蔵菩薩だと聞けば、地獄の模様も少しは違って見えてくるし、全国各地にある閻魔堂にまつられた多様な“閻魔様”に親しみがわく。


 奉公人が解放される年二回の“薮入り”は、地獄の「定休日」にあわせて始まったのかも知れない。それにしても、激増する“ワーキングプア”たちに“薮入り”はあるのだろうか。

 
 「来迎寺・六道絵図」:http://nishioumi.ct-net.com/97-08.shtml

「幸徳事件」連座の“内山愚童”著『無政府共産』をいただく

2009-01-14 13:02:12 | Weblog
 「幸徳事件」(一般に「大逆事件」といわれるが、ここでは「幸徳事件」とする)で死刑に処せられた“内山愚童”師の秘密出版物『無政府共産』の再復刻版を頒布するという記事が『中外日報』の社説にあって、早速、記載された申し込み先へ手紙を送ったところ、昨日、次の文面を付して現物が送られてきた。

 < 各 位
                    〒037-0202
                    青森県五所川原市金木町朝日山433
                           一 戸 彰 晃 拝


 2010年はこの国のリベラリズムを沈黙させた「大逆事件」から100年です(判決は翌年1月18日、処刑は同月24日・25日)。この節目にあたり、内山愚童の『無政府共産』を再復刻いたしました。

 同パンフレットについての由来を申せば、原本は岡山の活動家M氏が2部旧蔵していたもので、慶応大学の某教授と評論家の玉城氏がそれぞれ入手。柏木隆法先生が玉城氏から贈られて、30年前に50部復刻いたしました。現在はその復刻版すら入手することが難しくなっておりましたので、このたび柏木先生からご許可を頂き再復刻と配布をおこなうこととなりました。

 100年の節目にあたり、内山愚童の精神を再検討し正しく評価することは大きな意義があろうかと存じます。その意味でも愚童逮捕のきっかけとなったこの『無政府共産』を実際に手になされて、愚童の精神に思いを寄せていただければさいわいです。今回の配布について、どうぞ一人でも多くのかたにお知らせいただきたく存じます。


 ※『無政府共産』をご希望のかたは送料80円切手を同封し、ご住所・ご氏名を明記いただき、上記住所まで封書でお願いいたします。>

◆送っていただいた『無政府共産』

 この「復々刻版」は縦157㍉×横98㍉で、昔のわら半紙の一種らしいが、わざわざ次の「ことわり書き」が添えられている。

 <これは、柏木隆法氏が、原本をもとに復刻されたものをさらに当方が復刻したものです。よって、原本からかなり乖離したことは否めません。特に、紙質に関しては、現在では入手不可能であること、また、原本の製本は「木綿糸で綴じた」(柏木隆法著『大逆事件と内山愚童』191ページ)ものであることなど諸般の違いに関してはどうぞご寛容下さりたく、ご了解のほどお願い申し上げます。
 2009年1月24日(愚童処刑の日)          非売品 >

 ここに先ず、ご送付いただいた一戸様に厚くお礼申し上げます。 


 “内山愚童”師は『無政府共産』の末尾で「発行の趣意」を次のように書いている。

 <此小冊子は、明治41年6月22日、日本帝国の首府に於て、吾同志の十余名が、無政府共産の赤旗を掲げて、日本帝国の主権者に抗戦の宣告をなしたる為に同年8月29日、有罪の判決を与へえられた。
  大杉  榮  荒畑 勝三  佐藤  悟
  百瀬  晋  宇都宮卓爾  森岡 永治
  堺  利彦  木村源治郎  大須賀さと
  山川  均  小暮 れい  徳永保之助
右諸氏が入獄記念の為に、出版したのである。…>

 つまり、1908(明治41)年6月22日の「赤旗事件」で入獄した同志への連帯の書で、“愚童”師の逮捕はこの出版物発行の一年後のことである。逮捕後の7月、林泉寺住職を依願退職、1910年4月に有罪判決(出版法違反、爆発物取締法違反)が出ると、その直後の6月21日、曹洞宗本門は“愚童”師を「擯斥(ひんせき)処分」(僧籍剥奪)とし、翌1911(明治44)年1月24日死刑が執行されると『曹洞宗報』(明治44年2月15日号)で次のように報じた。

 <今般、兇徒幸徳伝次郎等ノ企画ニ、内山愚童ノ如キ嘗テ宗門ノ末流ニ在リシ者アルニ至リテハ、開教以来常ニ尊皇護国ヲ以テ本義トスル宗門ニ於テ、誠ニ恐懼ノ至リニ堪ヘズシテ、身ヲ容ルルノ地ナク、深ク慚謝シ奉ル>

 1992(平成4)年1月10日、林泉寺住職らにより本門に“愚童”師の「名誉回復嘆願書」が出され、1993年4月13日、本門は「擯斥処分取消」を決めた。この事件に連座したもう一人の僧侶・真宗大谷派の高木顕明師は、死刑を免れたものの下獄3年後に獄中自殺した(この件についても本ブログのどこかで書いている)。高木師も本門から「擯斥処分」を受け、1996年4月1日に「処分取消」されたが、両者とも事件から80数年、戦後半世紀を経てようやく名誉が回復されたわけだ。この両者に共通することは、死後は埋葬もままならず、“愚童”師はある檀家の墓に葬られ、檀信徒は反逆者によって引導を渡された先祖が浮かばれないとしてやり直しを協議したといい、高木師の妻子は寺を追われ、養女は芸者になり、大谷派を離れて天理教の信者になって、養女が墓を建てたのは死後50年経ってのことだという。

 
 さて、“内山愚童”師に関しては、すでに本ブログで異色の弁護士・故遠藤誠氏らによる林泉寺での顕彰供養など記事にしたが、「幸徳事件」が近代日本の裁判史上最大の暗黒裁判といわれ、きわめて冤罪性の強い裁判とされていることは周知のことである。最近の司法(警察・検察・裁判)への国民の信頼は著しく揺らいでおり、権力が歴史にきわめて疎いことも明らかになっているこんにち、“内山愚童”師ら先人に学ぶことは多く、別にあらためて取りあげてみようと思う。ここでは師の言葉のいくつかを収録するにとどめる。

 
 <余は仏教の伝道者にして曰く一切衆生悉有仏性、曰く此法平等無高下、曰く一切衆生的是吾子 これ余が信仰の立脚地とする金言なるが余は社会主義の言う所も右金言と全然一致するを発見して遂に社会主義の信者となりしものなり>(『仏種を植ゆる人』)

 <カク奮闘シテ得ル処ノ自由トハ 如何ナル者デアルカ。一口ニ之ヲ云フナラバ、自己ノ意思ニ従ッテ何事モ行動ヲシ、決シテ他ノ為ニ之ヲ妨グ枉ヘラルゝ事ノ無イ、即チ飽クマデ自己ノ意思ヲ尊重シ、ソレト同等ニ他人ノ意思ヲ尊重シテ、平和ニ生活ヲナシ往ク事デアル。要スルニ人類ノ終局目的ハ独立自活・相互扶助ニアル。語ヲ更ヘテ云フナラバ、自由・平等・博愛ノ実現ニアルノデアル。>(箱根林泉寺にある顕彰碑の文:手記『平凡の自覚』より)

<「小作人ハナゼ苦シイカ」

人間の一番大事な、なくてはならぬ食物を作る小作人諸君。諸君はマアー、親先祖のむかしから、此人間の一番大事な食物を、作ることに一生懸命働いておりながら、くる年もくるとしも、足らぬたらぬで終るとは、何たる不幸の事なるか。
 そは佛者のいふ、前世からの悪報であらふか、併し諸君、二十世紀といふ世界てきの今日では、そんな迷信にだまされておっては、末には牛や馬のやうにならねばならぬ、諸君はそれをウレシイト思ふか。
 来るとしも、くるとしも貧乏して、たらぬ、たらぬと嘆くことが、もしも、冬の寒い時に、老いたる親をつれて、づしや、かまくら、沼づや、葉山と、さむさを厭ふて遊んで、あるいた為だと、いふならば、そこに堪忍の、しやうもある。もしも夏の暑い時に、病めるツマ子を引きつれて、箱根や日光に、アツサを避けタ其タメに、ことしは、少しタラぬとでも、いふなラば、ソコニ慰める事も、できよう。…>(『無政府共産』の冒頭部文)

今日は『第3回食育祭』~「大地といのちの会」の“いのちの祭り”

2009-01-12 18:21:07 | Weblog
 今日は「大地といのちの会」主催の「教育ファームの成果発表会」『第3回・食育祭』が開催される。11:00~16:00の間、①元気野菜劇、②各団体食育活動展示③保育園・幼稚園・小学校の教育ファーム活動展示のほか、「体験教室」では“味噌作り実演”“塩作り実演”も。「いのちをいただく食生活体験ラリー」では、

1.元気野菜はどっち
2.野菜の特に元気な部分はどこ?
3.菌ちゃんパワーをいただこう
4.種はいのちのカプセル。30回かもう!
5.いのちのくるくるを体験しよう

などが計画され、特別講演で東京農大の小泉武夫教授が「発酵による土作りと農業体験の大切さ」と題しお話くださる。これから出かけるが、“祭”の様子はのちほどご報告します。

 (この項つづく)

 
 『第3回食育祭』は主催者発表で約1500人の参加者があり盛会だった。とくに目を引いたのは、保育園・幼稚園・小学校の子どもたちの「食育」活動である。下の写真は保育園での活動だが、見事な野菜を作っている。幼い時期に“いのち”の源が「土」にあることを体験させ、その土は“菌ちゃん”(微生物)なしには食べ物を作ってくれないことを先生と親とともに学ぶ。


 「大地といのちの会」が生産した完全無農薬の農産物、伝統の加工品(協力生産者)「展示・販売会場」は身動きできないほどの人で賑わい、生産者と消費者の会話もはずんでいた。


 スライドを使った三川内小学校4年生の「食育学習体験発表」。給食残飯などの生ゴミから土作りをし、種まき、植え付け、水やり、草取り、収穫までの苦労や発見や喜びを教えてくれた。


 小泉武夫先生の講演。専門の「発酵菌」の話を1時間20分語られる。微生物なしにはこの自然界は成立しないこと、発酵食品は栄養的に優れているだけでなく、近年では免疫力を高める作用があることがわかってきたこと、など興味深い話が聞けた。(写真は失敗作で失礼)

 
 最後に、主催者代表の吉田俊道さんが、「大地といのちの会」のこれまでの活動の概要と目指している今後の運動についてアピールされた。



 パンフレットにこんなことが書かれていました。

 <「いのち」の少ない“もどき食品”が氾濫するという、「生命力の食糧危機」で、大人も子供もあえいでいる現代。本格的な食糧危機が到来するとも言われていますが、その時、誰が私たちを支えてくれるのでしょうか?>

 
 菌ちゃん(微生物)の力を信頼し、その助けを借りて野菜づくりに励もうと、改めて確認させられた一日だった。