耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

「国宝“鑑真和上”展」に行く

2007-08-31 08:30:56 | Weblog
 昨日、福岡市博物館で開催中の「国宝“鑑真和上”展」に行った。大変な人出だった。和上については前にもふれ、昨年春、唐招提寺(http://www.toshodaiji.jp/)を訪ねたことも書いたが、わが国最初の肖像像とされる「鑑真和上坐像」をまじかに拝することができ、年来の願いがかなってありがたいことだった。

 鑑真和上:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%91%91%E7%9C%9F

 
 展示場に入るとまず目についたのは“孝謙女帝”(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%AC%99%E5%A4%A9%E7%9A%87)直筆の扁額「唐招提寺」。女性らしい筆致で左右二列に書かれている。光明皇后直筆の写経などたくさんの貴重な文物のなかで、やはり圧巻なのは和上の「坐像」である。

 会場売店で買った山本巌著『鑑真~転生への旅立ち』(書肆侃侃房)によれば、「坐像」の高さは80・1センチ、重さわずかに12キロとある。これは<粘土や木ではなく脱活乾漆法という特殊な技法で作られている>からだという。同書は、中国ではこれとよく似た「肉身乾漆像」ともいうべきものが存在すると次のように言っている。

 <死期を悟った高僧が、座禅した姿勢のままで食と水を絶って死を迎える。その遺体を特殊な方法でミイラ化し、乾漆法を用いて「像」とする。漆を加えることで外形を保ちつつ、肉体そのものを永遠に遺そうというのである。>

 あの有名な中国禅の六祖「慧能」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E8%83%BD)がミイラ化された坐像として広東省の南華寺に遺されているという。慧能は鑑真和上より50年前に亡くなっている。そして、和上は5回目の渡航に失敗し海南島まで流されたあと揚州への帰途、この慧能像を参拝した。

 <慧能像は鑑真の記憶に強く刻み込まれた可能性はある。
 そして鑑真は、亡くなる前、唐から同行した高弟の思託(したく)に「座死することを願う」と遺言しているのだ。この「座死」という言葉が、自身の「肉身像」化を意味した、と考えることはできる。>(同書)

 中国・浙江工商大学日本文化研究所長の王勇教授もこの見解らしいが、唐招提寺長老の松浦俊海師はこの見方には否定的で、「弟子たちの鑑真和上に対する思いが、あのような、ひげ一本もおろそかにしない像を作らせたのではないでしょうか」と語ったという。


 周知の通り、和上は僧であると同時に名だたる「名医」であった。渡来した和上の請来物に多くの「薬剤」が含まれており、その中にいまも正倉院に残る「訶梨勒(かりろく)」があった。驚いたことにその「訶梨勒」が展示してあるではないか。古典医学研究家の槇佐知子さんは著書『古代医学のこころ』(NHK出版)に書いている。

 <1979年に鑑真和上の幻の秘法を『医心方』(注:わが国最古の医学書)の四ヶ所に十一みつけて発表した私は、和上の上陸地をひとめ見たいという思いにかりたてられたのである。…>

 このあと槇さんは幾度となくこの地を訪れ、鑑真和上について講演をしたり、資料館の薬箱の整理をしたりした。槇さんが新聞その他で和上と坊津町の縁(えにし)をとりあげているうちに中国大使が訪れ、観光客も増える。町は見晴らしの良い山に和上の記念碑を建て、中国から贈られた柳や〔えんじゅ〕(木偏に鬼)が茂る公園を作った。

 <私は坊津町で江戸時代の漢方医の薬箱を整理中、その引出しから訶梨勒の実をみつけた。訶梨勒はインド原産の高木の実で、古代の万能薬である。正倉院には鑑真和上がもたらしたという訶梨勒の実が、今はたった一つ残っている。何回にもわたって持ち出されたらしいが、持ち出した一人に関白藤原道長がいた。…>

 筑波の国立衛生試験所長佐竹元吉先生が中国から持ち帰って試みに播いて芽吹いた訶梨勒の苗木を譲り受け、槇さんは坊津町に届けた。その苗木は無事に育ち、念願だった「鑑真和上記念館」も1992年に完成したという。

 鑑真記念館:http://www3.pref.kagoshima.jp/suisui/25-bounotu/012/


 若葉して御目(おんめ)の雫(しずく)ぬぐはばや      芭蕉

 海南島に流され、「慧能像」を拝するころ長年の辛苦ゆえに失明されたという和上、そのつぶれた目からこぼれる雫を若葉でぬぐってやりたいという芭蕉のなんと優しい心根だろう。

 私は、想像を絶する艱難を乗り越え来朝された鑑真和上の「坐像」に頭(こうべ)を垂れ、ただただ合掌するばかりだった。

 
最後に『続日本紀・巻二十四』から引いておく。


 <(天平宝字7年)5月、戌申。大和上鑑真物化ス。和上ハ揚州竜興寺ノ大徳ナリ。(中略)天宝ニ載、留学僧栄叡・業行等、和上ニ白(マウ)シテ曰ク、仏法東流シテ本国ニ至ル。其ノ教有リト雖モ、人ノ伝授スル無シ。和上東遊シテ化ヲ興セト。辞旨懇至ニシテ、諮請息(ヤ)マズ。乃(スナハ)チ揚州ニ於テ船ヲ買ヒテ海ニ入ル。而ルニ中途ニシテ風ニ漂ヒ、船打チ破ラレヌ。和上一心ニ念仏シ、人皆之ニ頼リテ死ヲ免ル。七載ニ至リテ、更ニ復(マタ)渡海ス。亦風浪ニ遭ヒテ、日南ニ漂着ス。時ニ栄叡物故ス。和上悲泣シテ失明ス。勝宝4年、本国ノ使適々(タマタマ)唐ニ聘ス。業行乃チ説クニ宿心ヲ以テス。遂ニ弟子二十四人ト、副使大伴宿禰古麻呂ノ船ニ寄乗シテ帰朝シ、東大寺ニ於テ安置供養ス。>
 

 

 

 

“怒鳴台”で叫ぶ~安部改造内閣発足によせて

2007-08-29 07:52:48 | Weblog
 世の中“シラケ”きった中で第二次安部内閣が発足した。“類は類を呼ぶ”というが、もともと安部晋三なる人物が“品格”に欠けるのだから、どこをどういじっても知れている。彼の発言を聞いていて、これがわが国の「宰相」である、と納得できる人が本当にいるのだろうか。

 私の好きな作家森敦の『天に送る言葉』に「怒鳴台」という一文がある。私はいま、この「怒鳴台」で鬱勃たる気分を思う存分発散させたい。


 <試みに、石を拾って空に向かって投げてみたまえ。はじめ石は上がろうとして上がり、次第に上がろうとする力を失って、上がろうともせず下がろうともしなくなる。このとき、石は頂上に達するので、やがて下がろうとして下がりはじめ、いよいよ下がろうと下がってついに地に落ちる。この石が描くところの曲線を放物線といい、人の生涯もこれに譬(たと)えることが出来る。
 
 青年という言葉はすこぶる漠然としているが、生涯を区分してこのように分類する、区間のあることは分かる。いや、青年とは十四、五歳から二十四、五歳までを言うと明記している辞書すらある。新聞雑誌の報道を待つまでもなく、生涯の危機は実にこの時機にあり、二十四、五歳をもって終わるとはいわないが、十四、五歳をもって始まる。
 
 なぜなら、投げられた石がこの時機に、次第に上がろうとする力を失って来るからだ。上がろうとする力を失って来るなら、問題はないではないか、と言うひとがあるかも知れない。しかし、上がろうとする力を失って来るということは、下がろうとする力が加わって来ることである。これが自己において相克する。他者が簡単に解決し得べきことではない。
 
 わたしの母校の裏には山があり、巨巌が聳(そび)えていた。これを怒鳴台(どめいだい)と呼び、怒鳴台において心の鬱屈(うっくつ)を怒鳴する以上は、なにごとであれ許された。学校当局に対する不満を怒鳴する者もあった。家庭のやり切れなさを怒鳴する者もあった。先輩の暴逆を怒鳴する者もあった。どうしようもない性的苦痛を怒鳴する者すらあった。>(森敦著『天に送る言葉』/小学館ライブラリー)


 “怒鳴台”で叫ぼう!

 【コノ トンチンカンヤローゥ!】

今は昔の“ストライキ”の話~その5

2007-08-27 08:57:41 | Weblog
 【戦前のストライキ】 ~軍隊の出動

 第一次大戦後の反動恐慌の中、大量馘首、大幅賃下げに直面した神戸の川崎、三菱両造船所では、軍隊まで出動するという未曾有の争議に発展した。総同盟の指導のもと川崎・三菱争議団は「工場管理」を宣言して闘ったが、闘争長期化につれ苦境に立たされ、賀川豊彦争議団長外300余名の一斉検挙にあい、、総同盟は本部を神戸に移し西尾末広、赤松克麿らの指導部を再編、局面打開のため西尾、赤松は重役邸やガントリークレーン爆破のテロ戦術を主張したが、この計画は実行されることなく一切の調停も不調に終わり、遂に「敗北宣言」を出して終息、労働運動はこれを機に労働争議より階級闘争へと向かう。

 総同盟機関紙『労働』は次のように書いた。

 <右傾といい、左傾といい、悪化といい、合理化といい、久しく混沌の間を彷徨した日本の労働運動は、こんどの争議を分岐点として、また転機として、漸く、その向かう所が定まったような感じがする。「力」に対するものは、結局、「力」である。資本家や官憲がもし、労働者の正義と信じて進む所に、ただ「力」を以て押しつけようとするのみならば、労働者も畢竟、正義とか、人道とかという弱者のお題目を唱えることをやめて、「力」を以て対応する外ない。>

 1923(大正12)年、運動の過程で捕えられた総同盟の金正米吉は、「力なき故屈すれど」と題して述べている。

 <トウトウ落ち付く処落ち付いて資本主義の代弁者は無辜の良民に対し其者が只資本主義に対する反逆者たるの故を以て牢獄に呻吟するの光栄に浴せしめた。
 若輩の世間知らずの検事に圧迫されて遠慮勝ちな猫なで声の彼の貧弱な判官の無法極まる判決に何うして心から服する事が出来よう。今力薄くして是非もなく此強権に屈服する。併しながら其結果は官憲を呪ひ○○を呪ひ進んで○○を呪ふの炎と化し反逆の油をそそいで此不法を焼き尽くさずんば止まない。>

 これより前の1920(大正9)年、大阪鉄工所因島工場(前日立造船)に労働組合を組織するため総同盟から派遣された金正米吉は、当時の様子を次のように語っていた。

 <仕事の上でもいじめられる。従来は腕がよいのでいい仕事ばかりくれるのに、組合に入ったらバイト(旋盤)にもかからんような物ばかりまわす。もう組合はやめたといいだす者が出てきた。
 それでそんな馬鹿なことがあるかと、それの職長の家に行った。それも普通にいったのではこたえんから、夜の十二時、宿の厚歯の下駄をはいて何もいわず表からガーンガーンと蹴る。どなたです! どなたです! といっても黙ってガーンガーンと蹴り続ける。ビックリして家内がおきてくる。それから親爺を起こさせて話をした。
 お前は組合に入った者をいじめるそうではないか。俺は友愛会(総同盟)はよいと思って皆に勧めておるが悪いのならやめねばならん。一体どこが悪いのか。そのわけを聞かせろ、といった。
 いえ、別に悪いことはありません、というから悪くないならお前も入れといってやった。それからはよくなって、別子の銅山に行くときは服まで出してくれた。
 よくわかりました。これから楽をさせます。職長だから組合には入れんから寄付をするというて三円か五円だしてくれ、それからも毎月だしてくれるようになったし、そのあけの日から、組合員にもよい仕事をくれるようになってみんな安心して、ニコニコして仕事をしておる。>(『戦前の因島労働運動史』)

 金正米吉がオルグして築いた「大阪鉄工因島労働組合」の指導者たちは、近隣工場労働者の組織化に積極的な役割を果していた。海峡を隔てた愛媛県今治の繊維工場労働者たちへの宣伝活動では、伝説的な話が残っている。
 因島の指導者たちは劇場「今治座」を借りて『労働問題演説会』開催を計画、今治市内に3万のビラを配布、十数里の遠路から泊りがけで来る人もあるという前代未聞の大騒ぎになった。ところが、会場座主が急死したうえ、この騒ぎを憂慮した警察が宣伝隊と劇場主の出頭を求め、演説会開催中止を通告する。警察との談判も不調に終わり、演説会開催は絶望となった。このあとの状況を1923(大正12)年12月15日、総同盟の『労働者新聞』はつぎのように伝えた。

 <…交渉委員、野田、近藤、佐伯の三君の様子如何にと稲見氏(注:会場仲介者)訪問せしに、劇場主は資本家と警察の圧迫に堪えかね、切腹して申訳すと言いし故残念ながら劇場主を助けてくれとのこと、委員等は無念の涙を流す。時に稲見氏“誠に申し訳なし、何卒これを”と左の小指を根元まで切断して生血の滴るまま差し出す。近藤君(注:因島労組宣伝部長)も同じく小指を切断する。鮮血は畳を紅に染め劇的な凄荘な場面となり、互いに一言も発し得ず遂に演説会は中止のやむなきに至った。
 これによって一層刺戟を与えたことは、午後までに入会申込者五十名に至った事でもよく判明する。因島宣伝隊は来春を待ちて更に方法をかえ一大組合を組織する考えである。>

 戦後、金正米吉は総同盟会長となり国家公安委員を務めたが、金正会長の下で総同盟総主事だった造船総連の古賀専副委員長から直接聞いた話では、金正会長の国家公安員手当は貧乏所帯だった総同盟事務局員の給料になっていたという。

 
 わが国の労働運動史を紐解けば、こうした先人の艱難辛苦、獅子奮迅の活動に満ちているが、現代においてはもはやこれらの史実は寓話に過ぎないのだろうか。

今は昔の“ストライキの話”~その4

2007-08-25 09:28:29 | Weblog
 【太洋造船労組のストライキ】 ~変電所占拠

 「太洋造船」は「林兼長崎造船」の前身である。1963年「春闘」から「夏季一時金」へと続く長期闘争は、『造船総連史』の中でも特筆すべき闘いだった。当時私は、佐世保重工労働組合の職場執行委員で「前線オルグ」として貴重な体験をした。

 <春から続いている大洋造船労働組合の争議は、いまだに解決の目途が立っていない。
 1963年8月22日私は、その太洋造船本社工場通用門前でスクラムを組んでいた。
 …争議が紛糾の度を深め、会社の強硬な態度と巧妙な戦術に比べ、組合側の脆弱な闘争体制が露呈したため、上部団体の全国造船機械労働組合総連合(造船総連)が急遽傘下組合に支援オルグの動員を指令し、それに応じて佐世保重工労組職場執行委員、代議員総勢70名が応援にかけつけ、全国の傘下組合から派遣されたオルグ約50名と共に早朝6時30分からその通用門でピケを張っているのである。…道路から4㍍ほど八字型に入り込んだ開口4㍍の通用門前でスクラムを組む。門扉はチェーンで外側から固縛され、その直前には数本の孟宗竹で組み立てたバリケードが構築されている。>(拙著『労働組合は死んだ』:<>は以下同書より)

 <争議の直接の原因は、組合からの職員の脱退問題にあった。職員の組合脱退はそれまで動きがなかったわけではない。組合は工員420名、職員170名で構成され、組合代議員は38名中職員は8名で、これでは職員の意向が組合運営に反映されないという不満が内在していた。それが63年の春闘のこじれから表面化したのである。>

 会社の回答額を不満として組合は「残業協定」締結を拒否したが、会社はこれを無視して一部の者に残業・徹夜作業をさせた。組合は会社の不当行為に抗議するとともに悪質な組合員に対し権利停止等の処分を行なった。この処分を不服とする当事者を中心に事務職員による組合結成の動きが表面化、6月3日、ついに脱退者121名によって「職員組合友愛会」が結成される。この組合分裂に会社が関与していたことが判明し、闘争は激化していく。

 クライマックスは「変電所占拠」だった。会社が就労させようとする「職員組合」および下請け労働者約1000名と組合側ピケ隊約600が対峙する状態が、警察機動隊員約200名が見守る中で続いていた。8月22日は朝から雨だった。この日、膠着状態を打開するため会社側は、下請け労働者の剛の者約30名を先頭にピケラインの強行突破をはかったが、組合側に阻止されいったん退却する。この時の衝突で双方に多数の負傷者が出ていた。

 11時頃、小笠原造船総連組織部長がピケ隊の前に現れ、「これ以上負傷者を出すことは許されないので、不本意ながらピケを解いて就労させることになった」と告げた。われわれは事情が飲み込めないまま門扉の前の構築物を撤去し、チェーンを解いて開門させた。これが闘争本部の策略だったのである。約1000名の就労者が構内に入り終わる寸前、待機していた組合員数十名が怒涛のごとく構内に乱入し変電所に突進、占拠してしまったのである。不測の事態に具え見守っていた機動隊も茫然としていた。

 変電所を占拠され、送電をストップされた会社は、ついに強硬姿勢を崩し、話し合い解決を求めてきた。解決をめぐる労使交渉の中で、職員組合結成に会社が手を貸したことを認めて陳謝し、一企業一組合の原則に立ち返り9月30日までに新組織を結成することに合意し、三ヶ月にわたる熾烈な闘いはこうして幕を閉じたのである。

 この争議を指導したのは造船総連副委員長古賀専、組織部長小笠原務、佐世保重工労祖労愛会会長宮本広喜、太洋造船労組委員長宮崎忠八であった。造船総連の機関紙『造船労働』はこの闘いを次のように総括している。

 <こうして太洋労組は延214時間の全面ストライキ・ピケッティングなど文字通り血みどろの闘いの結果、組合の再統一を闘い取ったが、これは極めて高価な代償であり、およそソロバンにあわない闘いであった。
 しかし、太洋の仲間は、労働運動の中で何が一番大切であるかを、はだで感じとっていた。
 巧妙に仕組まれた分裂工作に気づくと、ソロバンをすてて闘いに起ち上がり、炎天のなかで討議し、豪雨にもめげずピケッティングをはり、喜んで徹夜のピケ破りの張り込みもした。この価値ある男たちの闘いが遂に会社を屈服させ、また「職員組合友愛会」の仲間を再統一にふみ切らせたのである。
 今こそ労働者は一体である。このことを闘いが熾烈であっただけに太洋の組合は強く実感としてくみとったに違いない。また、会社は組合に対する不当干渉が、いかに馬鹿げた、、高価なものにつくかを、これまた切実に感じとったであろう。とにかく一日もはやく統一を実現し、労働組合の本来の目的に向かって闘いを進められるよう期待するとともに、佐世保重工労組労愛会をはじめ傘下組合から寄せられた絶大な支援と協力に対し深く敬意を表したい。>


 私にとって「太洋争議」は、労働運動における実地教育となった。こうした体験を積み重ねながら、「労働者の権利}を守る運動が継承されてきたことを忘れたくないのである。


 

“閑話休題”~「こがんことのあるやろか」…佐賀北優勝

2007-08-23 12:09:42 | Weblog
 昨日午後はテレビにかじりついていた。郷里佐賀チームが一試合ごとにドラマを演じ続け、とうとう決勝進出、見逃すわけにいかなかった。広陵野村投手にさんざん苦しめられ、7回に2点追加点を取られたときはほぼ試合は決まったと思った。

 “奇蹟”=常識で考えては起こりえない、不思議な出来事・現象。(『大辞泉』)

 いまだに忘れられない“奇蹟”は、1985年8月12日の「日航機墜落事故」で、乗員15名、乗客509名中、4名の生存者があったことだ。識別できない遺体が400体以上あった惨事のなかで生きていた人がいたとは、どう考えても「不思議な出来事・現象」としか思えなかった。

 佐賀北高の8回裏は、まさにこの「日航機墜落事故」の“奇蹟”を思わせるような“奇蹟”というしかない試合展開だった。押し出しで一点取ったあとの打者が、今大会で2本のホームランを打っている副島。どうしてここで副島に回ってきたのか。中国古代哲学者『荀子』は、

 “偶と不遇とは、時なり”

と言ったが、これはよく言われる「時の運」のことで、この「時の運」にめぐり合ったのが副島だったというしかない。そして「時の運」を見事にものにしたのが彼のホームラン。

 首都圏の大学でスペイン語を教えていたが、いまは田舎に帰って95歳の母と暮らす同級生の友人に電話したら、「デイ・ケアに行っているお母ちゃんが、施設でも爺さんたちが大騒ぎしとったて言うとった」との話。今日は、帰ってくる選手たちの歓迎で大騒ぎだろう。人気の陰りが著しい野球界にあって、高校野球はいまも新鮮。しかも、恵まれない環境下で鍛え抜かれた公立校の佐賀北高選手たちの健闘に、心からの拍手を送りたい。

 参考:http://www.saga-s.co.jp/

今は昔の“ストライキ”の話~その3

2007-08-21 14:29:15 | Weblog
 【林兼造船労組】のストライキ ~酔って乱入した組合員を“酔い潰す”

 手元にある『造船総連史』をみると、1960年代後半までは毎年ストライキが実行されていたことがわかる。たとえば1960年春闘は「中央闘争委員会」の指令で4月17日定時から20日始業時まで全面スト、25日以降は各傘下労組の判断で全面スト。1966年春闘は4月16日から2時間以上の残業拒否、20日から24日全面ストと、ストライキを絡めた労使交渉が一般的だったのだ。1966年春闘で実行された「林兼労組」のストライキもその「中闘指令」に沿ったものだった。

 「林兼造船労働組合」は下関労組(約600名)を本部として、下関職員組合(約350名)、長崎労組(約1000名)を束ねる連合組織であった。労使交渉は下関本社で行なわれる。1966年春闘では、下関本部に造船総連組織部長小笠原務、長崎労組に私がオルグとして派遣された。

 周知の通り、「林兼造船」は太洋漁業(マルは)の造船部門で一族経営で知られ、当時の社長もその一族で、舌癌手術のあと垂れる唾液をいつもタオルで拭き取るという状態と聞かされていた。労使交渉は専務他の部下に任せ、ほとんど出席しない。そればかりか、労使交渉中も福岡あたりを飲み歩き、突然、長崎に現れたりする。移動の車には「ウイスキーのビンがごろごろしとる」との噂もあった。

 労使交渉はいつも難航した。この時も社長の突飛な行動に振り回され、交渉は進展せずストライキに突入、長崎の私は下関の小笠原と緊密な連絡を取り合い、その都度「闘争委員会」に報告せねばならない。しかし、正常な労使交渉でないだけに、交渉団に加わる長崎労組委員長からは“虚実”ない交ぜの情報まで伝わり、ストライキが長引くにつれ組合員の苛立ちは日増しに高まり、私はその状況を下関の小笠原に伝え、中途半端な妥協はしないよう注文をつけていた。そして、十分な成果を得られないまま、夜間突然、「明朝7時をもってストを中止し、明日より就労する」との指令が来たのである。

 長崎だけストを続けるわけにはいかない。スト中の数日間、闘争委員も私も組合事務所の机や長椅子での半仮眠状態が続き、体力の疲労もピークに近かった。組合の要求はごく世間並みで、造船総連加盟組合中の平均賃金をみれば、「林兼労組」は中位以下だった。会社が要求を呑めない理由が組合員に通じるわけがない。「スト中止」の連絡を受けた組合員は怒った。

 私は「スト中止」指令を受け、「スト解除」の手続きのため午前中はかかるとみて、会社に「就労を午後にする」よう求め、社宅広場で全員集会を開き、下関オルグ小笠原からの報告をそのまま伝達した。組合員は騒然となった。私自身が納得できない「妥結」結果なのだから、組合員が憤慨するのも無理はない。

 騒ぎが収まらないなか私は、一呼吸おくとマイクを握り直し次のように訴えた。

「正直言って、納得できないのは皆さんだけではなく、今回の妥結方針には私も納得できません。しかし、考えてほしい。ストライキは戦争と同じです。戦争には必ず勝ち負けがある。負けたときは退却しなければならない。涕を呑んで退却し、陣形を整え次の反撃に備える。それが戦争です。
 私は口惜しいが、本部から“退却”の命令があった以上、皆さんとともにいったん退却し、次の闘いで必ず勝利できるよう万全の体制を組みたいと思う。
 どうか、いま皆さんの胸にある怒りを次の闘いに生かしてほしい。午後から就労していただくわけですが、くれぐれも安全には気をつけて下さい」

 いつしか私の目から悔し涕が流れていた。いきり立つ組合員がいくらか沈静化したこのあとも、「闘争委員」による説得は続いた。 

 集会のあと「闘争委員会」を開いている組合事務所に、「書記長を出せ!」と言って下駄履きの男が乱入してきた。書記長が出て応対していたが、ますます険悪な状況になっている。一杯呑んでいるらしい。やむなく私はその場に出て行き、「本当に申し訳ない」と男に頭を下げ、「ちょっと私に付き合ってほしい」といって、組合事務所の近くにあった一軒の食堂に男を連れ込んだ。まだ昼前で客はなく、私は焼酎を二杯注文して男に勧め、呑みながら語った。四十がらみの男はグレーンの運転工で、憂さ晴らしに呑んだ勢いで怒鳴り込んだのである。酒には自信のあった私は、なにはともあれ酔っ払いは“酔い潰す”に限ると判断したのだ。ニ、三杯呑んだ彼は酔いつぶれて眠ってしまった。

 ストライキの戦略・戦術については、クラウゼヴィッツの『戦争論』に加え、造船総連副委員長の古賀専が戦前からの体験を踏まえ、組合機関誌『労働青年』に「労働組合主義の実践」と題して連載し、それが教科書になっていた。私の行動指針もそれに由来すると言ってよかった。あとで触れるが、ここ長崎では、私にとって原初的なストライキがあったのである。

今は昔の“ストライキ”の話~その2

2007-08-19 10:53:19 | Weblog
 【四国ドック労働組合】のストライキ ~闘争資金の“工面(くめん)”に知恵

 香川県高松市にある「四国ドック」は三井造船系列の中規模造船所で、当時(1965年)、従業員はおよそ400人、ここには全造船(中立労連系)加盟の組合と造船総連(同盟系)加盟の組合が共存していた。私が所属する造船総連の加盟組合「四国ドック労働組合」は組合員約100名、佐々木喜三郎委員長の指導の下よくまとまった組合だった。佐々木は長崎造船短期大学(現長崎総合科学大学の前身)出身の技術者で、三井造船から派遣された東大出の社長も一目置く人物だった。

 ある時の労使交渉の席上、社長外数名の会社側委員を前に、進展しない交渉にいらだった佐々木はテーブルを叩いて吠えた。

 「ぐずぐずせんと、腹くくったらどうですか、社長! 全造船の方はどうでもええですが。世間並みのことしてくれりゃ、おれたちゃそれでいい言うとるんです。難しいこたなんもないでしょうが!」

 あとで知ったが、この時、社長は娘を亡くして一週間、喪に服している最中だった。佐々木はそれを承知で、情実にとらわれず厳しい交渉を続けたが、これを誠実に受け止めた社長もみごとだった。

 私は「四国ドック労組」の「オルグ」(注・参照)を担当し、「残業拒否」や「ストライキ」を実施したことがたびたびあった。この当時は夏・冬一時金闘争、春闘とも一企業内での解決は不可能で、社会的水準なり産業別ごとに設定した基準を見定めながら傘下組合は共闘していた。私たち中央執行委員は主に中小労組に手分けして張りつき、「中小共闘会議」で決定した方針に従って連携をとりながら「オルグ」をするのである。

 注〔オルグ〕:組合や政党の組織拡充などのため本部から派遣されて、労働者・大衆の中で宣伝、勧誘活動を行うこと。また、その人。〔オルガナイザー〕。(『大辞泉』)

 ほぼすべての労働組合は、組合費の中の一部を「闘争資金」として積み立てている。大きな「ストライキ」をしていない大手労組には数億円の「闘争資金」が留保されている例も珍しくないが、「四国ドック」みたいな小規模組合の「闘争資金」は帳簿上の単なる勘定科目に過ぎなかった。「ストライキ」に突入すると、「スト」に参加した組合員の賃金は貰えない。潤沢な「闘争資金」を持つ組合なら、その資金を不払い賃金に当てるが、中小労組ではそうはいかない。減収を覚悟で「ストライキ」を実行するのである。

 「四国ドック労組」の組合事務所は、会社の傍にある6畳、4畳半に台所のついた「社宅」の一棟にあった。執行委員会もぶち抜き十畳ほどの畳の間で開く。「ストライキ」中でも労使交渉は行なわれるから、執行部は通常、夜8時頃まで組合事務所に詰めている。もちろん、大手組合と違って食事は自前である。暇つぶしにやっている囲碁、将棋、花札の勝負で、負けた者が金を出し合い、材料を買ってきて勝った者が調理を担当する。実に合理的な組合運営ではないか。

 これが「賭博行為」に当たるかどうか知らないが、もし警察に捕まるとすれば仲間だった私も同罪で捕まっていただろう。それにしても、油まみれの座布団に坐って、その日の食い扶持を賭け真剣に囲碁、将棋、花札に取り組んだ「四国ドック労組」のオルグが懐かしい。種子島出身の魁偉な人物佐々木喜三郎と音信が途絶えて久しいが、彼の豪快な笑い声が今も耳底に鮮やかに残っている。

今は昔の“ストライキ”の話~その1

2007-08-17 14:22:32 | Weblog
 わが国の労使間で“ストライキ(同盟罷業)”がすっかり姿を消したのはいつ頃からだろう。私が体験したストライキの最後は、1979年末から翌年初頭にかけて行なわれた都合592時間、日数にして24日余のストで、すでにストライキが珍しくなっていた社会情勢のなかで、この長期ストは全国的に話題にもなった。多分、ストライキが見られなくなったのは、1980年代以降のように思われる。

 欧米では今もストライキが労働者の「武器」として行使されているらしいが、それでも随分少なくなったという。

 参照:「ストライキ」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AD

 わが国で歴史に残る労働争議といえば、まず「三井三池争議」であろう。

 参照:「三井三池争議」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E4%B8%89%E6%B1%A0%E4%BA%89%E8%AD%B0

 「総資本対総労働の闘い」といわれたこの争議は「総労働」側の「敗北」に終わり、時を経ずして「敗北」のダメ押しともいえる「坑内大惨事」の発生によって、わが国労働運動は「労使協調路線」派が勢力を強め「右傾化」の道をたどることになる。

 「昔陸軍、今総評」といわれ、戦後のわが国労働運動を主導した「総評」の太田薫議長は、「ストライキが出来ないようじゃ労働組合とはいえない」といって憚らなかったが、その点に関する限り私も同意見だった。こんにちでも「春闘」「一時金闘争」という言葉が使われているようだが、労働者の利益代表である労働組合の「闘う」姿はどこにも見当たらず、「労使交渉」は一種のセレモニーになっている。国際的に認知された「KAROUSI(過労死)」がなくならないばかりか増加傾向にある一事をとっても、労働組合の力量がいかに衰微しているかが知れるだろう。

 こう言えば、「ストライキ至上主義」とか「労使協議」を軽視しているとみられそうだが、徹底した「労使協議」が「ストライキ」の前提条件であるのはいうまでもない。ただし、右傾化した労働組合の幹部は、生半可な知識で経営に関し「深入り」し過ぎ、結局、使用者側の「思うツボ」にはまっている。会社経営の結果責任は使用者にあるのだから、「労使協調」を看板にしているからといってその責任まで分担することはない。労働組合の指導者はあくまでも「労働者の利益代表」であって、社会的水準の生活権をどう確保するかが任務なのだ。その任務を果すためにこそ憲法28条の「団結権」は存在する。

 「ストライキ」が出来ないようなら、「残業拒否」つまり労働基準法第36条で規定する「時間外及び休日の労働」の協定を締結しないという戦術もありえる。「残業拒否」は「ストライキ」ほどの威力はないが、会社に与えるダメージは意外に大きい。リストラと称する“首切り”を安易に認め、かわりに「派遣労働」をはじめとする安上がりの「非正規社員」を補充して大きな利益を計上している企業の横行は、労使間で対立する利害をつねに矮小化し、本来担うべき労働組合の社会的責任を放棄してきた結果にほかならず、それは憲法が保障する「団結権」の核心ともいうべき「ストライキ権」あるいは「三六(サブロク)協定拒否」を事実上放棄してきた結果でもあるのだ。

 「労使対等」といっても、「労働法」もろくろく読んでいない“会社推薦”の組合幹部では、労使の勝負は最初から決まっている。東京オリンピックを境に、職場における組合役員選挙が「公明正大」に実行された企業内組合は少ないだろう。企業による組合支配が完結するのはおよそ10年後の1975年頃である。


 「ストライキ」に関し概括してみたが、これから述べる体験談は現状労働運動に資することを願ってのものではない。およそ40年前の出来事をたどりつつ、ILO (国際労働機関)さえ危惧するわが国の労働現場を見つめなおしてみたいのである。記憶が薄れている部分もあるが、できるだけ事実を忠実に、許される範囲で実名で記録しておく。(つづく)

“昭和天皇の戦争責任”をあらためて問う

2007-08-15 11:19:24 | Weblog
 今日は62回目の“敗戦の日”である。小学校五年生だった私は、士官学校を胸部疾患で撥ねられたあと、小学校の代用教員をしていた兄があわただしい動きをしていたことと、とても暑い日であったことだけ鮮明に憶えている。「戦争に負けた」ことに対する大人たちの動揺など、戦局の逼迫感に乏しい田舎の子供に分かるはずもなかった。

 「玉音放送(「音声」をクリック)」(http://www2.tokai.or.jp/isya/souko/gyokuon.html)を聞いて、天皇の言葉を正しく聞き取れた人は少ないだろう。文面を目にしながら耳にしても、唯一「忍ヒ難キヲ忍ヒ」だけが強く印象に残って、重大事局のこの時、天皇はいったい何を言いたかったのか、大方の人は理解に苦しむことだろう。いわゆる「国体を護持」(「皇祖皇宗」が二回出て来る)しつつ「ポツダム宣言」を受け入れるということで、「主体」はあくまで「天皇」で、戦争の惨禍に晒された国民にふれつつも、ここに至らしめた不明を恥じる言葉はない。

 しかも、米英戦は「帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾(注:心から願う)スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土を侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス」と述べたが、吉田裕著『昭和天皇の終戦史』(岩波新書・以下<>は引用)には次のようにある。

 <…班内に強硬な主戦派をかかえていた陸軍の参謀本部戦争指導班の「大本営機密戦争日誌」は、対米英開戦を決定し武力発動の時期を12月初頭と定めた11月5日の御前会議の前後における天皇の言動を、「御上(おかみ)のご機嫌うるわし、〔参謀〕総長、すでに御上は決意遊ばされあるものと拝察し安堵す」「御上もご満足にて、ご決意ますます[きょう]固を加えられたるがごとく拝察せられたり」などと記録している。>

 さらに、天皇は東条英機内閣を信任し、強く支持していた。玉音放送における天皇の言葉は、「15年戦争」の史実に照らし決して真実を語るものではなかったといえるだろう。

 敗色濃厚となった1945年初頭、近衛文麿は本格的な戦争終結工作に着手する。本書には興味深い話がある。

 <45年の1月25日には、近衛は京都宇多野の別邸にある陽明文庫に重臣の岡田啓介、海軍大臣の米内光政、天皇家とゆかりの深い仁和寺の門跡岡本慈航の三人を招き、敗戦後の事態について協議した。協議の内容は必ずしも明確ではないが、高橋紘・鈴木邦彦『天皇家の密使たち』によれば、この場で、天皇の退位と落飾(出家)が話しあわれ、仁和寺の側からは「落飾した天皇を裕仁(ゆうじん)法皇ともうしあげ、門跡として金堂にお住みいただく計画」が示されたという。退位した天皇の事実上の幽閉計画である。>

 この会合から一ヶ月も経たない時期に、戦局打開の方策について、天皇が7人の重臣から意見を聴取した。ここで近衛は、吉田茂と植田俊吉の協力を得て長文の上奏文を作成し、天皇の前で読み上げた。

 <「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候」として敗戦をはっきりと予言し、敗戦にともなって「共産革命」が発生し、天皇制が崩壊するという最悪の事態を回避するために、直ちに戦争の終結に踏み切ることを主張したのである。近衛のこの上奏に対し天皇は、「もう一度戦果を上げてからでないとなかなか話はむずかしいと思う」と述べて、近衛の提案に消極的な姿勢を示した(『木戸幸一関係文書』)。天皇はまだ、戦局の挽回に期待をつないでいたのである。>

 昭和天皇の「戦争責任」については、いまなお「アイマイ」なままというのが実態だろう。「玉音放送」に二度でてくる「皇祖皇宗」の言葉からも推察できるが、敗戦を前に昭和天皇と彼の取り巻きたちは「国体護持」を至上命題として動き、「戦争責任」はすべて軍部に押し付け生きのびたといえるだろう。

 「防衛庁」は「省」に昇格され、沖縄をはじめ各地の米軍基地は縮小どころか強化され、自衛隊の装備は世界有数の戦力に育てられ、日米軍の一体化はますます顕著になっている。「平和憲法」の形骸化は著しく、その整合性が保てなくなって「憲法改正」があたかも「道理」にかなうような世論が醸成されつつある。このことと、「昭和天皇の戦争責任」論がないがしろにされてきたこととは決して無縁とはいえまい。

 『毎日新聞』今日の「余禄」は、東条英機の獄中回想録を引きながら「ジャーナリズム」の使命についてふれている。

 「8月15日・余禄」:http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/yoroku/

 「…▲米デモクラシーと同じく中国のナショナリズムについても戦後の後知恵の何分の一かの認識が軍部にあれば満州事変以来の歴史は違ったろう。ならばその時、世界の現実を正しく伝えるのが使命のジャーナリズムは何をしていたのか。問いは私たちジャーナリストにはねかえってくる▲戦没者の魂を鎮め、平和を静かに祈るきょうである。だがジャーナリズムは自らに問わねばならないことがある。後知恵では取り返しのつかない今を、この世界を、私たちは正しく伝えているだろうか?」

 「昭和天皇の戦争責任」を改めて問い直すことも、「後知恵」としてではなく「今」をみつめるジャーナリストたちの重要な任務ではないのか。

 

“谷崎潤一郎”の粋な墓~「お盆」考

2007-08-13 09:40:57 | Weblog
 今日から「お盆」、テレビでは恒例の「里帰り」放送をくり返している。佛祖・釈尊の教えにはない中国伝来の「偽経」に基づく伝承文化らしいが、これはこれで、自分の命の由来に直結するご先祖さまへの畏敬と感謝の気持ちを表する機会と捉えれば、決して軽んじられるべき行事とはいえまい。

 「盂蘭盆」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%82%E8%98%AD%E7%9B%86
 
 古い話ばかり持ち出すようだが、10年前に『毎日新聞・日曜版』に連載されたエッセイ「寺おこし心おこし」をもとに出版された小川英爾著『ひとりひとりの墓』(大東出版社)には、“現代墓事情”が実例をあげて語られている。著者は新潟県にある日蓮宗寺院僧侶である。

 小川英爾師は1989年、跡継ぎ不要で宗派に関係なく永代供養をする集合墓『安穏廟』を建てる。その端緒は次のような社会現象を受けてのことである。

 <墓問題には核家族化や少子化に加え、離婚した女性やシングルの女性、あるいは夫とは別の墓がいいと望む女性が墓を求めにくい、継ぎにくいという事実が潜んでいることにお気づきだろうか。これは墓が「○○家之墓」として、家を単位に代々継承されていくのが普通と考えられていることからくる。だからこうした女性たちや子供がいない夫婦、子供が娘だけの夫婦にとって、墓の継承者がいないのは切実な悩みになってしまう。>

 墓問題は他人事ではなく、私の父母(先祖)の墓も例外ではない。田舎にあった先祖の墓が、兄夫婦の一存で息子(私の甥)が住む隣県に移設され、ここ10年余、他の弟妹は墓参りが出来ないままなのだ。今は市内にいる兄の家に昔からの仏壇があるから、そこでお参りは出来るからまだいいが、先の短い兄がいなくなったら当然、仏壇は息子の所に移動し、ご先祖様へのお参りもかなわなくなる。

 こうした事情は、こんにち珍しいことではあるまい。田舎にある一族の墓参りをして驚くのは、小高い広い墓域の大部分が「放棄墓」で、墓地の麓の田んぼを整地して新設された墓碑だけが目立ち、「都市と地方」の問題がここにもはっきり現れている気がする。小川師の『安穏廟』には個人だけでなく寺院関係者の見学が絶えないと書いてあるが、その後、これにならった「集合墓」があちこちの寺院に出来たらしい。

 これと類似する葬送法に『葬送の自由を進める会』に代表される「自然葬」がある。

 「葬送の自由を進める会」:http://www.shizensou.net/

 「自然葬」:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E8%91%AC

 こうした従来の「シキタリ」とは違う「葬送」の増加は、いずれ「盂蘭盆会」などの宗教行事を衰退させ、人びとが求める「救い」や「煩悩からの解放」を説く宗教本来の役割に目覚めるきっかけとなるかも知れない。

 キリシタンの地・平戸、黒島が望める景勝地に広い市営墓園があって時々訪れるが、ほとんどの墓標が「○○家之墓」になっている。京都東山の法然院を訪ねた時、たまたま谷崎潤一郎の墓に遭遇したが、ただ一文字雄渾に「寂」と刻まれていた。ひっそりと佇む法然院にふさやしく、谷崎潤一郎の人間性を髣髴させる一文字だとしばし見入った記憶がある。

 東京・府中市にある“多磨霊園”には著名人の墓があって有名だが、著名人を圧倒する驚くほど豪華な墓もある。水上勉の『骨壷の話』(集英社)には「裏の土蔵でもあけるみたいに、重い扉を押し開け」て入る沖縄の墓の話がでてくるが、これらは例外として、一般庶民の墓にたいする通念は大きく変わっていくのではないだろうか。

 ちなみに“多磨霊園”に眠る著名人の名簿をあげておく。公園になっているから桜の時期に訪れると楽しい一日が過ごせる。

 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/list.html