耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

“第2回911真相究明国際会議”~11月3日東京で開催

2008-10-30 11:30:54 | Weblog
 「9.11」をきっかけに「グローバルピースキャンペーン」を立ち上げ、『911ボーイングを捜せ』『911の嘘をくずせ』『テロリストは誰?』の日本語版を制作、配給するなど、活発な平和運動に取り組んでいる“きくちゆみ”さんのブログは前にも取り上げたことがあるが、11月3日「第2回911真相究明国際会議」(三宅坂ホール=10:00~20:00)開催を前に、去る28日、参議院会館で記者会見と国会議員向けブリーフィングを行った。メディアからNHK、読売、共同通信など10社(朝日、毎日などはなぜか欠席)が会見に臨み、唯一『東京スポーツ』が今日以下の記事を載せたという。

<「9.11は陰謀か」

 犯人はテロリストではない!「911真相究明国際会議」の記者会見が28日、都内で行われ、2008年のノーベル平和賞候補で「9.11事件は謀略か」の著者・デヴィット・レイ・グリフィン博士(72)が講演した。
 同会議は2001年9月11日の米国同時多発テロがアルカイダによる犯行だとする米国政府公式見解に疑問を投げかけ、その真相を究明するもの。27日の秋田を皮切りに、11月3日の東京まで全国5ヵ所で開催される。
 ノーベル平和賞候補には「デヴィット・レイ・グリフィン博士と911真相究明運動」がノミネートされたが授与されたのはアハティサーリ前フィンランド大統領だった。
 グリフィン博士は記者ら50人を前に「火災で鋼鉄が溶けるなんてことがあるでしょうか。爆薬が使われなければ絶対に無理です」などとして「9.11」はブッシュ政権が計画したものだと断定。さらに「たくさんの学者や建築家、消防士などが真相究明運動をしている。いまや結論ははっきりしている」と力説した。>

 大手メディアはなぜ報道しないのだろうか。前回の記事「チリのクーデター」の真相が明らかになるのに20年近くかかったことを思えば、巨悪の罪はほとぼりが醒めるまであらゆる手段を使って隠蔽されるものなのだろう。それにしても、「真実」を追究する責務を持つジャーナリストたち(とくに大手メディアに属する)の精神は萎え果ててしまったのか。

  
 “きくちゆみ”さんのブログ10月27日に「9.11」の新しい映画(ダイジェスト版)がアップされている。これをみれば、「9.11陰謀説」がますます信憑性を高めるだろう。

 http://kikuchiyumi.blogspot.com/

今の“世界恐慌”はチリのクーデター(1973・9・11)が発端!

2008-10-28 11:41:00 | Weblog
 民主的な選挙で選ばれたチリのサルバドール・アジェンデ政権がクーデターで倒されたのが1973年9月11日。中南米では「9.11」といえばこのクーデターを言うそうだが、米政府が公開した秘密文書には、政権転覆前後の秘密工作に当時のキッシンジャー大統領補佐官(ベトナム戦争の和平交渉功労者として1973年ノーベル平和賞受賞!)が深くかかわっていたことが記されている。クーデター後のピノチェト軍事政権のチリが、ミルトン・フリードマンを教祖とする「シカゴ学派」(新自由主義者たち)の実験場にされたのは有名な話である。ピノチェトの経済顧問に送り込まれたのが「シカゴ学派」だ。(その詳しい経緯をやさしく解説したサイト(『状況20~21』)は最後にリンクさせていただいた)
 
 クーデターの経緯を概観してみよう。
 
 1973年8月23日、アメリカの手引きで、カルロス・プラッツの後任として陸軍総司令官に就任したアウグスト・ピノチェトが、9月11日クーデターを敢行し軍事政権を樹立する。ピノチェトは16年間にわたり強権政治を行い「独裁者」として君臨するが、一説には10万人を超える罪なき人民を虐殺したといわれる。誘拐・投獄に伴う容赦のない拷問が行われ、これを止めるよう申し入れたキリスト教系指導者に対し「あんたがた(聖職者)は、哀れみ深く情け深いという贅沢を自分に許すことができる。しかし、わたしは軍人だ。国家元首として、チリ国民全体に責任を負っている。共産主義を根絶するために必要なのだ。祖国の幸福のために必要なのだ」と拷問を肯定した。さらに、海外に亡命したアジェンデ政権の要人を次々暗殺。前任の陸軍総司令官プラッツも1974年、ブエノスアイレスで殺された。クーデターを手引きしたアメリカはピノチェトの「独裁恐怖政治」を黙認していたのだ。

 参照:「チリ・クーデター」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC

 アジェンデ政権を支えてきたフォルクローレ(民族音楽)のシンガー・ソングライターで演劇人、舞台演出家でもあった国民的人気の“ビクトル・ハラ”もクーデターの犠牲者の一人だった。「ビクトル・ハラの最後」にはこう書かれている。

 <クーデタの当日(9月11日)、ビクトルは工科大で行われる内戦とファシズムの恐怖に関する特別な展示会のオープニングで歌う予定で、そこではアジェンデが演説する予定であった。…
 ビクトルは労働連合の要請にしたがい、自分の職場である工科大に急いだ。しかし工科大は人民連合の拠点として軍により目をつけられていた場所であった。…
 工科大には当日の朝、約6000人の学生と教師がいた。外は危険なため学内にいた人々は学内に一晩とどまった。その間ビクトルは歌ったりして人々を元気付けた。外では一晩中銃音が続いた。翌朝戦車による攻撃が始まった。戦車が突入し、その場にいた人は暴力的に連れ回され、まずチリスタジアム(注:現在の「ビクトル・ハラ・スタジアム)に収容された。
 
 ビクトルは軍人に認められると手荒い扱いを受けた。14日にはビクトルたちは国立競技場に連れて行かれた。そこでビクトルは最後の詩を書き、それは多くの仲間により書き写され外に持ち出された。そしてそこでビクトルは正気を逸した凶暴な軍人により歌えるなら歌ってみろと罵倒され、これに対し暴行で疲弊した体に鞭打ってスタジアムに響く大きな声でVENCEREMOSを歌い、叩きのめされたのであった。

 ビクトルの遺体は一度外に放置され、これは16日早朝近くの労働者街のビクトルを見知っていた人により確認されている。ビクトルは23日の41歳の誕生日を目の前にして15日に殺害されたのであった。…

 このような事態を歓迎した日本の作家がいた。曽野綾子である!>
 
 「ビクトル・ハラ」:http://www.geocities.jp/jarastkyj/

 ついでに、『マスコミに載らない海外記事』(10月25日付)にあった「サルバドール・アジェンデの遺言」を抄録しておく。(アジェンデはチェ・ゲバラとともに戦った中南米解放の戦士だった)

 <間違いなく、私にとってこれが皆様にご挨拶する最後の機会になるでしょう。空軍がラジオ・ポルタレスとラジオ・コルポラシオンのタワーを爆撃しました。私は恨みの言葉は申しませんが、失望はしています。私の言葉が、誓約を裏切った人々に対する、道徳的懲罰となりますように。チリの兵士たち、名ばかりの最高司令官、自ら海軍司令官に任命したメリノ提督、そして昨日政府への忠誠を誓ったばかりの卑劣な将軍、自らをカラビネロス[国家警察軍]長官に任命したメンドーサ、こうした事実を前に、私がなすべきことは、労働者の方々にこう申し上げることです。私は辞任しない!

 (中略)

 わが国の労働者の皆さん、私はチリとその運命を信じています。裏切りが優勢になろうとしているこの暗くつらい時期を、チリの他の人々が乗り越えてくれるでしょう。よりよい社会を建設するために、自由な人々がそこを通るように、立派な大通りが、意外に早く、再び開かれるだろうことを忘れないでください。

 チリ万歳! 国民万歳! 労働者万歳!

 これが私の最後のご挨拶ですが、私の犠牲は無駄にはならないと確信しています。少なくとも、重大な罪や臆病な裏切りを懲罰する、道徳的教訓になると確信しています。

 サンティアゴ・デ・テレ

 1973年9月11日>

 『マスコミに載らない海外記事』:http://eigokiji.justblog.jp/blog/2008/10/1973911-3756.html
 

 「新自由主義」の教祖フリードマンはチリでの実験の「成功」とされる怪しげな物語を踏み台にしてその権威を高め、ノーベル経済学賞を受賞し、ついにレーガン政権においてその教義を米国でも実施させることに成功する。以来、ウォール街・IMF・米国財務省は、フリードマンの教義を強制的に世界に広め、現在の世界の惨状を生み出すのだ。アジェンデの遺言どおり、「新自由主義」の教祖フリードマンの実験は失敗し、クーデターの首謀者ピノチェトは断罪され、その後チリは解放される。チリのみか今や中南米諸国がアメリカの呪縛から解放され、格差社会と貧困層の救済に政治の手が差し延べられている。


 株価の暴落に歯止めがかからず、「筑豊の財閥」麻生太郎は衆議院解散を先延ばしするらしい。いよいよ「世界恐慌」が本物になって、米国を支え続けてきた日本の膨大な債権が紙クズ同然になろうとしているこんにち、世界の近・現代史をひもとくことには格別の意味がある。「新自由主義」の最初の実験場は1973年のチリだが、次いで1979年英国サッチャー政権、1981年米国レーガン政権、1982年日本中曽根政権へと続く。われわれの記憶に新しい「規制緩和」「民営化」をお題目にした「構造改革」路線の驀進である。その後、小泉純一郎=竹中平蔵が仕上げた「新自由主義」の負の遺産をこれから国民は否応なく背負わされるわけだ。

 
 ここでは以下に、その足跡を簡明に解説した二つのサイトをリンクさせていただいた。とくに「フリードマンとピノチェトは二度死ぬ」という『状況20~21』(2007年1月執筆)は長文だがぜひご一読をお薦めしたい。

 『神野直彦「日本の社会民主主義の未来」』:http://www5.sdp.or.jp/event/branch/080222_youthseminar_jinnno.htm

 『状況20~21』(太田昌国):http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/2007/pino.html

“黒大豆オーナー制度”~「枝豆収穫祭」に参加して…

2008-10-26 10:26:33 | Weblog
 近く佐世保市と合併する車で1時間ほど北にある江迎町で、「黒大豆オーナー制度」というのをやっており、昨日、「畝の抽選会及び枝豆収穫祭」が現地農家であった。5年前から町の後援で実施されている行事らしいが、テレビ放送を観て初めて申し込み友人二人と一緒に参加した。遠くは北九州、長崎市からの参加者もあり総勢100名ほど集り賑わった。

 実は今年、“サカタのタネ”から取り寄せた「丹波献上黒大豆」を作ってみたのだが、栄えるだけ栄えたものの実つきが悪く失敗し、地主のおばさんに聞いても分からずその原因が何か探究している最中に、この「黒大豆オーナー制度」を知ったわけだ。参加して大いに勉強になった。やはり、“俄か百姓”は実地で学ばないと身につかない。

“黒大豆”畑での「枝豆」収穫


 「畝(うね)の抽選」とは、長さ約40メートルの畝が64条あって、抽選で引いた番号の畝に名札を立て「オーナー」になるのである。説明では、今収穫すれば「枝豆」として食することができ、次回12月6日の収穫祭で「黒豆」が採れるとのこと。その間は自由に来てもらってその時々の収穫を楽しんで欲しいという。畑に行って見るとびっしり詰まった「黒大豆」がたわわに実をつけていた。自分の畑との違いも一目瞭然。「ナルホド、ナルホド」と頷きながら実った豆をハサミで収穫し、終って集合写真を撮ったあと、農家からブロッコリーや落花生のお土産をもらい、近くの白岳高原レストランで「しし(猪)カレー」の昼食と栗のつかみ取りなど接待を受け、大満足で帰ってきた。

 栽培法について質問したら、蒔いた時期と連作ではないかと言われた。「黒大豆」は、タネの蒔き時が大切で、ここでは7月上旬が適期。また、豆類を連作すると出来が悪いという。考えてみると、蒔き時が一ヶ月も早く、ソラマメのあと地に作っているのが不作の原因とわかった。来年はここの「黒大豆」で再挑戦してみようと思う。


 主催者の挨拶にもあったが、“大恐慌”到来と噂される世情にあって、“農”への関心が一段と高まっているようだ。参加者は年々増えているといい、子供連れの若い夫婦も多かった。中心街から随分山手に入りこんだ農家の人たちが、智慧を出し合って取り組んでいる行事だが、地域の人が協力し合って生き生きしているのが印象的だった。イノシシや野うさぎの被害に悩まされると言いながら、「安全・安心」な食の生産に取り組む人たちに励まされた一日だった。


 『中医営養学』(山崎郁子著/第一出版)で「黒大豆」の項をみてみよう。

・性味=平、甘
・帰経=脾、腎経
・効用=血をよみがえらせ、余分な水分を取り除き、解毒する。腎臓病やリウマチ、喘息などによく、病後や虚弱な人の滋養食品として用いる。

 たびたび取り上げるが、『陰陽五行』の木・火・土・金・水で“色”は青・赤・黄・白・黒、“五臓”は肝・心・脾・肺・腎と配当されている。したがって“黒”は“腎”に当り、昔から一般に昆布や黒大豆は腎臓によいと言われてきたわけだ。肝臓には“青”い食物、心臓には“赤”い食物、脾臓(胃)には“黄”色い食物、肺には“白”い食物と大まかに憶えておいて食生活に活かすのも古人からの智慧といえよう。

昔の“同志”~いま「渡り職人」に久しぶりに再会

2008-10-24 13:21:00 | Weblog
 昨日、昔の同志だった旧友“F”君が久しぶりにわが家にやって来た。彼は70歳を過ぎた現在も「溶接工」の現役である。これにはちょっとしたわけがある。

 わが国が近代化を遂げる明治の頃から「渡り職人」というのがいた。腕に磨きをかけた職人が、稼ぎの多い職場を渡り歩いたわけだ。「ぜひうちに来てくれ」と声がかかる場合、あるいは自分で「利き腕」を売り込んで少しでも多い稼ぎを得る場合とがあった。あちこちから「ぜひうちに来てくれ」と懇請される“F”君は現代の「渡り職人」である。彼は「特殊溶接」の優れた技術を持っている。鉄の溶接だけでなく、ステンレスその他特殊鋼の「溶接技術」だ。これは佐世保重工業に在職していた当時身につけた技術である。根が実直で負けず嫌いな彼は、会社がLNG(天然ガス)タンクの試作などをやっていた関係で、その技術をたっぷり習得していた。

 一時期、職場の熱い推薦をうけ労働組合の職場執行委員に選ばれた。「オレは中卒でそんな器ではない」と断っていた彼だが、執行委員になってから労働法などを自学自習し、会社側との交渉も組合執行部の中でぴか一になった。“労使協調”至上主義が職場を支配し、私たち同志は激しい「アカ」攻撃をうけたが、彼は一貫して私たちの側に居つづけた。そのため1978年の大合理化以降、優れた技術を持ちながら不本意な出向、昇給・賞与の差別などつらい仕打ちを受けた。そんな昔話も出たが、「渡り職人」“F”君の体験は、こんにち社会問題になっている「ワーキングプア」などの“労働”に一石を投じる内容を含んでいた。

 “労働”に関しては以前にも書いた(07.5.10『“労働とは何か”を教わった今村仁司氏逝く』:http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070510)が、“F”君からいまなお「渡り職人」が健在であることを聞かされ少なからず驚いた。佐世保重工を退職(1987年)後、最初に声がかかって働いた時の日給は14,500円だったらしい。現在の日給は30,000円を超えるという。ここには「正規雇用」か「非正規雇用」かの垣根はなく、雇い主は“労働の価値”に見合った賃金を支払う。雇用主との間に気に入らないことがあると、彼はたびたび「そんなら辞める」と尻をまくった話をしたが、これは“労働”の主導権が労働者にあることを示す。“労働”を語るうえからこれは、“特殊技能”を持つ“F”君の例外的な話とみるべきだろうか。

 彼は某社であったこんな話をした。彼は長男に自分の技術を伝授し、しばらく行動をともにしていたが、その日昼食時間になっても長男ほか数名が戻ってこない。不審に思って会社事務所に聞くと知らないという。やむなく彼らの現場に行って見るとまだ仕事中だ。そばにいた責任者に「何をやっとるのか」と聞くと、「昼までに完了する仕事が遅れたので続行している」という。「そんならなんで事務所に連絡をしないのか」「事務所には言っています」。そんな埒の明かないやりとりで頭にきた“F”君は事務所に戻って副所長に食ってかかった。

「この会社では従業員がどこでどんな仕事をしているのか把握していないのか」
「そんなことはありませんよ」
「あんたは昼休み時間に仕事させているのを知らんかったろ」
「いや、それは聞いてなかった」
「それでよく管理者が務まるもんだ!」

 そう言って彼は副所長に自分の体験を語った。「俺が昔いた造船所で連絡ミスのため数人の死者を出した。隔室内への梯子を撤去し、別の退去口を周知していなかったため、たまたま火災になった室内から逃げることができなかったのだ。俺はこんな悲劇を二度と起こしちゃいかんといつも思ってきた。不測の事態に備え、作業員が適切に対応できるよう連絡を密にするのが管理者の責任と思うが、どうか?」副所長は「いやまことに申し訳ない。いいことを教えてもらった」と頭を下げたらしい。これに類する体験談をいくつか聞いた。

 一事が万事、一従業員ながら仕事の上で気づいたことを正直に訴えるのが彼の信条なのだ。彼は言う。「やっぱ、組合運動をやったのが今生きているよ」。

 「渡り職人」の“労働”の実態を解析すれば、「非正規雇用労働者」たちがかかえる問題の解決策が見えてくるように思えてならない。つまり、“労働”の主体者である労働者から分離してしまった“労働”の復権のため何をなすべきか。言うまでもなく「団結」以外にない。“労働”が正当な価値で評価されるための「団体交渉」と使用者の不当行為に対する「同盟罷業」。これを成立させるための「労働組合」の結成である。道は険しいかもしれないが、「ワーキングプア」「フリーター」など忌まわしい言葉の氾濫をなくすためにも、当事者たちにがんばって欲しいと思う。

ノーベル賞受賞者が“日教組”加盟労組の書記長だった!

2008-10-22 08:46:48 | Weblog
 いまさらバカバカしい話を蒸し返すわけではないが、前国土交通大臣だった中山成彬は“日教組”を目の敵にしていた。「日本の教育のガンは日教組だと思っている。ぶっ壊すために火の玉になる」と言うのだから、自前の教育観には“性根”がすわっている。ところが今回、ノーベル賞を受賞する益川俊英さんが研究に没頭していた京都大学理学部助手のころ(1972年ころ)、教職員組合の書記長を務め研究と組合の仕事の両方をこなす忙しい日々を送った。京大教職員組合は中山成彬が大嫌いな“日教組”の構成組織だったというから皮肉である。

 さらに、『毎日JP』(10月8日)は「反戦語る気骨の平和主義者……益川さん」と題する記事を掲載している。

 <ノーベル物理学賞を受賞した益川俊英・京都産業大教授(68)。穏やかでちゃめっ気のある益川さんだが、「反戦」を語る気骨の平和主義者でもある。

 作家の大江健三郎さんらが作った「九条の会」に連動し、05年3月、「『九条の会』のアピールを広げる科学者・研究者の会」が発足した。益川さんは呼びかけ人の一人だ。同時期に誕生したNPO法人「京都自由大学」では初代学長に就任し、市民の中に飛び込んで平和を語った。

 原点は幼少期の体験にある。益川さんは名古屋市に生れた。小学校入学前、第二次世界大戦を体験し、焼夷(しょうい)弾が自宅の屋根を突き抜けた。「不発だったが、周囲はみな燃えた。両親はリヤカーに荷物を積んで逃げまどった。あの思いを子孫にさせたくない」と言う。

 05年、自民党が憲法改正に向けた要綱をまとめた。中国で半日デモが相次ぎ、JR福知山事故が発生した。平和と命の重みが揺らいだ。当時、益川さんは「小中学生は憲法9条を読んで自衛隊を海外に派遣できるなんて考えない。だが、政府は自衛隊をイラクに派遣し、更に自衛隊の活動範囲を広げるために改憲を目指す。日本を戦争のできる国にしたいわけだ。僕はそんな流れを許容できない」と猛然と語った。

 1955年、アインシュタインら科学者11人が核兵器廃絶を求め「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名した。その一人が尊敬する日本人初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹博士だ。「湯川先生の原動力は核で人類が滅ぶ恐怖だったと思う。僕はより身近に、一人一人の今の生活を守りたい。その実現に、戦争はプラスですかと問いたい。殺されたって戦争は嫌だ。もっと嫌なのは自分が殺す側に廻ることだ」と強調する。

 受賞から一夜明け、「専門外の社会的問題も考えなければいい科学者にはなれない。僕たちはそう学んできた」と力を込めた。>


 さらに、「お騒がせ男」中山成彬が目を剥くような記事がブログ界に飛び交っている。日本共産党参議院議員『井上哲士ONLINE』の次の記事である。井上哲士議員は京都大学法学部卒。

 <…途中の新幹線で携帯が鳴り、ビッグニュースが届きました。京大名誉教授の益川俊英先生らがノーベル物理学賞受賞です!

 未発見の「クォーク」の存在を理論的に予測した「小林・益川理論」が認められたもので、小林先生やお二人の先輩となる南部先生との共同受賞となりました。何年も前からノーベル賞候補に挙げられていたので、待ちに待った受賞です。
 
 私の学生時代、学生自治会がとりくむセミナーの講師なども気軽に応じて下さっていたことを思い出します。世界的注目を集めていた益川先生が、素粒子研究には、弁証法的唯物論の物の見方が貫かれていることをいっかんして語ってこられたことは、科学的社会主義を学ぶ上で、とても励みになりました。

 たとえば、1984年7月14日付けの「赤旗」では、みずからの研究をふりかえって次のように語っておられます。

 「素粒子が、さまざまな性質、特徴、法則性をもっているのは、その背後にそれらの担い手の物質が必ず存在するに違いないと考え(ています)」、そこには「『電子といえどもくみつくせない』という物質の無限の階層性と認識の相対性を指摘したエンゲルスやレーニンと同様の唯物弁証法(弁証法的唯物論のこと―引用者)の物の見方がつらぬかれています」、「唯物弁証法と自然科学の研究方法との関係は非常に奥深いもので、今後はさらに追及する必要があると思います」

 早速、祝電を打ちました。益川先生、おめでとうございます。>

 「新自由主義」とやらいう「市場原理」万能の“バクチ”国家アメリカが破綻寸前に追い込まれ、「資本主義」が風前の灯であるにもかかわらず、「お金」の力で世の中どうにでもなると考える政治家・資本経営者が健在だから、彼らは益川先生が「弁証法的唯物論」(マルクス・エンゲルスの考え方)を持ち上げるのだから仰天するに違いない。
 
 ベストセラー『国家の罠』の著者・佐藤優さん(起訴休職外務事務官)は『週刊金曜日』10月17日号の「特集 世界恐慌」で「ファシズムに対する防波堤を」と題し以下のように論じている。

 <そもそも新自由主義者は、市場が万能であると信じているので、恐慌という発想がない。こういうときは、商品や貨幣による経済を自明のものとしないマルクス経済学の視座が有効だ。マルクス経済学というと、社会主義革命をどう根拠づけるかというイデオロギー過剰な経済学説を想像するが、『資本論』をひもとけばわかるように、マルクスの主張は、社会主義を嫌う資本家や保守政治家であっても、論理を追っていけば、誰でも納得する構成になっている。>

 
 派遣労働でピンハネに余念のない資本家・経営者の皆さん、そして格差社会を深刻化させてきた自民・公明の政治家の皆さん、さっそく岩波文庫版の『資本論』を買って読んでみよう。

魂に響く“歌曲”に聴きほれる…

2008-10-20 09:02:42 | Weblog
 若い時から“シャンソン”が好きだったのは、それが「語り」の音曲だったからかも知れない。ハリー・ベラフォンテの“黒人霊歌”なども同類だろう。母の唯一の趣味が筑前琵琶で、1950年代、ソニーのテープレコーダーができた時吹き込んでもらったが、残念ながらのちに行方知れずになった。『平家物語』などの奏曲は「物語り」そのものだろう。たまにはそうした音曲に耳を傾けるのも悪くはなかろう。今日は次の三曲をぜひ聴いてみて下さい。

 「Super young HOT Voice」:http://jp.youtube.com/watch?v=HjXTrNxTeSs&feature=related

 「LALA FABIAN LIVE-1」:http://fr.youtube.com/watch?v=N-roGMGyFu0
 「Ferdi Tayfurー」:http://jp.youtube.com/watch?v=u8O4TKmEcqw&feature=related

映画・『蟻の兵隊』~戦後3年、友は「天皇陛下万歳!」と叫び…

2008-10-18 10:57:27 | Weblog
 友人が貸してくれたDVD『蟻の兵隊』を遅まきながら観た。およその内容はニュースで承知していたが、“奥村和一”さんの鬼気迫る行動に圧倒されるとともに、「国家とは何か」を改めて考えさせられた。昨年5月2日の記事(『“731部隊”~闇の扉は開くか?』http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/d/20070502)でも書いたが、戦争の現場責任者たちが部下や国民を置き去りにして自己保身に走り、罪を払って厚顔にも戦後を生き延びた例は少なくない。その典型は(天皇を除外すれば)元首相の岸信介だろう。“731部隊”を取り仕切った連中が進駐軍司令部の支援を得て、のちに薬害を頻発させる「ミドリ十字」を創設したこと、“日本軍山西省残留”を画策した司令官がのうのうと国会で偽証し悠々と生き延びたことなどは、戦後史の恥部として通底するものがある。


 さて、『蟻の兵隊』だが、まずは「同ホームページ」から「あらすじ」を転載させていただく。

 <今も体内に残る無数の砲弾の破片。それは“戦後も戦った日本兵”という苦い記憶を奥村和一(おくむらわいち)(80)に突き付ける。
 かつて奥村が所属した部隊は、第2次世界大戦後も中国に残留し、中国の内戦を戦った。しかし、長い抑留生活を経て帰国した彼らを待っていたのは逃亡兵の扱いだった。世界の戦争史上類を見ないこの“売国行為”を、日本政府は兵士たちが志願して勝手に戦争をつづけたと見なし黙殺したのだ。
 「自分たちは、なぜ残留させられたのか?」真実を明らかにするために中国に向かった奥村に、心の中に閉じこめてきたもう一つの記憶がよみがえる。終戦間近の昭和20年、奥村は“初年兵教育”の名の下に罪のない中国人を刺殺するよう命じられていた。やがて奥村の執念が戦後60年を過ぎて驚くべき残留の真相と戦争の実態を暴いていく。
 これは、自身戦争の被害者でもあり加害者でもある奥村が、“日本軍山西省残留問題”の真相を解明しようと孤軍奮闘する姿を追った世界初のドキュメンタリーである。

◆【日本軍山西省残留問題】
 終戦当時、中国の山西省にいた北支派遣軍第1軍の将兵59000人のうち約2600人が、ポツダム宣言に違反して武装解除を受けることなく中国国民党系の軍閥に合流、戦後なお4年間共産党軍と戦い、約550人が戦死、700人以上が捕虜となった。元残留兵らは、当時戦犯だった軍司令官が責任追及への恐れから軍閥と密約を交わし「祖国復興」を名目に残留を画策したと主張。一方、国は「自らの意志で残り、勝手に戦争を続けた」とみなし、元残留兵らが求める戦後補償を拒み続けてきた。2005年、元残留兵らは軍人恩給の支給を求めて最高裁に上告した。>


 戦後3年もたった戦闘で、「天皇陛下万歳!」と叫んで死んだ日本兵がいたと聞いて驚かない人はいないだろう。2600人もの兵士が、戦争終結を知りながら「自己」の意志で残留し、中国国民軍に加わって革命共産軍と戦うだろうか。上官の命令で残留した“奥村和一”は、戦闘の4年と、戦犯抑留の5年を中国で過ごして帰国、自分が「逃亡兵」とされていることを知る。2001年、13人の元残留兵らは軍人恩給の支給を求めて東京地裁に提訴。

 “奥村和一”は、戦後の戦いの地である中国山西省へ。そこの公文書館で衝撃の事実を突き止める。残留部隊の総隊長が書いた命令書には「総隊ハ皇国ヲ復興シ天業ヲ恢弘スルヲ本義トス」とあった。つまり残留部隊は「皇国日本を復興し天皇の事業を大いに広めることを根本任務とする」というのだ。先の「あらすじ」に軍閥と密約を交わしたとあるのは、中国・蒋介石軍の配下・閻錫山(えんしゃくざん)と日本軍・澄田司令官との間で結ばれた“密約”だが、澄田司令官等上級幹部は、閻錫山の「通行証」を手に入れ、部隊を残したまま動乱の中国を逃れて帰国している。残留部隊の総隊長(今村某)は、裏切られたとも知らず上官の命令を忠実に守って部隊を指揮したわけだ。国は「自らの意志で中国国民党軍に加わり残留した」と主張するが、命令書で明らかなとおり、「中国内戦を戦うためではなく、“皇国日本を復活する”ために上官の命令で残留した」と“奥村和一”ら兵たちは訴える。

 「俺たちは“逃亡兵”ではない!」

 だが、最高裁は審理を開かないまま『蟻の兵隊』の上告を却下した。


 中国東北地方(旧満州)でもこれに類似する事例がある。友人の“H”が中国解放軍の戦車部隊に属し、1949年10月1日、中華人民共和国誕生を天安門前で祝ったことは前に書いた。“H”は敗戦後、“満州開拓団員”40数名の集団でソ連侵攻から逃れる途中に匪賊に襲われ、両親と姉を含めほぼ全滅、彼と弟の二人が奇跡的に生き残った。中国人に拾われ製粉工場で働いていたら、粉を買いに来た日本人に誘われ戦車部隊に入る。13歳だった。のちに弟も部隊に引き取り兄弟で生きていく。

 この戦車部隊には10数名の日本人がいたが、彼らは戦車や自動車の運転・整備に詳しい者たちで、中国解放軍から技術養成訓練の要請を受け「自主的に」残留した。また、瀋陽(旧奉天)にいた航空隊300人余も、「満州」引き上げ途上で中国・“林彪”軍に足止めされ、戦車隊同様の要請があって200人余が残留を決意、解放軍兵士の訓練・指導に当っている。これら戦車隊・航空隊の残留兵はあきらかに「自らの意志」で残留したのだが、公文書に残る記録で明らかなように、北支派遣軍第1軍の“奥村和一”らは「軍命」で残留させられたのだ。国はそれを頑として認めようとしなかった。


 映画『蟻の兵隊』は、「逃亡兵」の汚名をそそぐだけでなく、中国人虐殺、暴行・掠奪・強姦の事実を現地人の証言をまじえ誠実に描写し、観る者の胸を熱くする。通訳の“H”は、「中国人強制連行裁判」の控訴審のため今日、週明けの判決は「難しい」と言いつつ福岡に向かった。いつになったら、“社会正義”が人民の頭(こうべ)を照らすのだろうか。

 『蟻の兵隊』:http://www.arinoheitai.com/

“マイケル・ムーア”の「世界金融危機に対する10の提言」

2008-10-16 09:22:37 | Weblog
 米国の銃社会を告発した『ボウリング・フォー・コロンバイン』、2004年大統領選でブッシュ再選阻止を目的に作られた『華氏911』、米国の深刻な医療問題を世に問うた『シッコ』などの話題作をつくり続ける社会派映画監督“マイケル・ムーア”が、世界金融危機に「10の提言」をしている。この提言は、世界の「7人の金融の番人」が示した金持ち本位の対策よりずっと革新的で実効性の高いものである。小泉内閣の構造改革が改めて問われている今日、“マイケル・ムーア”の提言はわれわれに新鮮な示唆を与えてくれる。長文だがあえて全文を採録した。(『レイバーネット日本』から引用させてもらった。)

 
< 皆さん
 
 400人のアメリカの最裕福層、そう、「たったの400人」が底辺の1億5千万人を全部合わせた以上の財産を持っています。最裕福400人が全国の資産の半分以上を隠匿しているのです。総資産は正味1兆6千万ドルになります。ブッシュ政権の8年間に彼らの富は「7千億ドル近く」膨らみました。7千万ドルはちょうど救済資金として我々に支払いを要求しているのと同額です。彼らはなぜブッシュの下でこしらえた金で自らを救済しないのでしょうか!

 勿論彼らにそんな積もりはありません。少なくとも自発的には。ジョージ・W・ブッシュはクリントン政権から1270億ドルの黒字を引き継ぎました。それは我々国民の金であって自分のものではないので、裕福層が求めるとおりに後先も考えずに支出しました。その結果国民は今9兆5千億ドルの負債を背負っています。そもそも我々はなぜたとえ少しでもこんな盗人貴族に追い銭を与えなければならないでしょうか?

 さて私の救済プランを提唱したいと思います。下記の私の提案は「金持ちは自分のプラチナの踏み台に乗って自分を引っ張り上げるべき」という単純明解な考えから自然に導かれるものです。

 金持ちさん、済まないがこれはお前さん達がいやというほど我々の頭に叩き込んだものだよ。タダ飯ハ食ワセナイ…。生活保護で生きる人達を憎むように仕向けてくれて有難う。だから我々からお前さん達に施しはできないのだよ。

 上院は今夜急遽金融救済法案を採決に持ち込もうとしています。これは阻止しなければなりません。我々は月曜日に下院でこれを成し遂げました。今日上院でも出来るのです。

 ところで、我々はいたずらに抗議し続けるだけではなく議会がなすべきことをきっちりと提案しなければ埒が明かないのは明らかです。そこでフィル・グラム(共和党・ジョン・マッケインの参謀)より賢い人たちと相談の上、「マイクの救済計画」と題してここに私の提案をします。明解・単刀直入な10項目です。


1.【ウォール街で、承知の上で今回の危機到来に加担した者を犯罪者として起訴するため、特別検察官を任命せよ】
 何らかの新たな支出をする前に、議会は責任を持って、我が国の経済の略奪に少しでも関わった者を刑事犯として起訴することを決議すべきである。即ち、インサイダー取引、証券詐欺その他今回の崩壊に何らかの寄与をした者は投獄されるべきである。この事態を出現させたすべての者と、今後も社会を欺くすべての者を精力的に追及するための特別検察官を招聘すべきである。

2.【救済経費は富裕者が自ら負担すべきである】
 彼らの住む邸宅は7軒から5軒に減るかも知れない。乗る車は13台から9台になるかも知れない。飼い犬のミニテリアの世話係は変える必要もあろう。しかしそもそも、ブッシュ政権下で世帯当り収入を2,000ドル以上も減らされた勤労者や中流層が、彼らのもう一隻のヨットのために10セントでも払ってやるいわれなどありはしない。もし彼らが必要だと言う7千億ドルが真に必要なものならば、それを簡単にまかなう方法を提示しよう。

A)年収100万ドル以上のすべての夫婦と年収50万ドル以上の独身納税者は、5年間10%の追加所得税を支払う。(これはサンダーズ上院議員の案である。彼は[訳注:ケンタッキーフライドチキン創業者の]カーネル・サンダーズのようだ。彼だけが正しいチキンを揚げている。)これでも富裕層はカーター政権の時より税負担が少ないのだ。これで3千億ドルが出来る。

B)殆んどの民主主義国家のように、全ての株取引に0.25%を課税する。これで毎年2千億ドル以上が出来る。

C)株主はみな愛国的米国人であるから、四半期の間配当の受領を辞退し、その分を財務省による救済資金の足しにする。

D)米国の大企業の25%は現在連邦所得税を全く払っていない。企業からの連邦税収は現在GDPの1.7%であるが、これは1950年代には5%であった。もし企業の所得税を1950年代の水準に戻せば更に5千億ドルが出来る。

 以上を組み合わせればこの惨状を十分に終らせられるはずである。富裕層は豪邸や使用人を持ち続けられるだろうし、われらの合衆国政府(「国が第一!」)は多少の余剰金で道路や橋や学校の建設も出来るだろう

3.【緊急救済すべきは住居を失う人々だ。8つ目の住宅を建設する連中ではない。】
 現在130万軒の住宅が抵当として取り上げられている。これこそがまさに問題の核心なのだ。だから資金を銀行に贈与するのではなく、1人当り10万ドルでこれらの住宅ローンを払いきるのだ。そして住宅の持ち主が時価に基づいてローンを返済するべく銀行と再交渉できるように要求する。この救済措置の対象は持ち主の現住住宅のみとして、家転がしで儲けを企んでいる者や投機家を確実に排除しておく。この10万ドルの返済と引き換えに政府はそのローンの債権を共有して幾らかを回収できるようにする。このようにすると住宅ローンの焦げ付きを(貪欲な貸し手を巻き込まずに)その根っこで解消する費用は7千億ドルではなく千五百億ドルですむ。

 さて記録は正しておこう。住宅ローンの返済不能に陥った人々は「不良リスク」などではない。彼らは我々の米国仲間であり、我々の全てが望み、殆んどの人が持っているもの、即ち自分たちの家を彼らも望んだに過ぎない。しかしブッシュ時代に何百万人もがそれまでに就いていた酔い職を失ったのだ。600万人が困窮し、700万人が健康保険を失った。そして全ての人の年収が2,000ドルも減少したのだ。つまづきの連鎖に見舞われたこれらの人々を見下す者は恥を知れ。我々が皆自分の家に住める時社会はより良く、より強く、より安全で幸せなものとなるのである。

4.【あんた達の銀行や会社が我々からの「救済金」を少しでも受け取れば、我々はあんた達の主人だ】
 気の毒だがそれが世の決まりなのだ。もし我々が家を買うために銀行から資金を借りれば、全額を利子も付けて返済するまでは銀行がその家を「所有」する。ウォール街についても同じだ。もしもあんた達が良い生活を続けるために何らかの資金が必要とし、また政府があんた達を低リスクで国家のためにも必要なものだと判断したら、ローンは得られるが、我々があんた達を所有することになる。もし債務不履行があれば我々はあんた達を売却する。これはスエーデン政府が行って成功した方法なのだ。

5.【規制は全て回復しなければならない。レーガン革命は死んだ】
 今回の悲劇は狐に鶏小屋のカギを持たせたことが原因である。1999年に、フィル・グラムがウォール街と銀行を支配する全ての規制を撤廃する法案を起草した。法案は成立してクリントンが署名した。その署名の時、マッケインの主任経済顧問であるフィル・グラム上院議員が言った言葉は次のようであった、曰く、
 「1930年代、…政府が答えであった。動いている市場を政府が支配することで安定と成長がもたらせられると信じられていた。」
 「今日我々はそれを撤回する。われわれは政府が答えではないことを学んだからだ。自由と競争こそが答えであることを学んで来た。我々は競争と自由を手にすることで経済成長を促進し、安定を推進する。」
 「ここに立っていることを誇りに思う。これが重要な法案だからだ。規制撤廃法案なのだ。私はこれが未来の波であると信じている。その実現に参加できたことをとても誇りに思う」

 この法案は撤回されなければならない。ビル・クリントンはグラム法案を撤回して財政機構に一層厳格な規制を復活させる努力を主導することで貢献できるはずだ。これらが達成されたら、航空会社、食品検査、石油業界、職業安全衛生管理局、その他日常生活に影響する全てのことに関する規制の回復も出来る。どのような「緊急救済」を管理する規定も、資金の裏付けと全ての違反者の刑事処罰が伴わなければならない。

6.【失敗が許されないほど巨大なものは存在も許されない】
 超大型合併の出現を許す一方で独占法やトラスト禁止法をないがしろにする現状によって多くの企業が合併であまりにも巨大になりすぎて、その破綻を考えるだけで一国の経済全体が破綻に至るほどになってきた。一つや二つの企業がこれほどの威力を持つことがあってはならない。いわゆる「経済的真珠湾」は、人々の資産が何千何百の企業に分散していたら起こりえないことである。自動車会社が一ダースもあれば、その一つが倒れても国家の惨事にはならない。もし町に別々の経営による三紙の新聞があれば一社だけが情報を独占することはない(分かってます、自分は何を言っているのだ?!今時誰が新聞など読んでいる?あの合併と買収の嵐で、確かに強力で自由なプレスが一つ出来て嬉しいことだ!)。企業があまりにも大きく独占的になりすぎて、片目にぱちんこの一撃を受けただけで倒れて死ぬようなことがないように、企業の肥大化を防ぐ立法が必要である。又、どんな機関にも誰も理解できないような資金運用計画を作らせてはならない。二行で説明できないならば、どんな資金も受け取ってはならない。

7.【いかなる会社重役も、従業員の平均賃金の40倍を超える報酬を受け取ってはならず、会社のための労働への妥当な給与以外にはいかなる「落下傘」(訳注:墜落する企業から退散する時の巨額の退職金など)受け取ってはならない】
 1980年には米国の平均的な最高経営責任者は従業員の45倍を得ていた。2003年には自社従業員の254倍を稼いだ。8年のブッシュ時代が過ぎて、今では従業員の400倍を得ている。公的な会社でこのようなことが出来る仕掛けは正気の沙汰ではない。英国では平均的な最高経営責任者は28倍稼いでいる。日本では17倍に過ぎない!最近聞いたところではトヨタの社長は東京で優雅に暮らしていたらしい。こんな少額でなぜそんな暮らしが出来ているのか?真面目な話、これは非道である。我々は頂点の連中が何百万ドルを操って信じがたいほどに膨れあがるのを許して今のような大混乱を創ったのだ。このままにしてはならない。役員は誰もこの混乱から脱出するために受ける援助から利益を得てはならないのは勿論、会社の破綻に責任ある役員は会社が何らかの援助を受ける前に辞職しなければならない。

8.【連邦預金保険公社を強化し、国民の預貯金にとどまらず年金と住宅の保護のモデルとせよ】
 昨日オバマが国民の銀行預金に対する連邦預金保険公社による保護の範囲を25万ドルにまで広げるよう提案したのは正しかった。しかしこれと同様の政府系保険で国の年金基金も保護されなければならない。国民が老後のために支払った掛け金がなくなっていないかと心配することがあってはならない。これは、従業員の年金の基金を管理する企業を政府が厳格に監督することを意味する。…或いは企業が基金とその運用を政府に委ねるのも一案だが…。国民の退職基金も保護が必要だが、基金を株式市場という博打に投資させないことを考える時かも知れない。我が国の政府は、何ぴとも年老いて赤貧に投げ込まれることがないことを保障する厳粛な義務を負うべきである。>

9.【深呼吸をし、落ち着いて、恐怖に日々を支配させないことが誰にも必要だ】
 テレビを消そう!今は「第二の大恐慌」などではない。天は落ちては来ない。評論家や政治家が余りにも矢継ぎ早に、おどろおどろしく嘘をついているので、我々は降りかかる恐怖の影響を免れるのが困難になっている。私でさえ、昨日、ダウ平均株価が過去最大の一日の下落を示したとのニュースを聞いて皆さんに記事を送り、その内容を繰り返した。それはその通りだが、7%の下げは1987年に株価が一日で23%暴落したブラックマンデーにはほど遠いものだ。80年代には3,000の銀行が閉鎖された。しかし米国は破産しなかった。彼らはたえず上がり下がりの波に遭いながらも結局は何とかなった。そのはずだ。金持ちは自分たちの富を粉々にしたくないのだから!彼らは事態を沈静化させたり、再び奔流に投げ返したりすることに元々関心が深いのだ。
 [事態は狂ってはいるものの]今週何万人もが自動車ローンを組んだ。何千人もが銀行でローンを借りて家を買った。大学に戻った学生たちを15年の学生ローンに取り込んで銀行はほくほく顔だ。日々の営みが続いている。銀行預金や手形、定期預金証書の形である限り誰一人金を失わなかった。そして何より驚くべきことは米国民が恐怖キャンペーンに乗らない出来事だった。民衆が大統領やその一味が繰り出す恐怖に満ちた警告に屈しなかったのはなぜだろう?そう、「サダムは爆弾をもっている」などと何度も言えるのは人々に大嘘つきだと見破られるまでのことでしかない。長い8年のあと、国民は疲れ果ててもう我慢の限界なのだ。

10.【民衆の「国民銀行」を作ろう】
 どうしても1兆ドルを印刷するとしたら、それは一握りの大金持ちに与えるのではなく我々自身に与えようではないか。フレディーとファニー(2大政府系住宅金融会社)が我々の手に落ちた今こそ、国民の銀行を作ろうではないか。自宅の購入、小規模事業の起業、通学、癌治療、或いは次の大発明のための資金を望むすべての人に低金利の融資を行う銀行である。また、米国最大の保険会社AIGも我々の手に落ちたのだから、次の段階に進んで全ての人に医療保険を提供しよう。全国民にメディケアーだ。これで長期的には大きな節約が出来るだろう。又、平均寿命が世界12位とはならないだろう。もっと長生きをして政府が保障する年金を享受し、やがて、非常な惨状をもたらした企業犯罪者達を許して出獄させ、我々の助力で市民生活に再順応させる日を生きて迎えるだろう。…素敵な家一軒と、国民銀行の援助で発明されたガソリンを使わない自動車1台を持つ市民生活にだ。

  マイケル・ムーア
  MMFlint@aol.com

追伸:地区の上院議員に今すぐ呼び掛けて下さい。議会のサイトが再びクラッシュした時のために予備のリンクを示しておきます。
 http://www.conngressmerge.com/onlinedb/indehtmx.
 上院では今夜、アメリカ略奪の独自改正案を審議します。又、あなたがマイクの10項目計画に賛同していることを地域の下院議員に知らせて下さい。

 『レイバー・ネット日本』:http://www.labornetjp.org/

“麻生太郎”の水源~筑豊の炭鉱にみる

2008-10-14 11:13:52 | Weblog
 村には戦前から“久間炭鉱”という良質の石炭を産する中規模の炭鉱があった。村のほぼ中央の小高い山に坑口があって、周辺に何棟もの社宅が建ち、この社宅に住む同級生が何人かいた。戦後、その近くに“光武炭鉱”が創業する。いずれも地名を冠した社名だが、新しい“光武炭鉱”は、一時、久間炭鉱をしのぐ勢いで殷賑を極め、村の様相を一変させた。石炭景気に沸いていた頃だから、「宵越しの金は持たぬ」“坑夫”たちの荒っぽい気性が、穏やかな村の空気を乱さずにおかなかった。村で最初の殺傷事件があったのもその頃である。

 そんな村の炭鉱では寡聞にして知らないが、日本の近代化を担った炭鉱史を覗き見れば、苛酷な労働に呻吟する人びとが多かったらしい。戦前ばかりではない。上野英信著『追われゆく坑夫たち』(岩波書店)によれば、1950年代の記録として想像を絶する炭鉱労働者が存在する。三井三池炭鉱など、日本の労働運動に輝かしい足跡を残した「炭労」の影で、組合もなく、暴力団まがいの経営者に泣かされた労働者たちである。彼らは、戦前の坑内労働そのままを受け継いで生きていた。上野英信は“地獄”の住人たちから地獄の話を聞きとっている。

 『あなくり節』

 ♪ 汽車は炭ひく せっちん虫ゃ尾ひく 唐津下罪人はスラ(修羅)を曳く

   唐津下罪人のスラ曳く姿 江戸の絵かきも かきゃきらぬ

   七つ八つから カンテラさげて 坑内下がるも 親の罰


 戦前の記録を中村政則著『労働者と農民~日本近代を支えた人々』(小学館ライブラリー)からみてみよう。

 <石炭をぬきにして日本の工業化は、ほとんど考えることはできない。また、石炭は戦前日本の財閥のドル箱でもあった。
 三井・三菱などの大財閥が巨大な富をきずきあげる基盤となったのも石炭産業であったし、麻生太吉・貝島太助・安川敬一郎が地元の炭鉱王として産をなし、筑豊(福岡県東北部)炭業界の御三家として名をはせることができたのも石炭のおかげであった。しかし、これら大財閥や地元炭鉱王の繁栄と名声は、疑いようもなく幾十万、幾百万とも知れぬ坑夫たちの、奴隷的労働のうえにきずきあげられたものであった。>

 「富」の形成にはいろいろの方法があるだろう。ある種の特許品を開発して富をなした人もいる。戦時景気にのって軍への納入品で儲けた人もいる。農林畜産業で産を成した人もいる。「富」を築くにはそれなりの努力と運がつきものと言えるかも知れない。だが、一般庶民の場合は、宝くじで当てる以外、簡単に「富」が手にいる道理はない。コツコツ爪に火を灯すように子等の将来を思って貯えるしかないのだ。ところが、炭鉱王と呼ばれた事業主たちの「富」は、使役人を雑巾のように絞り上げて、本来ならかれ等のふところに帰すべき報酬を掠め取って築き上げられたものだった。中村政則は書いている。

 <…炭鉱は、法の支配よりも、実力=暴力の支配する世界でもあった。
  嫌な人繰り邪慳な堪場(かんば) 情知らずの納屋頭(なやがしら)
 とうたわれたように、絶対の権限をもつ納屋頭が坑夫たちの生殺与奪の権をにぎり、坑夫を「半奴隷的」に制圧、支配していた。人繰りとは坑夫の入坑督励や欠勤者補充など、人のくりあわせをする納屋専属の世話人であり、勘場とは納屋での賃金会計所、あるいはその係の者である。明日をも知れぬ自己の生命に坑夫の気持ちはおのずとすさみ、炭鉱では飲酒・喧嘩・賭博・女遊びなどがたえなかった。>

 奈良時代の金山、銀山の記録も残っているが、秋田の大葛金山や佐渡の金・銀山、それに足尾銅山のつらく哀しい「金掘り大工(坑夫)」の話は前に書いた。鉱山労働者は、昔から命がけの苛酷な労働を強いられていた。

  二度と来まいぞ 金山(かなやま)地獄 来れば帰れる あてもない

  竪坑三千尺 下れば地獄 死ねば廃坑の 土となる

 佐渡金山で歌われた唄である。坑内労働が歴史的に苛酷であったのは事実である。だが、生産量の飛躍的拡大を遂げる近代において、労働の実態は大きく変化してきた。そのなかで特徴的なものを二つ挙げよう。
 一つは、昭和の十五年戦争中には多くの「女坑夫」が存在したこと。

 <女坑夫の数は昭和12年6月末現在で4097人、昭和13年6月末にはさらにふえて6862人となった。女坑夫は筑豊の炭鉱でとくに多かった。…
 「わたしは昭和12年に、甘木(甘木市)からここに来ましたと。昭和16年2月に主人が怪我しました。採炭の函(はこ)出ししよって、函がどまぐれて(転倒して)ね。尻を30数針縫ったんですばい。足の親指も切れてさがっとりました。その入院中に労務(係)から来て、採炭に出ろ、出んならおなご(女)が坑内に下がれ、どっちもいやなら社宅を出てもらおう、というてなんべんも来ましたたい。まだ入院中ですばい。怪我人は動かせんからわたしが入りました。入りはじめはこわいですたい。採炭の後山(あとやま)は朝鮮(人)がしよりました。…」(森崎和江『まっくら~女坑夫からの聞書き』)>

 二つには、現代でも未解決の政治問題「朝鮮人・中国人強制連行、強制労働」で、これはわが国現代史の隠しようもない恥部である。中村政則著からその一端をみてみよう。

 <昭和49年4月、尾崎陞(のぼる)を団長とする朝鮮人強制連行真相調査団は、九州地方の調査をした。そのさい、『フクニチ』新聞の記者が随行取材し、同年4月27日付同紙は、57歳になる文有烈(ムンユリヨル)の証言を、つぎのようにまとめている。
 「昭和18年の1月中旬。(結婚して半年もたたないかれが)新妻と一緒に夕食をとっていると、面(村)の役人と警察官がズカズカとあがりこんできた。「一緒に来い」。それはウムを言わせぬ強制力をもっていた。家の周囲を、大勢の警察官がとりまいていた。どこに連れて行かれるかもわからないまま面役場に到着すると、同じように連行された約50人と大型トラックに乗せられた。関釜(下関~釜山)連絡船の中で旧正月を迎えた。三日がかりで筑豊の麻生赤坂炭鉱へ。
 文さんは妻のことを想い出しては毎晩泣いた。炭鉱について最初の三日間は坑内見学。四日目から仕事につかされた。それまでドンブリいっぱいの食事がとたんに少なくなった。午前5時に起きて朝食をとってもとうてい昼間でもちこたえるものではない。昼の弁当も一緒に食べても空腹は満たせなかった。弁当を先に食べていたことがばれると桜の木の棒でたたかれた。就労時間は午前6時から午後8時までという重労働。一度坑内に入ると仕事が終わるまであがれず、太陽を見るのは日曜日ぐらい。それも日曜日は、「自分の顔が写る」ぐらい水っぽいオカユしか与えられなかった。…
 文さんの日給は二円だった。しかし金は見たこともない。日本人(の)労務(係)が「クニに送金してやる」といって全然現金を渡さなかったからだ。」>

 昭和14年から20年にかけて115万人余の朝鮮人が、また昭和18年から20年に4万2000人の中国人が強制的に連行され、日本はまさに強制収容所列島と化していたという。「毎日、苛酷な強制労働にあえぎ、凄惨なリンチに怯え、また望郷の念にかられて「オモニ・ポコシッポ」(お母さん、会いたい」と心のなかで叫んだ。」と中村は書いているが、ここにも「炭鉱王“麻生”」の名が登場する。


 時代は変わって、この「炭鉱王」の孫が宰相になった。現在生き残った強制連行・強制労働の当事者は少なくなったが、かれ等の貶められた悔しい記憶は決して消えてはいないはずだ。それを思うと、自国の歴史に慙愧の念が湧くとともに、過去の清算なしに次々に登場する厚顔な国の指導者を愧じずにおれない。宰相・“麻生太郎”の次の妄言を読み返せば、彼を宰相に選んだこの国のこころが病んでいるのではないかとさえ思えてくる。

 【“麻生太郎”の妄言】

「下々の皆さん、こんにちは、麻生太郎です」(1997年総選挙の立会演説会)
「野中広務のような出身者を日本の総理にはできないわな~」(2001年)
「独断と偏見かもしれないが、私は金持ちのユダヤ人が住みたくなる国が一番いい国だと思っている」(2001年4月日本外国人特派員協会)
「創始改名は朝鮮人が望んだものだ。日本はハングル普及に貢献した」(2003年の東大の学園祭の講演)
「安さだけなら核(武装)のほうがはるかに安い」(2003年5月)
「高齢者の85%は周りが迷惑するくらい元気だ」(2006年9月)
「(日本の農産物輸出に関し)78,000と16,000円はどっちが高いか、アルツハイマーの人でも分かる」(2007年7月富山県高岡市の講演)
「消えた年金は突き合わせて受給者はもっと貰えるかもしれない。こらあ、欲の話だろう」(2007年12月)
「(従軍慰安婦の存在について)客観的に証拠はない」(2007年)
「アメリカの中東問題は解決できない。アメリカ人はブロンドで青い目だから。日本人は信頼される。幸い我々は黄色い顔だから」(2007年)
「ドイツは(野党だった)ナチスに一度やらせてみようということで政権を与えてしまった」(2008年8月4日、江田五月参議院議長を表敬訪問した際)
「これ(2008年8月末に愛知県などを襲った豪雨災害)が、安城もしくは岡崎だったからいいけど、この名古屋で同じことが起きたら、この辺全部洪水よ」(2008年9月14日、名古屋市で行われた自民党総裁選街頭演説)

 
 国民の真っ当な意思で、この国が一日も早く甦ることを願うばかりだ。

 

“観音様”の話~宮本常一著『忘れられた日本人』から

2008-10-12 09:16:26 | Weblog
 美輪明宏のヒット曲に『ヨイトマケの唄』(1966年)がある。

 ♪ 父ちゃんのためなら エンヤコラ
   母ちゃんのためなら エンヤコラ
   もひとつおまけに  エンヤコラ

 1.今も聞こえる ヨイトマケの唄
   今も聞こえる あの子守唄
   工事現場の昼休み
   たばこふかして 目を閉じりゃ
   聞こえてくるよ あの唄が
   働く土方の あの唄が
   貧しい土方の あの唄が
   (この「土方」が禁止句としてこの唄をNHKでは放送中止とした)

 高校に入学したのは1950(昭和25)年4月だが、卒業までの夏・冬・春の休みの間はほとんどアルバイトで過ごした。隣り村の石切り場や村にある大きな堤の築堤工事など、多くはいわゆる「土方(どかた)」だった。何人かの仲間と組んで出かけたが、築堤工事では、われわれが「モッコ担ぎ」をするかたわらで、「“カァちゃん”土方」たちが唄の調子に合わせて「ヨイトマケ」をしていた。そこで彼女たちが歌っていた唄はたいてい「卑猥」な唄で、笑いを含んで未成年のわれわれを挑発する手合いのものだった。まだ、昔のいろんな因習が色濃く残っていた田舎の時代である。美輪明宏の『ヨイトマケの唄』の舞台もそれと相前後する時代の活写と言えるだろう。


 民俗学者・宮本常一が、辺境の地で黙々と生きていた日本人の存在を浮かび上がらせた書『忘れられた日本人』(岩波現代文庫)は、村のカァちゃんたちに「冷やかされた」あの頃の記憶を強烈に呼び戻す。決して楽ではない生活、いや楽ではないからこそ明るく振舞う女たちは、「卑猥」な唄を介して労働から解放される。次の記述はどうだろう。ラジオやテレビが普及しだした頃の中国地方での聞き書きである。
 
 <「田植がたのしみで待たれるような事はなくなりました」。田を植えつつ老女の一人がこう話してくれた。田植のような労働が大きな痛苦として考えられはじめたのは事実である。それには女の生き方もかわって来たのであろう。やはり早乙女話の一つに、
 「この頃は面白い女(おなご)も少うなったのう……」
 「ほんに、もとには面白い女が多かった。男をかもうたり、冗談言うたり……ああ言う事が今はなくなった」
 「そう言えば観音様(隣村にいた女)はおもしろい女じゃった」
 「ありゃ、どうして観音様って言うんじゃろうか」
 「あんたそれを知らんので」
 「知らんよ……。観音様でもまつってあったんじゃろか」
 「何が仏様をまつるようなもんじゃろか。一人身で生涯通したような女じゃけえ、神様も仏様もいらだった」
 「なして観音様ったんじゃろうか」
 「観音様ってあれの事よ」
 「あれって?」
 「あんたも持っちょろうが!」
 「いやど、そうの……」
 「あれでもう三十すぎのころじゃったろうか。観音様が腰巻一つでつくのうじょって(うずまって)いたんといの。昔の事じゃのう。ズロースはしておらんし、モンペもはいておらんから、自分は腰巻していると思うても、つくなめば前から丸見えじゃろうが……」
 「いやど、そがいな話の……」
 「そうよ、それを近所の若い者が、前へまたつくなんで、話しながら、チラチラ下を見るげな。「あんたどこを見ちょるんの」って観音様が例の調子でどなりつけたら、若いのが「観音様が開帳しているので、拝ましてもろうちょるのよ」と言ったげな。そしたら「観音様がそがいに拝みたいなら、サァ拝みんさい」って前をまくって男の鼻さきへつきつけたげな。男にとって何ぼええもんでも鼻の先へつきつけられたら弱ってのう、とんでにげたんといの。それからあんた、観音様って言うようになったんといの。それからあんた、若い者でも遊びにでも行こうものなら「あんた観音様が拝みたいか」っておいかえしたげな」

 「わしゃ足が大けえてのう、十文三分はくんじゃが……」
 「足の大けえもんは穴も大けえちうが……」
 「ありゃ、あがいなことを、わしらあんまり大けえないで」
 「なあに、足あとの穴が大けえって言うとるのよ」
 「穴が大けえと、埋めるのに骨がおれるけに」
 「よっぽど元気のええ男でないとよう埋めまいで……」
 「またあがいなことを……」

 これも田を植えながらの早乙女たちの話である。植縄をひいて正条植をするようになって田植歌が止んだ。田植歌が止んだからと言ってだまって植えるわけではない。たえずしゃべっている。その話のほとんどがこんな話である。
 「この頃は神様も面白うなかろうのう」
 「なしてや……」
 「みんなモンペをはいて田植するようになったで」
 「へえ?」
 「田植ちうもんはシンキなもんで、なかなかハカが行きはせんので、田の神様を喜ばして、田植を手伝うてもろうたもんじゃちうに」
 「そうじゃろうか?」
 「そうといの、モンペをはかずにへこ(腰巻)だけじゃと下から丸見えじゃろうが田の神さまがニンマリニンマリして……」
 「手がつくまいにのう(仕事にならないだろう)」
 「誰のがええ彼のがええって見ていなさるちうに」
 「ほんとじゃろうか」
 「ほんとといの。やっぱり、きりょうのよしあしがあって、顔のきりょうのよしあしとはちがうげな」
 「そりゃそうじゃろうのう、ぶきりょうでも男にかわいがられるもんがあるけえ……」
 「顔のよしあしはすぐわかるが、観音様のよしあしはちょいとわからんで……」 「それじゃからいうじゃないの、馬にはのって見いって」

 こうした話が際限もなくつづく。
 「見んされ、つい一まち(一枚)植えてしもうたろうが」
 「はやかったの」
 「そりゃあんた神さまがお喜びじゃで……」
 「わしもいんで(帰って)亭主を喜ばそうっと」>


 なんとおおらかな人たちだろう。ここには『古事記』の世界が垣間見える。これが半世紀前に生きていたわが国の人たちとは信じ難くなった自分が、何ともみすぼらしい人間になったものだと思えてくる。