耳を洗う

世俗の汚れたことを聞いた耳を洗い清める。~『史記索隠』

映画:『おくりびと』と元祖「納棺夫」の青木新門さん

2009-02-27 12:08:24 | Weblog
 “納棺師”を描いた映画『おくりびと』がアカデミー賞外国語映画賞を受賞し、話題になっている。『東京新聞』2月24日のWeb版は次のように伝えた。

 <「おくりびと」がアカデミー賞外国映画賞を受賞してから一夜明けた23日、米メディアは「番狂わせ」「サプライズ」などと、米国内で知名度が低かった同作の受賞の驚きを伝えた。
 
 ロサンゼルス・タイムズ紙は「穏やかなユーモアを織り交ぜ、厳粛な美を描いた映画が番狂わせの勝利をつかんだ」と紹介。ニューヨーク・タイムズ紙も「昨夜の数少ないサプライズの一つが、失業したチェロ奏者の物語を描いた日本映画の受賞だ」と、意外さを強調した。(中略)

 しかし、納棺師という職業を題材にした「おくりびと」は、日本の葬送文化を世界に伝える機会に。ロイター通信は、遺族の前で遺体を清める所作を「魔術師のような巧妙な手さばきで繰り広げられる儀式は、死者へのお悔やみと崇敬の気持ちを紡ぎ出す」と紹介した。>

 
 この映画では「納棺師」となっているが、この道の元祖で映画の原点とされる“青木新門”さんは「納棺夫」と言われていた。1993年出版のベストセラーとなった著書『納棺夫日記』(文春文庫)はアカデミー賞受賞後、5万部増刷するらしいが、青木さんが商売に失敗して冠婚葬祭会社に入社したのが1973(昭和48)年、36歳の時。間もなく湯灌、納棺という特異な作業についたと書いている。場所は富山だが、その頃まだ郊外の村落では「座棺」があったらしい。しかも座棺専用の焼き場もあったというから驚く。私の小さい頃の田舎はすべて土葬で、死者はみな座棺で葬送された。本家の叔父の納棺場面(膝を抱えた姿勢で納棺)は今もはっきり記憶している。

 さて、映画『おくりびと』はまだ観ていないので脚本がどうなっているか知らないが、元祖「納棺夫」の青木新門さんは田舎の大地主で本家筋(本人は戦後旧満州からの引揚者)の立場にあって、納棺の仕事を始めて思わぬ障害に直面する。分家の叔父が突然尋ねて来た。

 <叔父は、いい仕事があるがと切り出し、話の中で、何代も続いた家柄の本家の長男が納棺夫になりさがったことをなじったり、わが一族には教育者や警察など国家公務員も多く、社会的に地位のある人も多い、と言ったり、その一族の恥だと言ったりした。
 そして最後に、今の仕事を辞めないのなら絶交すると言った。>

 さらに、仕事のことは隠していたが、妻は知っていて内に秘め、悶々としていたらしい。

 <昨夜、体を求めたら拒否された。今の仕事を辞めない限り、嫌だという。いろいろ話し合ったが、子供たちの将来のことも考えてくれと、最後は泣き出した。
 近々に何とかするからと、その場逃れの言葉で再度求めたが、
「穢(けが)らわしい、近づかないで!」
 とヒステリックに妻は拒否した。>

 彼は、この「穢れ」という妻の言葉を契機に死や死者にまつわる「不浄」について考える。折口信夫や柳田國男ら民俗学者が解明してきた「ケガレ」と「ハレ」の思想。誰もが無縁ではありえない「死」とそれに対する根強い不浄観。若い頃、詩や小説を書いていた青木さんの仏教、とくに浄土真宗宗祖・親鸞(富山=越中地方は真宗信者が多い)への関心がこうして深まっていく。

 「職業に貴賎はない。いくらそう思っていても、死そのものをタブー視する現実があるかぎり、納棺夫や火葬夫は、無残である」との考えが、ある日を境に一変する。湯灌・納棺の仕事が入って、その行き先が「父に会ってくれたら結婚も」と言ったあの昔の恋人の家だった。横浜に嫁いだと風の頼りに聞いていたが、来ているだろうか。意を決して入ったら本人は見当たらない。ほっとして、湯灌を始めた。

 <額の汗が落ちそうになったので、白衣の袖で額を拭こうとした時、いつの間に座っていたのか、額を拭いてくれる女がいた。
 澄んだ大きな目一杯に涙を溜めた彼女であった。作業が終わるまで横に座って、私の汗を拭いていた。
 退去するとき、彼女の弟らしい喪主が両手をついて丁寧に礼を言った。その後ろに立ったままの彼女の目が、何かいっぱい語りかけているように思えてならなかった。…
 軽蔑や哀れみや同情など微塵もない、男と女の関係をも超えた、何かを感じた。
 私の全存在がありのまま認められたように思えた。>

 心が変われば、行動が変わる。彼は早速、医療機器店へ行き、医師の手術用の衣服、マスク、薄いゴム手袋、それに往診用の鞄などを買い揃える。本腰を入れて納棺夫に徹しようと決心したのだ。すると途端に周囲の見方が変わった。

 <昨日など、山麓の農家であったが、納棺を終えて勧められるままお茶を飲んでいると、お棺に納めた死者よりも歳を経た老婆が畳を這うように近づいてきて、
「先生様、私が死んだら先生様に来てもらうわけにはいかんもんでしょうか」
 と、真剣な顔で言うのである。
 先生様にも参ったが、こんな約束も当惑する。納棺夫の指名予約である。しかし、悪い気はしなかった。
「ええ、いいですよ」と言うと、老婆はにっこりした。>

 青木さんは、いつの間にか「死体処理の専門家」になっていた。異常な死体の場合「あいつを呼べ」ということになる。水死、首吊り、列車への飛び込み自殺、発見の遅れた孤独死など、無残な死体とも遭遇し、腐乱死体にたかった蛆虫を取り払い、礫死体の脳味噌を小枝で拾い集めたりするのだ。そんな時は大抵鑑識課のベテランS氏と二人で後始末にかかった。こうして“納棺夫”の元祖・青木新門さんは湯灌・納棺の仕事を「崇高な職業」へ導いたのである。

 
 『納棺夫日記』が出版されると、青木さんは講演で引っ張りだこになる。とくに多かったのが真宗寺院からで、この著書に宗祖“親鸞”に関する記述が目立つからだろう。浄土宗系の仏教大学に「仏教とターミナル・ケアの研究会」というのがあって、1995(平成7)年1月から3月にかけて開催した特別講演シンポジュームの記録が『「死」をめぐる三つの話』(大法輪閣)と題し出版されている。内容は宗教学者・山折哲雄の「死の看取りと死の作法」、元納棺夫・青木新門の「納棺夫が見た光の世界」、元東京都監察医務院長・上野正彦の「死体が語る命の尊厳」である。

 青木新門さんの講演に関し、司会にあたった藤本浄彦仏教大学教授は同書「あとがき」に書いている。

 <「納棺夫」という言葉を知っている人は少なく、何かしらけげんな感じを抱くかもしれない。自らの生い立ちや人生経験をちりばめながら直面する「死」について、青木氏は語る。そこには、自らが、職業として客観的に対応する“死”以前に、人間としておもんばかる豊かな情緒が漂う。「人はよく、死を見つめると生が輝いて見えてくるなどと言いますが、生者は死を見ることはありません。生と死が限り無く接近した瞬間、真実の光に出合い、その光に照らされて生が輝いて見えてくるのです」と力強くお話になる。「生と死が限り無く接近した瞬間」を捉えて離さない情感が迫ってくる。>


 「納棺夫」としておよそ2000人の死者と接した“青木新門”という人は、葬送儀礼業者の一員でありながら、人の「死」を深く見つめ、死者と無言の対話を続けてきた稀有な職業人といえるかも知れない。映画:『おくりびと』はその辺をどう捉えているのか観てみたいと思っている。


 

この“裁判員制度”では司法の信頼は得られない!

2009-02-25 09:32:18 | Weblog
 『JANJANニュース』2月20日、山崎康彦氏の「なぜ日本には心の卑しい“ヒラメ裁判官”が大量発生するか?」と題する記事が掲載された。本ブログでもいくつかの“冤罪事件”や“中国・朝鮮人強制連行”裁判などを取りあげ、警察・検察ならびに裁判の現状に疑問を投げかけてきたが、三権分立を標榜するわが国「司法」の独立性を疑う国民は決して少なくないとみてよかろう。わが国裁判の「有罪率」が99.9%という異常な数字も一因となっている。

 司法不信に関するWebページを調べていたら、『Goodbye!よらしむべし、知らしむべからず』というページが目についた。その2007年4月14日の記事「有罪率99.9% こんな裁判所はいらない! 元凶の最高裁」には、東海テレビで放送されたある裁判官の日常を描いた『裁判長のお弁当』にふれつつ、憲法第76条3の「すべての裁判官は、その良心に従ひ独立してその職務を行ひ、この憲法および法律にのみ拘束される」という条文をあげ、現今の裁判官は最高裁の人事権に縛られ、自らの良心に従って裁判に臨む裁判官は皆無に等しいと指摘する。そして、最近の冤罪事件の頻発が、刑事裁判の迅速化を目的とした「最良証拠主義」に起因するという。

 「最良証拠主義」とはなにか。警察は最良の証拠しか検察庁へ送致せず、検察は最良の証拠しか裁判所へ提出しないこと、つまり「有罪にできる証拠」しか裁判所に提出せず、「被疑者、被告人に利益になる捜査資料」は出てこない仕組みのことだ。これが「冤罪事件」を生む大きな要因で、有罪率99.9%の元凶ともなっているという。

 この記事に寄せられたきわめて有益でわかりやすいコメント(ゆでたまごさん)を収録しておこう。

 <そうなんです。最良証拠主義はとても恐ろしい冤罪製造システムです。有罪証拠の信用性を崩す証拠のことを弾劾証拠といいますが、仮に被告人が無実の罪を着せられようとしている場合、この弾劾証拠は大変に重要な意味を持つものです。

 なんでこんなむちゃくちゃなシステムがまかりとおるかといいますと一にも二にも裁判官の人手不足、裁判所の予算不足が問題の根底にあります。そして、新刑事訴訟法による、犯罪処理ベルトコンベアー化と無理な訴訟期間の短縮。そのために、「裁判所は真実を追究するところではない」などと、庶民感覚とは程遠いことを平然と口走る異常な組織になってしまいました。もう、裁判所に“心”はないと思っていいでしょう。裁判官自身、倫理観のある方は先に退職し、新たに裁判官になるのは皆ロボットのような無感情、無表情の人間ばかりです。もう、日本の裁判所には何も期待できるものはありません。冤罪に巻き込まれたら災害に遭ったと思って自分の運命の終わりを待つしかないようです。>

 『Goodbye! よらしむべし、知らしむべからず』:http://c3plamo.slyip.com/blog/archives/2007/04/post_379.html


 このいささか過激なコメントに見られるように、わが国裁判に対する国民の信頼はきわめて厳しいものがあるが、裁判官を「ヒラメ裁判官」と呼ぶ山崎康彦氏は、わが国司法制度をわかりやすくドイツと比較してくれている。裁判官数が約8倍、行政訴訟件数(年)は176倍というそのあまりにも大きな違いに誰しも唖然とさせられるだろう。先の過激なコメントが決して過激でないことの証明になっている。

 <「なぜ日本には心の卑しい“ヒラメ裁判官”が大量に発生するか?」

 日本の裁判官の実態はほとんど隠されていて、その実態は国民に知らされていません。

 私は以前日本とドイツの裁判制度を比較した記録映画「日独裁判物語」(桐山直樹監督)の自主上映会を杉並区内で何度か開催したことがあります。

 松山大学法学部田村譲教授は日独司法制度を比較した10項目のリストを作成されていますが、私が2項目(※印)を追加して12項目のリストを作りましたので下記にお知らせします。
 この短いリストを見るだけでも、市民的自由すらも与えられない日本の裁判官は、最高裁総務局を頂点とする司法官僚に給与と昇進と転勤人事でがんじがらめに管理されていることが分かります。

 その結果、最高裁総務局の意向に沿って判決を出して出世していく心の卑しい「ヒラメ裁判官」が大量に発生するのです。
 最高裁判事の人事権は時の内閣が握っているのですから、「司法の独立」など真っ赤な嘘なのです。

 ドイツでは違憲判決がこれまで500件以上出されているのに日本ではわずか10件しかない事実は、日本の司法が時の政権を擁護・維持するための「司法」の仮面をかぶった「行政機関」に成り下がっていることを物語っています。

 基本的人権や市民的自由や団結権が与えられていない日本の裁判官に、どうして権力の横暴から国民を守ることができるでしょうか?
 今回の「裁判官制度」導入は、国民が国民に対し死刑判決を出し国家の共犯者に仕立て上げていく「平成の赤紙」であり、有無も言わさずに戦争へ動員していくための上からの「司法改革」なのです。

 いま必要な真の意味の「司法改革」とは、時の政権の政治権力や行政権力の支配を排除して、裁判官が憲法の規定に照らした純粋な法理論で国民の基本的人権や市民的自由や生活を守る「市民司法」を日本に確立することだと思います。

【日独司法制度の比較リスト】

1.違憲判決の数
  日 本=10件
  ドイツ=500件以上
2.最高裁判所の建物(※)
  日 本=窓が少なく石造りの城砦のような建物
  ドイツ=広いガラス窓の3階建て軽量建物
3.最高裁判事の出勤風景(※)
  日 本=黒塗りの公用車で警備員に敬礼されて出勤
  ドイツ=ヘルメットをかぶりスクーターを自分で運転して出勤
4.裁判官数
  日 本=2,850人
  ドイツ=22,100人
5.行政訴訟の数(年)
  日 本=1,250件
  ドイツ=22万件
6.行政訴訟上原告(市民)勝訴率
  日 本=2~3%
  ドイツ=10%以上
7.申し立て手続き
  日 本=厳格・補助無し
  ドイツ=簡易・補助あり
8.裁判官の転勤
  日 本=3年ごと
  ドイツ=なし
9.出退勤時刻の拘束
  日 本=あり
  ドイツ=なし
10.ボランティア活動
  日 本= ×
  ドイツ= ○
11.政党加盟
  日 本= ×
  ドイツ= ○
12.社会的発言
  日 本= ×
  ドイツ= ○>


 今年5月からいよいよ「裁判員制度」が発足するというが、それよりもドイツとの比較で明らかな問題の解明と是正、また先進国では米国と日本だけになった「死刑制度」の廃止、さらには国際基準に照らし捜査の可視化、代用監獄の廃止、先にあげた冤罪を生む「最良証拠主義」の見直しなど、解決すべき司法の課題は多い。三権分立をうたう憲法のもと、まずは「ヒラメ裁判官」を一掃するためにも、肝腎なところに税金をまわして裁判の公平、公正を保障する体制をつくることが先決だろう。

 「ヒラメ裁判官」:http://www.news.janjan.jp/living/0902/0902197812/1.php

“仁者敵無し”とは?~矛盾の根源に思いを致す!

2009-02-23 10:27:53 | Weblog
 財務大臣の失態に関してはさまざまな論評がなされているようだが、常識的な疑問は、記者団を含むあれだけ大勢の取り巻きがありながら、なぜ、あんな心身状態の者を会見場に出したかである。本人の失態が責められるべきは当然だが、なかでも随行記者団のジャーナリスト精神喪失や極まったりと言うしかない。たびたび指摘してきたことだが、わが国政治の目も当てられない“テイタラク”が、ジャーナリスト「不在」に起因することは衆目の一致するところだろう。

 さて、小泉純一郎が麻生太郎をこき下ろしたらしいが、これまた「目糞鼻糞を笑う」たぐいで、もともとどっちも一国の宰相という器ではない。マスコミは相変わらず興味本位の記事を書いているようだが、「延命装置」をつけて生きているような麻生太郎に何ができるというのだろう。国家国民の行く末を本当に憂うるなら、民主党も「院内」で「ああでもない、こうでもない」と空騒ぎしていないで、「院外」に出て国会を包囲するくらいの国民動員を呼びかけ解散をもぎとったらどうか。年金、医療、雇用、郵政等々、累積する虐政に国民の生理的我慢水域はとっくに越えているのだ。


 魏の恵王の問いに答え、孟子は「仁者敵無し(大事なことは仁だ)」といい、斉の宣王が「どんな徳があれば、王者になれるのか」と尋ねると、孟子は「ただ仁政を行って人民の生活を安定すれば、王者となれます」と答えた。五常(仁・義・礼・智・信)の筆頭に置かれる「仁」こそ政治の要諦と言っている。儒教ではこれを“最高徳目”においているわけだ。では「仁」とは何か。孔子は顔淵の「仁を問う」に答えている。

 <己に克ち礼に復(かへ)るを仁と為す。一日も己に克ち礼に復(かへ)れば天下人を帰(ゆる)す。仁を為すこと己に由る、人に由らんや。> 
 
【現代語訳】
 仁は心の全徳で天の与えた正しい道であり、天の与えた正しい道が形に表れて中正を得たものが礼である。しかし、仁は私欲のために壊(やぶ)られるものである。故に己の私欲に打ち勝って礼に反(かえ)るのが仁を行う方法である。仁は天下の人の心に同じく具(そな)わっているものであるから、誠に能(よ)く一日の間でも己の私欲に打ち勝って礼に反(かえ)れば、天下の人が皆我が仁を与(ゆる)す程、仁を行う効果ははなはだ速やかでありかつ至って大きいものがある。このように仁を行うのは己自身の修業によることで他人に関係のある事ではない。(宇野哲人『論語新釈』/講談社学術文庫)

 ひっ詰めて言えば、「仁とは天の与えた正しい道」で、「医は仁術」などの言葉として使われている。志の低い政治家ばかり目立つわが国で、いくら孟子の「仁者は敵無し」を説いても“牛に経文”に等しいのだろうか。


 麻生太郎は「100年に一度の経済危機」と念仏みたいに唱えているが、積年の“政(まつりごと)”が内蔵してきた「矛盾」がさらなる「矛盾」を生み、現象を複雑怪奇にしていることに気付くべきだろう。一体、その矛盾の正体とは何か。それを知る手がかりに一文を挙げよう。稀有な作家“森敦”の『天に送る手紙』(小学館ライブラリー)から。


 <「対岸の風景」

 なにごとをするにも、わたしたちはまず道を造り、道にしたがって行わなければならぬ。この故に、道はわたしたちがよって以て交通するものから、更に意味を拡大して天道などという。柔道などという。剣道などという。花道などという。茶道などという。かくて道徳も、柔道も、剣道も、花道も、茶道もわたしたちがあるべき世界を形成し得るのである。
 わたしはかつて熊野の山中で、ダムを造る仕事にたずさわっていた。ダムを造るにはなにをおいても、ダムに至る道を造らねばならぬ。道を造ろうとして、わたしは道に二つの条件をみたさねばならぬことを知った。一つはわたしがいまある地点から、わたしの行こうとする点を出来るだけ短い距離にしようとする冀(ねが)いである。二つはわたしのいまある点から、わたしの行こうとする点へ出来るだけ労せずして至ろうとする冀いである。
 この二つの冀いは明らかに矛盾する。なぜなら、出来るだけ短い距離にしようとすれば、わたしがいまある点と、わたしが行こうとする点を直線で結ばねばならぬ。できるだけ労せずして至ろうとすれば、わたしがいまある点と、わたしの行こうとする点を等高線に沿って曲線で結ばねばならぬ。道によって世界が形成される以上、世界もまた根源的な矛盾を孕(はら)むものでなければならない。
 わたしは毎夏月山新道を車で走る。月山新道はもと六十里越街道と呼ばれたところだが、六十里越街道を六十里越街道たらしめた当時を思い起こさせる集落は、もはや目にはいらない。しかし、こんな対岸の風景を目にとめられたことはないだろうか。川に沿ってやや高く集落がある。その上に集落を結ぶ旧道がある。更にその上に新道がある。すなわち、月山新道の下に六十里越街道があり、更にその下に六十里越街道を六十里越街道たらしめた集落があって視界から消えたのである。隧道と橋梁の発達が道を次第に天に近づけ、道はそれみずからの矛盾から解き放とうとしているかに見えるが、矛盾から解き放とうとすることが、更に天へと拡大する大きな矛盾を孕んで行くのではあるまいか。>


 “道”を造るにあたってひそむこの“直線”と“曲線”の根源的「矛盾」の存在。水が上(かみ)から下(しも)へ流れるように本来、「正しい道」は敷かれているはずだ。だが、現実の浮世は“直線”と“曲線”の存在と無縁ではありえない。この「矛盾」のなかに「正しい道」をどう敷くのか。それが政治の要諦ではないのか。よく「いまの政治には哲学がない」などというが、「正しい道」が内包する根源的「矛盾」に思いが至らないということだろう。つらつら思うにつけ、わが国現状のなんと浅ましくも情けないテイタラクであることやら。

「“平泉”~みちのくの浄土」展~戦争のない理想郷だった!

2009-02-21 10:40:39 | Weblog
 「みちのくの浄土」“平泉”を訪ねたのは、車で東北をめぐった15,6年前の旅でのことだった。年輪を重ねた杉が中天高く鬱蒼と立ち並ぶ中尊寺の参道を登ると、左手奥に忽然と浮かび出る金堂。その頃はまだ、「世界遺産をめざす」などという騒ぎはなく、観光客もほどほどだったように記憶する。それにしても、あの金堂を目にするだけで、ここが尋常な地でないことを思い知らされた。その「“平泉”」が「世界遺産」登録をめざして“特別展”を開催しているというので行ってきた。

「平泉~みちのくの浄土」展(福岡市博物館)
             


 案内のパンフには次のようにある。

 <十一世紀の終わりごろ、奥州藤原氏が開いた平泉。それは、仏教を心の柱とし、美しいお堂や庭園に彩られ、富にあふれた都でした。

 そのいにしえの姿を、現代の我々は、黄金や螺鈿(らでん)の輝きに満ちた仏教文化の遺産や、さかんな発掘研究の成果から知ることができます。

 この展覧会は、国宝中尊寺金色堂の仏像(西北壇諸仏十一体)をはじめとする仏教美術の名品や多彩な歴史資料約260点をとうし、平泉の魅力を伝えるものです。>

 
 中尊寺の寺伝は慈覚大師円仁の開基(850)としているが、それを裏づける確かな史料はなく、実質的には藤原清衡が創建したことになっている。展覧会の頭初の展示品として「中尊寺供養願文」が置かれていたが、それによれば、前九年・後三年の役の戦没者(清衡は妻子のすべてを失う)をはじめ、あまたの霊を浄土へ導き、奥州全体を仏国土にしたいとの願いから建立したと記されている。1124年、金色堂落慶、2年後に主要堂塔が完成した折に清衡が読み上げたものという。肉親相食む悲惨な戦を体験した清衡の、戦争のない理想郷を造りたいという強い願望が読みとれる。

 陸奥押領使となった二代基衡(1105?~1157?)は、父の意志を継いで勢力を拡大し、平泉の南玄関口に大伽藍毛越寺(もうつじ)を建立、中尊寺の規模が寺塔四十余宇、禅坊三百余宇だったのに対し、毛越寺は寺塔四十余宇、禅坊五百余宇に及んだと『吾妻鏡』にあるという。基衡の時代に仏教文化華やかな平泉の原形が出来あがったといえるようだ。

 三代秀衡(1122?~1187)は、鎮守府将軍に任じられ、のちに陸奥守になった。秀衡は父が残した毛越寺の一部未完成部分を完成させ、さらに無量光院、加羅御所の築造、平泉館という政治の中枢部を造り上げ、要所に大寺院を配したこの世の楽園都市・平泉を完成させた。またこの秀衡は源義経を少年時代と都落ちの際の二度にわたって庇護し、わが子泰衡に「伊予守義顕(義経)ヲ大将軍トナシ国務セシムベキ由、男泰衡以下ニ遺言セシム」(『吾妻鏡』)と言い残して世を去っている。

 周知のとおり、武家政権を確立した源頼朝は、平家滅亡後、弟義経と対立するのだが、義経を庇護していた秀衡が死ぬと、翌1188年2月と10月に頼朝は朝廷に宣旨を出させて泰衡に義経追討を要請する。これに応じない泰衡に対し頼朝は執拗に奥州追討の宣旨を要請し、ついに院では泰衡追討の宣旨が検討され始めた。これに屈した泰衡は1189年閏4月30日、兵数百騎で義経の衣川館を襲撃し、義経を自害へ追いやった。泰衡は義経の首を差し出し事を治めようとしたが、頼朝はこれを聞き入れず自ら奥州追討に向かう。迎え撃つ奥州軍はあっけなく敗れ、泰衡は主な館に火を放って北方へ逃れた。こうしておよそ100年にわたり栄華を誇った平泉も戦禍の犠牲になったという。

 北方に逃れた泰衡は頼朝に助命嘆願を申し入れるが、頼朝はこれを許さず探索のすえ泰衡の首を討ち取らせ、古事に習いその首は眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けられたという。泰衡25歳。無傷で残った中尊寺金堂中央の須弥壇の中には清衡、基衡、秀衡の遺骸とともに泰衡の首が納められている。(以上「Wikipedia」などネット内記事参照)


 この展覧会で目を引いたのは清衡らが発願した膨大な数の「紺紙金銀交写経」(一行おきに金字と銀字で書写した経)である。大長寿院所有の「金字一切経」が2,739巻、高野山金剛峰寺に所蔵されるもの4,296巻など、いずれも国宝に指定されている。写経巻頭部分に描かれている金泥の絵は発願者の篤い願いを伝え、これは平安時代の絵画の貴重な資料になっているという。

 
 近年、平泉では大掛かりな発掘調査が続けられ、栄華を誇った平安の北の都に光をあてようとしている。古くから東北地方は金銀の産地として知られ、中尊寺金色堂ほか煌めく都の出現もそれに支えられたものだった。そればかりか奈良の大仏建立にあたって用した膨大な金も、そのほとんどが東北からもたらされた。さらに、肥沃な土地に恵まれ、その豊かな天然資源と人的資源がうまく結びついて「夢の理想郷」は誕生したのだろう。だが、歴史遺産の大部分はいずれも戦禍によって失われてきた。清衡が築いた戦争のない理想郷「平泉」はおよそ100年で潰えたが、思えば、現代人のわれわれは100年と続く平和を体現していない。そんな思いを抱きながら過ごした一日だった。

朝鮮人BC級戦犯の記録:『キムはなぜ裁かれたのか』を読む

2009-02-19 09:13:17 | Weblog
 まず、本書(内海愛子著『キムはなぜ裁かれたのか』/朝日選書)のカバーにある内容紹介を見ておこう。

 <連合国によるBC級戦犯裁判では、朝鮮人148人が有罪となり、23人が死刑になっている。なぜ多くの朝鮮人が戦犯になったのか。
 戦時中、日本軍は捕虜の扱いを決めたジュネーブ条約を無視し、連合軍捕虜の4人に1人が死亡した。その捕虜監視を朝鮮人に当たらせていた。裁判では、命令に従うしかなかったにせよ、個人の責任が厳しく追及されたのだった。
 戦後、「日本人」としてスガモプリズンにつながれ、釈放後は「外国人」として補償や援護の対象からはずされ、「対日協力者」として祖国にも帰れなかった朝鮮人戦犯たち。彼らを30年間追ってきた筆者は、裁判記録と本人証言をつきあわせ、現場を歩き、被害と加害が錯綜する歴史の真相を明らかにする。彼らはなぜ、何を、裁かれたのか。植民地支配、捕虜政策、戦争裁判、戦争責任を検証し、彼らの人生をたどりながら、「戦争」と「戦後」を問う。>

 著者は、1982年に『朝鮮人BC級戦犯の記録』を出版し、これが本書の底本ともなっている。その出版から25年の間にさまざまな劇的な事が起きているが、なかでも、一度「死刑」宣告を受け、人違いだったとして処刑直前に20年の禁固刑に減刑された“李鶴来”(日本名:広村鶴来・ヒロムラカクライ)の「物語り」は胸を突かれる。

 彼ら朝鮮人のほとんどは、当時の朝鮮では破格の50円という給与で募集された「捕虜監視員」に応募した者たちだ。捕虜監視員が何をするのか知らなかったし、軍人ではなく軍属だというが、その違いもわからなかった。全員が記憶しているのは、「二年間の勤務」「月給50円」「勤務地――南方と朝鮮」「勤務内容――捕虜の監視」である。1942年、3016人の朝鮮人若者がこれに応じ、厳しい訓練のあと南方の捕虜収容所へ送られた。

 東京裁判では、太平洋戦場において、日本の捕虜になったアメリカ・イギリス連邦兵士13万2134人のうち3万5756人が死亡した(死亡率27%)と指摘しているが、あの有名な「泰緬鉄道」に投入された捕虜は48296人、うち苛酷な労働で犠牲になったもの11234~16000人、実に30%を超える死亡率である。日本軍の無謀で非人道的作戦がどういうものだったかわかるだろう。これらの捕虜たちの監視の最先端業務に就かされたのが朝鮮人たちだった。


 “李鶴来”は泰緬鉄道建設現場のヒントクで捕虜監視員をしていた。泰緬鉄道の中で最大の難工事は、李鶴来のいたヒントクの工事だった。工事に動員されたオーストラリア人捕虜たちは、このヒントク地域を“Hell Fire Pass”(地獄の業火峠)と呼んでいたが、ここで働いていたのがダンロップ軍医の率いる部隊で、李鶴来はこの部隊の監視員だったわけだ。

 敗戦後、捕虜監視員だった朝鮮人の多くが、「日本人」の戦犯容疑者として収監された。泰緬鉄道第五分所の監視員だった趙文相(日本名:平原守矩・ヒラハラモリツネ)は、1947年2月25日、チャンギ刑務所(シンガポール)で絞首刑になった。享年26歳。趙文相は長文の遺書を残しているが、執行官に連れ出される時、壁にこう書き残した。

 <よき哉 人生
  吾事 了(おわ)れり>


 “李鶴来”は、1945年9月29日に逮捕され、バンコクのバンワン刑務所に収監された。起訴状には「ヒントク捕虜収容所の所長で、将校だった」「患者を就労させた」など虚偽の証言があり、これが事実でない事が明らかになって一旦釈放され、引揚げ船で帰国の途上にあった。ところが、寄港地の香港で召喚状を持ったイギリス軍将校に捕まり、チャンギ刑務所に逆戻りしたのである。今度は泰緬鉄道のヒントクで監視していたオーストラリア部隊のダンロップ軍医らが告発していたのだ。労働に出す捕虜の数をめぐって対立していた相手である。捕虜の死体がゴロゴロしている状況だった泰緬鉄道の作業現場で、「捕虜監視員」がどう見られていたか想像に難くない。チャンギ刑務所に再収監され、起訴されて下された判決は絞首刑。起訴項目は以下による。

 <シャムのヒントクにおいて1943年3月と8月およびその間、日本帝国陸軍に勤務して戦争捕虜の監督・管理にかかわっていた時、戦争法規又は慣例に違反して、捕虜を非人道的に扱った。>

 “李鶴来”の弁護人杉松富士雄は、この判決には事実誤認があるとして「確認官が被告人に対して事実認定と宣告刑を破棄するために」あらゆる手段を用いて訴えた。その結果、1947年10月24日、死刑の確認官であるオーストラリア陸軍少将W・N・アンダーソンは、ヒロムラを死刑から20年の拘禁に減刑した。

 “李鶴来”らイギリス、オーストラリア関係の戦犯231人が横浜に着いたのは、1951年8月27日、サンフランシスコ平和条約が調印される直前だった。刑期が残っていた227人は、そのままスガモプリゾンに移された。このなかに27人の朝鮮人戦犯がいた。朝鮮人戦犯たちは、刑期を終えても帰るところはなかった。故国では彼らを「親日派」「対日協力者」とみて、受け入れようとしなかったのだ。著者は書いている。

 <70年代、80年代になっても、戦犯に対するこうした視線は続いていた。ある在日韓国人の歴史学者は筆者への手紙のなかで次のように書いている。
「『戦犯』は確かにわれわれ(組織もそうですが)の間では戦争協力者のように錯覚していて冷淡であったように思われます」(1981年4月6日付)>


 「朝鮮人戦犯」“李鶴来”の長い闘いは、出獄のその日からはじまるのである。


 1990年8月、NHKは四夜連続で「アジア太平洋戦争」を放映した。その一本が「チョウムンサンの遺書~シンガポールBC級戦犯裁判」(制作・桜井均ほか)である。朝鮮人BC級戦犯問題を正面から取りあげた初めてのドキュメンタリーである。NHKのスタッフがオーストラリアの元軍医E・E・ダンロップを取材した。彼の言葉が“李鶴来”に伝えられた。
 「ヒロムラはそんな悪い奴ではなかった」「彼が絞首刑の判決を受けたことは知らなかった」「今も祖国に帰れないというが、何か手助けをすることができないか」

 ダンロップはまた「李鶴来たちはみな責任のない、将棋の歩だった。生きていた戦争の時代の決定的な犠牲者だった。重い責任を負わされた哀れな、悲劇的な小さな将棋の歩です」とも話していた。

 ダンロップの言葉が、李鶴来の呪縛を解いた。

 この困難な状況に置かれた多くの捕虜の命を救い、オーストラリアの国民的英雄といわれるダンロップ軍医は、NHKの取材で語っている。

 <日本人を許してあげよう、日本人と普通につき合い、仕事をしようと考えていた私を少々、苛立たせることがある。それは日本では、本当の歴史を教えていないように見えることだ。歴史教育がもたらす自己分析こそ、日本が究極的にしなければならない残された課題だと思う。>


 1991年8月、オーストラリアのキャンベラにあるオーストラリア国立大学で「泰緬鉄道に関する国際会議」が開かれた。“李鶴来”はここに参加することを決意した。会議にはダンロップその他“李鶴来”の知り合いも参加していた。彼はセミナーで話した。

 <ダンロップ中佐や元捕虜の方々に、加害者の一員として、大変申し訳なかった、と心からお詫びしたかったのです。皆さんの前で心からお詫びします。>

 “李鶴来”はダンロップにお土産の時計を手渡した。そこには“No More War, No More Hintok”の文字が刻まれていた。これにダンロップから丁重な礼状が届いた。そこには次のような「赦(ゆる)し」の言葉が書かれていた。

 <親愛なるリーさん
                     1991年8月29日
 
 お便りが何日か遅くなりましたが、どうかお許しください。この何日かの間にすべてのエネルギーが窓から流れ出してしまったような気がします。
 私はあの美しい金時計と鎖を何回も見つめました。スイスの時計職人の手になるすばらしい作品です。この高価な贈りものとそれに刻まれた言葉に大変心を打たれています。
 私にできるのは温かい心で御礼を申し上げることだけですが、その一方に負い目と苦しみを感じます。(中略)
 私はもうずっと前にあなたが当時果たした役割を理解し、そして赦していたのですから、どうか安心してください。私たち全員が悲劇の中に投げ込まれたのですし、そのことに対して私たちにできることは何もないのですから。
 いつかまたお会いできることを願っています。
 感謝の気持ちを込めて
                      E・E・ダンロップ >



 本書を読み終えて、あらためて「朝鮮人BC級戦犯」とA級戦犯でありながら罪を逃れた者たちの存在を痛感させられた。その片方の一人岸信介は、公文書で「米国CIA」の手先だったことが明らかになったとして、1960年当時、首相として「日米安保条約」を改定したことは「無効」とする裁判が始まろうとしている。いまだ、わが国の「戦後」は終わっていない。

日本版:『山の郵便配達』~民営化で廃止の危機に!

2009-02-17 11:49:50 | Weblog
 「郵政民営化」に関しては先日も取りあげたが、“小泉改革”のウソがここでも表出している。「郵便業務は今まで通り」と約束したはずだが、ここにきて過疎地の郵便業務切り捨てが本格化している。『日刊ベリタ』は「くらしの動脈が寸断される過疎地の村 民営化で進む郵便業務切捨て 東京檜原村から」と題し次のように伝える。

 <「なぜ檜原村なのか?なぜ沢山ある郵便局の中で、この村が対象になったのか?」 穏やかな口調で、しかし怒りを滲ませながらこう語ったのは、東京都檜原村議の丸山美子さんである。今年6月28日、郵政公社は来年実施される郵政民営化に向けて、「郵便局再編計画」を発表した。この計画では、収益性の低い地方郵便局において、郵便物の収集・配達、貯金・保険の集金などの外務業務を廃止し、窓口のみにすることが明らかにされた。全国で1048局、東京では青ヶ島、御蔵島、利島、小笠原島、檜原村の5局が対象となった。7月末、わたしたち「郵政民営化を監視するネットワーク」のメンバーは、この檜原村で再編計画に反対する住民署名が集められていることを知り、当地へ現地取材に訪れた。(以下は「有料記事」に続く)>

 さらにこの檜原村に関しては『レイバーネット日本』に「崖っぷちの郵便屋さん~民営化に抗して村のライフラインを守る」という記事があり、当地取材の動画が見られる。中国映画で雲南省天空の村を舞台に、泊りがけで郵便物を届けて廻る『山の郵便配達』というのがあったが、檜原村の「郵便屋さん」はあの物語を想い出させる。1871(明治4)年、英国に学んだ前島密(まえじまひそか)が“国営事業”として発足させた「郵便制度」が、いまボロボロにされようとしている。

 動画:『09冬 檜原村再訪~』:http://video.labornetjp.org/Members/t_dave/videos/hinohara_ut01.wmv/view(画面をクリック)


 ついでに、植草一秀さんのブログ(2月16日)で知ったが、「郵政民営化反対」を唱え続け、小泉純一郎が差し向けた「刺客」“片山さつき”に落とされた静岡の“城内みのる”のブログに注目すべき記事(2月13日付)がある。

 <…いやそれにしても、山からまちへ降りたら、というか事務所に戻ったらすごいことになっていた。小泉純一郎元総理を筆頭に「郵政民営化推進派」がテレビや新聞をにぎわしている。
 まあ、私は無所属なので対岸の火事を決め込みたいところだが、このブログの読者に以下の1~6の「素朴な疑問」を発したい。どう思うか、感じるか皆さんの感想をお聞かせ願いたい。

1.郵政民営化見直し、四分社化見直しがなぜいけないの?
 「見直し」とは、悪いところを「改善する」ことでしょ。
 これって「改革する」ことじゃないの??
 「見直し反対」「振り子を戻すな」って、いつの間にカイカク派が抵抗勢力になったの?
2.「見直し断固反対」って今ごろこんな態度とっているのは、もしかして国民の目からの「郵政利権(かんぽの宿)かくし」をするためではないよね?
 重要なのは「改革の本丸」の郵政民営化がまさか、「売国の本丸」「日本売りの本丸」ってことじゃないことを証明すれば良いだけでしょ。
 早く関係者の証人喚問などをして身の潔白を堂々とはらしましょうよ。
3.数年前に私がある雑誌の鼎談で申し上げたが、郵政民営化をめぐる問題は、「改革派」対「抵抗勢力」の戦いではなくて、たった一握りの「売国派」対「国益擁護派」の戦いだった。
 いや違うという反論を聞きたいのだけど。
 (注:8割近い国会議員は法案の内容が良く分かっていなかった。理由:法案を読んでいないから。いちいち読むのがめんどうだから。悲しいかなそれは今も昔も同じ。)
4.新聞の社説を書く人も、経済学者も、多くの国会議員も郵政民営化の中身が本当に分かっているのかな。中身が分からないのに議論していては目もあてられないよ。
5.あと郵政民営化をして良かったことがあったら教えて欲しい。
 しかも具体的な数字をあげて。
 「職員が笑顔で応対してくれるようになったから民営化してよかった(意味不明)」などというふざけた答えはよしてね。
6.全国に約2万局ある郵便局の事務機器や自動車、携帯電話などはこれまでできるだけ個々の郵便局が地元の業者から購入、リースしていたようだね。
 民営化してからまさかかんぽの宿のように、経営者の自由裁量で特定の企業から一括して購入、リースしているようなことはないよね。>

 
 小泉・竹中政権とは一体何だったのか、徹底的に洗い出す必要がありそうだ。

 
 『城内みのるのブログ』:http://www.m-kiuchi.com/2009/02/13/yuseiriken3/

今日は“兼好法師”の忌日~言霊に惹かれてひもとく古典

2009-02-15 11:59:11 | Weblog
 「今日は何の日」などの記載によれば、2月15日を“兼好法師”の忌日としている。生年(1283年)、没年(1350年)とも実は定かでないらしいが、それを前提に仮に「忌日」として書くことにする。

 言うまでもなく“兼好法師”は、日本三大随筆の一つ『徒然草』(他に清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』)の著者である。神職の家に生まれ、成長して朝廷に仕え、官は蔵人を経て左兵衛佐(さひょうえのすけ)に至った。宮廷の官吏を脱し出家遁世したのは推定30歳頃という。『新訂 徒然草』(岩波文庫)の校注者の一人安良岡康作氏の解説を見てみよう。

 <『大徳寺文書』の中に、兼好が、正和2年(1313)9月に、六条三位家から、山城の国山科の小野庄(いまの京都市山科区山科のうち)の水田一町を90貫文で買い取った時の田地売券が存するが、これは、退職宮廷官吏で遁世者となったばかりの兼好の経済的地盤としてどうしても必要なものであったと推測される。>

 この地に居住している間に、二度も関東に下っている。南北朝の動乱期には北朝側に属して京に留まり、歌人・歌学者として次第に名を成していく。

 <かくして、歌人・古典学者・能書家・有識故実家として世に認められ、おそらく、観応3年(1352)以後の数年間に、70歳前後の年齢で、京都以外の地で世を去ったものと想像される。彼の死を伝える資料が全然ないことも、この想像の裏づけとなるように、わたしには思われる。>(前出解説)


 業績は定かなのにその生死が知れないことは珍しいことではない。要は“兼好法師”が作文を通して今に生きていることである。

 古典の素養があるわけでもないのに、たびたびその古典を記事に引用しているのだが、そぎ落とされた文を読み深めるうちに、そこに言わんとする意が情景を伴って自ずから現れてくる。仮に対比すれば、現今の国会討論などのまことに冗長な弁舌との隔絶が痛感できるというわけだ。言葉が言霊であった時代への憧憬とでも言うべきだろうか。次の一文などいかがだろう。

 <赤舌日(しゃくぜちにち)といふ事、陰陽道(おんやうだう)には沙汰なき事なり。昔の人、これを忌まず。この比(ごろ)、何者の言ひ出でて忌み始めけるにか、この日ある事、末とほらずと言ひて、その日言ひたりしこと、したりしことかなはず、得たりし物失ひつ、企てたりし事成らずといふ、愚かなり。吉日を撰(えら)びてなしたるわざの末とほらぬを数へて見んも、また等しかるべし。
 その故は、無常変易の境、ありと見るものも存ぜず。始めある事も終りなし。志は遂げず。望みは絶えず。人の心不定なり。物皆幻化(げんげ)なり。何事か暫くも住する。この理(ことわり)を知らざるなり。「吉日に悪をなすに、必ず凶なり。悪日に善を行ふに、必ず吉なり」と言へり。吉凶は人によりて、日によらず。>(「第九十一段」)

 ここで「赤舌日」についてのみ解説を見ておこう。

・赤舌日=太歳神(木星)の東門を守護する番神を赤口神(しゃっこうじん)、西門の番神を赤舌神(しゃくぜつじん)といい、その赤舌神が六大鬼を使って西門を、日々、順番に守らせるうち、第三の極悪・忿怒の羅刹神(らせつじん)の番に当る日を特に赤舌日といい、禁忌とした。六日目ごとに一度、廻って来、一年間に60日あった。

 現在に残る「六曜(六輝)(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)」に関する記述だが、「吉凶は、人によって生じるのであって、日によって生じるものではない」と断じている。もっともなことだが、現代社会でも「友引」には火葬しないとか、結婚や地鎮祭などは「大安」に限るという風習が残る。しかも、「友引」には火葬場も公休、公的行事は「大安」を選んで執り行うなど、この風習は民間のみではないのだ。“兼好法師”が知ったらあきれるだろう。


 もう一文(中途から)挙げてみよう。

 <……世を捨てたる人の、万(よろづ)にするすみなるが、なべて、ほだし多かる人の、万(よろづ)に諂(へつら)ひ、望み深きを見て、無下に思ひくたすは、僻事(ひがこと)なり。その人の心に成りて思へば、まことに、かなしからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべき事なり。されば、盗人(ぬすびと)を縛(いまし)め、僻事をのみ罪せんよりは、世の人の餓(う)ゑず、寒からぬやうに、世をば行(おこな)はまほしきなり。人、恒(つね)の産なき時は、恒の心なし。人、窮(きは)まりて盗みす。世治(おさま)らずして、凍餒(とうたい)の苦しみあらば、科(とが)の者絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯(をか)さしめて、それを罪なはん事、不便(ふびん)のわざなり。
 さて、いかゞして人を恵むべきとならば、上(かみ)の奢(おご)り、費(つひや)す所を止め、民を撫で、農を勧(すゝ)めば、下(しも)に利あらん事、疑ひあるべからず。衣食尋常(いしょくよのつね)なる上に僻事せん人をぞ、真(まこと)の盗人とは言ふべき。>(第百四十二段)

[言葉の解説]
・僻事=道理や事実に合わないこと
・恒の産なき時は、恒の心なし=一定の資産・財産がなければ、心も定まらないことで、出典は『孟子』の言葉「恒産無くして、恒心有る者は、惟(ただ)、士のみ能(よ)くすと為す。民の若(ごと)きは、則ち、恒産無ければ、因って恒心無し」
・凍餒(とうたい)=衣類がなくてこごえ、食物がなくて飢える。

 
 ワーキングプアと呼ぶ「あぶれ者」が続出する一方で、資本家たちは儲けをたっぷり溜め込み「赤字、赤字」と唱和する。国もまた「財源不足」にこと寄せ弱い者切捨ての一方で、「わたり」と称する天下り官僚のふところからは札束があふれ出ている等々のあさましい現実。“兼好法師”の「衣食尋常なる上に僻事せん人をぞ、真の盗人とは言ふべき。」との言葉こそ尊いと言わねばならない。

 
 古き善き人の言葉は、まことにありがたいものである。

“郵政民営化”の本質は何か~二つの記録から何が見えるか?

2009-02-13 09:56:10 | Weblog
 「郵政民営化」問題が改めて政治の表舞台に登場しているが、今話題は「かんぽの宿」など施設譲渡をめぐるキナ臭い話ばかりで、問題の本質が覆い隠されている。次に掲げる二つの記事を読み比べれば、背景が鮮やかに浮かんできはしないだろうか。一つは2005年8月2日の参議院「特別委員会議事録」、もう一つが2005年8月9日付郵政公社総裁宛の「ラルフ・ネーダー書簡」である。


 ◆2005年8月2日、参議院「郵政民営化に関する特別委員会」で、民主党の櫻井充議員の質問から。

 <ここに、日本とアメリカの対日要望書、対米要望書というのがございます。これはアメリカの大使館のホームページ、それから日本の外務省のホームページに掲載されていて、お互いにこういうことを基に話し合いをされているようです。本年の要望書は日本における民営化の動きに特段の関心を寄せた、これは郵政公社の話ですが、……>

 と前置きして、竹中大臣(当時)にこの「要望書」を知っているかどうかを問いただした。「知らない」と白を切る竹中大臣を執拗に問い詰めていたが、「関知しない」と言い張ったため、櫻井議員は次のような事実を突きつけた。

 <それでは、ここにアメリカの通商代表、代表の、まあこの間まで、前ですね、ゼーリックさんから竹中大臣にあてた手紙がございます。現在は国務副長官でございます。その方から竹中大臣にあてた手紙の写しがございます。…
 ここには、要するにこれはどういう手紙なのかといいますと、これは竹中大臣が郵政担当大臣、経済財政担当大臣に再任されたときのお祝いの手紙でございます。 そこの中に、そこの中に、貴殿の業務の成功に対する報償がより多くの仕事を得たということを見て喜ばしく思いますと。そのあとるる書いてありますが、そこのところから後半の方ですが、保険、銀行業務、速配業務の条件を完全に平等にすることを生み出し実行することは私たちにとって根本的に重要です。郵便保険それから郵便貯金を民間セクターとイコールフッティングにするためにも、私たちは経済財政諮問会議からの連絡を歓迎しております。そしてまた、現在民間企業に適用されている郵便保険と郵便貯金への税制、セーフティーネット上の義務の義務化、それから郵便保険商品に対する政府保証を廃止することを諮問したことに私たちは勇気づけられました。

 私はまた、以下の点で丁重に貴殿を後押しいたしますと。2007年の民営化開始時から、郵便保険と郵便貯金業務に対する保険業法、銀行法の下で同様の規制、義務、監督、完全な競争、競争条件の平等が実現するまで新商品、商品見直しは郵便保険、郵便貯金に認めてはならず、平等が実現された場合にはバランスある形で商品が導入されること。新しい郵便保険と郵便貯金は相互補助により利益を得てはならないこと。民営化過程においていかなる新たな特典も郵便局に対して与えてはならないこと。民営化の過程は常に透明で、関係団体に自分たちの意見を表明する意義ある機会を与え、決定要素となることとする。今日まで私たちの政府がこの問題について行った対話を高く評価するものですし、貴殿が郵政民営化での野心的で市場志向的な目標を実現しようとしていることに密接な協力を続けて行くことを楽しみにしております。貴殿がこの新たな挑戦に取り掛かるときに私が助けになるのであれば、遠慮なくおっしゃってください。

 しかもです、これはタイプで打たれたものですが、ここにです、ここに自筆の文章もございます。自筆の文章です。そこの中で、わざわざここに竹中さんとまで書いてあります、竹中さんと。貴殿は大変すばらしい仕事をされ、数少ない困難な挑戦の中で進歩を実現しました。あなたの新たな責務における達成と幸運をお祝いいたしますと。これは去年の10月4日の時点ですので、貴殿と仕事をすることを楽しみにしておりますという形で手紙も来ております。>

 竹中大臣の答弁。

 <ですから、今までそういうようなことに対しての要望がなかったということでは僕はないんだろうと、そういうふうに思っています。>

 櫻井議員。

 <ですから、ここは本当に大事なことなんですね。まあ今日はテレビが入っていますから委員会は止めませんけれどね。ですが、ですが大事な点は、総理が先ほどアメリカ、アメリカと言うなとおっしゃっていますが、こういう形で送られてきて、事実を私は申し上げているだけでございます。>


 (上の記事は“植草一秀”氏のブログ『知られざる真実』(最後にリンク)より採録させてもらった)

 
 ◆この質疑の一週間後、アメリカの消費者運動のリーダー・“ラルフ・ネーダー”が、郵政公社の生田正治総裁宛に次の書簡を送っている(その写しは小泉純一郎首相へも送られた)。

<「日本の郵政民営化についての書簡」 (ラルフ・ネーダー)

 2005年8月9日

東京都千代田区霞ヶ関1-3-2 

郵政公社   生田正治様

 長年にわたり、小生は日本の郵便局が提供している郵便と金融サービスの高い水準を承知しております。郵便は正確かつ効率的で、郵便局は最も小さな村にまで配置されています。

 日本の郵便貯金制度は、単に便利というだけでないことに留意すべきです。郵便貯金制度は、金融業務の広範な提供を推進し、また公共事業プロジェクトを通し、経済を安定化させ、刺激するという努力を、長らく支援してきました。さらに、郵便職員は共同体の面倒見がよいことで有名で、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙は、日本の郵便局長の方々は“共同体の柱石”だと正しくも報道しています。

 ところが、こうした成功の実績にもかかわらず、小泉純一郎首相は郵政民営化推進を主張し続けています。明らかに、イデオロギー的なものと、私利を画するという営利的な動機の組み合わせから民営化を狙う組織である、アメリカ合衆国通商代表部と、アメリカ商工会議所に、彼が支援されているのは困ったことだと、アメリカの一国民として思っております。小泉首相の要求は日本人のわずか24パーセントに支持されているにすぎません。日本国民は、民営化が、郵便サービスの低下を招くであろうこと、そして局の閉鎖となる可能性もあることを理解しているのです。スウェーデンやニュージーランドのような国々における郵政の独占廃止は、これらの国々で、郵便局のうち半数の閉鎖をもたらし、アルゼンチンでの郵政民営化という冒険的企ては、目も当てられぬ失敗となったため、最近、再度国有化されるに至りました。

 アメリカの為政者達は、無謀な民営化を押しつけるのではなく、銀行サービスを受ける余裕がなかったり、拒否されたりしている何百万人ものアメリカ人達のために、郵便貯金制度を確立することを含め、郵便サービスを成功裏に運用している指標として、日本を範とすべきなのです。

敬具

 ラルフ・ネーダー

 写し:小泉純一郎首相 >

 (本文は『マスコミに載らない海外記事』より収録させてもらった。)

 植草一秀の『知られざる真実』:http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-e00a.html

 『マスコミに載らない海外記事』:http://eigokiji.justblog.jp/blog/2009/02/post-e8c5.html


 「小泉劇場」で演じられた芝居『郵政民営化』の脚本はアメリカ国家が作成したもので、小泉純一郎監督、竹中平蔵主演で上演されたというわけだ。明治以来、日本国民が営々として築いてきた公的資産が、“ハゲタカ”に食い荒らされようとしているというのに、あきれたことに、いまもってこの芝居を懐かしむ「国民」が少なくないらしい。
 
 (なお、植草一秀氏のその後の記事には「郵政民営化」に関する注目すべき指摘が連載されています)

畑の梅が満開~蜜に群れるメジロ

2009-02-11 09:23:31 | Weblog
 借地の畑では、早咲きの梅の花が満開である。隣りの本家の分を併せると古木が畑のあちこちに10数本あり、満開の花にメジロが群れて飛び交っている。半月ほど前には枇杷の花が盛りで、こちらの蜜もメジロの大好物。遅咲きの梅が今は蕾だから、メジロは当分この近辺から離れられないだろう。

 満開の畑の梅:(遠景は佐世保港)
          

 メジロが群れて蜜を吸っている
          


 山すその畑だから、目につくのはメジロなどの可愛い小鳥ばかりではない。本家の奥さんがすぐ隣りに作っていたエンドウの若芽が、私たちが「山のギャング」と呼んでいるヒヨドリに食われてしまった。「ちょっと遅くなったけど」と言いながら、畑二枚に蒔きつけたエンドウは20センチほどになって、奥さんが丁寧に竹笹で添え垣をしていたのである。この被害の第一発見者である私が奥さんに通報すると、「ありゃ、まあ。やられましたか」と、存外なご返答。想像するに、イノシシやカラスなどの被害はいわば日常茶飯事で、騒ぐほどのことではないらしい。当方のエンドウはもう花芽がつくほど大きくなってヒヨドリの被害は免れたが、それにしても手の込んだ作業が台無しになるなんて、他人事ながら腹立たしい限りである。


 これから畑仕事は忙しくなる。今日はこれからジャガイモの植え付け。明日は人参の種まき。そのあとゴボウの種まきやらタマネギの草取りなど、百姓は忙しい。

 これからのことを考え、先週、かねて懸案だった物置小屋を「新築」した。もちろん自分一人ではできないから、近くに住む高校教員を定年退職した甥に手伝ってもらった。というより、彼に全部取り仕切ってもらって、こっちはもっぱら介添え役。この甥は自宅の床の張替えや屋根つきのベランダなど「お茶の子さいさい」で仕上げてしまう器用者。作る小屋の大きさ(畳一枚ほど)、内装・外装などこっちの注文を聞いて、さっそく図面を書き、材料の仕入れから切り込み、仮組みを自宅で済ませ、小型トラックを借りて現場に搬送し組立てたのだが、出来上がりを見て、ただただ見事と言うしかない。台風が来てもびくともしないよう杭で固定し、雨どいも付けて大きなポリバケツ二つに水を貯める。内には棚もこさえてあるので、いろいろ物が置ける。地主のおばさんがのぼって来て、「こりゃまた、たまげた。餅まきでもやらにゃいかんバイ」と言う。

 いよいよ、本腰を入れて百姓をやる気が沸いてきた。


 畑に建てた物置小屋
          

「エルサレム賞」を受賞する“村上春樹”へ非難殺到!

2009-02-09 08:57:44 | Weblog
 著書『パレスチナ』(岩波新書)などで知られるフォト・ジャーナリストの広河隆一さんは、先月、イスラエルの侵略虐殺現場のガザに入り、自身のホームページ(『DAYSから視る日々』:http://daysjapanblog.seesaa.net/archives/20090205-1.html)で現状を逐次報告、去る6日帰国されたらしいが、7日の記事(「村上春樹氏にエルサレム賞受賞について」)をみて驚かされた。フランツ・カフカ賞を受け、ノーベル文学賞に最も近い日本の作家といわれる村上春樹が、国家を偽証するイスラエルから「エルサレム賞」を受賞するというのだ。ネットでは村上春樹への厳しい非難の声が上がっている。「偽証国家」イスラエルを知るためにもぜひ、以下のリンクをご覧ください。

 『P-navi info』:http://0000000000.net/p-navi/info/column/200901271425.htm

 『村上春樹への公開書簡』:http://palestine-forum.org/doc/2009/0129.html


 なお、『P-navi info』さんの記事にリンクされていた「イスラエルの戦争犯罪を告発するユダヤ教徒カウフマン卿の演説」を収録しておいた。同じユダヤ人でも、こうした良識ある人々が健在であることにホッとさせられる。


 <ナチスの亡霊にとり付かれたようなイスラエル、目にあまるパレスチナ人虐殺の惨状の数々。ホロコーストで家族を失ったユダヤ系英国人、ジェラルド・バーナード・カウフマン卿は、2009年1月15日、英国議会下院でガザの悲劇をナチスによる大量虐殺に喩える演説を行った。(翻訳:宮前ゆかり/TUP)

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「ガザにいるパレスチナの祖母たちを虐殺する兵士たちよ、ナチスに殺された我が祖母の死を隠れ蓑にするな」
  
 私は正統派ユダヤ教徒として、そして、シオニストとして育てられましたが、我が家の台所の棚には、ユダヤ民族基金のためのブリキの箱があって、そこに私たちは小銭を入れてはパレスチナにユダヤ人の存在感を築いている開拓者たちを支援していました。

 私が初めてイスラエルを訪問したのは1961年で、そのあと行った回数は数え切れません。イスラエルには家族がいましたし、今でもイスラエルに友達がいます。その一人は1956年、1967年、そして1973年の戦争に従軍し、そのうち二回では、負傷もしました。私が今身につけているタイピンは、その友人に与えられた従軍勲章から作ったもので、彼から贈り物としてもらいました。

 私は初代首相ダヴィド・ベン・グリオン以来、イスラエルの首相のほとんどと知り合いです。ゴルダ・メイアは私の友人でしたし、将軍として1948年の独立戦争のときにネゲブでイスラエル勝利を収めた副首相イガル・アロンも友人でした。

 私の両親はポーランドから避難民として英国に来ました。両親の親族のほとんどがその後ホロコーストでナチスに殺されました。祖母は、ナチスがスタシュフの町に侵攻したとき、病床にありました。ドイツ軍兵士がベッドに伏せていた祖母を撃ち殺しました。

 祖母の死を、ガザにいるパレスチナの祖母たちを虐殺するイスラエル兵士の隠れ蓑にしないでください。現在のイスラエル政府は、パレスチナの人びとに対する殺戮行為を正当化するために、ホロコーストにおけるユダヤ人虐殺に対し異教徒たちが抱き続けている罪の意識を冷酷かつ冷笑的に悪用しています。それは、ユダヤ人の命は貴重であるが、パレスチナ人の命は価値がないとする視点を暗黙に示唆しています。

 2,3日前のスカイ・ニュース(訳注1)で、イスラエル軍のスポークスパーソンの女性、レイボビッチ曹長が、イスラエル人がその時点で800人ものパレスチナ人を殺していることについて質問を受けていました。ちなみに今の合計数は1000人です。同曹長は即座に「そのうち500人は戦闘員です」と答えました。

 それはナチスの兵士の答えそのものでした。ワルシャワ・ゲットーで命をかけて戦っていたユダヤ人たちは、戦闘員だということで無視されたことでしょう。

 イスラエル外相ツィピー・リブニは、ハマースはテロリスト組織なので、政府は彼らとの交渉はしないと主張しています。リブニ外相の父、エイタン・リブニは、テロリスト組織であるイルグン・ツバイ・レウミの最高運営執行官で、エルサレムのキング・ディビット・ホテルの爆破を計画した人物です。その事件では4人のユダヤ人を含む91人が殺され犠牲となりました。

 イスラエルはユダヤ人のテロリズムから生まれました。ユダヤ人のテロリストたちは二人の英国人軍曹を縛り首にし、その死体に地雷爆弾を仕掛けました。イルグンはテロリスト組織であるシュテルン・ギャングと一緒に、1948年にデイル・ヤーシーンの村で254人のパレスチナ人の大虐殺(訳注2)を行いました。今日、現在のイスラエル政府は、好ましい状況ならばファタハのパレスチナ大統領アッパースとの交渉に応じるつもりがあることを示唆しています。それは手遅れというものです。彼らはファタハの前の指導者で私の友人でもあったヤーセル・アラファトと交渉することもできたはずです。それなのに、イスラエル政府はラーマッラーの掩蔽壕にアラファトを軟禁しました。私はその掩蔽壕まで彼を訪ねたものでした。

 アラファトの死後、ファタハの権威が失墜したため、ハマースが2006年のパレスチナの選挙で勝利を収めました。ハマースは非常に面倒な組織ですが、民主的に選出され、パレスチナで力を持つ唯一の勢力です。ハマースをボイコットすることは、私たちの政府によるボイコットも含めて、間違いとして咎めるべきです。その間違いを端緒にして、恐ろしい結果の数々が引き起こされています。

 私はかつてイスラエルの偉大な外相であったアバ・エバンと多くの政策で平和のために共闘したものでした。そのエバンが言っていました。「平和を築くためには、敵と話し合うものだ」

 ガザでどれだけ多くのパレスチナ人をイスラエルが殺したとしても、この実存的問題を軍事的手段で解決することはできません。いつ、どのような形で戦闘が終わろうとも、ガザでは150万人のパレスチナ人がいて、くわえて西岸地域には250万人のパレスチナ人がいます。パレスチナ人は、イスラエル人からゴミのように扱われています。何百ヶ所にものぼる通行止めがあり、身の毛のよだつほど恐ろしいユダヤ人不法入植者から嫌がらせを受けています。そのうち、今から遠くない将来、パレスチナ人の人口がイスラエル人人口を上回るときが来るでしょう。

 イスラエル政府に対し、同政府の行動および政策は許されないということを私たちの政府が明言し、イスラエルに完全な武器使用禁止令を命じるときがきました。平和を実現するときです。しかしそれは征服による解決ではなく、真の平和でなければなりません。イスラエルの本当の目的は征服による解決ですが、その達成は不可能です。彼らは単なる戦争犯罪者であるばかりではありません。愚か者です。>

(訳注1):イギリスの民放ニュース
(訳注2):デイル・ヤーシーン村の虐殺犠牲者は長らく254人とされてきたが、近年の研究により、首謀者が、パレスチナ人の恐怖を煽るためにその成果を誇張したということが判明している。実際の犠牲者数は100~120名。
 ▼ジェラルド・バーナード・カウフマンは労働党員で英国議会議員。