あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№69 ランボーと外人部隊

2014-09-19 13:12:09 | 日記
久しぶりに映画「モロッコ」を見た。最初が何年前かは覚えていない。好きな映画である。アメリカ映画だと思うがそのころのアメリカ映画はまだいい。1930年ころだろう。ゲイリークーパー演じる外人部隊の兵士、舞台はモロッコ、と酒場の歌姫「マレ―ネデートリッヒ」がお互いに気になるが、二人とも愛を信じていない。昔の苦い思いでがそうさせる。しかし心の中ではもう愛しあっている。もう一人金持ちの男が歌姫に結婚を迫る。贅沢な贈り物。彼女は兵士を気にかけながら承諾する。それを知って、兵士は砂漠の遠征に加わる決心をする。過酷な遠征になりそうで、帰ってこれないかもしれない。その時、歌姫は宝石を捨て、フィアンセを捨て、砂漠へ向かう兵士の部隊の後を追う。靴を脱ぎ棄て、ほかの娼婦たちと一緒に。「外人部隊」ではジャンギャバンの最初の映画だったか、それも見たことがある。どちらも白黒映画。外人部隊に加わる勇気はないが、気持ちがよく分かる。どちらもしびれるほどいい映画だ。

さて、昨年の夏だったか、パリに住んでいる先輩の内田さん、ヨーロッパ40年、パリで知り合った弁護士がメールをくれた。井本さん、ランボーがジャワにいて外人部隊にいたことを知っていますか、と。僕がランボーの人生で注目している重要な時である。十分に調べていた。そして夏休みをパリの自宅で過ごして帰ってきた仏語のエレーヌ先生が、ニコニコしながら、井本さんランボーがジャワにいたことを知っていますか、と又聞いてきた。僕が知っていますと答えると、残念そうにしていた。そして雑誌に切り抜きをくれた。アメリカのジャーナリストが尋ねて行ったらしい。そしてその兵舎のあたりを探索した。仏語の雑誌なのでゆっくり辞書を引きながら読もうと思っていてそのままになった。

1875年冬一番かわいがっていた妹のヴィタリーが死ぬ。前の年には一緒にロンドンに行ったり、病気の治療でパリに行ったりしていた。ヴィタリーの日記にはそのことが、うれしかった、アルチュール兄さんのおかげ、と書いてある。その死のショックはランボーにとって非常に大きなことだった。ここから彼の人生が変わったともいえる。彼の悲しみは限りなかった。僕の解釈では、この時からランボーの本当の放浪が始まったのだ。ヴィタリーの死の後「イルミナシオン」の原稿をまとめたりしているが、この時から彼は詩をやめたのだ。また一家はシャルルビルを引き払いは母親の実家のある、ランボーが地獄の季節を書いた村、ロッシュ村へ帰る。

彼の胸はむなしさで一杯になる。ウイーンでは追剥に殴られ身ぐるみはがれたりする。虚しさは募るばかりだ。彼が外人部隊に入りたい気持ちが痛いほどわかる。1876年7月彼は外人部隊に入る。オランダの外人部隊。ジャワ、ジャカルタ。彼は誕生日前なので21歳。不条理、虚しさ、苛立ち、悲しみ、それらにさいなまれる心を癒すには、さらに虚しい馬鹿さ加減と不条理で満たさねばならない。だが彼は一か月で脱走して、ジャングルの中をさまよう。哀しみを忘れ馬鹿さ加減を忘れ、やっとジャングルの中で彼は必至で生きることができる。そのあとも彼の放浪は続く。サーカス小屋で働き可哀そうな少女のことも書いている。

今年の4月、内田さんが帰国した。お土産の一つにその雑誌の切り抜きがあった。読んでもらって解釈してもらえばよかったと今になって思っている。

僕のランボー伝、小説「ロッシュ村幻影」「花書院出版 在庫なし」には次のように書いた。

「、、、、、、シャルルビルから遠くへ、さらに遠くへ。彼は何かから逃げるためにさすらうのか、それとも何かを求めて未知の街へ足を踏み入れるのか。何もない。虚しいだけだ。悲しみはもう思い出さない。悲しみを思い出そうとするとそれはいきなり彼を打倒さんばかりの頭痛になって襲ってくるのだ。
 どこでもいい、感情を、思い出を捨て去るところへ。ただ自分の肉体を使い、酷使し疲れ果ててただ眠るだけの生活へ。肉体だけを見て信じて、筋肉を鼓動を内臓を確認して、その上を日々の時間が流れていくのを感じるだけの生活へ。それは無気力、みじめさというものではなく、むしろ一種の力強さというべきものではないか。もっと、己に与えられる外部からの強力な力がほしい。俺の意識をすべて奪い取るような、俺の感情を根こそぎとりさるような。
 彼は外人部隊に入隊する。舟が出る。彼が向かうのは東洋の果てのジャングルである。不思議な木々や不気味な獣、そして原色の人食い巨花の密集するジャングルの先の闇である。現実の闇だ。現実の無だ。
 そして彼は脱走する。蒸し暑いジャングルの中を何十日もさまよう。出口はあるのか。獣や毒蛇や毒虫から身を守らねばならない。底なし沼に気をつけねば。どこへ脱出しようとしているのか。なにから逃げようとしているのか。そしてなぜ自分はこうしてまた生きようとしているのか。生きねばならないのか。ただこの肉体の生への執着のために生きるのか。頭は、口は、もう言葉を忘れてしまった。言葉と生ねの執着にどんあ意味があるのか。力の限りもがく。これ以上も虚しさを続ける努力をしなければならないのか。そして闇の中で孤独と恐怖に耐えなければならない。それはむなしさを忘れさせる。虚しさと悲しみを忘れさせる。
 ただ生きること、それは悦びでも悲しみでも希望でもない。地獄の業火は、、、、、、、、、、。」つづく









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