あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№151 音楽と人生その2 ベートーヴェン モーツアルト ショパン コールユーブンゲン 

2023-06-15 12:33:54 | 日記
音楽の思い出を語ると懐かしさが抑えきれない。
中学に入ると音楽の授業で、コールユンブンゲン「?」と言う科目があった。楽譜を見ながら声を出して音階を学ぶものだった「だろう」。そんな記憶があるだけだが。それが面白くて授業よりも先に自分でどんどん進んで行った。教師は驚いていた。高校入試で音楽があったのかどうか、憶えていないが参考書にあった、ベートーヴェンのバイオリン協奏曲の短い主題の音楽を自分で読んで口ずさんだ記憶がある。いつどうして覚えたか知らないが、田園の主題を口ずさんで、一人で春の田舎道を歩き続けた記憶はある。あとはラジオの音楽を聴くくらいだったが。「その頃は柔道と詩と勉強のほうが面白かった」プレイヤーとかレコードを買いたくても金はなかった。

高校に入ると、不良仲間との交流が始まった。寺の息子で彼の家にはステレオがあった。モーツアルトの40番41番はその時はじめて聞いた。ベートーヴェン3番5番6番も繰り返して聴いた。初めての煙草がツマミだった。15,6歳のころだ。そして、ランボーの「おお 季節よ、城よ」という詩を口ずさみながら慣れない煙草にむせっていた。その光景は今も消えない。
その頃ビートルズなどは流行っていたのだろうか。流行歌やその頃の歌などは軽蔑して、僕たちは一端の詩人ぶっていた。

また市内には「シャコンヌ」という古典音楽喫茶店があった。時間があるとそこに音楽を聴きながら2時間も座っていた。親の財布から金を盗んで買った煙草は切らさなかった。有名受験高校の学生帽は隠したまま。そこは黒板があって、希望の曲を書くと順番にレコードを掛けてくれる。一時間から二時間待たねば自分の番は来ない。他人の希望の曲を聞くのも悪くはない。いつも満員だったのだろう。他に、大学生が遊ぶところもなかったのだろうか、「高尚?だったのだろうか。」僕はツゴイネルワイゼンと黒板に言語で書いていい気にもなっていた。生意気に、年上の女性に声をかけたり、遊びに誘ったりした。ほとんどの古典音楽をそこで知った。まだ見ぬ異国、触れたことのない歴史、未知のロマン、美しい女性の悲劇、将来僕が闊歩するだろう煌びやかな世界、それらがすべて音楽の世界に広がっていた。

クラブ活動は図書部だったので自分の時間は沢山あった。試験の一週間前まではいつも時間はたっぷりあったので、女子も男子も混じってその頃はやった歌声喫茶に行くのも楽しみだった。ロシア民謡イタリア民謡がおおく、沢山覚えた。その歌の本も買ってきて
カタカナでふってある言語を、意味も分からずに覚えて歌った。留守番の家では大きな声でもよかった。イタリアの晴れやかな太陽と恋、ロシアの雪に埋まった乙女とのひそやかな恋、華やかな宮廷の愛憎物語、僕の声はその世界を貫いていった。
兄弟が多かったから誰のか知らないがプレーヤーもあった。何処で手に入れたが覚えていないが、シャンソンのレーコードもあり、何回も聴きながら、また楽譜も見てカタカナの歌詞も覚えて、一人で歌っていた。その頃覚えていたカタカナの歌詞はまだ覚えている。六〇年以上前の事だ。「最近は覚えてもすぐに忘れる、というより覚えきれない」シャンソンはもう異次元の世界ではなくなっていた。実際に僕はシャゼリゼを歩いていた、夢の中で。そしてシャンソンはイタリア民謡今でも機会があれば歌う。

繁華街に「リバーサイド」というモダンジャズの喫茶店があった。市内でもそうないだろうと思われる大きなステレオセットがあり有名だった。薄暗い室内に澄んだ音が一杯に流れている。そこでも学生帽を隠し、タバコが吸えた。一度、耳に流れるジャズを聴きながら受験英語の単語の勉強をしてみたことがある。覚えたかどうか定かではない。クラスの優秀な真面目なやつを連れて行って威張ったこともある。
ある時地方の母親の里から親戚の女子大学生が家に泊まったことがある。母がどこか市内を案内しなさいとといったので、そこへ連れて行った。えらく感謝されて嬉しかったがその後は会っていない。黒人歌手、演奏者の名前はなぜかおぼきれなかった。渋い声、ピアノ、サックス、どれも大人を感じさせてくれた。

大学に入っても、ビートルズは知らなかった。流行っている歌も知らなかった。モダンジャズを聞かねば遅れている気がした。専門の勉強よりも小説を書き、読み、文学に熱中した。
そして悩みがあるとシャコンヌに何時間も座っていた。失恋の癒し場所もそこだった。涙は誰にも知られなかった。小説の構想も詩の発想もそこで練った。煙草は隠れずに済んだが、そこに酒があったのかどうかは知らない。その頃は酒は今ほど好きではなかった。まだ二〇歳前でもあった。

東京で四年仕事して、帰郷し、父の会社を継いでからは忙しくなかなかそこへは行けなかった。僕の文学への情熱も挫折しかかっていた。暗いつらい日々、四〇年だった。時間を見つけてやっとそこに座っても、落ち着かなかった。だがそこでの小さな憩いは小さいながら得難い時間だった。
そこは七,八年ほど前に店を閉めた。店の歴史は六,七〇年あったのだろう。僕もそこに五〇年以上通ったことになる。僕が仕事を引退したら、おそらく毎日通うだろうと思ったこともあるのに残念だった。店が閉まるその日は最後までそこに座っていた。最後の一時間になると、店員が寄ってきて最後ですが、何か掛けますかと言った。僕は、ベートーヴェンの五番、運命をかけてくれと頼んだ。それが終わって店は閉じた。そこで育まれた、僕の青春時代の思考、感性の泉の場所、それはなくなった。、





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