あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№119ゲーテ バルザック マン ヘミングウエイ コクトー チャンドラー パヴェーぜ 文学散歩

2020-06-19 13:57:27 | 日記
今年は正月そうそうからドイツ、東ヨーロッパ、2月には気ままな30回目のパリで、どんな一年になるか楽しみだったが、パリから帰ってきていきなりコロナの渦、しかも危機一髪でフランスのコロナ禍を逃れたようだった。「これらの報告は前述の文学散歩のブログ」それからもうすでに4か月自宅籠城、たぶんまだ一か月は引きこもり継続の予定。文学散歩はまさに本の中だけの散歩になった。それも楽しい。思い出も含めて本の中の散歩を記しておきたい。

最初は籠城は1か月ほどの予定だったので、中編を一つ書いた。変わった作品なので人の感想が楽しみだ。「的外れの感想は無視するが。」それから詩集を一つ編んだ。成り行きで友人の井手君にフランス語に訳してもらってたら、対訳詩集の本にしたくなってきた。10月あたり刊行予定。
それからはもう二か月は読書三昧になった。最初は本棚からいつか読もうと思っていた数冊、古井由吉、野呂邦暢、中村真一郎など読んでいたが、物足りなくなってきた。それで読んでよかったと思った本を上げて記録しておきたい。

「1」「月と篝火」 チェーザレ・パヴェ―ぜ イタリアのレジスタンスだった青年がアメリカにわたり戦後金持ちになって故郷へ帰ってきた話、詩的な文章で感激した。成功物語でもなくセンチメンタルでもなく淡々とした文章、初めて読んだのは30年程前だったろうか。いつか機会があったらまた読むだろう。「もう一度読みたくなる本以外は書庫整理のため捨てることにしている」

「2」「百年の孤独」ノーベル賞である時期評判になったものだ。ある意味退屈で長かったが、なぜかやめられず三分ノニまでよんで休止。面白いのは面白いのだが、また次に残す

「3」世界文学全種でフランス短編名作集というのがあったので読んだ。また別に文庫本でもあったので読んだ。短編だから何かの合間に読める。50人か60人以上の作品があったが、名前は半分しか知らない。印象に残るものもあったが、たいていは消えた。作家それぞれを十分に読んでから短編も味わねばならない。

「4」「若きヴェルテルの悩み」50年以上ぶりに読んだ。文章もよかったのだろう、昔の感激も思い出し涙が流れた。やはりいい作品だ。ゲーテはこの作品を書いて自分の自殺の危機を乗り越えたということだった。ただこの作品を読んで自殺した若者が何人もいた。

「5」バルザックも読まねばならない。未読の作品がたくさんある。「暗黒事件」「ソーの舞踏会」筋も物語も文章もバルザックはやはりすごい。

「6」「ロンググットバイ」レイモンドチャンドラー アメリカの長編ハードボイルド。誰か評論家が、井本の文章はこれを勉強したのではないか、と言ってくれたが知らなかったので読んだ。面白い読み物ではあった。もう一度読む必要はない。

「7」井本の文章はヘミングウエイ的だと言ってもらいたかった。短編を手あたり次第読んだ。「キリマンジャロの雪」など、何度読んでもいい。
翻訳はやはり良い訳でないと読めない。本棚の隅にD.Hロレンスの古い本があったので捲ってみた。多分あまり売れていないだろう。「薔薇園に立つ影」昭和30年の本。訳者は知らない。一篇だけでやめた。訳文が悪い。こんな経験は何度もある。またジョイスのダブリン市民、新潮文庫、もやめた。古本い文庫本なので字が小さく読めない。

「8」ジャンコクトーの「占領下の日記」これは前から本棚にあっていつか読まねばならないと思っていたもの。3冊あってかなり長い。ナチの占領下のパリの生活。芸術の葛藤。解放後のパリの政治、芸術の混乱、読みごたえはあった。この今日この時期まで取っておいてよかった。彼が仲が良かった芸術家、ジャン・マレー、ジャンジュネ、ピカソ、ジャンジロドー、マックスジャコブ、ジャックプレヴェール、まあまあか、仲が良くなかったもの、サルトル、モーリャック、ジッド、。ドゴールの登場、ペタン将軍、。美女と野獣の映画を作ろうとしているが、解放後のパリで断られる。「天井桟敷の人々」は評価している。混乱のパリで丸坊主にされて凱旋門に裸で縛られている女、売ら切りのパリジェンヌ、彼女はレジスタンスの夫を密告して夫を銃殺にさせた。カミュの名前は出てこない。いろいろ発見があって面白かった。

「9」「葬儀」ジャンジュネ 解放直前にサンテ刑務所を出たジュネ。相変わらず太々しく不遜で誰にも遠慮はない。コクトーはかれを温かい目で見つめ彼の才能を認めている。むしろ猥雑で幻想的な作品で親ナチともとられかねない作品だが、表層の社会へ対する侮蔑に満ちている。彼の作品のエキスは僕の作品のエキスにつながる気がする。よくわからないが。そうあってほしい。

「10」「ヴェニスに死す」これを読み返すのは5回目くらいだろう。いつも感激する。醜悪と猥雑が死の想念をとおって美に昇華される。これはもう何度も書いた。ある時2日ほどしかなかったが、ヴェニスに滞在した時にもう僕の胸にしみこんだ。またアンデルセンの最後を飾るヴェニスの場面のある「即興詩人」は我が聖書だ。

「11」森鴎外集 代表作集や翻訳ものを2冊読んだ。鴎外への思い入れは深い。彼の不条理は深い。また文章は、飾り気のない簡素な文章だ、と三島は言ったが僕はそうは思わない。修飾語としての言葉はすくないが、情景の描写は実に美しいし何度読んでもいい、これはまた次の機会に述べたい。ベルリンの彼の住処訪問を逃したのは残念だが、彼の住処追っかけはまた書きたい。「舞姫」を書いた部屋の残る上野のホテルには一度泊まってその部屋に座ったことはある。これは売りに出されているらしい。作品に出てくる、また彼がひいきにしていた蕎麦屋「蓮玉庵」はまだなので一度行かねばならない。

「12」読みたいが手元にないのでアマゾンに頼んだがもうずいぶん経つのにまだ送ってこない。ヘッセ「ガラス玉演戯」と徳富蘆花「灰燼」




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№118 千曲川 藤村 三木露風 福沢諭吉 中津 明石 龍野 大垣  小笠原 黒田 揖保乃糸そうめん

2020-06-03 13:52:23 | 日記
僕の父は33歳で岐阜県の大垣市で死んだ。昭和20年終戦の5か月前だった。大日本紡績大垣工場の化学の研究者だった。僕はそこで生まれ一歳半だった。
母は一歳半の僕と義母を伴って親戚を渡り歩いた。長野県の中込というところへ疎開していた父の本家に居候した。本家の主人「父の従兄弟」は軍人で位も高かったので、そう貧窮していなかった。それでも母は肩身が狭かった。毎朝、僕を連れて早くから散歩に出かけた。まず歩いて10分ほどの千曲川で顔を洗い口を漱いだ。それからはすることもなかった。
終戦になって母はまた義母と僕を伴って東京、大阪、親戚や実家を渡り歩いた。23歳の母には生きるのはつらいことばかりだった。僕が5歳の時に母は僕をおいて他へ嫁いだ。僕は現在の姓を名乗るところに養子に来た。
小学生の頃それとは知らず、僕は藤村の千曲川抒情の歌を暗記して大人たちを驚かせた。そして木琴で曲をつけて先生にピアノで弾いてもらったりした。それから50年ほど経って、僕は妻をつれて中込と小諸と千曲川を散策した。自分のルーツをたどることが僕には重要になっていた。

ある時古い書類のなかから実父の大学卒業証書が出てきた。養子先の父が何十年も保管していてくれたようだ。ついでに養子になるためにはるばる旅してきた5歳の僕の荷物につけられた宛先の書いてある木札も残っていた。
父の九州大学農学部の卒業証書には中津市出身大分県士族と書いてある。すぐに訪れたのは言うまでもない。はじめての中津市は小さな綺麗な街だった。福沢諭吉「ひい祖父さんの同僚?」の旧居を訪ね聴いていた寺を訪ね中津城に上った。城下町の民家の載っている古地図も買った。もしやと思ったが、父の名前、僕の旧姓はなかった。
帰ってきてしばらく考えると、中津城は黒田如水や細川家が代々の城主だが、明治維新の時の城主はだれだ、僕の祖先はその城主に着いてきたサラリーマン家来だったのではなかろうか。早速中津市の観光課に電話して聴いたみた。答えは最後の城主は小笠原家で兵庫の龍野から転勤になってきたとのことだった。

次に機会に龍野を訪れたことは言うまでもない。龍野はまた小さな綺麗な城下街だった。下町の古い醤油屋や揖保乃糸そうめん屋があった。昼飯に食った、梅干しそうめんは絶品だった。城跡も小さく風情があった。町の本屋に入ると、三木露風の詩集があった。「廃園」という題で手書きの詩集できれいな字で書いてある。抒情たっぷりの古本を印刷したものだが僕には宝物になった。夕焼け小焼けの赤とんぼ、負われていたのはいつの日か、しっとりした一日だった。

ただ小笠原殿様はそこに5年ほどしかいなかったということだった。ではその前はどこだったか、電話になれた僕はまた市役所に電話した。龍野の殿様は明石の殿様の弟ということだった。明石を訪れたのはしばらくしてからだったが、そこで僕は大きな発見をした。街に出て、電話帳を繰ってみた。まさかと思ったが、僕の旧姓、父の姓は珍しい「於田」という。電話帳にその名前が10軒ほど並んでいた。僕が感動したのは言うまでもない。彼らは親戚である。親戚の端っこにいた僕という一人があちこち変遷して九州に住んで、ここを訪ねてきたことを誰も知らないだろう。
そして大昔、ひい祖父さん、またはひいひい祖父さんが殿様についてはるばる九州まで転勤してきたことを誰も知らない。
僕はそれだけで満足だった。そのついでに、城ができる前は小笠原家はどこにいたのか。調べてみると、市内のはずれに小さな築山があってそこに古い神社があった。そこらしい。

藤村についてはこのブログで何どか書いた。パリの住処、好きだった界隈、好きなリュクさんブール薔薇園、彼の苦悩、不倫など。
大垣市については、たまたま芭蕉俳句大会で入選した時に,父の研究所あと、生まれた社宅跡を訪れた。15年程前だったろうか。そのことはこのブログで書いている。
コメント (2)
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