もう、60年前になるが、僕の10歳のころ、カバヤ文庫というのがあった。カバヤキャラメルの箱、だったか何か、をいくつか集めて送ると景品として少年文学全集の何かの一冊をくれた。どういう経過でそうなったかは覚えていないが、アンデルセンの「即興詩人」というのが手に入った。これが僕の文学の目覚め、ロマンチシズムへの憧れ、文学少年の始まり、だった。ハラハラしながら、または夢見がちになったり、その主人公になったり、すっかりその虜になった。
それから数十年、大したものを書いては来なかったが、僕の書くものの底にはいつもその印象が残っている。
大学の頃からだったろうか、覚えていないが僕の書棚に岩波文庫の古本で、森林太郎訳の「即興詩人」がいつの間にか占めていた。裏表紙に、「昭和18年 奉天にて 00000子」と書いてある。どんな女性だったろう。夢見がちな美しい女性、満州、戦争がはげしくなってくる頃、彼女はどんな気持ちでこれを読んだのだろう。どんな経路で、どんな変遷で僕の手元に来たのか。この古い汚れた本は僕の一番の宝だ。
4,5年前、どこかの旅行会社の「萩、津和野、リンゴ園 一日ツアー」に参加した。2食付いて、1万円くらいだった。貸し切りバスで中国道を飛ばす、一日の旅。森鴎外の生家には一度行きたいとおもってまだだったのでいいチャンスだった。期待に緊張していた。津和野は思えば50年も前から、一度行きたかったのだ。一人でぶらりといく旅として。観光バスでもこの際構わない。だが昼食が済むと、バスはもう次の場所へ移動とのこと。お土産屋さんへ。僕はあわてて、抜け出して森鴎外生家へ行った。小さな家でだが、僕には感激の印象である。冬などはさぞ寒かったろう。ここで5歳の彼はもう漢文を勉強していたのだ。10歳くらいまでここに住んでいた。多分天才の名を成していただろう。彼のその後の生き方、人生を思いながらその小さな家を見るとまた感慨ひとしおである。華やかなドイツ留学時代、日清日露戦争時代、官僚時代、かれはどんな思い出、自分の幼年時代を思い出していただろう。記念館も見学し僕は少しでもそのエキスをもらえただろうか。
昨日、東京へ行ったので、ホテル水月、鴎外荘へ泊った。大浴場と宴会場のある観光旅館だ。中庭に鴎外の旧居がある。此処を買った人がそれを残してホテルを建てたのだろう。「舞姫」をここで書いたとある。ドイツがえり、エリート軍医、30歳の森鴎外。立派な屋敷だったろう。池之端の不忍池のほとり、上野公園の下、だ。感激である。
その日の午前中には千駄木の鴎外記念館へ。旧居の名残のイチョウなど少し黄色になっている。ここから海が見えたということで「観潮楼」と言っていたらしい。多くの文人との交流もここであった。森鴎外の文学や、人生については多すぎてこの紙面では書けない。この地で家で終焉を迎えるまでの人生については多くの研究家が書いている。家庭内の嫁姑の葛藤、次男の死、役人としての対人関係の葛藤、文学者としての悩み不安苦しみ、想像するときりはない。また幸徳秋水らが死刑になった大逆事件、社会主義者たち、無政府主義者たちの台頭、。無政府主義についてはそのころ研究もしたらしい。勿論彼は同調はしていないが、大逆事件では、言論への弾圧が増すのではないかと、心配する文章も書いている。いつかこのあたりをもっと詳しく調べて見たい。と思っていたら、来月小倉で誰かの芝居で、鴎外が事件をどう見たかということも含めた芝居があるそうだ。時間があれば行ってみる。
小倉と言えば、一度飲み屋街の暗闇にひっそりとたたずむ鴎外旧居を見た。そのころは公開していなった。左遷で落ち込んでいたらしいが、そのころから彼の性格が若干柔らかくなったと書いてあるのもある。また松本清朝の「ある小倉日記」ではそのころの鴎外をさがす青年が書かれている。
あまり書かれていない、評伝がある。これが一番僕の胸にしみる。死ぬずいぶん前から、彼は自分が結核にかかっているのを知っていた。死ぬ一年前、1921年、かれは自分が隠し持っていた、写真や手紙をこっそり庭で焼いたそうだ。あの「観潮楼」の庭のどこかの土の上で。その中に舞姫の「エリス」の写真もあったのではないか。彼はそれを懐かしんだのか、悲しみに満ちて焼いたのか。彼の文学は「締」という観念に行きつきながら、底辺にはロマンへの憧れは決して消えなかったのだ。それが僕を感動させる。
1922年彼は死ぬ。関東大震災の前年である。大震災まで生きていたらどんな考えを我々に示してくれただろう。そしてもう一つ気になることがある。大杉栄は震災の時に虐殺されるが、彼らのに接点はなくとも、その存在を知っていたはずだ。鴎外は多分、いくらか幼稚な無政府主義と見ていただろうが、大杉栄は鴎外をどう見ていたのだろうか。「舞姫」や「即興詩人」や「阿部一族」、さまざまな作品を読む機会があったろう。いつかその感想などの文章を見つけたい。
それから数十年、大したものを書いては来なかったが、僕の書くものの底にはいつもその印象が残っている。
大学の頃からだったろうか、覚えていないが僕の書棚に岩波文庫の古本で、森林太郎訳の「即興詩人」がいつの間にか占めていた。裏表紙に、「昭和18年 奉天にて 00000子」と書いてある。どんな女性だったろう。夢見がちな美しい女性、満州、戦争がはげしくなってくる頃、彼女はどんな気持ちでこれを読んだのだろう。どんな経路で、どんな変遷で僕の手元に来たのか。この古い汚れた本は僕の一番の宝だ。
4,5年前、どこかの旅行会社の「萩、津和野、リンゴ園 一日ツアー」に参加した。2食付いて、1万円くらいだった。貸し切りバスで中国道を飛ばす、一日の旅。森鴎外の生家には一度行きたいとおもってまだだったのでいいチャンスだった。期待に緊張していた。津和野は思えば50年も前から、一度行きたかったのだ。一人でぶらりといく旅として。観光バスでもこの際構わない。だが昼食が済むと、バスはもう次の場所へ移動とのこと。お土産屋さんへ。僕はあわてて、抜け出して森鴎外生家へ行った。小さな家でだが、僕には感激の印象である。冬などはさぞ寒かったろう。ここで5歳の彼はもう漢文を勉強していたのだ。10歳くらいまでここに住んでいた。多分天才の名を成していただろう。彼のその後の生き方、人生を思いながらその小さな家を見るとまた感慨ひとしおである。華やかなドイツ留学時代、日清日露戦争時代、官僚時代、かれはどんな思い出、自分の幼年時代を思い出していただろう。記念館も見学し僕は少しでもそのエキスをもらえただろうか。
昨日、東京へ行ったので、ホテル水月、鴎外荘へ泊った。大浴場と宴会場のある観光旅館だ。中庭に鴎外の旧居がある。此処を買った人がそれを残してホテルを建てたのだろう。「舞姫」をここで書いたとある。ドイツがえり、エリート軍医、30歳の森鴎外。立派な屋敷だったろう。池之端の不忍池のほとり、上野公園の下、だ。感激である。
その日の午前中には千駄木の鴎外記念館へ。旧居の名残のイチョウなど少し黄色になっている。ここから海が見えたということで「観潮楼」と言っていたらしい。多くの文人との交流もここであった。森鴎外の文学や、人生については多すぎてこの紙面では書けない。この地で家で終焉を迎えるまでの人生については多くの研究家が書いている。家庭内の嫁姑の葛藤、次男の死、役人としての対人関係の葛藤、文学者としての悩み不安苦しみ、想像するときりはない。また幸徳秋水らが死刑になった大逆事件、社会主義者たち、無政府主義者たちの台頭、。無政府主義についてはそのころ研究もしたらしい。勿論彼は同調はしていないが、大逆事件では、言論への弾圧が増すのではないかと、心配する文章も書いている。いつかこのあたりをもっと詳しく調べて見たい。と思っていたら、来月小倉で誰かの芝居で、鴎外が事件をどう見たかということも含めた芝居があるそうだ。時間があれば行ってみる。
小倉と言えば、一度飲み屋街の暗闇にひっそりとたたずむ鴎外旧居を見た。そのころは公開していなった。左遷で落ち込んでいたらしいが、そのころから彼の性格が若干柔らかくなったと書いてあるのもある。また松本清朝の「ある小倉日記」ではそのころの鴎外をさがす青年が書かれている。
あまり書かれていない、評伝がある。これが一番僕の胸にしみる。死ぬずいぶん前から、彼は自分が結核にかかっているのを知っていた。死ぬ一年前、1921年、かれは自分が隠し持っていた、写真や手紙をこっそり庭で焼いたそうだ。あの「観潮楼」の庭のどこかの土の上で。その中に舞姫の「エリス」の写真もあったのではないか。彼はそれを懐かしんだのか、悲しみに満ちて焼いたのか。彼の文学は「締」という観念に行きつきながら、底辺にはロマンへの憧れは決して消えなかったのだ。それが僕を感動させる。
1922年彼は死ぬ。関東大震災の前年である。大震災まで生きていたらどんな考えを我々に示してくれただろう。そしてもう一つ気になることがある。大杉栄は震災の時に虐殺されるが、彼らのに接点はなくとも、その存在を知っていたはずだ。鴎外は多分、いくらか幼稚な無政府主義と見ていただろうが、大杉栄は鴎外をどう見ていたのだろうか。「舞姫」や「即興詩人」や「阿部一族」、さまざまな作品を読む機会があったろう。いつかその感想などの文章を見つけたい。