あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№136 中国の友人たち 九州大学 マカオ大学 北京大学 日中友好協会 郭沫若  

2021-08-09 15:53:41 | 日記
48年前の夏、僕は30歳になった。失意のうちに東京から帰ってきて、悶々として2年も経っていた。中小企業の経営をしながら将来が見通せないままだった。満足のいかない毎日で、何かしなければ、と焦っていた。ふと思いついて、中国語でも勉強してみるか、その頃は中国はまだ混とんとしていた、文革は収まりつつあってはいたが、これからは中国は伸びるだろう。50年もたてば、どれだけ中国は強力になるか。「今」なった」
すぐに電話帳でしらべて、日中友好協会へ電話した。まあ4,5人で勉強をしていますが、初心者向けではないので、と返事に、それならちょうどいい仲間にいれてくれと言った。その頃は今のように中国語教室はあまりなかった。天神に教育会館と言うのがあった。教員のための会議とか研修とかに使われていたのだろう、。その2階の部屋を勝手につかって、5人ほどが勉強していた。先生は王先生、九大の医学部の台湾からの留学生。生徒は、共産党員岡本君、深川製磁に勤める鈴鹿君、放送局に勤める女性、ともう一人、九大の文学部学生小野君、だった。僕は基本の発音など全くしていないのだが、漢字は読めばわかるし、熟語を習って文章を作るのは得意なので、次第に面白くなって、そのころのストレス解消に役に立った。毎週その時間が楽しみだった。
ある時、岡本君が若い中国女性を連れてきた。楊さん、北京生まれ,小楊、しゃおやんと呼んでいた。戦後中国に残留して中国人と結婚していた女性の二世。18歳、北京語の発音はきれいで、この仲間で喫茶店へ行ったり、海水浴へ行ったり、僕の30歳の青春が始まった。中国語はうまくならなかったが、付き合いだけはいろいろ広がった。
岡本君が次に連れてきたのは、また若い、格さん、香港の金持ちの留学生。この娘と仲良くなって、香港で何か面白いことでも立ち上げようか、など妄想も膨らんだ。
小楊のお母さんは、福岡市が面倒を見ていたらしい。家に呼ばれてごちそうになったりした。3年ほど経って僕は二人の女性の一人と結婚した。王先生や岡本、鈴鹿君などとはプライベートな付き合いが深くなり、家に招待もしされたりした。
ある時岡本君が、中国人を一人呼ぶので、君に保証人になってもらいたいと言ってきた。軽い気持ちで承諾したら、外務省から確認の電話がかかってきた。よく聞くと、軍の偉い人で、郭沫若の娘婿と言うことだった。書道家で共産党の偉い人でもあった。当然書は書いてもらった。また彼の奥さんの友人も呼びたいと言ってきた。1949年、毛沢東に追われて蒋介石と台湾に逃げてきた人の娘がその友人であった。父と娘は何十年ぶりに福岡で再会した。
岡本君にいいように利用されたが、悪いきはしなかった。彼のおかげで、僕は結婚できたようなものだったからだ。また彼のおかげで、いろんな人と知り合った。すこしあとになるが、九大に派遣されていた北京大学教授の陳さんとは長く付き合うことになった。酒もよく飲んだ。専門は明の末期のエロ文学だといっていた。著書も何冊かくれた。日本語も達者だったのでいろんなことを教えてもらった。その頃僕は、中国文学を片っ端から読んでいた。一般的なものはほとんど読んだ。清末の政治論文まで興味をもった。質問は陳さんに聞いた。
又ずっと後だが、陳さんが定年になって、澳門大学の学部長になったとき、そこへ遊びにも行った。彼は税関を通って、中国本国の珠海と言う町へ案内してくれた。澳門大学の図書館を案内してもらったとき、日本文学が少なかったので、日本から、「日本文学全集」と「日本詩歌全集」を送った。送料の方が高かった。あとで学長から礼状が来た。奥さんを連れて福岡へ来たこともある。娘さんは福岡で働いている。それからは年賀状やメールのやり取りが続いていたが、ある時に急に止んだ。尖閣の問題が日中で起こってからだ。彼が怒っているのか、監視されているのかはわからない。消息は娘さんから伝わってくる。
大学でアルバイトをしている中国若い女性を見かけたので、一度家へ呼んだ。夏さん、彼女は日本文学専攻で比較文学と言っていた。論文を見せてもらって妻が直してやったりした。その時彼女がつれてきたのが、氾「上に草冠」さん、医学部の研究者。それから、次々に、登さん、、呉さん。知り合いが増えて、度々我が家で宴会、正月などは、大宴会になった。近くに、留学生会館があったので、旧い洗濯機や冷蔵庫など手に入る度に持っていってあげた。氾さは天安門事件のときはもうアメリカに行っていたが、長い悲嘆の手紙をくれた。呉君は九大理の高層大気力学からイギリスへ行った。他にもいろいろ知り合ったが、一人が井本さんの奥さんは台湾人ですか、と聞いてきたこともあった。家内の発音が良いらしかった。
瀋陽からきた偉君は金持ちらしく、瀋陽の市役人にも顔が聞いた。九大の眼科に来ていた。井本さん、どんどんわいろ「?」とか使って、いくらでも儲けることができるでしょう、などと言っていた。一度家へ呼んだが、ぼろ家と本がたくさんあるのを見て、つまらんことを言ってはずかしいとも言った。
最初の頃と違って留学生もふえて、貧乏な人も少なくなった。最初に知り合った王さんは奥さんや子供を連れて度々我が家に来たが、とうとう日本の医学国家試験に通らず帰ってしまった。知り合ったのは48年前の事だ。
ある時、新聞で留学生が交通事故で、ひどい怪我で手術をすると書いてあった。知らない学生だったがいくらかの金銭援助をした。数か月たって忘れていたころ、彼が奥さんと我が家にお礼に来た。それから、数年たったころ手紙がきた。自分の甥っ子が北京農業大学をでて九大の大学院に行きたいと言っている。英語も日本語もできる。井本先生の力で九大に入れてくれと。市中の井本にできるわけがない。ふとその時思ったが、大学の親友で九大生産力学研究所で教授で藤井君がいる。ダメもとで、頼んでみた。彼が言うには、一人枠を持っているが、世話になった教授から頼まれている。どちらかを選ばねばならない、むつかしい。君は青春時代の親友だ、どちらを選ぶか、と迫った。かれは先方を断って了承してくれた。若い頃の親友は死ぬまで親友だ。その後若い中国人がきた。真面目に勉強して学位も取った。日本で働いている。年賀状しか連絡はないが結婚もしているようだ。30年ほど前だろうか。瀋陽のその叔父さんからは、毎年一度瀋陽に来てくれと何度も誘いがあったが行っていない。それも昨年から連絡はない。亡くなったのかもしれない。
数年前九大の藤井君も亡くなった。引退してからもよく遊んだ、。本当に青春時代の親友は死ぬまで親友だ。最初に、上級クラスだから、貴方には無理ですよ、と言った中国語教室の岡本君も亡くなった。彼のおかげで、人生の楽しい一面も味わった。ついでに最初に知り合った小楊嬢は日本人の医者と結婚して喧しい奥さんになっている。
ほかにもたくさん知りあった。みんな親日派で活躍しているだろう。








コメント (1)
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