あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№124 三島由紀夫 1970年 金閣寺 豊饒の海 暁の寺 鎌倉文学館 柊屋 井上光晴 四谷自衛隊 憂国忌

2020-11-16 12:50:29 | 日記
数年前、フランス人の友達が、日本文化を学びたいので、三島の金閣寺を読んだらいいだろうかと聞いてきた。僕はその時、やめとけと答えた。ちょうど僕も金閣寺の三度目を読んだばかりだった。どこかの評論家が、主人公が日本文化の重圧に押しつぶされた物語だ、と書いていたような気がして、それは違うと思ったばかりだった。その時に思ったのは、これは太宰の「人間失格」と同じだと感じたのだった。

どの作家でもそうだろうが、小説は畢竟個人の心の奥底の吐露である。特に三島は、仮面の告白以来そうである。ゆえにどの作品を読んでも、僕には主人公に三島の顔が浮かぶ。それだけに、三島がいとしくなる。三島はそれを嫌がって、個人の世界に美の虚構を打ち立てた、と思う。それを突き詰めた。それは素晴らしい。後の皇国史観などは美の極みが現実と少し混ざり合っただけだ。映画やボクッシングや他の奇抜な行動もあったが、あれは俗世間に対する精一杯の彼の侮蔑なのだ。それを思うと、彼の苦しみが分かるだけに悲しくなる。
実際、自衛隊事件以前は、よく芸術が分かった左翼人は左翼でも、井上光晴などは、彼を評価していた。これを外人に説明しようとすると、なかなか難しい。外人のみならず、他人に僕の気持ちを説明しようとすると、決してできない。ゆえに三島文学がますます好きになる。失敗作と言われた青の時代の主人にさえ作家三島の顔が浮かぶ、彼の苦しみと共に好きになる。

随分前、最初で最後と、三島の墓参りをした。憂国忌の前日、11月24日である。わが想いをその数分に凝縮して拝んだ。手向けられた深紅の薔薇はみずみずしく、誰かが毎日上げているのだろう。僕はその墓碑を墓誌を名前を撫でた。昭和20年、終戦の直後に17歳で死んだ妹の美津子の名前も撫でた。朗らかで美しい妹だった。由紀夫20歳。おそらく三島が唯一愛した女性にちがいない。「僕が必死で書いた最高のわが作品のヒロインは美津子にしている。」虚構の深淵に、美を描くことしかできなかった彼の虚無はそこからのものでこれは決して拭えるものではない。妹の死の25年後に三島も死んだ。

1970年昭和45年は激動の年だった。
3月にアジアの平和な小国と言われた、カンボジアで内戦がおこった。それからは悲惨な20年間だった。僕はその一週間まえにその国を出たばかりだった。多くの日本人も行方不明になった。僕はその頃2か月ほど東南アジアをさまよっていた。
3月には日航ハイジャック事件が起こった。革命を標榜する若者が北朝鮮へ渡った。
芸術は爆発だ、と誰かが叫んだ大阪万博が始まった。月の石を見る行列は長かった。
その年、僕は東京丸の内のサラリーマンを辞めて、帰郷していた。自信を無くし作家になることも諦め、世界に羽ばたくビジネスマンになる希望も捨てて、失意にまみれていた。ちょうど、義理のある父「義父」に頼まれて、中小企業を引き継ぐ頼みを断り切れないこともあった。それから35年間は楽しいこともあったが、苦しさと反省ばかりの思い出しか残っていない。下町の暗闇に這いつくばって飲んだ酒だけの日々だった。またいつかは、またいつかは、と儚い希望だけにすがっていた。前年の3月やっと文芸雑誌「新潮」に掲載してもらえた僕の作品が、三島の最後の作品「豊饒の海」の第三「暁の寺」と同じ号だったことが唯一の慰めだった。
そして衝撃の11月三島の割腹事件が起こった。それはあらゆる人間に驚きと動揺を与えた。多くの論評が世間を賑わわせた。彼を美と芸術の権化とあがめるもの、只の狂気と貶めるもの、様々だった。彼の虚構にのめり込んでいたものはそれからもはや逃れられなくなっていた。左翼の井上光晴でさえ、今までは立場は違っていても彼を理解していたが、これだけは分からんと言った。人質になって割腹を目のあたりにした総監は、のちに三島を恨む気持ちも、嫌う気持ちもない、と言っていた。
それから、すぐあとの数年に様々なことが起こったが、その度に三島が生きていたらなんと言うだろうと思うことが、僕の癖になっていた。例えば、戦争が終わったのに30年近くも、ジャングルに潜んでいて出てきた、横井さんや小野寺さん、恥ずかしながら帰ってきましたという言葉。赤軍派の浅間山荘のリンチ虐殺事件。それからの高度成長時代。彼が生きていたら、もう文学はやめた、といって死ななかったのではないかと思ったりする。

今年は三島の50回忌である。毎年行われていた、憂国忌は最近はどうなったのだろうか。50回忌ということで何かあるだろう。ひと頃は、時期になると憂国忌のポスターが市内のあちこちに貼られていた。僕はこっそり持って帰って書斎においていた。今でも数枚は残っている。懐かしい顔だ。

三島夫人は美しい上品な女性だ。直接は知らないが、写真では僕の憧れである。彼女は割腹事件のニュースを乗馬の練習の帰りに聞いたと言っていた。そのシチュエーションはまた美しい。
死ぬ一か月ほど前、京都の老舗旅館柊屋「ひいらぎや」に三島家族が泊まった時のことを、女中頭の田口さんが日経新聞に書いているのを読んだことも印象深い。二人の子供が寝ているそばで、三島がなにか夫人に文句を言っていて、夫人はしくしく泣いていたと。内容も知りたいが、その夫人も先年亡くなった。また三島の人間らしさも匂う。二人の子供、姉を弟、はどうしているのか。娘は外交官夫人、息子は銀座で宝石店とか画廊とか聞いたが真偽は分からない。もうそれなりに歳だろう。
彼が死ぬ一か月前の声を録音で持っている。宝物だ。淡々としているだけに、その苦悩を推察すると、こちらも悲しくなる。
三島の家は何度か訪れた。無人の静けさに包まれている。格子の間から覗くと、アポロンの銅像の一部をやっと見ることができる。その壁を撫でる。邸宅の写真集はもっている。内部の様子も少しはわかる。まだその邸宅はあるのだろうか。ここ数年は知らない。
山中湖の文学資料館はまだ行っていない。最後に渾身の力を込めて行かねばならない。それは僕の、この「文学散歩」の最後を飾るだろう。
豊饒の海の「春の雪」の主人公の家のモデルは、いまは鎌倉文学館になっている。前田の殿様の別邸だったと、№94のこのブログで書いた。小説とはちがって、庭の芝生の先は薔薇園で、海はそのかなり先にぼんやり見える。そして豊饒の海の最後の場面、寺の庭を思うとやっと僕はこの頃三島をゆっくり考えられるようになった。もう半世紀も経ったのだ。

一度、銀座の通りで三島由紀夫とすれ違ったのは唯一の大切な思い出である。背はそれほど高くなかった。その頃突っ張っていた僕は彼を目の前にすると舞い上がって、避けようとしなかった。彼は道を僕に譲ってさっと去っていった。今思うとぶつかって殴られたかった。

谷崎、井上、小川、は別として、僕は日本文学は三島までしか真剣に読んでいない。
あと川端康成との確執、福島次郎との友情、などはまたいつか書く。




コメント (2)
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