あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№143 パリの友人 Montmartre ジベルニー シャルトル ラパンアジル オンフルール ノルマンディ

2022-07-17 08:55:08 | 日記
年老いて、考えるというまでもなく、何度も書いたが、青春は希望に満ちているがそれが美しいのは、希望と同時に、将来への不安や恐れなどが同居しているからである。老年の我々には、希望はない代わりに、恐れも不安もない。いいかえれば、肉体とか生活の不安はあるが、人生というそのものの不安ではない。とにかく先がないから、何もないだけである。
そうすると振り返ってみると、生きてきた特にこの30年、40年は、いいこともあったが、苦しいことの方が多かった。苦しい時は何時まで続くのか、と悩んだりまたそれを抜け出した時の希望ややりたいことの出来る希望にも満ちてもいた。
そして振り返ると、その30年を一気に眺めることができる。短いひと時だった。仕事、事業の上では反省ばかり、悔いばかりが残る。成功した仕事、楽しかった仕事も多いが、それも今は一つの塊のように見える。まあ、40年間は仕事人生だった。仕事を必死で続けてきたことだけは満足である。
その仕事人生の中で、年に一度だけ仕事を離れ、全く別世界の短い生活ができたのがパリの数日だった。このブログは、その記憶をたどるためである。

特に最初のパリの印象は№142で書いた。
その少しあと、パリから手紙が届いた。10年ほど前に会った女性からだった。彼女は僕の友人の知り合いで、昔は九大病院の看護婦さんだった。
「パリに来たらしいですね、今度は連絡ください」彼女はもうパリに10年ほど住んでいるらしい。誰から話が流れたのか分からないが、嬉しいことだった。
翌年は短い滞在予定だったので訪問することに決めた。少しパリの街に慣れたつもりだった。黙って住所の通りに歩いて、突然訪ねて驚かようと思った。地図で何回も調べ、何度か人に聞きやっと着いた。それも楽しかった。ところがアパルトマンは入口に暗唱番号があり、それを知らないとまず建物に入れない。考えた末、他人が入るときに一緒に入る。成功して、はじめてのパリの住居に入った。入り口のドアをたたく。中から、フランス語で誰か、と聞いてくる。井本です、と言ってドアが開いた時の彼女の驚きの顔はいまでも楽しく思い出す。まさに10年ぶりだが、特別に親しいというわけでもない人だが、懐かしさはひとしおこみあげてきた。ちょっとの雑談の後、彼女が子供を幼稚園へ迎えに行くのでちょっとここで待っていてください、というので椅子に座って待っていた。二部屋の小さなアパルトマン。それを見るだけでもうれしい。しばらくするとドアが開いて男が帰って来た。僕は驚いたが、彼の方がもっと驚いただろう。あなたは誰ですか?彼の声は上ずっていた。そして話が分かると、二人で笑いあった。

これが山崎勉との初めての出会いだった。パリにいる日本人の友人の第一号だった。それから30年ほどの付き合いがはじまった。
彼は30代後半、パリに来て10年以上は経っている絵描きであった。奥さんとは日本だろうがどこで知り会つたか知らない。幼稚園の男子が一人で、豊かではないがパリで暮らしている。毎日で出かけてはパリの風景を描き、二年に一度は帰国して個展を開き絵を売り貯まるとまたパリに帰る。という生活をしていた。奥さんは当然ながら免税店などで働いたこともある。それから毎年、最初の頃僕のパリ訪問時には時間を取ってくれて方々を車で案内してくれた。シャルトル、ジベルニー、オンフルール、ノルマンディ、モンマルトルのラパンアジル、等など。なかなか行く機会のないだろう遠方への出掛は助かった。また市内のレストランや自宅での食事。だんだん慣れてくると一人であちこち行けるようになったが、本当に最初の頃は助かった。
彼の帰国時には今度は僕があちこち彼の行きたいところを案内した。奥さんだけのこともああった

彼の作品も年毎に力が増してくる。その変遷を30年を僕は追ったことになる。しばらくして日本での個展は毎年になった。当然僕も作品搬入、搬出などは面白く手伝った。パリでは個展の前日は会場で小さなパーティーをする習わしである。日本ではあまりやらないが、それも楽しいことだった。やがて僕が仕事を辞め、パリにしばらく住むようになると、彼も個展をパリで開くようになった。シテ島の南の橋、ポンヌフの近くだった。会場の裏はドルフィン広場、綺麗なピンクのマロニエが咲く。「最近は木が虫に食われたか、切れられた」傍には有名なレストラン「シェ・ポール」がありその近くのアパルトマンにはかつてイヴ・モンタンが住んでいたらしい。個展の搬入も、前日のパーティも搬出の打ち上げのワインも美味しいばかりだった。そのパーティでまた何人もの友人ができた。
だがさすがに、平日はそんなに客はいない。旅行者が時々寄る。誰もいない会場に座っていると、夕方などセーヌ川を行く観光船のライトが川べりの木々に射し、その反映が会場に映ってくる。何とも言えないパリの夕方のひと時。

彼は後では肖像画も受けていたが、多くは風景画だった。パリや南仏、スペインなど。最近の抽象画を嫌い、あくまで具象の美を追求していた。かえって現代では稀少だ。どの絵も見るとホッと息つく。友人知人が支所に応援して買ってくれていたが、やっと一般にも受け入れられて売れるようになった。
あとさきになるが、パリのサロン・ドートンヌ入賞は常連だった。その事務所に打ち合わせに一緒に行ったり、一般人のくせに大学の学生食堂に入ったり、普通に経験できないこともした。
僕が初めてパリの屋根裏部屋借りて住んだときは、さっそく訪れてきて窓からのパリ風景を書いていた。思い出すときりはない。その後、日仏人の沢山の知り合いができたが、彼には一番世話になったといえる。パリの友人、恩人だ。
彼はパリで3,4年前に亡くなった。どこかの癌だった。最後の日本でも苦しそうだった。あの時幼稚園児だった息子は、日本の原子力何とか機構のパリ支局に勤めて、子供も3人、奥さんは日本人、山崎氏の奥さんは日本にいて数か月前、コロナが少し落ち着いたので孫に会いにパリにいると電話があった。
よかった。





















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