あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№111 ロンドンのランボーとヴェルレーヌ 母娘ヴィタリー

2019-08-12 10:21:53 | 日記
ランボーとヴェルレーヌのベルギーからの逃避行、オステンドから船でドーバーからロンドンへ着いたのは9月の初めだった。
さびしがり屋のヴェルレーヌは母親に手紙を書いたりして金を送金してもらう。彼らはフランス語を教えたいという、新聞広告を出すが成果はない。その新聞からかれらが初めて住んでいた部屋がわかる。最初は友人の家を借りすが、ハウランド街にすぐに移る

2019年5月、メーデーの翌日僕はロンドンに彼らの影を追った。これは5月1日まではブログの109回で書いた。当然と言えば当然だが、彼らのその家、部屋はない。昔はロンドン市中心から少し離れたところだったろうが、今はビジネス街で新しいビルがたくさん並んでいる。そしてその住所には大きな電波塔が立っている。これも一つの感慨だ。ビジネスマンが行きかい、街も新しい。それに不思議なことに、カフェらしきものがない。やっと見つけたところは、簡易食堂のようなスープ屋、パンもあるが、カウンターでスープをすすった。全然は華やかさはない。当時はもっとさびしいところだったろう。
その寒い冬を過ごして3月までしか住んでいない。お互いに詩作は続けている。一度はフランスへ帰るがまた5月に二人はロンドンにくるそれでも。工業化が進んだ近代都市、大英博物館、ビル、はやはり魅力あふれたものだった。好奇心旺盛な彼らは知識を吸収し感覚を鍛えたに違いない。2回目の彼らの家は現存している。当然古い家で彼らが住んでいたというプレートも貼られている。しかしわがままな彼らはまたそこには2か月しか住んでいない。
ブリュッセルに戻った二人は、諍いを起こし、7月にはヴェルレーヌのピストル事件が起こる。ランボーがそれからロッシュ村に帰り、地獄の季節を書
いたのは何ども書いたので触れないが、ロンドンの短いけれど刺激のある日々は彼の気持ちなかで消えなかっただろう。

その年の11月、ランボーは久しぶりにパリに現れる。前年の7月以来である。ヴェルレーヌは獄舎にいるし、あのまじめなヴェルレーヌを堕落させみじめにさせたのはランボーであるということで、かつての詩人たちはランボーを嫌い無視する。誰かが書いている。陰鬱な痩せた悲しげなランボーが表れても誰も知らぬ顔をしていた、と。
カフェ・タブーレというそのカフェを僕は場所を知らなかった。数日前に訪れたマルセイユで、ランボーの研究家ビエンヴニュさんに聞くとすぐにメールで教えてくれた。オデオン座の裏で、リュクサンブール公園のサンミシェル寄りの角だった。建物はあるが、一回は空き家で何もない。それでも僕には印象深い場所だ。当時を想像してしばし思いに耽る。地獄の季節を書き終わった虚脱感と、あれほど侮蔑したパリのえせ詩人たちとの決別、ヴェルレーヌへの思い、彼の心は暗い得たいの知れないものが渦巻いていたのだ。彼は少年から大人へ脱皮しようとしていた。想像もできない大きな変化がすぐそばまで来ていた。
道を隔てたところからそのカフェの写真を撮る。ちょうどマロニエの花を画面に入れることができた。
ただひとり、ジェルマンヌーボーという詩人がそばに寄ってきた。彼はヴェルレーヌを尊敬していた。周りの詩人たちとそう交流はないので、ランボーに話しかける。翌年の3月に二人はロンドンに出かける。ランボーは19歳になっていた。

彼らはウオーターロウ駅の近くに部屋を借りる。その場所を訪ねたがまた当然それはない。カレッジがあったり、その番地は大きな映画館になっている。彼は散文詩を書き、清書をして何とか発表しようとする。しかしジェルマンヌーボーは突然パリへ戻る。ランボーはまた一人で置き去りにされる。古い詩人が言ったようだ。「君がランボーなどと付き合っていたら、誰も君を相手にしなくなるよ、君を詩人として誰も認めない」

それでも彼はもう大人である。詩を書き、大英博物館で勉強し、英語を学び、仕事を探し日々を実直に送る。翌年の7月に、シャルルビルより母と妹を呼び寄せる。ロンドンを案内する。もう家出を繰り返し、その都度母親から叱られた少年ランボーではない。二人を駅まで迎えに行き、ホテルを探し、名所案内、サンピエトロ寺院のミサに連れていく立派な大人である。この家族の日々の様子は妹ヴィタリーの日記に詳しく書かれている。

今回の旅で、彼女らが泊まっていたホテルの住所を探していたら、そのままホテルだった。アージャイル街、そこに泊まることができたのは偶然にしても僕は忘れがたい思い出になった。ホテルの名前はホテル・ヨーロピアン。キングクロス駅のすぐ近くだ。彼女は、窓から大きな木が見えて公園の花が咲いている、と書いている。その部屋にまさに泊まることができた。窓からも同じ光景を見た。彼女らはここに20日ほど泊まる。トラガー広場や大聖堂や電車や駅の大きさや一つ一つに感激する。街というのは彼女はシャルルビル以外を知らないのだ。大都会ロンドン、彼女らの感激を味わうべく僕もその通りの場所を歩く。彼女はしかしホームシックになり3週間ほどでフランスへ戻る。妹ヴィタリーは兄とおなじで文才がある。彼女の日記にいろんなことが残されている。「もう一人の妹イザベルも文才があり、これはランボーの終焉を手記に書いている。」

ランボー一家は翌年パリに行く。むつかしいヴィタリーの病気の診察に行くのだ。パリに行く前の日でその日記は終わっている。「昨年はお兄さんのおかげで、ロンドンにも行った。明日はパリ、うれしい」パリで彼女の病気は不治のものと診断される。その年の12月にヴィタリーは死ぬ。その十年あとやはりランボーも死ぬ血液癌だった。この日記は悲しい。ランボーが一番かわいがっていた妹だ。このパリの日のこと、ヴィタリーが死ぬときのことを、わが小説「ロッシュ村幻影」に詳しく書いた。事実以外は残っていないのでこの小説だけしか状況を誰も知ることはできない。わが傑作のひとつである。彼女が死んだシャルルビルの家の状況を自分で読み返してもその死には涙が出る。

僕はロンドンは初めてだった。雨に何度もあった。濡れながら、ピカデリーサ-カスという繁華街を歩いた。劇場やレストランや様々な娯楽施設が軒を並べている。初めに目についたのが、山小屋という福岡の筑豊のラーメン屋。ラーメン屋はほかに2軒あった。一軒は行橋の金田や、もう一つは一風堂。金田屋はあまり知られていない店だが、ある時いきなりロンドンに店を出して驚かせた。あわてて一風堂が出店したらしい。3軒が福岡のとんこつラーメンというのは面白い。金田やで雨に打たれてちょっと待ってから食べた。二人だったので、ラーメン2杯、替え玉2個、ビール、コーラ、チャーシュウ丼「小」で約6千円あまり。高いかどうかわからない。

ランボーのパリは一年とちょっと、ロンドンは17か月、イメージと違ってロンドンが長い。パリはあこがれと乱暴、放浪、少年の爆発、ロンドンは少し大人になった彼の再出発の日、といったがいいだろう。

せっかくのロンドンなので、ビッグベン、ウエストミンスター、宮殿、など駆け足でまわった。短い時間だったのでシェイクスピアには全く触れずじまいだった。

9月末に「太陽を灼いた青年」というランボーのヨーロッパの足跡「ドイツ、アフリカは未」を追ったエッセイを書肆侃々房から出す。
この本のための取材旅行であった。写真をたくさん入れた。
それに伴って10月25日赤坂のアンスティテュ「日仏会館」で卓話をする。会費1500円 要予約。詳しくは後日。








コメント (2)
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