あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

ヴェルレーヌの家 新婚時代

2011-09-06 10:10:05 | 日記
パリ、モンマルトルの丘のサクレクール寺院の右手をちょっと先まで行くと、右のほうへ降りている小さな階段がある。。古い通りのコタン小路である。表示はパッサージュコタン。ユトリロの絵にあるのはしたからそれを見上げたものだ。その小路をでて左に曲がり最初の左手の短い通りが二コレ通りである。パリ市内には一戸建ての家はめずらしいがそこに小さな白い三階建ての一軒家がある。150年は経っているが誰かが今も住んでいる気配である。1871年ヴェルレーヌはそこで妻マチルダとの新婚生活を送っていた。その年の5月パリコンミューンが崩壊した。市の職員であったヴェルレーヌは直接にコンミューン軍には参加していなかったがシンパであった。その日々でランボーの詩を読んだ彼は「来たれ、パリへ、」とランボーに賛辞を送った。ヴェルレーヌは二七歳、妻は妊娠していた。その年の九月、シャルルビルから出てくるとランボーから連絡をもらったヴェルレーヌは友人とともに東駅に迎えに行く。あれほどの素晴らしい詩を書く男だ、三〇前の立派な男だろう、と彼は期待してその風貌の男を探す。だが見つからない。失望して帰るとなんと自宅に美しいがみすぼらしい少年が座っている。それがランボーだった。東駅から徒歩でも三〇分くらいだろうが、探してきたのだ。それからヴェルレーヌの人生は狂ってしまう。ランボーとキャフェからキャフェへ飲み歩き、酔っ払っては妻を殴り赤ん坊をほおり投げる。放浪する。彼はランボーから離れられない。ただお互いにそうしながら詩的感覚は磨かれていたにちがいない。そのあとの日々と破廉恥な出来事は衆知のことである。一八七三年ヴェルレーヌがピストルでランボーの右手を撃ったことで一応は決着はついたが、そのあと滅多には会わなかったけれどその愛憎の感情はずっと続く。一八八〇年、ヴェルレーヌは「呪われた詩人たち」という詩評論でランボーを紹介し評判になる。ランボーが忘れられつつあった時である。ランボーはその翌年にアラビアのアデンに渡り、それからエジプト、ハラルに去って行ったのである。再びフランスに戻るのはその十年後である。
今も二コレ通りに残る家に住んでいるのはどんな人だろう。家の前には歴史案内標識が立っている。「この家からヴェルレーヌの天国と地獄が始まった。」
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