2012年10月2日 九州日仏学館で表記の講演を行った。出席は50名の予定だったが、前日の毎日新聞のお知らせもあって80名ほどになって資料が足りなくなった。昨年、小さな会合で写真集を作り、説明したものがあったのでそれを膨らませて資料を作った。さまざまな写真に加えて、直筆原稿の写し、詩などをいれて60ページを越えてしまった。主宰は福岡日仏協会で、会長は医者の水田先生、局長は九大名誉教授の高藤先生。毎月一度メンバーが集まって、15名ほどで談話研究会をやっているその一コマだった。友人たちに声をかけすぎて多くなってしまった。
写真集は、彼の生家から住んでいた家、故郷や少年時代の写真、パリでの住んでいた界隈、などから放浪のイエメン、最近見つかった写真、アフリカエチオピアハラルの写真、死んだ病院、などその一生を辿った。その時々の逸話をいれてしゃべった。彼の文学、詩についてはまだまだ未熟なので、彼の一生の遍歴について重点を置いた。
ランボーをあまり知らない人や、少しだけのひとには、全体がつかめてこれから興味をもつきっかけになったようだ。だが、僕が自慢できるほどの写真の面白さをわかってもらったかどうか。
あるていど、専門的にも知識がある人には、珍しい写真がおもしろかったのではないか思っている。
たとえば、ベルレーヌとランボーが最初に逢った家、住んでいた地域のパリの最近の光景、ランボーが参加したかどうかのパリコンミューン、ヴェルレーヌがランボーを撃ったブリュッセルのホテル、地獄の季節を書いたロッシュ村、当時と現在の風景、その詩集の出版元の廃墟、モニュメント、地獄の季節を書いたロッシュ村の母屋、それが第一次大戦でドイツ軍に爆撃された廃墟、最近新しく発見された30代の彼、キプロス、イエメン、晩年を過ごした暗闇の町ハラル、その城壁の遠景、市内地図、彼の事務所、現在のハラル、市内の鳥瞰図、ランボーが売った銃を持つハラルの兵隊たち、ハラルの暗闇でギターと弾く彼、瀕死の彼をアフリカから運んだ担架、苦痛にさいなまれて帰ってきた故郷のヴォンク駅、その今と昔、ハラルの市場、その死に顔、などなど。
質問も多く出してもらったが、まだ時間があれば何時間でもよかった。しゃべり足りないところがあった。そして最後に友人のグザビエ君に「母音」を、講演を聞くために予定を早めて帰国したパリ40年在住の友人山崎氏に「地獄の季節」を読んでもらった。さすがにフランス語の響きはいい。
締めに、彼の人生について僕の考えをのべた。短く言うと、フランスの大御所イブボンヌフォアがランボーの文学は素晴らしいが、アフリカからの手紙には価値はない、読むべきでない、といったことに反対の一語を付け加えた。彼は詩そのものを現実として生きた。彼の現実がそのまま詩である。後半を通して彼の詩を見るほど素晴らしい文学はない、と。
そしてもう一つ、ポールクローデルが死の直前に反逆児ランボーが敬虔な信者になった、と妹のイザベルが手記に書いているのを評価しているが、僕はそれは間違いだと思うといった。親鸞のいう、「悪人こそ救われる、、、」というのは神や仏に反抗する悪人ほど、神や仏の存在を信じている。彼らこそ救われなくてはならない、と。それはカミュの実存主義に通じる。事実、カミュの手記にはランボーの詩の数行が出てくる。
また、たくさんの友人が来てくれた。これを記録にしたいので思い出すだけ記す。
高藤先生、山崎氏、パリ大学考古学者グザビエ君、九大物理教授川辺、天文学教授平井、パリ天文台藤原、各先生、福大教授ド・グルート先生、キャさリーン先生、英文学教授「帝京大」木村先生、ドイツ文学教授「第一大」伊藤知子先生、医者ので日仏協会会長水田先生、医者でドビッシー研究家の島松先生、整形外科南島先生、詩人の脇川、安河内、尚、の各氏、作家の「世界の中心で愛を叫ぶ」の片山恭一氏、天谷さん、俳詩人逢坂氏、画廊の尾形氏、歌手高杉氏、ピアニスト花岡さん、屋根裏酒場「獏」の女主人、ラジオキャスター滝悦子、フランス語の勉強仲間、原、古賀、高見、小川君など15名、若きフランスからの留学生、トマ、マチュ、マルジョリ、 など。
この写真集があと少し残っている。希望者があれば送付する。
写真集は、彼の生家から住んでいた家、故郷や少年時代の写真、パリでの住んでいた界隈、などから放浪のイエメン、最近見つかった写真、アフリカエチオピアハラルの写真、死んだ病院、などその一生を辿った。その時々の逸話をいれてしゃべった。彼の文学、詩についてはまだまだ未熟なので、彼の一生の遍歴について重点を置いた。
ランボーをあまり知らない人や、少しだけのひとには、全体がつかめてこれから興味をもつきっかけになったようだ。だが、僕が自慢できるほどの写真の面白さをわかってもらったかどうか。
あるていど、専門的にも知識がある人には、珍しい写真がおもしろかったのではないか思っている。
たとえば、ベルレーヌとランボーが最初に逢った家、住んでいた地域のパリの最近の光景、ランボーが参加したかどうかのパリコンミューン、ヴェルレーヌがランボーを撃ったブリュッセルのホテル、地獄の季節を書いたロッシュ村、当時と現在の風景、その詩集の出版元の廃墟、モニュメント、地獄の季節を書いたロッシュ村の母屋、それが第一次大戦でドイツ軍に爆撃された廃墟、最近新しく発見された30代の彼、キプロス、イエメン、晩年を過ごした暗闇の町ハラル、その城壁の遠景、市内地図、彼の事務所、現在のハラル、市内の鳥瞰図、ランボーが売った銃を持つハラルの兵隊たち、ハラルの暗闇でギターと弾く彼、瀕死の彼をアフリカから運んだ担架、苦痛にさいなまれて帰ってきた故郷のヴォンク駅、その今と昔、ハラルの市場、その死に顔、などなど。
質問も多く出してもらったが、まだ時間があれば何時間でもよかった。しゃべり足りないところがあった。そして最後に友人のグザビエ君に「母音」を、講演を聞くために予定を早めて帰国したパリ40年在住の友人山崎氏に「地獄の季節」を読んでもらった。さすがにフランス語の響きはいい。
締めに、彼の人生について僕の考えをのべた。短く言うと、フランスの大御所イブボンヌフォアがランボーの文学は素晴らしいが、アフリカからの手紙には価値はない、読むべきでない、といったことに反対の一語を付け加えた。彼は詩そのものを現実として生きた。彼の現実がそのまま詩である。後半を通して彼の詩を見るほど素晴らしい文学はない、と。
そしてもう一つ、ポールクローデルが死の直前に反逆児ランボーが敬虔な信者になった、と妹のイザベルが手記に書いているのを評価しているが、僕はそれは間違いだと思うといった。親鸞のいう、「悪人こそ救われる、、、」というのは神や仏に反抗する悪人ほど、神や仏の存在を信じている。彼らこそ救われなくてはならない、と。それはカミュの実存主義に通じる。事実、カミュの手記にはランボーの詩の数行が出てくる。
また、たくさんの友人が来てくれた。これを記録にしたいので思い出すだけ記す。
高藤先生、山崎氏、パリ大学考古学者グザビエ君、九大物理教授川辺、天文学教授平井、パリ天文台藤原、各先生、福大教授ド・グルート先生、キャさリーン先生、英文学教授「帝京大」木村先生、ドイツ文学教授「第一大」伊藤知子先生、医者ので日仏協会会長水田先生、医者でドビッシー研究家の島松先生、整形外科南島先生、詩人の脇川、安河内、尚、の各氏、作家の「世界の中心で愛を叫ぶ」の片山恭一氏、天谷さん、俳詩人逢坂氏、画廊の尾形氏、歌手高杉氏、ピアニスト花岡さん、屋根裏酒場「獏」の女主人、ラジオキャスター滝悦子、フランス語の勉強仲間、原、古賀、高見、小川君など15名、若きフランスからの留学生、トマ、マチュ、マルジョリ、 など。
この写真集があと少し残っている。希望者があれば送付する。