あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№42  アルチュール・ランボーの足跡を辿って「講演会」

2012-10-25 14:24:11 | 日記
 2012年10月2日 九州日仏学館で表記の講演を行った。出席は50名の予定だったが、前日の毎日新聞のお知らせもあって80名ほどになって資料が足りなくなった。昨年、小さな会合で写真集を作り、説明したものがあったのでそれを膨らませて資料を作った。さまざまな写真に加えて、直筆原稿の写し、詩などをいれて60ページを越えてしまった。主宰は福岡日仏協会で、会長は医者の水田先生、局長は九大名誉教授の高藤先生。毎月一度メンバーが集まって、15名ほどで談話研究会をやっているその一コマだった。友人たちに声をかけすぎて多くなってしまった。
 
 写真集は、彼の生家から住んでいた家、故郷や少年時代の写真、パリでの住んでいた界隈、などから放浪のイエメン、最近見つかった写真、アフリカエチオピアハラルの写真、死んだ病院、などその一生を辿った。その時々の逸話をいれてしゃべった。彼の文学、詩についてはまだまだ未熟なので、彼の一生の遍歴について重点を置いた。

 ランボーをあまり知らない人や、少しだけのひとには、全体がつかめてこれから興味をもつきっかけになったようだ。だが、僕が自慢できるほどの写真の面白さをわかってもらったかどうか。
 
 あるていど、専門的にも知識がある人には、珍しい写真がおもしろかったのではないか思っている。
たとえば、ベルレーヌとランボーが最初に逢った家、住んでいた地域のパリの最近の光景、ランボーが参加したかどうかのパリコンミューン、ヴェルレーヌがランボーを撃ったブリュッセルのホテル、地獄の季節を書いたロッシュ村、当時と現在の風景、その詩集の出版元の廃墟、モニュメント、地獄の季節を書いたロッシュ村の母屋、それが第一次大戦でドイツ軍に爆撃された廃墟、最近新しく発見された30代の彼、キプロス、イエメン、晩年を過ごした暗闇の町ハラル、その城壁の遠景、市内地図、彼の事務所、現在のハラル、市内の鳥瞰図、ランボーが売った銃を持つハラルの兵隊たち、ハラルの暗闇でギターと弾く彼、瀕死の彼をアフリカから運んだ担架、苦痛にさいなまれて帰ってきた故郷のヴォンク駅、その今と昔、ハラルの市場、その死に顔、などなど。
 
 質問も多く出してもらったが、まだ時間があれば何時間でもよかった。しゃべり足りないところがあった。そして最後に友人のグザビエ君に「母音」を、講演を聞くために予定を早めて帰国したパリ40年在住の友人山崎氏に「地獄の季節」を読んでもらった。さすがにフランス語の響きはいい。

 締めに、彼の人生について僕の考えをのべた。短く言うと、フランスの大御所イブボンヌフォアがランボーの文学は素晴らしいが、アフリカからの手紙には価値はない、読むべきでない、といったことに反対の一語を付け加えた。彼は詩そのものを現実として生きた。彼の現実がそのまま詩である。後半を通して彼の詩を見るほど素晴らしい文学はない、と。
 
 そしてもう一つ、ポールクローデルが死の直前に反逆児ランボーが敬虔な信者になった、と妹のイザベルが手記に書いているのを評価しているが、僕はそれは間違いだと思うといった。親鸞のいう、「悪人こそ救われる、、、」というのは神や仏に反抗する悪人ほど、神や仏の存在を信じている。彼らこそ救われなくてはならない、と。それはカミュの実存主義に通じる。事実、カミュの手記にはランボーの詩の数行が出てくる。
 
 また、たくさんの友人が来てくれた。これを記録にしたいので思い出すだけ記す。

高藤先生、山崎氏、パリ大学考古学者グザビエ君、九大物理教授川辺、天文学教授平井、パリ天文台藤原、各先生、福大教授ド・グルート先生、キャさリーン先生、英文学教授「帝京大」木村先生、ドイツ文学教授「第一大」伊藤知子先生、医者ので日仏協会会長水田先生、医者でドビッシー研究家の島松先生、整形外科南島先生、詩人の脇川、安河内、尚、の各氏、作家の「世界の中心で愛を叫ぶ」の片山恭一氏、天谷さん、俳詩人逢坂氏、画廊の尾形氏、歌手高杉氏、ピアニスト花岡さん、屋根裏酒場「獏」の女主人、ラジオキャスター滝悦子、フランス語の勉強仲間、原、古賀、高見、小川君など15名、若きフランスからの留学生、トマ、マチュ、マルジョリ、 など。

この写真集があと少し残っている。希望者があれば送付する。




コメント (3)
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カミュのパリ

2012-10-14 10:31:45 | 日記
 好きな作家の住んでいた家などを訪ねるのは楽しい。とくに好きな作品を書いていた家などに行くことはまた格別だ。20年ほど前にパリの古いムフタール通りを歩いているときに偶然に見つけたヴェルレーヌ終焉のアパルトマン、そこはまたヘミングウエイの仕事場でもあったが、から僕の趣味が始まった。それからこのページで何度も書いたが、アルチュールランボーの足跡などは繰り返し訪れたものだ。「これについては、10月2日 福岡日仏協会の依頼で九州日仏学館で講演をさせてもらった。80名ほど出席者があった」
 
 ランボーについては繰り返さないが、ボードレールについてはまた少し触れたい。かれが母親と二人きりで過ごした幼少期の至福の時の家は住所がポルトマイヨーの近くだったので訪れたが家は今はない。一番印象的だったのは、ノルマンディーの港町オンフルールでのことだ。丘の上のホテルからまだ眠たい目をこすりながら丘を降りていくと途中に壊れた石壁をみつけた。雑草と蔦におおわれてあまり目立たない。ふと見ると、プレートがあってボードレールのお母さんの夏の別荘と、書いてある。成人した彼はそれでも時折お母さんの別荘を訪れ思い切り甘えていたのだ。偶然だったし、まだボードレールをそう好きでなかった昔のことだ。今だったら、そのに座り込んで何時間も過ごしただろう。もったいないことをした。写真に収めただけでそこを後にした。この頃になって、急にそれが思い出されるようになった。短い時間だったが無意識のうちに僕の心に印象が刻まれていたに違いない。

 最近になって好きな作家、カミュの追っかけを始めた。「異邦人」は何回も読んだ。それを書き始めたのはカミュがアルジェリアの急進ジャーナリストの時であり、またパリに出てきても続けられ、ドイツへの宣戦布告の小競り合いの中であった。そして書き終えたのは、フランスが全面降伏をする一か月前のことだ。そこはまだ住所を調べただけで訪れていない。ブルバールサンジェルマン143番地ホテルマジソン。
 
 次に見つけた住所がヴァノー1番地。1944年の棲家である。まだドイツ軍の占領下だ。結核で志願ができなかった彼はレジスタンスのジャーナリストだった。これはぜひ行ってみなくては。いつも見慣れた地下鉄の駅、ヴァノー。ずいぶん歩いてやっと見つけたが、いつもあるような、カミュここに住めり、というプレートが壁にはない。しかし別のプレートを見つけて僕は驚いた。アンドレジッド1951年と書いてある。カミュはジッドの家に間借りしていたのか。ジッド75歳、カミュ30歳。仏文学の専門家なら知っていたのだろうが僕には初めてのことだった。その時、カミュは妻のフランシーヌと一緒だったのだろうか。
 同じ建物の続きのなかで、彼らはお互いの文学になにか影響を与えあっただろうか。僕の想像は膨らむ。近くのガリマール書店で二人は初めて出会う。出版打ち合わせの部屋だったろうか。パーティのせきだったろうか。まだ住所の決まらないカミュにジッドが近寄って話しかける。
「君が、カミュ君か。異邦人はなかなかおもしろかったよ。パリにまだ部屋がないなら、僕のところに離れがあるよ。貸してもいいが。」
「えtt、そうですか。ありがとうございます。」

 リュ・マダムは1950年、カミュ37歳からの部屋「アパルトマン」がある。妻と双子の兄妹と住んでいる。そこは6区の区役所の裏の通りである。番地をよく調べないで僕は出かけた。ここは間借りでないから、プレートはあるだろう。しかしなんど通りを往復しても見つからない。近くのカフェで聞いても、えtt、カミュが住んでたの、と逆に聞かれるだけだった。残念でならない。番地を調べてくるべきだった。
 1960年の正月が明けたばかりの日、15歳の子供と妻はそこで衝撃の電話を受ける。プロバンスの帰りの高速度道路でカミュが事故で死んだ、即死だった、と。

 ついでに、近くに小さな古い花屋があった。センスのいい花屋。そこの店員はカミュの家に花を届けていたの意だろうか。もう一つついでに、そこは今もカトリーヌドュヌーブの御用達の花屋でもあるらしい。
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