僕の父は33歳で岐阜県の大垣市で死んだ。昭和20年終戦の5か月前だった。大日本紡績大垣工場の化学の研究者だった。僕はそこで生まれ一歳半だった。
母は一歳半の僕と義母を伴って親戚を渡り歩いた。長野県の中込というところへ疎開していた父の本家に居候した。本家の主人「父の従兄弟」は軍人で位も高かったので、そう貧窮していなかった。それでも母は肩身が狭かった。毎朝、僕を連れて早くから散歩に出かけた。まず歩いて10分ほどの千曲川で顔を洗い口を漱いだ。それからはすることもなかった。
終戦になって母はまた義母と僕を伴って東京、大阪、親戚や実家を渡り歩いた。23歳の母には生きるのはつらいことばかりだった。僕が5歳の時に母は僕をおいて他へ嫁いだ。僕は現在の姓を名乗るところに養子に来た。
小学生の頃それとは知らず、僕は藤村の千曲川抒情の歌を暗記して大人たちを驚かせた。そして木琴で曲をつけて先生にピアノで弾いてもらったりした。それから50年ほど経って、僕は妻をつれて中込と小諸と千曲川を散策した。自分のルーツをたどることが僕には重要になっていた。
ある時古い書類のなかから実父の大学卒業証書が出てきた。養子先の父が何十年も保管していてくれたようだ。ついでに養子になるためにはるばる旅してきた5歳の僕の荷物につけられた宛先の書いてある木札も残っていた。
父の九州大学農学部の卒業証書には中津市出身大分県士族と書いてある。すぐに訪れたのは言うまでもない。はじめての中津市は小さな綺麗な街だった。福沢諭吉「ひい祖父さんの同僚?」の旧居を訪ね聴いていた寺を訪ね中津城に上った。城下町の民家の載っている古地図も買った。もしやと思ったが、父の名前、僕の旧姓はなかった。
帰ってきてしばらく考えると、中津城は黒田如水や細川家が代々の城主だが、明治維新の時の城主はだれだ、僕の祖先はその城主に着いてきたサラリーマン家来だったのではなかろうか。早速中津市の観光課に電話して聴いたみた。答えは最後の城主は小笠原家で兵庫の龍野から転勤になってきたとのことだった。
次に機会に龍野を訪れたことは言うまでもない。龍野はまた小さな綺麗な城下街だった。下町の古い醤油屋や揖保乃糸そうめん屋があった。昼飯に食った、梅干しそうめんは絶品だった。城跡も小さく風情があった。町の本屋に入ると、三木露風の詩集があった。「廃園」という題で手書きの詩集できれいな字で書いてある。抒情たっぷりの古本を印刷したものだが僕には宝物になった。夕焼け小焼けの赤とんぼ、負われていたのはいつの日か、しっとりした一日だった。
ただ小笠原殿様はそこに5年ほどしかいなかったということだった。ではその前はどこだったか、電話になれた僕はまた市役所に電話した。龍野の殿様は明石の殿様の弟ということだった。明石を訪れたのはしばらくしてからだったが、そこで僕は大きな発見をした。街に出て、電話帳を繰ってみた。まさかと思ったが、僕の旧姓、父の姓は珍しい「於田」という。電話帳にその名前が10軒ほど並んでいた。僕が感動したのは言うまでもない。彼らは親戚である。親戚の端っこにいた僕という一人があちこち変遷して九州に住んで、ここを訪ねてきたことを誰も知らないだろう。
そして大昔、ひい祖父さん、またはひいひい祖父さんが殿様についてはるばる九州まで転勤してきたことを誰も知らない。
僕はそれだけで満足だった。そのついでに、城ができる前は小笠原家はどこにいたのか。調べてみると、市内のはずれに小さな築山があってそこに古い神社があった。そこらしい。
藤村についてはこのブログで何どか書いた。パリの住処、好きだった界隈、好きなリュクさんブール薔薇園、彼の苦悩、不倫など。
大垣市については、たまたま芭蕉俳句大会で入選した時に,父の研究所あと、生まれた社宅跡を訪れた。15年程前だったろうか。そのことはこのブログで書いている。
母は一歳半の僕と義母を伴って親戚を渡り歩いた。長野県の中込というところへ疎開していた父の本家に居候した。本家の主人「父の従兄弟」は軍人で位も高かったので、そう貧窮していなかった。それでも母は肩身が狭かった。毎朝、僕を連れて早くから散歩に出かけた。まず歩いて10分ほどの千曲川で顔を洗い口を漱いだ。それからはすることもなかった。
終戦になって母はまた義母と僕を伴って東京、大阪、親戚や実家を渡り歩いた。23歳の母には生きるのはつらいことばかりだった。僕が5歳の時に母は僕をおいて他へ嫁いだ。僕は現在の姓を名乗るところに養子に来た。
小学生の頃それとは知らず、僕は藤村の千曲川抒情の歌を暗記して大人たちを驚かせた。そして木琴で曲をつけて先生にピアノで弾いてもらったりした。それから50年ほど経って、僕は妻をつれて中込と小諸と千曲川を散策した。自分のルーツをたどることが僕には重要になっていた。
ある時古い書類のなかから実父の大学卒業証書が出てきた。養子先の父が何十年も保管していてくれたようだ。ついでに養子になるためにはるばる旅してきた5歳の僕の荷物につけられた宛先の書いてある木札も残っていた。
父の九州大学農学部の卒業証書には中津市出身大分県士族と書いてある。すぐに訪れたのは言うまでもない。はじめての中津市は小さな綺麗な街だった。福沢諭吉「ひい祖父さんの同僚?」の旧居を訪ね聴いていた寺を訪ね中津城に上った。城下町の民家の載っている古地図も買った。もしやと思ったが、父の名前、僕の旧姓はなかった。
帰ってきてしばらく考えると、中津城は黒田如水や細川家が代々の城主だが、明治維新の時の城主はだれだ、僕の祖先はその城主に着いてきたサラリーマン家来だったのではなかろうか。早速中津市の観光課に電話して聴いたみた。答えは最後の城主は小笠原家で兵庫の龍野から転勤になってきたとのことだった。
次に機会に龍野を訪れたことは言うまでもない。龍野はまた小さな綺麗な城下街だった。下町の古い醤油屋や揖保乃糸そうめん屋があった。昼飯に食った、梅干しそうめんは絶品だった。城跡も小さく風情があった。町の本屋に入ると、三木露風の詩集があった。「廃園」という題で手書きの詩集できれいな字で書いてある。抒情たっぷりの古本を印刷したものだが僕には宝物になった。夕焼け小焼けの赤とんぼ、負われていたのはいつの日か、しっとりした一日だった。
ただ小笠原殿様はそこに5年ほどしかいなかったということだった。ではその前はどこだったか、電話になれた僕はまた市役所に電話した。龍野の殿様は明石の殿様の弟ということだった。明石を訪れたのはしばらくしてからだったが、そこで僕は大きな発見をした。街に出て、電話帳を繰ってみた。まさかと思ったが、僕の旧姓、父の姓は珍しい「於田」という。電話帳にその名前が10軒ほど並んでいた。僕が感動したのは言うまでもない。彼らは親戚である。親戚の端っこにいた僕という一人があちこち変遷して九州に住んで、ここを訪ねてきたことを誰も知らないだろう。
そして大昔、ひい祖父さん、またはひいひい祖父さんが殿様についてはるばる九州まで転勤してきたことを誰も知らない。
僕はそれだけで満足だった。そのついでに、城ができる前は小笠原家はどこにいたのか。調べてみると、市内のはずれに小さな築山があってそこに古い神社があった。そこらしい。
藤村についてはこのブログで何どか書いた。パリの住処、好きだった界隈、好きなリュクさんブール薔薇園、彼の苦悩、不倫など。
大垣市については、たまたま芭蕉俳句大会で入選した時に,父の研究所あと、生まれた社宅跡を訪れた。15年程前だったろうか。そのことはこのブログで書いている。
大垣は「奥の細道」の結びの土地でした。水の湧き出すきれいな町でした。偶然に知って芭蕉俳句大会で賞をもらいました。
近江は湖北の木之本町を雪の中で訪ねて、十一面観音にあいさつして回ったことがあります。印象が深く小説にも書きました。このブログにも。