あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№140 万葉集 古今和歌集 からくれない 紀貫之 パリ 与謝野晶子 前川佐美雄 

2021-12-31 14:58:26 | 日記
初めてパリに行ったのはもう30数年前だ。このことは何度も書いた。仏語も英語も得意でない僕が一人で行く羽目になった。楽しみの期待より不安の方が多かった。
若者の旅の恥はみっともなくはない。僕は年寄りとまではいわないが、十分に中年は過ぎている。その歳での恥ははずかしい。多分本など読む余裕もなかろうと思ったが、一冊くらいは持っていないとまた不安だ。なんでもいいと手に取ったのは、文庫本の「古今和歌集」だった。勝手に開いて,一首でも読めれば何か安らぐとか、新鮮な気分を味わうとか、何かに役に立つ、そう思った。後ろのポケットにも入る。ちょっと気障だったがそう決めた。
初めての地下鉄も乗れるようになった。余裕も出てきた。そして地下鉄で最初に開いた「古今和歌集」の歌は、紀貫之だった。眼にはいったのは、「白玉と見えし涙も歳ふればからくれないにうつろいにけり」だった。僕は中年の真っただ中。やがて老境は眼に見える範囲にある。自分が歳ふれば、その時はどんな感慨が僕を襲うのだろうか。若者の白玉の涙、老いた僕は,からくれないの涙を流すのか。

短歌はむつかしく、僕はあまり作らないが少年の頃、青年の頃はいくつか作った。最近は人に勧められて、塚本邦夫、岡井隆、葛原妙子、などを少し読む。小学生の頃、全部覚えた百人一首、そして誰かの本で忘れたが、万葉集の恋歌、などが思い出される。
「朝寝髪われは梳くまじうるわしき君が手枕ふれてしものを」、の歌は忘れられない。男が女性の家を訪れて愛を語らう時代だ。彼が帰った後、私は髪をそのままにしておきたい、一晩中彼の手枕にしていた髪だから。このままにしておけば彼はまた来てくれるかもしれない。
この歌を最初に読んだ人は、与謝野晶子と思うだろう。「その娘はたち櫛にながるる黒髪のおごりの春の美しきかな」、や、「そのはたにあやなく君が手をふれて乱れんとする春の黒髪」、など与謝野晶子が思い起こされる。がこの朝寝髪は千年も前の万葉集の歌である。奈良時代から130年もかけて編纂された万葉集。日本の文化の伝統がそこにあると言って過言ではない。

また「稲突けばかかるあが手を今宵もか殿の若子がとりてなげかむ」なども印象に残っている。夜な夜な、殿様の若様の悪ガキが下女の娘にいたずらにやってくる。そして稲をついて荒れた私の手を取って、冷たかろう、つらいだろうと、言って慰めてくれる。彼女が作ったのではないだろうが、その時代が偲ばれる。
また「多摩川にさらすたづくりさらさらになんぞこのこのここだかなしき」もいい。手織りの布の色付けに多摩川のきれいな水で布を晒す若い女性,なんとかなしい「愛らしい」とうたっている。音の響きが格別に言い。探せば、万葉には恋歌が沢山あるだろう。

我々は高校の授業であまり万葉の恋歌は習わなかった。恋歌をもっと習っていたら、誰もが成績はアップしただろう。

毎朝、近くを散歩する。住宅街,公園、池の周り。池の斜面の雑木雑草の中に夏になると白い小さな百合が咲く。姫百合か山百合か何百合か知らない。姫百合は6月ころ、黄色とか色がついているらしい。夏に白く咲くのは何百合だろう。山百合は大きいと書いてある。これは夏の雑草の中の雑草のままの百合である。今年は我が家の玄関前に、種が飛んできたのだろう、一本咲いていた。昨年は庭に咲いていた。
「夏の野の繁きに咲ける姫百合の知らえぬ恋はくるしきものそ」は万葉集だ。恋の苦しさを詠う、洒落た教養のある女性だろうが、誰か知らない。

小学校の頃は百人一首のほか啄木もよく読んだ。考えれば結構、短歌は読んだようだ。新古今和歌集なども親しんだ。俳句も短歌も、折に触れて、自分の今を考える時にふと浮かんでくる。今、一番気になったのが、やはり、からくれない、だ。
「春の夜にわがおもうなり若き日のからくれないやかなしかりける」前川佐美雄、わが心境だが、最初の貫之の、からくれない、と僕にとっては繋がっている。身に染みる。 











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