あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№156 グルジア ジョージア ウクライナ オセニア ロシア スターリン ウクライナ

2024-05-14 13:29:48 | 日記
ロシアの南で黒海に面したグルジアと言う国がある。
1991年、ソヴィエト連邦が崩壊した時、グルジアは独立した。スターリンの出生の地であり、僕たち学生のころは古いロシアのイメージが残る場所として、そこの民謡を歌ったりしていた。初代大統領はソヴィエトの外務大臣だったシュワルナゼだった。唯オセニアという地方が、北はロシア、南はグルジアに分けられた。2000年のはじめころだったか、その南オセニアがグルジアから独立したいと反旗を翻した。当然グルジアは弾圧した。それに乗じて、当時のメドヴェージェフ大統領はグルジアを攻めた。その戦争は5日で終わり、グルジアはオセニアを手放し、和平案が成立した。今の政府はロシアに逆らえないが、国民の多くはナト―に加盟したがっている。
この歴史はややウクライナに似ている。もともと東ウクライナはロシアだと言って、ロシアはウクライナを攻める。ウクライナは反対している。ウクライナにも古いロシアの文化が多く残っている。プーチンは、グルジアを攻めて、オセニアを取り戻したことを思い出していたのだろうが、そうはいかなかった。
美しいグルジアには今でも年に100万近くの人がロシア人が観光で訪れるらしい。国民同士は何もなくても政治でナトーとかの問題が出てきて、ロシアがまた何かせぬかと心配だ。

1960年から20年あまりは、日本でもソヴィエトは社会主義の理想を求める国とみていた人が多かった。僕たちのそのころの遊びだった歌声喫茶ではロシア、ソビエト、ロシアの田舎の歌などが流行った。まだ見ぬ国への気持ちを込めて大きな声で歌ったものだった。ウクライナでもグルジアでもモスクワやペテルブルグ「レニングラード」とは違った、異国情緒と文化があった。
2015年頃だったか、日本政府はグルジアを英語読みのジョージアと呼ぶことに決めた。僕個人がどういうか問題ないだろうが、それは嫌だった。それからまだ間もないある時、モスクワのレストランで、ワインを頼んだら、ウエイトレスがロシア産かジョージア産かと聞いてきた。ジョージア産が少し高い。僕は旅の疲れでボーとしていたのか、慣れない呼び方のジョージアはアメリかと思って、ロシア産のワインをたのんでしまった。それはグルジア産だったのだ。ワインの名産地のワインを飲み損ねてしまった。そんなにいつもロシアには行けない。今でも残念だ。

グルジアは日本と関係が深い。とくに昔から芝居が盛んで、日本から人形浄瑠璃「心中天の網島」や歌舞伎が上演されたことがあるらしい。ヨーロッパでもかなり早い時期だ。
ある時、グルジアから演劇舞台が日本に来た。まだソビエト崩壊前だったか、どうか忘れてしまったが。その舞台から僕はグルジアが好きになったのだった。芝居自体はソビエト崩壊前の時代の話で、しばらく上演禁止だったということだった。日本語で「崩壊」素晴らしい劇だった。またいつか見たい。
ロシアで農奴解放運動が盛り上がっていたころ、ある地主のインテリ青年はそれに賛同する。美しい静かな綺麗な奥さんもいる。だが強い意志と主張を持っているわけでもない。そして優しい柔軟な彼は一人の農奴の青年の言いなりになり、利用されてだんだん力を失っていく。食生活もままならない。ある日、買い物に妻を行かせるとき、その農奴の青年をつけてやる。彼は途中の森の中で主人の妻を犯す。その後も生活も苦しく、妻は空腹にも耐えきれずに主人を捨てて農奴の青年の言うままになっていく。インテリ青年は絶望して国を捨てて放浪の旅に出る。数年後、混乱の時期も終わり運動も正常化してきたときに、インテリ青年が逞しくなって帰ってくる。今は落ちぶれた農奴の青年についていくしかない、昔の妻は惨めなその姿になっている。哀れな妻は、運命を呪いながらじっと耐えるしかない。

ロシアの古い文化を残した国、暖かいロシア、ワインの名産地、美しい女優が演じる舞台、歌声喫茶で歌った民謡、第二のウクライナにならないように願うばかり。




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