あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№139 青木繁 辛亥革命 平塚らいてふ 青鞜 大逆事件 幸徳秋水 モナリザ ランボー

2021-11-30 16:07:07 | 日記
2021年も師走を迎えた。
この110年前は様々な僕が特に気になる出来事が起こった。1911年、明治44年である。表題に描いた、青木繁28歳の若き死、中国の辛亥革命、平塚らいてふの青鞜発刊、大逆事件の幸徳秋水の死刑、。ついでにフランスでは前年のセーヌ川氾濫に続いてこの年、ルーブルからモナリザが盗まれアポリネールが犯人として逮捕されるが誤認で釈放される。「もう一つついでに、1911年 伊藤伝衛門が結婚」
「また、今年はアルチュール・ランボーの没後130年にあたる。その記念と言うことで、前に出したわが小説、ロッシュ村幻影、を再版することにした。一昨年出した、太陽を灼いた青年、のシリーズ2弾めになる。」

青木繁は僕の好きな画家の一人である。才気はしった傲慢な自画像から、弱々しい絶筆の朝日、まで彼の人生を追っていくと感慨はひとしおだ。1882年生れ、これはピカソの生まれた年の一年後、ついでに言うとドストエフスキーの死の一年後である。僕は好きな人物の関係を年月で追うのが趣味である。

昨日、行きそびれていた青木繁記念館へやっと行くことができた。彼の生誕の久留米の荘島町。7月13日生まれ。「僕は7月14日生まれ」30年ほど前にそのあたりを、旧い住宅街をうろついて探したが、わからなかったことがある。最近聞くとその頃は月星化成の社宅だったということである。
記念館はその旧居そのままに18年前に再現されていて、整備されて複製画が展示されている。庭も美しい。昔の家の名残は、廊下の板と軒下の小さな金具と階段のみと言うことだ。彼が生まれ学び生活した少年の頃を偲ぶが、上京して父の病気、死のあと、失意のうちに帰郷し家族の生活を見ねばならなかった、そして思うように絵が書けなかった苦しみを思うと、こちらも胸が痛む。
旧居保存会が資金を集めて、旧居を再現してくれたらしい。その会長の娘さんが留守番をしていて、案内をしてくれた。
石橋美術館にあった作品すべては東京八重洲のブリジストン美術館へ持っていかれた。その前から少しずつ作品を複製していたのでよかった、おかげでここに飾れてよかった、と彼女の話だった。

複製画の一つに、絶筆「朝日」がある。死の前年、結核の彼が唐津で療養生活をしていた時に描いたらしい。県立小城高校の所有だが、佐賀県立美術館に収納されている。強がりの彼は朝日を描いてると言っているが、唐津の海からは朝日は見えないはずだ。これは1904年、彼が坂本繁二郎や福田たねら、絵描き仲間と千葉の布良の海岸で過ごした日々、絵を描き泳ぎ遊びの日々、名作海の幸を描いたことを思い出して悲しみのうちに楽しい日々の思い出として太平洋から昇る朝日を思い出して描いたのだ。それを思うと、この弱々しい彼の朝日はまた一段と哀しくなる。と僕は昔から勝手にそう思って他人にも話していた。ところがその絵の傍に、館長が撮ったという写真が置いてあって、それは布良の海岸に落ちる夕陽、だった。それが朝日であってほしかったが、館長も彼の絶筆の朝日が、夕陽だったと知っているのだろうか。
展示には、ほかに「海の幸」、「わだつみのいろこのみや」、自画像、布良の海、などがあった。布良の海はクールベを彷彿とさせる。
他の作品「夫婦晩帰」は城島の清力美術館、友人の妹を描いた「秋声」文展落選は福岡市美術館にある。

40年ほど前、僕は布良の海岸を訪れた。「海の幸」を描いた若き画家の希望に満ちた日々を偲ぶより、翌年再び妻たねと訪れた日々が偲ばれた。海の幸のあとの作品の評価はその後は芳しくなく、金もなく妻は妊娠している。近づいてくる不安の予感。松本清張は、その時の青木の心境を、貧しい二人は船に揺られ、彼はつまが流産するのを秘かに願ったのではないか、などと書いている。「それ以来僕は松本清張が嫌いだが。」絵具代にも乏しい彼は、旧い寺、円光寺の戸板に廃船の釘を焼いて絵を描くのだ。その絵は八女かどこかの親戚が持っていると聞いているが、いつか見たい。
血を吐きながら、夕陽を朝の太陽と思い込もうとして、最後の力を振り絞って描いた「朝日」は弱しく、それゆえにさらに美しい。死に向かって落ちていく体力ニモマケズ、一筆一筆のタッチは弱いけれど喜びに充ちている。その絵は涙なしには見られない。

彼と妻のたねとの一人息子は音楽家福田蘭童「その可愛い絵もある」、その息子は石橋英太郎、。その親戚が新橋どこかで居酒屋をやっているらしいが、行きたいが行ったことはない。僕の友人の檀一雄が良く通っていたらしい。


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№138ヴェルレーヌ マラルメ ボードレール パリ ムフタール デカルト街 ポール・ホール ブラッサンス

2021-11-21 14:33:31 | 日記
このブログは、好きな芸術家の跡を追っかけることで始まった。それも時間が経つと新たな発見も多くなる。それで繰り返すこともある。

初めてのパリで、歩きまわった時、カルチェラタンのパンテオンの裏の古い通り、ムフタール通りやデカルト街をあるいた時、ヴェルレーヌの家を見つけた時は興奮した。本の上でしか知らない、異国の詩人の現実の家が目の前にある、感動しないはずはない。「そこにはヘミングウエイも住んだことがある」それが僕の追っかけの始まりだった。
とくに生家、住んでいたところ、お墓を巡ると、その人物の一生を、本で知っている生涯を思い浮かべて感慨に浸る。そして手を合わせる。少しでもその芸術家の才能の雫でも、もらえたら嬉しいと思いながらだ。
その部屋で元娼婦でお針子の連れあいと友人の画家に看取られてヴェルレーヌは死ぬ。元市役所役人、抒情派詩人、ランボーとの騒ぎの詩人、晩年は酔っ払い詩人、しかし彼の人気は衰えず、生活保護のようなのもを貰いながらも、講演では多くが集まり、慕われていた。
死の翌々日、田舎からマラルメが駆け付けた時は、デスマスクを取っていたところらしい。寒い凍り付いた冬の日、近くの美しいテチエンヌ教会で葬儀が行われ、17区のパチニョル墓地に埋葬される。そこまでの道筋、学生や人々、数千人が後を追って続いたと言われている。その様子をこの前フランス教室の勉強で習った。その頃詩王と言われたポール・ホールと言う詩人が詩にしている。そしてそれを、ブラッサンスがギターを弾きながら歌っている映像をはじめて見た。先生に聞くとその詩はフランスでは小学校の頃、教科書で読んだり暗記させられたという。これらを新しく知るとまたそのあたりを歩きたくなる。

またマラルメは、ヴェルレーヌの「呪われた詩人たち」と言う本で、ランボーなどと一緒に紹介してもらい、そのおかげで世に出たらしい。マラルメにも「ヴェルレーヌの墓」という詩がある。わかりやすく、韻をふんだ美しいソネットになってる。
そのマラルメも追いかけたことがある。生家は住所だけで、訪れても何もなかった。古い静かなアルトマンが並んでいた。そしてどこだったか忘れたが、彼が高校の教師をしていたという町も行ってみた。マラルメと言う名のリセがあった。住まいのあったそのあたりをぶらぶらしてみただけだった。
次はサンラザール駅の近くローマ街のアパルトマン。毎週開かれる「火曜会」というサロンがあった。マネやドビッシ―、ゲオルグ、ヴェレり―、ルノアール、ゴギャン、ヴェルレーヌ、オスカーワイルド、ジッドなどがワインを飲んだり議論したりしたらしい。僕もそこに座っているのを夢にでも見たい。そこはアパルトマンの入口に、プレートがあるだけで、誰かが住んでいるのだろう。僕はそのプレートを手で撫でるしかないが満足だった。
次は彼の終焉の家、バルバンと言うセーヌの上流の村、フォンテンブローの森の近くだったろうか。どの電車で行ったか、もう覚えていない。人気のない駅を降りて田舎道を歩く。あたりの林には林檎の木が実をつけている。小さな林檎が雑木のようになっているのに驚く。かじってみると甘酸っぱいいい味がする。小さなレストランで食事をして家に着く。瀟洒な小さなさすがに品格がある。中を見て回る。僕などがそこを歩いていいのかどうかさえ、恐れ多い気がする。そのどれかの部屋で彼は咽喉を痛めて苦しんで死んだのだ。娘が看取ったのだろう。裏庭は庭いっぱいに林檎の木があり。地面一杯に林檎が落ちている。そこをスマートな強そうな犬が走り回っている。家の前はセーヌ川の上流だろう。ある午後、ボートである貴婦人の家へ入り込んだという散文詩が思い起こされる。
そばに小さなホテルがあり、一階がレストランのようだ。さっき飯を食わねば良かった。そのホテルに泊まって、何日か過ごせば、何か書ける気がする。真剣にそんな気がした。その頃僕は、小さいものを省けば、2,30年も悶々としながら何も書けない時間を過ごしていたのだ。
近くに墓があった。幼くして死んだ息子の墓の傍らしい。その墓は美しいは大理石、で黒と金色に光っていた。大きくはないがまた品格があった。手を合わせるにも緊張する。彼の詩は全部ではないが、フランス語でも日本語でも何度も読んだ。が、どこまで理解できたかわからない。それでも少しでも何かを貰えたような気もする。「書はすべて読みたり、肉は悲し、」である。
ボードレールは次にする。


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