あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№45 湖北の旅 「星と祭」 井上靖

2012-12-19 10:04:41 | 日記
 2日間降り続いた雪がつもたままの翌日、琵琶湖の北のはずれの余呉湖を訪れた。晴れた美しい日だった。一面の雪の中を歩いて湖水のほとりを目指す。鏡のようなあまりに美しさに天女が降りてきて羽衣を掛けて遊んだという伝説の湖水である。涼気が太陽に温められて湖水を靄がおおいその先は見えない。木々や近くの民家を映して純白の幻想の世界である。戦国時代の血みどろの湖東から北にはずれたこの辺りにも敗残兵が逃げてきて湖水の水で体を心をいやしたことだろう。
 この余呉湖のずっと南に下る田舎や山奥深くに30から40の小さな寺が散在する。また廃寺になっているのも多い。湖北に古寺と古い十一面観音がいくつもあると何かで読んだことがあったのはもう三十年もまえだったろうか。しかも20戸足らずの村人がそれぞれの観音様を守っている。

 今年の夏、パリの列車の中で絵を描いていた岩崎恵子さんと知り合った。彼女は大津に住んでいるとのことだった。大阪での仕事のついでに大津を訪れることにした。夕食までたっぷり時間があったので迷いなく湖北散策を決めた。大津の石山寺や延暦寺などは何度も行ったので明日でいい。朝早く大阪をでたので時間の余裕はあった。
 
 余呉湖の後、木ノ本駅からタクシーで回ることにした。もっと時間があれば徒歩や自転車もあったが、雪は深く地図をたよりでは心もとない。タクシーはやはり正解だった。雪の田舎道を走り細い集落の通りを抜け、最初に着いたのが巳高閣というところだ。比叡山延暦寺より昔、山岳仏教修行の場であった「鶏足寺」という山奥の「今は廃墟」なかの十一面観音を保存するために建てられたという。深い雪を踏んで守番を読んで開けてもらう。
 ぼんやりした憧れだけで訪れた最初の十一面観音だった。うす暗い堂にすくっとそれは立っていた。僕は緊張していたのだろうか、それとも何かあわてたような気もして、ゆっくりその顔と姿態を眼底に焼き付けることができなかった。最初に目に飛び込んできた不思議な雰囲気がショックのように、映像を通り越して僕の脳髄か肉体に入り込んだ。細部もその顔も思い出せない。こんなことがあるのか。美しいものを感じた時のように、やるせないような悲しみのような不思議な感覚から抜け出せないまま、雪に埋まった伽藍を転びそうになりながらタクシーに戻る。美しい女に出会って、すぐに別れねばならない、もう会うことがないという悲しみに似ている。

 次は石道寺である。タクシーを降りたのはまた雪深い小さな谷合でいきなり目に付いたのが「熊に注意」という看板だった。雪解けの速い水の小川を渡り、雪でよくわからない石の階段を滑りながらよじのぼり小さなお堂に着いた。ふくよかな親しみを感じる観音様だ。唇には紅のあとが残っている。天平時代の作だということだ。こんどこそじゅっくり目に焼き付けよう。僕は長い時間見つめた。大昔は彩色鮮やかであったろう。がその残像がまた美しい。そのふくよかさが安らぎになって僕の体に染み込んでくる。やっと僕は落ち着く。

 30年ほど前の新聞小説だった井上靖の「星と祭」は、初老の主人公、架山が7年前に17歳の娘を琵琶湖のボート事故で亡くし、このあたりの十一面観音を巡りながら娘と語り合う物語だ。僕の湖北へのあこがれはそれから来ているのか、記憶にはない。それでこの旅にあたってこの小説を読んだ。筋も特別なものでもなく、淡々とした作品だ。
 石道寺の観音様を彼はこう書いている。案内人がいう。「ここは寺と申しましても、無住で村の人々がお守りしているお堂です」
「架山は中央の十一面観音に目を当てたまま逗子の前に進んでいった。そこに立っているのは古代エジプトの美姫でもなければ、頭に戴いているのは王冠でも宝冠でもなかった。何とも言えず素朴な感じの美しい観音様だった。唇は赤く、半目を閉じているところは優しい伏目としかみえなかった。腰をわずかにひねり、、、、、、」
「この観音様は村の娘さんの姿をお借りになってここのあらわれていらっしゃるのではないか。素朴で優しくて、ほれぼれするような魅力をおもちになっていらっしゃsる。野の匂いがぷんぷんする。笑いをふくんでいるようにも見える口元から、しもぶくれの頬のあたりにかけては特に美しい。ここでは頭に戴いている十一の仏面も王冠といったいかめしいものではなく、まるで大きな花輪でも戴いているように見える。腕輪も胸飾りもふんわりまとっている天衣も何とよく映っていることか。それでいて観音様としてしての尊厳さはいささかも失っていない。なんでも相談にのってくださる大きく優しい気持ちをもっていらっしゃる。恋愛の相談も、兄弟げんかの裁きも、嫁姑の争いの訴えも、村内のもめごともなんでも引き受けてくださりそうなものを、その顔にも姿態にも示していらっしゃる。」

 次は向源寺である。ここには国宝の十一面観音がある。これも一本彫りである。これには参った。実に美しい。それ以上に言いようがない。戦いや火事の度に土に埋められて難を逃れたり、隠されて助けられたりして長い年月を生き延びてきた。姿形、表情、後姿は絶品である。日本にある数ある国宝の十一面観音のなかでも最高と言われている。これをもしルーブルにおいても、おそらくほかの何ものも圧倒するだろう。今僕のつたない文章では表現できない。
井上靖は語る。
「初めは黒檀かなにかで作られた観音様ではないかと思った。肌は黒々とした光沢をもっているように見えた。仏像というより古代エジプトの女帝でも取り扱った近代彫刻ででもあるように見えた、、、。」
「宝冠ですな、これは。みごとな宝冠ですな。」
「十一の仏面で飾られた王冠という以外、言いようがないと思った。しかもとびきり上等な超一級の王冠である。ヨーロッパの各地の博物館で金の透かし彫りの王冠やあらゆる宝石でまばゆく飾られた宝冠をみているが、それらは到底いま目の前に現れている十一面観音の冠りには及ばないと思う。衆生のあらゆる苦難を救う超自然の力を持つ十一面の仏の面でかざられているのである。」「胴のくびれなど一握りしかないと思われる細見でありながら、ピクリともしていないのは見事である。しかも腰をかすかにひねり左脚は軽く前に踏み出そうとしている。」
「顔もお姿も颯爽としていらっしゃる。実に威にみちたいいお顔をしていらっしゃる。」
「観音様はご承知のように、如来さっまにおなりになろうとして、まだおなりになれない修行中のお方です。菩薩様でございます。衆生をお救いになることが修行の眼目と申しましょうか、苦しみをお救いになろうとすることによって、ご自分をお作りになろうと、、、。」
「たしかに秀逸であり卓抜であり森厳であった。腰をわずかにひねっているところ、胸の肉付の豊かなとこなどは官能的でさえあるが、仏様のことだから性はないのであろう、、、。」
等々きりがない。この美しさを思い出として冷静に感じるにはまだずいぶんの時間が僕には必要だろう。琵琶湖の夜景を目に映しながら飲むその夜の酒は、観音様の美しさからまだ目覚めない、やるせないようななぜか哀愁を帯びたのもだった。美しいものに浸ったあとは、なぜに哀しくなるのだろう。

コメント
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