あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№130 その二 旅の迷宮 香港 九龍城 香港返還1997年

2021-04-11 13:39:10 | 日記
60年ほど前の香港はまさに東洋、神秘の魔都だった。昼間でも街角にぼんやり立っている西洋人がよく見かけられた。酒に酔っているのか、麻薬に浸っているのか、どの顔も目の焦点は合わず虚ろだ。東洋の神秘に憑りつかれているのだ。
新聞には毎日20人ほどの行方不明者の顔写真が載っている。警察と住民、スラム街の住民、英国の統治者、などとの対立、暴動。紅衛兵がイギリス統治本部へ殴り込む騒動など。土地が狭いので次々に高層ビルが建つ。不安定な情勢に支えられた、享楽と繁栄の街だった。
商店街や料理店の並ぶ繁華街はネオンが眩い。ただしそれは点滅はしない。空港に近いから、ネオンは静止と決められている。大蒜の匂いと喧嘩の声と車のクラクション享楽を求める熱気と。深夜になると明かりが消えたあちらこちらの商店のシャッターの中から麻雀牌の音がする。
一人の男が高層ビルの狭くてうす暗い階段を昇っていく。7階か8階か、もうわからない。踊り場の角には各部屋がある。饐えた匂いがする。ドアの隙間から誰かがこちらを見ている。小柄な怪しげなポン引きが一人の日本人を淫靡なところへ案内している。男は逃げ腰だが、逃げ切れない。ドアが開く。そこはべニア板で区切られた狭い部屋がある。ベッドに人が横たわっている。
無事に帰って来た者は運が良かったのだろう。そのころ香港では西洋人に限らず、日本人も行方不明者が何人も出た。高層ビルの闇の非日常から非日常だけでなく、異次元の世界へ消えて行ったものたち。

阿片戦争の後、築城されていた要塞の九龍城は英国の香港租借後も中国との間に係争は耐えない場所だった。第二次世界大戦中に壊されたが、戦後になると次第にバラックが立ち始めたちまちスラム化していった。歴史上の成り行きから、そこは治外法権、無法地帯だった。やがてバラックの後にいくつもの細長く高い鉄筋の高層ビルが建てられ、20年も経たないうちに、200メートル、130メートルの2,6ヘクタールの狭い土地に300ものビルが建ち5万人以上が住むようになった。建物と建物の間の空間にも部屋ができ、中は迷路になり巨大なスラム街ができた。犯罪者が逃げ込むには最適であり、行政も官警も入るのをためらい、ながい間そのままほっておかれた。電気は外から無料で引いてきて全館に張り巡らされた。水には苦労したので風呂は無かった飲み水とプロパンガスがあれば人が住むには苦労はなかった。
賭博場、裏社会の事務所、阿片窟、ストリップ劇場、食料工場「製麺。肉の解体、豚の丸焼き、餃子、魚料理」歯科、医院。手術場、薬局、麻雀屋、皮の鞣しや、板金屋、パン屋、精密部品、コーヒーケーキ屋、生地や、雑貨や、祭壇、ごみ集積場、「一時は小学校など」などが犇めいていた。
その中で貧しい家庭は狭い部屋で重なり合って暮らし、裕福なものは窓際にベランダを作り、室内に装飾を凝らして照明で精一杯照らした。あるいは何十年も窓の外を見ず、出かけもせず、外の空気を吸うこともなく死んでいった人たちもいるだろう。迷い込んだ外部の人間がここで殺されても、間違いなく闇に消えただけだったろう。故あって死体が運び込まれても同じだったろう。
ひとつの街が内部に蹲った巨大な暗黒の丘だった。飛行機から見ると、華やかなネオンの海にそこだけ黒々と深淵のように沈んでいる。迷路と神秘と恐怖を内包して外部を拒否する、底知れぬ闇だった。次第に近代化していく巨大都市香港に居直り続けるブラックホールだった。
そんな未知の深淵に意味もなく惹きつけられる人間もいる。ある男は事業に失敗し多額の借金を抱え、妻と子共に去られた。彼は何時間も九龍城の周りを歩く。半間ほどの入口にはどこも、孔子や関羽を祀る祭壇に線香が焚かれている。入口は深い闇に続いているが、彼にはなぜか人を誘い込む光に満ちているように見える。

1984年 英中の間で香港返還合意
1987年 香港政庁が九龍城の取り壊しを決める
1989年 天安門事件に反対して香港では100万人デモが行われた
1994年 取り壊し完了 決定から6年あまり
1995年 跡地は 九龍葛城公園開園
1997年 香港が中華人民共和国へ返還される










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