あちらこちら文学散歩 - 井本元義 -

井本元義の気ままな文学散歩の記録です。

№155 アンドレ・マルロー 王道 カンボジア アンコールワット 仏領インドシナ ランボージャワ ドゴール パンテオン シアヌーク ポルポト

2024-01-26 14:10:01 | 日記
西洋人が東南アジアに興味を持ったのは1858年にナポレオンが東南アジアに人を送ったのが始まりらしい。中国はもう西洋人の興味の極致で阿片戦争、アロー戦争など戦いもあった。フランスドイツオランダなどとの各国の争いも、現地との争いもあった。1876年。アルチュール・ランボーがオランダの外人部隊としてジャワに行ったのも記録に残っている。一か月ほどですぐに脱走したらしいが。
カンボジアは1863年にフランスの保護国になり、1887年にはヴェトナム、ラオス、カンボジアが仏領インドネシアとして植民地になった。それから第一次大戦、第二次大戦の闘争と混乱を経て、各国が独立した。

1923年、大金持ちの娘と結婚し、その財産を投資で失敗して破産したアンドレ・マルロー、22歳は、一獲千金を狙って友人とカンボジアに探検に行く。もともと東洋考古学に興味はあった。そしてアンコールワットの近くの密林の中の廃墟寺院から、女神像の石のレリーフを盗み出し、持って帰ろうとしたが政府に見つかって没収、裁判で有罪になる。原住民との闘い、などその経験を書いた小説が「王道」である、1930年。唯の探検記ではなく素晴らしい文学作品になっている。探検と原住民との闘いの中、生、死、人間存在、その意味はあるのか、と問うている。いくつか引用する。「・・死の支配がこめかみのところで打つ血の脈動とともに性的欲求と同じようにやむにやまれず彼の体内に広がっていた。…殺されるとか行くへ不明になる事は問題でなかった。・・・自分の存在の虚ろさを癌のように行きながら受け入れ、死の温かさを手に感じて生きなければならない・・・」「自分自身のために死ぬ方が、自分自身のために生きるよりは多分難しくないだろう・・・」合間合間の密林の描写がまた素晴らしい。「おれは死を見届けようとして生を過ごしている・・・自分の死を考えるのは死ぬためじゃなくて生きるためだからね・・・」「死はそこにある、まるで人生の不条理を否定できない証拠みたいに・・・」素晴らしい小説だ。
彼はその後政治運動にも文学活動にももかかわりナチ支配下のパリでは地価のレジスタンス運動、戦後は大臣を務め、ドゴールと仲良くなってから文化大臣を長く勤めた。多くの実績を残し、死後はパンテオンに埋葬された。ナチ占領下のパリではヘミングウエイと語り合っている日本食堂の場面を、僕はわが作品「静かなる奔流」に書いた。これは事実である。

1970年、55年前のカンボジアが僕の最初の訪問だった。1954年にカンボジアは独立しシアヌーク国王の時代になっていた。アンコールワットの不思議な美しさに打たれたが、まだ密林の奥に沢山寺院が開拓されないまま残ってると聞いた。首都プノンペンもまだ貧しく、きれいな民族衣装の少女は裸足で、少しフランス語を喋っていた。ホテルは古いフランス時代のもので、鍵もかからず共同シャワーにいると、フランス女性が入って来てキャーと言って逃げていった。街中の食堂は天井が高く、しかしよく見ると,ヤモリが沢山へばりついていて、食べている皿にポトリと落ちてきた。観光客の日本人はいなく、夜は芝生の上で古代民族衣装の踊りを見せてくれた。そばのジャングルを切り開いて、外人の観光客たちがダンスパーティをしていた。踊りも知らない僕も踊った。フランス女性だったが、足を踏んずけて厭な顔をされた。現地人は小柄で、若い僕は相撲を教えた。街の店にはどこもシアヌーク夫妻の写真が飾ってあった。丁度シアヌーク国王がパリに滞在していた。貧しいけれど平和な小さな国という感じだった。

僕が出国して2週間ほど経った時、クーデターが起こった。国王不在中に、アメリカにそそのかされたロン・ノル将軍が首謀だった。シアヌークがやや左寄りで、アメリカは第二のヴェトナムを怖れていた。その時代はすぐに過ぎて、ポルポトが出てきた。シアヌークはポルポトに感謝していたが、あまりのひどさに距離を置いて、北京の王府井の和平飯店に滞在したままだった。ポルポトは国内の唯一の産業のコメを中国に渡し、武器や地雷を手に入れて、自分を守った。そして原始共産主義を表に、インテリ、先生や医者などを多く殺した。また米を没収したため国民は飢えて死んだ。亡くなったのは総人口の3割ほどだった。それも3年あまりでヴェトナム軍に負けてやっと自由が来た。1979年の事だ。その時に、アンコールワットの遺跡をバックに若者たちがロックコンサートを開いた、。その写真を保管していなかったのが悔やまれる。

民主化になって、日本人の若者がボランテアでカンボジアによく行っていた。学校を造ったり、大きな病院は現地に病院を造った。若者たちに寄付をしたこともあった。しかしいつしか物哀しい記憶しか残らなくなった。今回の訪問は昔の恋人に会いに行くようで緊張したままだった。
首都プノンペンに寄らなかったのでよくわからなかったが、いろんな情報で経済はほとんど中国資本、国政も中国寄りだろう。一度百貨店のエスカレーターに驚くカンボジア人の映像を見たが、かなり前だが、あれも中国だろうか。
アンコールワットほかの廃寺、木の根っこに侵入され壊れた石の寺、やっと見つけられた廃寺、そして綺麗に整えられたアンコールトム、それらの朝日夕陽、それらの美しさはまだまだ日が経つにつれて、僕の心に浸み込んでくるだろう。55年前に見た、大きな仏像の顔が木の根っこに侵食されて壊れかかったのがあったが、それを尋ねると、完全に壊れてしまった、ということだった。カンボジアは電気は外国から、工業もない、農産物はほとんど米ばかり、仕事用の牛は痩せて、野良犬が這いまわっている。それを食うらしい。蛙、蛇なんでも食う。鳥が唯一のまともな肉だろう。
アンコールワットのあるシェムリアップ市には観光客用のホテルは、五つ星などいくつもある。ヴェトナム資本、中国資本、レストランも観光客用も立派。屋台のような店ばかり。何軒かは普通の店もある。ビルはない。高級アパートらしきものも何軒か見える。ほとんどが貧しい。それでも小学校や中学校の前を通ると賑やかで明るい。自転車で走る子もいる。それだけが嬉しい。歳よりはポルポトに殺されて、年寄りのインテリもいない。フランス語は消えてしまって英語のみ。
若者たちが希望を追って進んでくれるといい。若い力で明るい未来を築いて欲しい。しかし中国資本が背後にいると思うと嫌になる。美しく貧しい国、その美しさを思うとなぜか悲しくなる。














コメント
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