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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

メリダの勇気と、おおかみこどものお母さん。

2012-08-16 23:49:12 | インポート

 

公開直後の平日夕方からハシゴした。メリダ、おおかみこども。の順で。

結論から言えば、どちらも余り好みではなかった。

かといって(いや、だからか)、激しくどうこう云いたい欲求に駆られることもなく。

ところが、1ヶ月が経とうとしている今、この2作の明暗は激しい分かれ様。

評価にしたって、叩かれるのをよく目にする『メリダ』と、

絶賛の嵐に上昇気流な『おおかみこども』。本当、対照的。

どちらも母と子の物語だったりするのだが、そこに描かれる関係性は異なる。

『おおかみこども』では獣を愛した女が獣の血を引く子供を産むが、

『メリダ』では母親自身が獣になる。獣性の描き方も決着も大いに異なる。

どちらも子供の自立を最終的に描きながら、その道程はやはり違う。

 

別にどちらが好きでも嫌いでもない。

というのは、観てから時間が経ったからかもしれない。

いや、正直に言うと、『メリダ』はそれほど楽しめなかったけど嫌いになれない。

『おおかみこども』はそれなりに楽しんだ気もするが全く好きになれない。

おそらく世評の激しい「風」がなければ、後者は思いっきり貶してるかもしれない(笑)

あれ、なんだかさりげなく嘘つきながら書き始めてたな、俺。

 

『メリダとおそろしの森』は、

その制作過程(特に監督交代劇)からして、

「いびつ」になる運命は免れなかったろうし、

『おおかみこどもの雨と雪』は、

自分でスタジオ起ち上げた細田守の心意気が、

敢然たる熱情をもって結実しているだろう。

ことは、観る前からわかっていたし、観た後も大いに感じた。

 

『メリダ』は、予想外に活劇要素でおしてくる前半を過ぎると、

急に切羽詰まった語りを始める。

今まで忘れていたテーマを取り戻そうとでもするように。

『おおかみこども』は、予想外にスペクタクルは訪れず、

淡々と全編に語りたいことを塗しまくって去ってゆく。

『メリダ』の断絶感は戸惑いを生じさせるものの、

圧倒的な躍動感は束の間の忘却を可能にする。(観てる間だけだけど)

『おおかみこども』の説教は、ソフトであるが故に終始こちらを構えさせ、

結局素直に講釈聞けぬまま散会迎えた集会のよう。

 

細田守はインタビューで、

「母(性)を描いた映画があまりにも(少)ないように思う」と語り、

だからこそ「お母さん」を中心に据えて物語をつくりたかったと云っていた。

これを読んで、自分が彼の映画と相性がよくない理由がわかった気がした。

(激しい違和を感じるようになったのは前作からですが)

ヨーロッパの映画における「母親」という存在は、

それはもう頻繁に主題の中心に据えられて、

あらゆる角度から、あらゆる方法で、重ねて語られてきている。

というより、アメリカ映画が余りにも「父親」寄りなのだ。

アメリカ映画では断然に「父と子(特に息子)」が物語の中核にある。

民族的なつながりを基盤にし、歴史的系譜に誇りをもつヨーロッパの社会が「母」を、

浅い歴史と多民族によって精神性で団結を図ろうとするアメリカの社会が「父」を、

その拠り所のモチーフとして描こうとするのは自然な流れのように思う。

飛躍し過ぎな思考かもしれないが、

細田監督は自然とアメリカ映画にコミットしてきたタイプなのかと。

そんな思いが頭を過ぎり、そういったバックグラウンドから見た場合の

『おおかみこども』で描こうとした母親中心世界が新鮮に見えなくもない。

ただ、母親を描くということは同時に女性を描くことでもであるわけで、

父親との差異、男性との差異にこそ必然的な「個性」が現れたりもする。

しかし、『おおかみこども』では父親が早々に退場するし、

そもそもそちら側を描く気が更更ないゆえ、

母親が男性的役割を取り込もうなどとは一切しない。

そもそも、《社会》から遠ざかることによって解決しようとしているようにも思える。

(いや、ムラ社会の厳しさもあるだろうけれど、

  『おおかみこども』では《社会》を描こうという動機は希薄に思える。

  そういう描き方もあるのかもしれないし、それは成功しているらしい。

  ただ、個人の内面に寄り添いながら語られる物語に物足りなさを感じるのは、

  そもそも「個人」という存在が認識されるのは「社会」の中であって、

  二者の対峙や対照性がマイルド過ぎれば、それはやはり前近代的展望に思えてしまう。

  脱近代的な超克があるでもないし、都合よく「かつての自然観照」的感傷で閉じる。

  そんな風に私の目には映ってしまった。)

 

細田監督は、

映画なのだから多少絵空事に映っても「理想」を描きたいと云う。

そうした気概には大いに賛同したいのだが、

フィクションにおける「理想」が魅力をもって活力を与え得るのは、

その背後に紛れもない「現実」を垣間見、その醜悪さから清廉たる孤高が起ち上るから。

『おおかみこども』にもしっかりした現実が描かれているらしいのだが、

私には冒頭十数分程度の在京時代にしか現実を見ることはできなかった。

それは、私が田舎で生活したことがないからかもしれない。

しかし、田舎生活のリアリティとは、

田舎での生活を経験した者だけが共有できるものとは限らない。

そこは、些末な部分を捨象した上で残るであろう普遍的な現実を見せて欲しい。

 

『おおかみこども』の冒頭、主人公は大学に通い、そこで愛する人と出会う。

その「背景」は、実在する大学や街並が見事に「再現」されている。

実際に私が通っていた場所であっただけに、

それらの風景を目の当たりにする度、驚嘆の連続だった。

その現実感は、実写で映し出される以上のものがあった。

アニメとはそうした抽象化による強烈な普遍性の提示が可能になるものだと思う。

ところが、東京を離れてから以降、それ以上に「真に迫る」描写を

目の当たりに出来た気がしない。それは私の個人的な背景から来るものかもしれない。

しかし、田舎に移り住んでからは自然という背景以上に「人間関係」が重要な背景になるが、

主人公が築く「自分たちだけの領域(理想郷)」を際立たせるほどの「現実」感はない。

学校にしても、都合の好い「もう一つの場所」程度の機能しかないのが残念だ。

(染谷将太は好い役者だと思うが、あの声と喋り方は「あの先生」には不釣り合い。

  画と合ってない。染谷君も細田監督も好い人そうなので、そういうコラボは詰めが甘い。)

 

観た直後には、異質な者への排除の描き足りなさがとにかく気になった。

というか気に障った(笑)のだが、あれから肯定意見や監督の話を聞くにつれ、

そういったところに本題はないことが見えてきて、そういう難癖は不戦敗のようだから割愛。

とはいえ、やっぱりこの監督は「善意に期待」し過ぎな気もするし、

それは一方で「悪意を敵視」し過ぎだからな気もして、それらが表裏一体であり、

現実社会でも渾然一体であるからこそ痛みも喜びも生まれると思っている私としては、

おそらく世界を眺めるために立とうとする場所が異なっているのだろうと痛感した。

だからこそ、そういったところから世界を見渡せる人間にもなってみたい・・・

というのも、半分は素直に思っている気もする。羨望よりも嫉妬に近い気がするが。

 

さて、『メリダ』の話はどこへやら。

前述の通り、作品全体としては「いびつ」な印象から評価し難い気もしたのだが、

細かなところで新しさや愛しさを感じるところもいくつかあった。

例えば、最後の最後でメリダが語る言葉からは、ポスト・キリスト教(?)的発想も。

つまり、運命が「決められいる(既に書き込まれている)」ものではなく、

自らが「選んだり決めたりする(書き換える)」ものだという結論。

そして、それを導くのは「神」ではなく「自己(の心=brave)」だという。

まぁ、日本語で書けば「心(精神)」にも神は住んでいるが(笑)

おそらく、その心を清めるためには信仰が必要って前提はあるのだろうけれど。

それでもそうした「勇気」が厭らしく思えなかった理由に、

メリダだけの改心ではなかった点が挙げられる。つまり、母親の改心もあった。

世代間の交流における、相互の歩みよりと相互の理解。互いへのリスペクト。

それを遂げる瞬間が「言葉」に因らなかった(手話)というのにも感心してしまった。

理性(ロゴス=言葉)に固執する男性とは異なった、

感情を許されるが故の寛大さをもつ女性の可能性。

このワンシーンだけで、私は『メリダ』を観てきたなかで感じた不服が氷解してしまった。

 

つまらない気づきだが、父親から娘に贈られるのが弓矢という妙にも思いを馳せた。

現代なら、そして息子ならいわゆる「グローブ」だろう。父親とのキャッチボール。

しかし、弓矢でキャッチボールはできない。いや、キャッチボールとは結局、

「俺のボールを受け止めろ」という父親のエゴの表出に過ぎぬのかもしれない。

そう考えれば、弓矢という「自ら放たれ、継承を期待しない」運動は現代的!?

しかし、そこには他者を殺傷する可能性を常に孕んでいる。のも現代的だな。

 

結局、どちらの作品も「自分の映画」として楽しめることは叶わなかったものの、

お母さんを描きたいと云いながらタイトルに子供の名だけを冠した現代性よりも、

邦題に削られようがダメ押しのように明言してまで主張を届けようとする『Brave』が、

私のハートは射止めたな。(ホントか!?)

 


ダークナイト ライジング(2012/クリストファー・ノーラン)

2012-08-15 23:07:38 | 映画 タ行

 

(物語全体を踏まえて書きます。)

 

クリストファー・ノーランはインタビューで次のように語っている。

「どう終わるかわからない映画は、つくると約束することすらできないよ。

脚本を書き始めるずっと前から、この話がどう終わるのかは決まっていたんだ。」

そして、「エンディングは、最初に考えた」と。

 

本作のエンディングは、彼が手がけたバットマン三部作を「結ぶ」ためのものでもある。

では、彼は一体そこにどのようなエンディングをもってきて、

そこにはどんな意味があるのか。

 

三部作を通じて語られてきたテーマは単純ではない。

極めて複雑で、多様で、それでいて現代社会の問題を確実にトレースする物語。

矛盾を正面から凝視することに怯まず、大きな問題を大きいまま語ろうとする気概が、

「誰でもヒーローになれる」とか「ヒーローは特別ではない」などという一般論に

帰着するはずがない。私はそう思う。そこからエンディングの解釈を始めたい。

 

そこで鍵を握るのが「仮面」の存在であり、その捉え方だろう。

「仮面」は語源的にもそうであるように、「人格(パーソナリティ)」を象る仕掛けにある。

バットマンの仮面をつけた時、ブルース・ウェインは「ヒーロー」となる。

「ヒーロー」という存在は、仮面によって保証されているとも言える。

本人に超人的な能力が備わり、本人に絶対的な使命感が宿っていれば、

「ヒーロー」になるために仮面などは必要ない。

バットマンにとっての仮面とは、他者にとって必要なイコンであると同時に、

自己にとっても不可欠なエクスキューズ(免罪符?)であるように思える。

それは同時に、バットマンがブルース・ウェインである必要性を否定する。

いや、そればかりか、仮面をつけさえすれば誰でも「ヒーロー」になれる。

『ダークナイト』でバットマンが登場するより先に現れる偽バットマン。

しかし、彼らが「偽」であることを証明するためには、

「真」のバットマンの登場を待たねばならなかった。

そこで、偽バットマンたちが投げかけた「俺らとどこが違うって言うんだよ?」という問いに、

バットマンは「俺はホッケーパッドなんかつけない」としか答えていない。

 

本作の中ではしばしば、真偽が問題となる。

つまり、本当のことを話しているのか、嘘をついているのか。

その二項対立は、頂上決戦の後に裁定が下されるべきだが、

本作はその場面こそを無化してかかる。はぐらかす。むしろ、弱める。

おそらく、その「問い」に答えるのではなく、「問い」を破ろうとする。

ただ、三部作のエンディングとして、前作のような「問うという答え」では収まらない。

そこで、ノーランは「答える」覚悟で臨んだのだろう。それも、より明確でより爽快な。

 

私も最初は、その明快な解答に対して拍子抜けした。

しかし、この物語を反芻するうちに、

その清々しさの背後にある構造の脅威が浮かび上がってきた。

 

脱封建社会として誕生した近代社会は、

自由や平等といった権利を万人が等しく有している

というフィクションに支えられている。

そのフィクションを成立させるために、

私たちは数多の抽象的なシステムのなかに

抽象的な個人として参加してゆく。

封建社会のように、はじめから具体ではないのだ。

だから、後天的な努力や営みによって何にでもなれる(はずである)。

そして、そうしたフィクションによって輝かしい成功譚も恐るべき独裁者も産み出した。

仮面は必ずしも「正当」な継承者に渡されるとは限らない。

あるいは、その仮面が常に「正当」性をもつとは限らない。

仮面は或る種の神秘性を発揮しながらも、そこに効力を付与するのはあくまで市民。

そうした市民とは、恒久的で普遍的な倫理を備えた存在だろうか。

本作から読み取れる結論は、否である。

だからといって、絶対正義で不惑の指導者が出現するわけでもない。

いや、出現も存続も許さない社会こそが、市民革命後の近代社会なのだろう。

 

具体社会の抽象化から始まったフィクションは、

いまや最初から抽象的なもう一つの世界(サイバースペース)を伴い、

「現実感」は更に基軸を分散流動化させつつある。

それは社会構造に変化をもたらし、大衆社会の単純な促進に留まらず、

大衆の多様化と硬直化という奇妙な分裂状況をうみ出している。

それは一方で安定を欠いた状態であるがゆえに、

その脆弱さが孕む危険は常にある。

何らかの契機によって凶暴な群衆になる準備はできている。

 

誰もが「ヒーロー」になれるということは、

「ヒーロー」という存在の絶対性を否定することであり、

「ヒーロー」が実は何処にもいないということかもしれない。

しかし一方で、「ヒーロー」が抽象的な存在である限り、それは永遠に絶対だ。

 

本作において、バットマンを落とすのも揚げるのも、

結局は巡り巡って「民意」の為せる業ではなかったか。

主役不在とも思える本作で、常に物語を支配していた存在、

それが市民なのかもしれない。民主主義とはそういうことだ。

 

 

◆仮面の話としては、ジョン・ブレイク(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)が回想し、

   ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)の表情に自分と同じものを感じたと語る。

   つまり、「仮面をかぶっているようだ」と。

   そう考えると、二人とも「より確かな仮面」を求めた存在なのかもしれない。

 

◆本作で「仮面」をつけるのはバットマンだけではない。

   ベイン(トム・ハーディー)も又、「仮面」をまとっているとは言えないだろうか。

   その機能や必要性は異なるものの、二つの「仮面」には興味深い関係がある。

   つまり、口の部分のみを露わにした「仮面」と、口の部分のみを覆った「仮面」である。

   この対照性は見事な表裏を際立たせ、ノーランが最後に求める救いを感じる。

   それは、「言葉(=ロゴス/それは、もしかしたら理性かもしれない)」なのだろう。

   ひたすら肉体的な強さで迫ってくるベインに対し、

   暴力による凌駕を鮮明にしない決着の理由は、そこにあるかもしれない。

 

◆一作目でウェインの父が投げかけた「人はなぜ落下するのか」との問いに呼応して、

   本作において闇の騎士は上昇に向かってゆく。(本作も「落下」で始まるが)

   その動きは様々な示唆に富んでいる。

   ただ、そこに光(地上)と闇(地下)の関係性を編みこむと、

   物語の大枠に本作のテーマを窺い知ることができる気がする。

   地上(光)は常に地下(闇)に支えられて存在する。

   だから、本作で「革命」を起こそうとするベインたちは地下に爆弾を仕掛け、

   地上を崩壊させる。その関係性は前作の善悪の関係にも通ずるところがあるが、

   前作はその混沌を混沌のまま提示した。(それ故の傑出性はやはり凄まじいものがある)

   しかし、本作においては「決着」をつけねばならない。

   ノーランが勝たせたのはベインではなくバットマンだった。

   では、結局は光が闇に勝利したのだろうか。

   いや、おそらくそうではない。

   なぜなら、地上に這い上がって来たのは光の騎士ではなく、

   闇の騎士だったのだから。

   では、闇と闇の闘いにおいて何故優劣や勝敗を決することができるのか。

   それはおそらく、ベインは光を拒絶(敵視)する闇であり、

   バットマンは光を渇望する闇だったからなのだろう。

   だから、本作(というか三部作)は単純な「光の肯定」という帰結でもなければ、

   決して「闇の否定」に着地してもいないように思うのだ。

 

以上のような(独善的とはいえ)「腑に落ちた」感覚を得られれば、

さぞ興奮の坩堝で観賞を遂げたように思われるかもしれないが、

実際は相当の戸惑いのなかで観賞し、膨大な疲労感に見舞われた。

要は、単純に「面白かった!」「好かった!」と言えないものを終始感じてた。

それは前作の『ダークナイト』に対する個人的な思い入れの強さもあれば、

『プレステージ』や『インセプション』に垣間見えた洒脱ながらも娯楽なエスプリ色が

本作には随分と後退してしまっていたといったような要因もあるように思う。

ただ、いくつかの事実を確認するうちに、『ダークナイト』が醸した傑出性は、

確かにヒース・レジャーの怪演自体がもたらしただけではないように思えてきた。

勿論、彼の存在感が最大の魅力の一つであることに異論はないが、

その演技自体というよりも、「新しい要素」との邂逅から生じるケミストリーこそが

作品に無尽蔵の魅力を与えるに至ったように思う。

ノーランはヒース・レジャーの役作りを信頼し、かなりの自由度で演じさせたらしい。

また、ハービー・デント役のアーロン・エッカートも同様のようだし、

演技に関してはどうか知らぬがマギー・ギレンホールもノーラン組初参加。

しかし、本作ではアン・ハサウェイ以外の主要キャストは皆(ほとんど?)、

ノーラン組の常連もしくは連投の俳優陣だ。

アン・ハサウェイのインタビューを読んでも、

プレッシャーの大きさとそれに対応するための創意工夫が大いに感じられたし、

『インセプション』におけるノーラン組初参加の面々の活き活きとした姿には興奮した。

思うに、完璧主義者であろうクリストファー・ノーランという作家は、

その完璧さに拮抗する力を得てこそ、止揚たる飛躍を作品にもたらすのではないか。

そんなつまらない仮説で今のところ自分を納得させている。

また、基本的には「文化系」と思しき彼が初めて

「体育会系」的要素を包含したバットマンシリーズを手掛けることになり、

第一作では律儀に「体育会系」的要素を自分のものにしようと努力したものの、

結局は「アクションがわかりづらい」だの「説明的すぎる」だのの批判も受け、

それじゃぁ思いっきり「文化系」でヒーローものを撮ってやる!となったのが二作目。

などと勝手に妄想してみると、それで好評を得たものだから、

リヴェンジのごとく再び「体育会系」に挑んだのが本作なのかな、と。

ただ、当然「文化系」アプローチで得た興奮も捨てがたく、

いざ「体育会系」にモロ参入するほどのノリには馴染めず、

結局はやや中途半端な(どちらの系統からも容易くは受け容れられぬ)作風に

落ち着いてしまったようにも思う。

それでも、一作目よりはかなり体育会系しているので、

そのノリに素直にシンクロできる観客は迷わず共に疾走できるだろう。

頭でっかちな文化系は簡単に解せない「走り」なわけだ。

私のなかには文化系的・体育会系的双方の要素がある分厄介で、

それが二度観賞したところで「落とし所」が見当たらない印象につながったように思う。

とはいえ、結局は時間がたって俯瞰できるようになったとき、

そこには「やっぱり読んでみたい」と思わせる構造や行間が散らばっていて、

こうしていざまとめてみると、裏切られた期待こそに応えが隠されているような不思議な感覚。

 


THE DEPTHS(2010/濱口竜介)

2012-08-07 17:09:36 | 2012 特集上映

 

今回のレトロスペクティヴで複数回の上映があるのは、

本作と『PASSION』のみ。(オールナイトの『親密さ』除く)

IMDbの濱口竜介データにも、この2作は載っている。

確かに、他の作品に比べると突出してポピュラリティがあるというか、

「(所謂一般的なというか従来の)映画」っぽい。

おまけに、本作はデジタル撮影ながら画面はシネスコ。

照明も常に仄暗く、風景は無国籍。いや、むしろ終末感すら漂う。

(そのあたりは、次回上映で濱口監督が対談する師・黒沢清を想起。)

東京藝術大学と韓国国立映画アカデミーの共同製作によって生まれた作品。

プロの役者を起用し、脚本が共同で書かれているといったこともあり、

より「監督・濱口竜介」の作家性を観察するには適した作品かと。

 

主人公(キム・ミンジュン)は写真学校の友人の結婚式で日本を訪れる。

その友人は日本人女性と結婚。彼女と日本でスタジオの経営を始めていた。

しかし式当日、新婦は恋人と突然姿を消す。それを目撃する主人公。

新婦と姿を消した恋人とは、女性。主人公はその事実を友人には告げない。

新婦の逃避と交差するように主人公の前に出現した青年(石田法嗣)がいた。

彼に何故かひきつけられた主人公はシャッターを切る。現像を凝視する。

その青年は男娼をしていた。そして、その時、彼は「事件」の始まりにいた。

 

それが大体冒頭の10分程度で起こる訳だが、

その後、自己という怪物を飼い慣らせなくなった男たちの不可思議な欲望が交錯する。

セクシャルな話題や展開も内包しながら、それは決して性愛の物語として帰結しない。

あくまで「愛と欲望」についての物語。(『親密さ』でも議論されていた内容を想起)

愛と欲望が一体であったり、乖離したりするという現実。

いや、幻想?

その間(あわい)を彷徨し続ける男たち。

茫漠ながら突如沸き起こる欲情。

抑えきれぬ苦しみよりも解放する衝動に委ねる身。

そんな乱舞のなか、屹立し静観する主人公。

ファインダーを通して世界と向き合うことで、

理性を保とうとしているかのようにさえ見える彼。

「俺はモノじゃない!」と叫び、視線を拒む青年。

対物的な主人公の視線はやがて、フィルムやレンズを飛び越える。

防御のための仮面を頑なに外すことのなかった主人公と青年。

巨大な装置からコンパクトなデジカメに持ち替えた主人公が望む、

青年の笑み。その青年から請われる、主人公の笑み。

たった一度の笑顔の不穏。その弛緩が魅せるものは何なのか。

それに抗いきれるだろうか。記録は消せても、記憶は消せぬ。

分かれ道で存在の分岐が起こったとき、欲望は霧消し、

永遠の残り香が愛に実体を与え始める。

 

◆私は濱口作品にトランス・シネマといった印象を受ける。

   それは、意識がぶっ飛ぶトランス(trance)ではなく、

   超えたり移動したりするトランス(trans)だ。

   いろいろな乗り物(とりわけ列車は毎回印象的)が登場し、

   登場人物たちは心身共に移ろってゆく。

   まさしく、移動(transfer)は変容(transform)にも溢れてる。

   本作においても絶え間なく移動が繰り返されているが、

   本作のそれは動き以上に「境界線」の存在を意識しながらも、

   ふとした瞬間にそれが無化してしまう無意識の氾濫が作品を貫いている。

 

◆そうしたトランスは冒頭から全開だ。

   結婚式における新郎(韓国人)の羽織袴。

   そして、新婦(日本人)はウェディングドレスを着る。

   既に彼らは「一線」を超えている。新婦は自覚的に、新郎は無自覚に。

   この新郎の内面は比較的「わかりやすく」(=想像しやすく)描かれるが、

   だからといって、「その通り」に想像するばかりが真実とも思えない。

   むしろ、そうした要素が普遍的な何かを包含していそうなところにこそ

   (だからこそ、彼が本作で最も「普通」な立場や性格をしているように在る)、

   観ている者の感覚の土台をグラつかせ続けている。

   「特別」や「特殊」のレッテル貼付で片付けられぬ、闇の奥。

   確かに、彼(パク・ソヒ)は最初から主人公へ特別な感情を抱いているようにも見える。

   友の列席に対する謝意の表現や、スタジオで対面せずにY字になったシルエット。

   『PASSION』でも『親密さ』でも仄めかされた「親愛」の一種。

   それは欲望の変形でもあるからして、時に抽象的であり続けることに耐えられぬ。

   堪えきれずに生まれる抱擁が、消化に向かうか点火を起こすかは紙一重。

   そして、その同義性は異性への愛が不在のとき、どのように落とし処を探るのか。

   最後の越境を踏みとどまらせたものが、異性との関係(という合理性)ではなく、

   愛と欲望の弁証法を凌駕する「解決」だったという過現実的結末の「暴力」。

   おそらく主人公が誰より理性的に見えるのは、誰よりも内なる獣が獰猛だから。

   常に頑丈な檻で幾重にも囲わなければならぬから。

   芸術という隠れ蓑、富と名声という満足、着信音という警鐘。

   しかし、別段それを否定するでも肯定するでもなく、現実として置く。

   そうして置かれた選択が、必然と偶然を重ね合わせて機能する。

   ともすると、ケ・セラ・セラが流れてきても許容できる自然主義。

   愛に「形」を与える現代の、窮屈さを優しく見守る時間。

 

◆結論は決して口にしない濱口作品は、

   不思議と教訓を撒布し続けていたりもする気がする。

   本作で最も不運な二人は、中途半端な欲望の解放と手軽な代替に妥協する。

   対象そのものに直接飛び込んでゆかない。

   しかし、だからといって主人公や青年だってそれほどストレートな訳ではない。

   それは濱口作品における感情の交錯における常套だ。

   キャッチボールは成り立たない。

   相手が投げたボールと自分が受け取るボールは違う。

   そこで、どうするか。

   ボールという具体から離れてしまう。

   そう、濱口監督が描く人間は、常に極めて具体的でありながら、

   その向こうに浮かむのは、どこまでも抽象的な情景なのだ。

   抽象的にしか描こうとしない言葉や行動の羅列に終始する自主映画を、

   私は好きではない。曖昧さの向こうに「具体的な表情」が覗くから。

   そこにあるのは行間などではなく、空白か了解に過ぎない。

   言葉が少なければ詩情があふれるわけではない。

   言葉を弄したからといって詩情がなくなる訳ではない。

 

◆濱口作品における常連モチーフ「鏡」。

   今回はなんとマジックミラーの登場で、虚像と実像のスリリングな関係は、

   より直截的な視線に晒されている。しかし、それは隠匿と打開のゲームでもある。

   また、新鮮なアイテムとして微かに漂う「香り」が興味深い。

   冒頭でいきなり姿を消す新婦の名は、「有香」。

   スタジオには去った妻の香りが、有る。

   亮ちゃんの靴下の臭いをかいだ平野鈴。

   クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲。(意味不明)

 

◇初めて組むスタッフの存在も大きいとは思うが、

   脚本(物語)を共同で構築したという点でも、

   本作は濱口ネクスト・ステージを予感させる。

   と同時に、とりあえず商業映画を撮らせて欲しい(というか撮って欲しい?)

   願望をかきたてられた。その成否(商業的だろうが内容的だろうが)に関わらず、

   そこには必ず「新しいもの」が浮かんでそうなスリルがたまらない。

   本当に、観たい。

 

◇本特集の最終日(8月10日金曜)には、本作が再度上映される。

   今回の上映もかなり入っていたし、

   その最終日には黒沢清とのトークセッションもあるので、

   当日は早めにチケット購入(整理券番号付・10~15分前入場)するのが好いかと。

 


なみのおと(2012/濱口竜介、酒井耕)

2012-08-06 18:51:52 | 2012 特集上映

 

今回の特集(濱口竜介レトロスペクティヴ)は2週間の開催で、

期間中1回のみの上映作品も多かったりするので、ほぼ連日足を運ぶことになる。

そうするともう、ほとんど学校に通っているような気分になるわけで、

しかも毎回レイトショー(21時はじまり)だから、学校は学校でも夜間学校。

おまけに毎日、濱口監督本人が最初に登壇しては、終わるとロビーでお見送り。

濱口教室に通われる生徒さんも馴染みの人から一見さんまで、興味深い。

ゲストを招いての多様なトークショーも用意されていて、

そのゲストによって監督も場内も雰囲気が変わる。

だから、学校は学校でも、毎日未知なるイベントが開催されている学校みたいな。

って、もう既にそれは全然「学校」的じゃないな。

まぁ、でも或る種の学舎的空間として享受できる場所になりつつある、

真夏のオーディトリウム渋谷。というか、キノハウス。

4F(シネマヴェーラ)で過去を学び、

3F(ユーロスペース)で今と対峙し、

2F(オーディトリウム渋谷)で未来を識る。

まだまだ興味深い特集や上映が続く、八月。

 

ただ、そんな好奇心の吹きだまり(って表現はよくないかな)にだって、

時には頭をかかえたり首を傾げたりするような「授業」もある。

今回の濱口作品の特集では連日唸りまくっては恍惚や酩酊で館を出る日々だった。

しかし、『なみのおと』には1ミリも自らが入り込める隙がなく、好きじゃなく、

あぁ結局自分が1ミリも入り込ませまいとしてしまう作品だったのかなぁ、

と帰り道にゆっくり気づく。

 

この作品に関しては、

「東日本大震災についてのドキュメンタリー」という認識と

「震災時の記録映像や被災の光景を用いず、被災者の証言のみで構成」

くらいの情報で臨むのがベストだとは思う。

そして主観とは別に、多くの観客に

「どこまでも単調で淡々とした流れにも関わらず、目を離すことができない緊張感」

が提供される。142分という上映時間は、その数値が意味を為さぬほど刻まれない。

監督も意図したという臨場感(話者と共にその空間に存在する感覚)が

あるからかもしれない。

「現在」が常に続いていく感覚。語られているのは「過去」にも関わらず。

 

しかし、前述の通り、

私は終始本作に絶対に縮まることのない距離(隔たり)を感じた。

そこまで強烈な違和感は、

主観(それも個人的な経験や美的感覚から来る独善的な)から来るに違いない。

それゆえに、観賞中および観賞直後の私は、全力で否定することばかり考えた。

ところが、その論理や倫理を再考すればするほど、

そうした主観を強烈に刺激されたという事実にこそ、

私が本作と向き合うべき論点があるようにも思えてきた。

 

上映後の質疑応答でも観客の口から出ていた印象なので、

おそらくこれは私だけの受け取り方ではないのだろうが、

登場する語り手の話がとにかく充実している。

そこに感銘を受けたり、それに感応する観客も多いと思うが、

私はその「充実ぶり」に抵抗を感じた。

見事な要約であり、無駄がなく整理され過ぎているように思ったのだ。

撮影が昨年の7・8月だったということもあるのかもしれない。

語り手のなかにも、ある程度客観的にとらえられるようになった部分と、

まだまだ生々しくて触れられない部分が混在していることだろう。

それゆえに可能となったアプローチもあっただろうし、

それを記録し組み立て、提示するという仕事には多大な意義を感じもする。

 

しかし、(これはあくまで私にとっての見え方に過ぎないが)

彼らが余りにも自らの経験を相対化し過ぎて語っているように思えてならない。

だからこそ、見事なほど「わかりやすい」表現で「わかりやすい」内容になっている。

登場する話者が悉く標準語(的な言葉)を喋っていたのにも違和感を覚えた。

いや、それは東京で生活する人間が抱く方言神話的な幻想に起因するかもしれない。

しかし、淀みなく標準語で語られる整理された経験談は、あまり自然に思えない。

では、それを自然に思えないという私のなかの不自然は自然なのだろうか。

そう考え始めると、よくわからない。

 

語り手として登場する彼らは紛れもなく「演技」をしている。

それはカメラの前だからだし、

そのカメラの向こうに不特定多数の人間の存在を感じるから当然だろう。

では、そのカメラをどのように向け、どのように語らせたら、

彼らは「演技」をしないのだろうか?

いや、それはおそらく無理だろう。

瓦礫の中で悲嘆に暮れる人間にインタビューをすれば、

そこには自然な感情が記録されるのか?

くつろげる自宅でスイカでも食べながら縁側で語らせれば、

そこには演じることない素顔が現れるのか?

おそらく違うだろう。

カメラが向けられる(そして、向けられた側がそうした他者の眼を意識する)、

ただそれだけで人は演技する。

一人、部屋の中でいる時だって、

自らの振る舞いを「撮影する自己」がいたりもする時代。

(自分の身なりや行動が他者に映った場合どう思われるかを思考する瞬間があるはず)

「生きること」と「演じること」は分かちがたい営みになりつつあるのだろう。

やや脱線するが、『ダークナイト ライジング』において私が最も気になったテーマは、

「仮面」の問題だった。「仮面をつければ誰でもバットマンになれる」というテーゼ。

でも、それは「仮面がなければ誰もバットマンになれない」ということでもある。

これをどう捉えるべきか。

そして、「仮面をつけていないときは、誰なのか」という問題も残る。

その答えは、「ブルース・ウェイン」なのかもしれないが、

その下には「クリスチャン・ベール」があり、「クリスチャン・ベール」の下には・・・

『~ライジング』では、「演じる」という営みを問うというよりも、

仮面によって可能になる抽象的な存在としての人間に焦点が当てられていたように思う。

ただ、今年最も「大きな」作品である『ダークナイト ライジング』と、

極めて「小さな」作品である『なみのおと』が、同じテーマで結びつく興奮。

(ただ扱っている対象は、卑小な人間社会に対して壮大な自然だから、むしろ逆。

  でも、またその対象に対してとったアプローチの正反対が面白い。)

 

話を戻すと、本作に登場する話者は極めてカメラ(=見えない大衆)を意識し、

自らをもカメラを通して捉え、そのうえで表情をつくり、言葉を発している。

ように、私には思えた。そして、その緻密さや構造は、紛れもなく監督がうみだした。

言うなれば、即興すら許されぬ濱口&酒井共同脚本による対話劇。

そんな様相にすら思えてしまう。だから、私には強烈な違和感ばかりがつきまとい、

でもだからこそ途方もない緊張感が、変哲なき時間と空間に宿された。

それは、日常と異常の間(語らいの場は一人を除いて、自宅ではない)にある彼らを

もしかしたら忠実に「再現」しているのかもしれない。

私たちが目の当たりにするのは、

彼ら自身の素顔(何をそれとするかは難しいが)ではなく、

彼らが「なろうとしている顔」のメイキングなのかもしれない。

ただ、そのプロセスを見ることでしか触れられない意識の相貌がある気がする。

そして、そうした「相」は、ドラマでもドキュメントでも露わにされることのないものだ。

それゆえに漂う異質性に、私は激しく戸惑い、それを拒むことを決めてしまったのだ。

 

いまだに、この作品は勿論のこと、こうした手法について

自分自身で判断をする段階に至っていないことは些か苦しくもあるが興味深い。

ただ、そうした感覚は濱口作品のどれにも共通すること。

そして、何度も見返したいのに、最初の一回性を反芻していたいという葛藤。

それも濱口作品に共通する「恵まれた煩悶」に思う。

 

この強烈な違和感をレトロスペクティヴの折り返し地点で感じられたことは、

後半戦の作品群とより自由に向き合うことを可能にした気がする。

これもプログラミングの意図なのか。

そう思えてしまう偶然の必然化が繰り返される、濱口夜間学校。

ひとまず今週までの開校です。

 


親密さ(2011・2012/濱口竜介)

2012-08-05 18:41:40 | 2012 特集上映

 

映画は、

演じる者がその映画のなかを生きるように、

観る者もその映画のなかを生きる。

全く同じ時間と空間のなかにありながら、

同じものを観ているはずの観客は、

自分の場所からしか見えないものを探る。

識らぬ間に連れて行かれる場合もあれば、

茫然と立ち竦むことも、放棄することもある。

自分が見たものを語りたい衝動は、

自分が見たものを確かめたい欲求で、

理解されることを望みつつ、その成就が失意に変わる矛盾を孕む。

しかし、その矛盾こそに得心できたとき、

その映画の当事者であることに満足する。

 

私は「short version」と名づけられた方の『親密さ』を観た翌日に、

「long version」とされる『親密さ』を観た。

「親密さ」という舞台劇をまるごと収めた136分に立ち会ったあと、

その時間をまるごと包含した255分の旅に同行した。

そこに感じるのは、反復ではなく未踏。

そこに生じるのは、熟知ではなく未知。

不可逆の不可思議。不可欠な不可抗力。

たった一度しかない生に喜びを感じられる寂しさは、

たった一度しかない寂しさが嬉しくて、

こんなに寂しいが愛しい。

 

そこにはいなかったし、彼らだって知らないはずの自分(観客)が、

そこにはいたし、彼らのことも知っているという錯覚。

親密さ、という幻想。ありもしない、関係。

でもそれは、魂同士が絶対に「触れ合えない」現実を凌ぐ実在感。

確かめられない確からしさ。確かめられないから確かさ。

ただ在る。ただ居る。ただ見る。ただ聞く。ただ、ただ、ただ・・・

ただ、それだけの深遠さ。でもそれこそが、親密さ。

 

 

◆オーディトリウム渋谷で開催中の「濱口竜介レトロスペクティヴ」。

   二週間のレイトショーと、計4回のオールナイト上映。

   (本特集での『親密さ』オールナイトは10日24:00~を残すのみ)

   数篇を観るうちに、全てを「いま、目の当たりにしなければ」という確信が芽生え、

   そのため連日夜の渋谷に繰り出す義務が心も体も蝕んで(笑)は、躍り出す。

   この作品の成り立ちや企図については、

   「映画芸術」での濱口監督のロングインタビューに詳しい。

   (影響受け過ぎそうなので、感想を書き終えてから読もうと思う。)

   彼を取り巻く情報や語りはどうも「特権的」に響きすぎる気がするが、

   本特集における場内や監督自身の雰囲気は、

   私が苦手なシネフィルの集い的共同体臭とは意外なほど無縁。

   そして、それは作品自体に更に顕著で、

   その解放感ゆえに「落としどころ」を知らぬ作品たち。

   「読んでくれたら好いな」な行間が横溢してる無責任なアートではなく、

   「読まれるべき」行間が蠢く文学たる覚悟であり、飛躍。

   私が苦手な自主映画における語りは、自問答。

   そのくせ、やたら喋りたがってる画面がそこにはあったりする。

   濱口監督の作品は不断の自問自答を試行する。

   時に余りにも直截的な表現は、無限の深淵を覗かせる。

   しっかり答えてくれるから答えがしっかりわからなくなる、という正しさ。

   選択を重ねるたびに選択肢が増えるという矛盾。という正しさ。

   説明できないことを必死で説明しようとしてるからこそ生まれる、

   説明できないという真実。

   ここで、私がいくらでも言葉を弄し続けることができるほど、

   それは自由で柔軟なのに、何かを喚起して止まぬもの。

   作品にとめどなく流れる詩情は、私情で受け止めようとすることをも拒まず、

   それでいて観る者を詩人に変える。(という言い訳を与えてくれる?)

   誰もが詩人であらんとすることを認めてくれる。

   ものすごく恥ずかしいことが、ものすごく誇らしいことだと識らせてくれる。

   「ごめんなさい」の美しさ。

   映画の人物たちは、何度も何度も謝意を口にする。

   それはまさに、「ごめんなさい」という「ありがとう」。

 

   (登場人物たちが口にした「ごめんなさい」の表現。

    直前にスニークプレビューで観た短編にも流れていた「ごめんなさい」。

    私が、彼の作品に惹かれてしまう理由を勝手に発見した気がする。

    「責任を認める/とる」といったニュアンスの単純な謝罪ではない言葉。

    誤る、謝る。誤りを感じるが、感謝も。詫びのなかにうまれる、侘び。

   英語の「I'm Sorry」という自己主張に時折違和感をおぼえる。

   だからといって、「ごめんなさい」や「申し訳ありません」の没我や絶対他力は、

   今の時代では謙譲の美徳より打算や妥協の産物に思えもする。

   でも、頭を下げることが必ずしも服従だけではなく、黙考や尊ぶ心に導かれ、

   自我の向こうにある根源に触れることを可能にしている気がしたりもする。

   私は勝手に濱口作品に最も近い文学作品は夏目漱石だと思っている。

   伝統を踏襲と破壊の二者択一ではなく、

   その双方を引き受け続けねばならぬ現実を直視した上で、

   それをただ是認するでも否定するでもない真摯な葛藤が心に迫る。

   漱石の語った「個人主義」が、いまだ根付く気配もないこの国で、

   ただそれを嘆くでも、開き直るでもなく、まずは対峙し格闘してみる覚悟。

   前提という了解事項から着手する誠実さ。

   誇示も打倒も決めず、まず眺めてみては流れによっては解いてみる。

   自分で確かめもしない踏み台には絶対に載らない。

   実は空っぽでグラグラな踏み台を皆が高尚で立派な永遠だと信じてる。

   そんな欺瞞を責めもしないけど、与しない。選ばないことを選ぶ。

   能動的であろうとするときこそ、自らの受動性が認められる。

   自由であろうとするとき、最も不自由さを感じる。

   そして、それを誤魔化さず、そのまま語ろうとしている。

   技巧やセンスでいくらでもはぐらかすことができるのに。

   バカ正直でしかいられない人の正直も抗いきれぬ魅力があるが、

   狡猾さの完全なる秘匿も可能な才能の持ち主が選ぶ正直は、応える。)

 

◆3つのパートに分かれている本作は、

   その各々の時間や空間の関係性が明確であるにも関わらず、

   明らかに「前後不覚」のようで途方に暮れる感覚がたびたび訪れる。

   それは、私が舞台劇パート(short version)を一度観た上で全体を観たから、

   かもしれない。しかし、例えば一部と二部が過去であるのに、

   三部は未来だったりする。ただ、それも今だからの話で。

   一部にも三部にも「移動」が描かれるが、

   それは目的地に向かうためのものではなく、

   「移動」それ自体に意味があるかのようだ。

   すべて旅の途中のような。

   だから、何処もが始点になり得るが、何処にも終点は見当たらない。

   実際、本作も「始まり」で終わろうとして、「途中」で終わる。

   作中ではしばしば「死」について語られる。

   きっと「死」もそうなんだろうし、ってことは「生」もそうなんだろう。

 

◆私は演劇をほとんど観ることはないし、やや苦手意識もある。

   それは濱口監督も演劇を「唾棄してしまうところがあった」

   と以前のインタビューで語っている。

  (でも、濱口作品には元から演劇的要素が強くもあるので面白い。)

   本作は、舞台劇をつくりあげるまでの過程と舞台劇そのものが

   時間の大半を占めるが、それなのにというかそれゆえにというか、

   畏ろしいほど「映画している」瞬間に溢れているのだ。

   演劇という他者を得て、映画という自我がより強い主張を始めているかのよう。

   しかし、それはおそらく自然に流れ出てくるわけでもないだろうから、

  (普通ならむしろ、演劇に引きずられてしまうだろうと思う)

   これは明らかに監督である濱口竜介の映画観や映画監督としての自覚が

   完膚なきまで演劇との格闘によって試された結果なのではないかと思う。

   だからこそ、舞台劇の演出はじめ制作に関しては別の者に託したのだろう。

   舞台劇も、「映画になること」を知りながら育てられたものではないと思う。

   演出した平野鈴さんも語っていた通り、あの公演でしか在り得なかったもの

  (=映画になったときに失われたもの)だってある、確かに演劇だった。

   しかし、これも平野さんの言う通り、映画になって宿ったものも多くある。

   そして、そこに生まれたものが観客に、「映画とは何か」という問いを喚起する。

   そこには確かに「答え」もちりばめられている。其処此処に散らばっている。

 

   私が一つ二つ挙げたところで済むほど、それは簡単な「挑戦」ではない。

   ただ、私が特に感嘆した「映画が産み出す(=葬る)もの」とは、

   時間であり、空間だ。

   例えば、劇中で登場人物の一人(女性)がコップの水を浴びせられる。

   そして、彼女はその後も舞台にたびたび登場するが、

   その髪は終演まで乾ききらない。

   映画でなら、必ず乾いている。それが「リアリティ」だから。

   また、ある二人が舞台の端と端で会話をしている場面がある。

   しかし、カメラはそれぞれの顔をアップでとらえ、それが交互に編集される。

   しばらくして、舞台全体をとらえた俯瞰ショットが挿入される。

   そこで初めて、彼らの間に大きな隔たりがある

   (しかも、その間には二人の人物が存在してもいた)ことが知らされる。

   映画は、時間も距離も自在に生んだり亡くしたりすることができる。

   それによって生じるものもあれば、失われゆくものもある。

   その後者を感じ、その存在を忘れ得ぬ演劇に、

   私は魅せられねばならぬのかもしれない。

   そんな神妙な焦燥に満たされたのも事実。

 

◆本作の畏ろしさは、極めて具体的である(会話や細部が)にも関わらず、

   その総体は至って端正な混沌で満たされていることだ。

   だから、重箱の隅をつつく享楽に際限はない一方で、

   俯瞰した瞬間に捉えきれない躍動に絶句する。

   ただ、その絶句が余りにも幸福であることが最大の困惑だ。

   観客は、自らの心の置き処を探りながら映画を観ることで、

   その作品を客体化し、そこに生じる客観性が語りを容易にしたりする。

   いや、客観性などに限らず、感情もまたそうかもしれない。

   作品を客体化する(自分と切り離す)ことではじめて、

   笑うのも泣くのも可能になるのだろう。

   例えば、濱口監督の『PASSION』における修羅場を笑えるのは、

   あの「現場」との間に時間や距離を置いて俯瞰して眺めているからだ。

   (だから、その「現場」に立ち会っているような感覚[例えば、登場人物と一体化したり]

    がある限り、笑う自由を獲得できない。そういう場面が濱口作品には多い。)

   勿論、娯楽映画においては感情移入を容易にさせる手練が用意され、

   そこに嵌まる快楽を我々は知っている。

   しかし、ひとたび俯瞰してしまったら、その魔法は一気に解けてしまう。

   ところが、濱口作品におけるそれは「魔法」などではなく、紛れない「現実」で、

   当事者だろうが傍観者だろうが決してなくならない。

   客体化しても主体的に参加しても好い。観客が選べる。

   それは人それぞれのみならず、個人のなかにおいてもだ。

   だから、二度目の『親密さ』(を含んだ本作)を目の当たりにしたとき、

   私は最初に出会った彼らの生に対し、随分と俯瞰になりつつも、

   やっと立ち会えるようになった感覚が去来したりもする。

   そうこうしているうちに、虚実は入り乱れるばかりでなく、

   むしろそれは融和を始めてしまい、映画のなかの時間と距離が溶解し出す。

   演じる者と演じられる者と演じることを終えた者。そして、それを観る者。

   観る者はいつしか、観られてもいる錯覚に見舞われ、

   しかしそこに萌芽するのは恐怖ではなく、親密さ。

   本作の英題は、『Intimacies』。

   つまり、概念的な「親密さ(intimacy)」について説こうとしているのではなく、

   具体的な「親密さ」のひとつひとつについた語りたいのではないだろうか。

   一つ一つがいちいち痛かったり痒かったり沁みたりして、

   だからこそ一つ一つを受け取らざるを得なくって、

   だからこそいちいち繋がり続けなきゃならない。

   このうえなく面倒くさくて、この上なく煩わしい。

   でも、その面倒くささや煩わしさが永遠でないことは、

   救いでもあり、嘆きでもあるから、その現実に戸惑い続け、

   だから余計に煩わしくて、悩ましい。

 

   しかし、肉体よりも魂に入れ込んだ人間は、

   物質的な所有よりも精神的な刻印を確信に変えることができるだろう。

   ディープキスより投げキッス。

 

 

◇監督も批評家も、自分の場所や領域を定めては認め認められしてゆくうちに、

   そうした地場から出ることを忌避し、そうした磁場からの享受に頼りがちに思う。

   勿論、そう彷徨してばかりで「場所」を蔑ろにする人間は信用ならぬだろうが、

   たとえ自らの「場所」から眺めようとも、遠くにある地を窺うことはできるはず。

   そうして伺ってみた場所でこそ発揮できる個性が本物なのではないかと思う。

   一貫性を保ちながらも、留まることを知らずに旅を続ける稀代の語り手が、

   同じ時代に、そして同じ世代にいることを、誇りに思いつつ、

   しっかりと羨望と嫉妬も感じつつ、

   まだ見ぬ作品たちとの出会いをしばし楽しむばかり。

   (その後の虚脱感がおそろしい・・・が、それこそが「はじまり」。

     にしなければ、という自戒[結局、いつもこれ・・・])