公開直後の平日夕方からハシゴした。メリダ、おおかみこども。の順で。
結論から言えば、どちらも余り好みではなかった。
かといって(いや、だからか)、激しくどうこう云いたい欲求に駆られることもなく。
ところが、1ヶ月が経とうとしている今、この2作の明暗は激しい分かれ様。
評価にしたって、叩かれるのをよく目にする『メリダ』と、
絶賛の嵐に上昇気流な『おおかみこども』。本当、対照的。
どちらも母と子の物語だったりするのだが、そこに描かれる関係性は異なる。
『おおかみこども』では獣を愛した女が獣の血を引く子供を産むが、
『メリダ』では母親自身が獣になる。獣性の描き方も決着も大いに異なる。
どちらも子供の自立を最終的に描きながら、その道程はやはり違う。
別にどちらが好きでも嫌いでもない。
というのは、観てから時間が経ったからかもしれない。
いや、正直に言うと、『メリダ』はそれほど楽しめなかったけど嫌いになれない。
『おおかみこども』はそれなりに楽しんだ気もするが全く好きになれない。
おそらく世評の激しい「風」がなければ、後者は思いっきり貶してるかもしれない(笑)
あれ、なんだかさりげなく嘘つきながら書き始めてたな、俺。
『メリダとおそろしの森』は、
その制作過程(特に監督交代劇)からして、
「いびつ」になる運命は免れなかったろうし、
『おおかみこどもの雨と雪』は、
自分でスタジオ起ち上げた細田守の心意気が、
敢然たる熱情をもって結実しているだろう。
ことは、観る前からわかっていたし、観た後も大いに感じた。
『メリダ』は、予想外に活劇要素でおしてくる前半を過ぎると、
急に切羽詰まった語りを始める。
今まで忘れていたテーマを取り戻そうとでもするように。
『おおかみこども』は、予想外にスペクタクルは訪れず、
淡々と全編に語りたいことを塗しまくって去ってゆく。
『メリダ』の断絶感は戸惑いを生じさせるものの、
圧倒的な躍動感は束の間の忘却を可能にする。(観てる間だけだけど)
『おおかみこども』の説教は、ソフトであるが故に終始こちらを構えさせ、
結局素直に講釈聞けぬまま散会迎えた集会のよう。
細田守はインタビューで、
「母(性)を描いた映画があまりにも(少)ないように思う」と語り、
だからこそ「お母さん」を中心に据えて物語をつくりたかったと云っていた。
これを読んで、自分が彼の映画と相性がよくない理由がわかった気がした。
(激しい違和を感じるようになったのは前作からですが)
ヨーロッパの映画における「母親」という存在は、
それはもう頻繁に主題の中心に据えられて、
あらゆる角度から、あらゆる方法で、重ねて語られてきている。
というより、アメリカ映画が余りにも「父親」寄りなのだ。
アメリカ映画では断然に「父と子(特に息子)」が物語の中核にある。
民族的なつながりを基盤にし、歴史的系譜に誇りをもつヨーロッパの社会が「母」を、
浅い歴史と多民族によって精神性で団結を図ろうとするアメリカの社会が「父」を、
その拠り所のモチーフとして描こうとするのは自然な流れのように思う。
飛躍し過ぎな思考かもしれないが、
細田監督は自然とアメリカ映画にコミットしてきたタイプなのかと。
そんな思いが頭を過ぎり、そういったバックグラウンドから見た場合の
『おおかみこども』で描こうとした母親中心世界が新鮮に見えなくもない。
ただ、母親を描くということは同時に女性を描くことでもであるわけで、
父親との差異、男性との差異にこそ必然的な「個性」が現れたりもする。
しかし、『おおかみこども』では父親が早々に退場するし、
そもそもそちら側を描く気が更更ないゆえ、
母親が男性的役割を取り込もうなどとは一切しない。
そもそも、《社会》から遠ざかることによって解決しようとしているようにも思える。
(いや、ムラ社会の厳しさもあるだろうけれど、
『おおかみこども』では《社会》を描こうという動機は希薄に思える。
そういう描き方もあるのかもしれないし、それは成功しているらしい。
ただ、個人の内面に寄り添いながら語られる物語に物足りなさを感じるのは、
そもそも「個人」という存在が認識されるのは「社会」の中であって、
二者の対峙や対照性がマイルド過ぎれば、それはやはり前近代的展望に思えてしまう。
脱近代的な超克があるでもないし、都合よく「かつての自然観照」的感傷で閉じる。
そんな風に私の目には映ってしまった。)
細田監督は、
映画なのだから多少絵空事に映っても「理想」を描きたいと云う。
そうした気概には大いに賛同したいのだが、
フィクションにおける「理想」が魅力をもって活力を与え得るのは、
その背後に紛れもない「現実」を垣間見、その醜悪さから清廉たる孤高が起ち上るから。
『おおかみこども』にもしっかりした現実が描かれているらしいのだが、
私には冒頭十数分程度の在京時代にしか現実を見ることはできなかった。
それは、私が田舎で生活したことがないからかもしれない。
しかし、田舎生活のリアリティとは、
田舎での生活を経験した者だけが共有できるものとは限らない。
そこは、些末な部分を捨象した上で残るであろう普遍的な現実を見せて欲しい。
『おおかみこども』の冒頭、主人公は大学に通い、そこで愛する人と出会う。
その「背景」は、実在する大学や街並が見事に「再現」されている。
実際に私が通っていた場所であっただけに、
それらの風景を目の当たりにする度、驚嘆の連続だった。
その現実感は、実写で映し出される以上のものがあった。
アニメとはそうした抽象化による強烈な普遍性の提示が可能になるものだと思う。
ところが、東京を離れてから以降、それ以上に「真に迫る」描写を
目の当たりに出来た気がしない。それは私の個人的な背景から来るものかもしれない。
しかし、田舎に移り住んでからは自然という背景以上に「人間関係」が重要な背景になるが、
主人公が築く「自分たちだけの領域(理想郷)」を際立たせるほどの「現実」感はない。
学校にしても、都合の好い「もう一つの場所」程度の機能しかないのが残念だ。
(染谷将太は好い役者だと思うが、あの声と喋り方は「あの先生」には不釣り合い。
画と合ってない。染谷君も細田監督も好い人そうなので、そういうコラボは詰めが甘い。)
観た直後には、異質な者への排除の描き足りなさがとにかく気になった。
というか気に障った(笑)のだが、あれから肯定意見や監督の話を聞くにつれ、
そういったところに本題はないことが見えてきて、そういう難癖は不戦敗のようだから割愛。
とはいえ、やっぱりこの監督は「善意に期待」し過ぎな気もするし、
それは一方で「悪意を敵視」し過ぎだからな気もして、それらが表裏一体であり、
現実社会でも渾然一体であるからこそ痛みも喜びも生まれると思っている私としては、
おそらく世界を眺めるために立とうとする場所が異なっているのだろうと痛感した。
だからこそ、そういったところから世界を見渡せる人間にもなってみたい・・・
というのも、半分は素直に思っている気もする。羨望よりも嫉妬に近い気がするが。
さて、『メリダ』の話はどこへやら。
前述の通り、作品全体としては「いびつ」な印象から評価し難い気もしたのだが、
細かなところで新しさや愛しさを感じるところもいくつかあった。
例えば、最後の最後でメリダが語る言葉からは、ポスト・キリスト教(?)的発想も。
つまり、運命が「決められいる(既に書き込まれている)」ものではなく、
自らが「選んだり決めたりする(書き換える)」ものだという結論。
そして、それを導くのは「神」ではなく「自己(の心=brave)」だという。
まぁ、日本語で書けば「心(精神)」にも神は住んでいるが(笑)
おそらく、その心を清めるためには信仰が必要って前提はあるのだろうけれど。
それでもそうした「勇気」が厭らしく思えなかった理由に、
メリダだけの改心ではなかった点が挙げられる。つまり、母親の改心もあった。
世代間の交流における、相互の歩みよりと相互の理解。互いへのリスペクト。
それを遂げる瞬間が「言葉」に因らなかった(手話)というのにも感心してしまった。
理性(ロゴス=言葉)に固執する男性とは異なった、
感情を許されるが故の寛大さをもつ女性の可能性。
このワンシーンだけで、私は『メリダ』を観てきたなかで感じた不服が氷解してしまった。
つまらない気づきだが、父親から娘に贈られるのが弓矢という妙にも思いを馳せた。
現代なら、そして息子ならいわゆる「グローブ」だろう。父親とのキャッチボール。
しかし、弓矢でキャッチボールはできない。いや、キャッチボールとは結局、
「俺のボールを受け止めろ」という父親のエゴの表出に過ぎぬのかもしれない。
そう考えれば、弓矢という「自ら放たれ、継承を期待しない」運動は現代的!?
しかし、そこには他者を殺傷する可能性を常に孕んでいる。のも現代的だな。
結局、どちらの作品も「自分の映画」として楽しめることは叶わなかったものの、
お母さんを描きたいと云いながらタイトルに子供の名だけを冠した現代性よりも、
邦題に削られようがダメ押しのように明言してまで主張を届けようとする『Brave』が、
私のハートは射止めたな。(ホントか!?)