goo blog サービス終了のお知らせ 

imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

月光の囁き(1999/塩田明彦)

2012-07-17 23:59:18 | インポート

 

基本的には新作(的なもの)の感想や紹介を中心にしている当ブログ。

でも、あまりにも嬉しすぎる再会の興奮を伝えたく(誰に?)、

ちょっとばかし認(したた)めたい。

 

現在、神保町シアターでは珍しくレイトショー(連日20時30分~)を敢行中。

小学館 ピッカピカの映画大全集」と題された小特集が組まれている。

その一本として『月光の囁き』がエントリー!

スクリーンにかかる機会は極めて稀少な作品な気がするし、

何より公開当時は漠然と気に入ったまま、バッチリ見極めるに至っておらず、

いつか再見しては「舐める」ように(笑)味わい尽くしたいと予てから蠢く願望、欲望。

 

そして、本当に本当に本当に素晴らしかった!

今年観た日本映画でダントツ!(って、今年の日本映画じゃないけどね)

いや、日本映画とかいうカテゴリーを超越して、どこまでも威光!!

途轍もなく特異で異形なる愛の物語でありながら、その普遍性たるや偉業!!

これほどまでに閉塞した世界に焦点を当てながら、とんでもない解放感に向かってゆく。

 

まず、本作をこれほど熱く推薦したい想いに駆られたのは、

やはり「映画館で観るべき!」という必然性をびんびんに感じまくったから。

映像的には、とにかく自然光のスペクタクルに酔いしれる。

「フィルム」の味わいを十二分に堪能できる光の饗宴に大興奮。

そして、色彩の妙も特筆すべき。青のトーンで始まり、一瞬赤の時間が訪れ、

奇異なる黄の小部屋を過ぎれば、そこに待ち受ける緑の抱擁。

そして、ラストの・・・

 

音も素晴らしい。

とにかく主演二人の声が瑞々しくも小粋な妖艶さ。

いや、演技も確かに好すぎるが、とにかく一言一言が美しく響く。

声質の妙もだが、話すリズムや間合いが見事な完璧さで構築されている。

だからこそ、THX認定劇場たる神保町シアターで観られるなんてこの上ない幸せ!

 

あと、温泉旅館に行くところなんかは見事に日本映画クラシックなルックにニヤリ。

(その辺、あまり詳しくないから巧い指摘や説明できないけれども、)

神保町シアターで最近も組まれた清水宏の映画に出てくるような旅館の光景にハッとしたり。

勿論、「彼ら」の日常の風景においても、

小京都的な光景や田園風景などのささやかな美が漂っている。

 

そして、そして、ラストに流れてくるスピッツの「運命の人」。

バスの揺れ方で人生の意味がわかった日曜日・・・そう、あれです。

もうこのイントロが聞こえて来た瞬間(その恐るべき運命的タイミング!)、

全身総毛立つようなゾワゾワ系の感動に号泣必至。

「運命の人」自体が実はメロディー・歌詞・サウンドが妙なブレンドで絶妙なのですが、

その感覚が本作とギュッと抱き締め合って、とんでもない至極のハッピーブレンド。

 

まだまだ色々語りたくはあるものの、まぁ俺なんかが今更語らずとも、

しっかりとレジェンドになってる作品だと思うし、とにかくまずはこの機会に是非!

(というのも、予想外にかなり空いていたので・・・)

残すは19日(木)20時30分からの1回のみ!

 

◇塩田監督は、ゼロ年代の日本映画を牽引する作家の筆頭になるかと思いきや、

   『黄泉がえり』以降、典型的な大作監督業による才能の空費スパイラルに・・・

   しかし、最近ではようやく「蘇り」の兆しが!?

   テレビ東京系のD-TOWNシリーズ(第一弾は青山真治)で現在放送中(金曜深夜)の

   『スパイ特区』で監督を務め、アテネフランセ文化センターでの講演も控えていたり。

   塩田監督が再び傑作を撮ってくれる日を信じてる!

 


SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2012(1)

2012-07-16 23:54:03 | 2012 SKIPシティ国際Dシネマ映画祭

 

今日で映画祭は3日目に入りましたが、私は今日から参戦。いや、参加か。

でも、こう暑いと参戦でも好い気がする。が、今日はかなり風が吹いていたので、

気持ちスイッチ切り替えると(やや強がり気味に)「それほど暑くない」と呟けるくらい。

祝日でもまったりのんびり、のどかなSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。

まずは長編コンペの外国映画を2本、観てきました。

 

 

沈黙の歌(2012/チェン・ジュオ) Song of Silence

 

昨年末にポレポレ東中野で開催された中国インディペンデント映画祭で

現代中国のインディペンデント映画にすっかり魅了されてしまって以来、

ヨーロッパ映画にも他のアジア映画にもない滋味を渇望し続け早半年強。

ついに久々に中国インディペンデント映画の新作を観る機会がやってきた。

そんな風に期待のハードルがかなり上がっていた為か、反動的失望が余りに大きく・・・

 

語り口も、映像も、観念的な側面が強い作品でもあったので、

個人的な相性というか趣味に左右されると思われる。

だから、私も明らかに観念的で理性的思考皆無な勢いで書き殴るとする。

全くもって感情が揺さぶられなかった。

それは、登場人物の誰にも感情移入もできなければ、

登場人物の誰一人として魅力的に映る者がいなかったから。

作品の冒頭から、作り手が「語る」ことに重きを置いてないと感じたので、

私も「読む」よりも「感じる」姿勢で向かうことにしたのが不味かったのかもしれないが、

とにかく誰一人として(極私的美的感覚において)美しくないのだ。

言動においてもそうなのだが、やっぱり大切でしょ、見た目(笑)

主要人物である三人(女性二人と中年男性)が、全く「そそられぬ」ヴィジュアル。

だって、二人とも全然可愛くも綺麗でもない。

いや、一般的な美がなくとも何かしら感じられれば好いのだろうけれど、

見事に素人臭しか漂わず、ドキュメンタリータッチなら味わいにもなったかしらんが、

必要以上に「つくられた世界観」で展開したがるもんだから、ひたすらメルヘンチック。

微妙なヴィジュアルで、ひねくれたマイワールドのぶつけ合いをされたところで、

観ている方は白けるばかり。いや、もう理屈とか理性とかで言い訳しません。

私はやっぱり、きっと、「きれいなもの」が観たくて映画に足を運ぶ人間なんだな、と。

勿論、本作にだって《美》はあふれ、流れ続けていたのかもしれません。

ただ、私の求める《美》とは違ったタイプのそればかりが在っただけなのかも。

 

ハッとするような美しい光景が、最近の中国映画には確かにある気がする。

現代中国の風景のカオス性に、他では垣間見ることのない刹那の到達をみる。

しかし、本作においてはそうした混沌の瞬間があまり発揮されずに終わってる気がする。

つまり「開発」と「頽廃」と「逗留」が整然と描き分けられてしまっているような。

その分、一つの画面に流れるトーンは一つで終始し、重層性は生まれずに、

薄っぺらな一層一層がふわっふわっと降り積もっていくばかり。

 

ただ、上映後の監督の話を聞くと、「それもそのはず」的納得も。

つまり、本作はインディペント映画ではありながら、中国の検閲を通っている。

ごく一部ではあるが(北京にあるミニシアターで週に一度程度)劇場公開もされている。

(ただ、映画祭等でかかる完全版よりは10分程度短いヴァージョンになってるらしい。)

検閲通過を念頭においたのかどうかは定かではないが、それゆえの浅薄さに思える。

人間描写に重層性や複雑性が乏しいのも、結局は《裏》というか《闇》が描き切れず、

だからこそ実は《光》だって曖昧。いや、《闇》が描けぬなら《光》に徹すれば好いのに、

それらが葛藤するわけではない妙な調和によるグラデーションみたいなシークエンスが

延々と続く。で、そのシークエンスは各々が「クリップ」的に羅列されていくだけなので、

終盤の「たたみかけ」がもうただのハードルなぎ倒し走法にしか見えず、観るに耐えず。

・・・というのは、まぁあくまで個人的な感想です。思いっきり主観的な。

ちなみに、登壇した監督が育ちの好さそうな爽やかな好青年で、優等生タイプに見えた。

チャン・イーモウやフォ・ジェンチーの純愛物に似合いそうな。これまた主観過ぎ(笑)

 

ただ、びっくりしたのは、

およそ「シネフィル」とは程遠い年配連が駆けつけている場内が水を打った静けさを保ち、

途中退席する観客もほとんどおらず、皆が辛抱強く最後まで(そこそこの緊張感を持続させ)

完走していたことだ。おまけにちゃんと拍手もそれなりにわいたし、質問も礼儀正しく丁寧。

こういう好い意味での「アットホーム」にこの映画祭は本当に救われているのだろう。

(これが余り「ぬるま湯」に作用しなければ好いのだが・・・。)

いや、本当にのどかな雰囲気は素直に好きですよ。

ただ、参加も2回目になると考えることも少しは出てきます。

 

ところで、本作は今年の香港国際映画祭のコンペでグランプリを獲ったとか。

その長編コンペは若手中心の部門のようだが、

コンペのラインナップを眺めておけば、ハードル上げすぎずに済んだかも。

今となっては、次点と思しき審査員賞を受賞した『恋に至る病』(木村承子)とか

ますます観るの怖い。(というか、もともと観る気が・・・)

日本からは昨年のTIFFに出品されていた『ももいろそらを』(小林啓一)も同コンペに参加。

同様に昨年のTIFFアジアの風(特集:フィリピン最前線)で上映された『浄化槽の貴婦人』も

同コンペには参加してたり、基本的にアジアの数カ国からの非プレミア上映作が中心か?

ところで、同じく今年の香港国際映画祭の短編部門でグランプリを受賞したのが

山村浩二の『マイブリッジの糸』なのだが、なんと丁度いまSKIPシティ内にある

「彩の国ビジュアルプラザ映像ミュージアム」では彼の特集が組まれている。

映像作品(アニメーション)が6作品(計60分)ループ上映されていたり、

イメージ画や原画の展示、『マイブリッジの糸』のメイキング上映、

『マイブリッジの糸』を共同制作したNFB(カナダ国立映画制作庁)が手がけた作品から

山村浩二セレクトの5作品(計41分)のループ上映までもあるそうだ。

こちらのミュージアムは映画祭期間中、映画祭のチケット(半券)で入場無料。

映画祭上映作品を観る合間に、立ち寄って観てみたいと思う。

 

 

 

ワイルド・ビル(2011/デクスター・フレッチャー) Wild Bill

 

コンペのラインナップで最もポピュラリティのある作品ではないかと予想していたが、

その期待は裏切られぬのみならず、むしろ思ったよりも地味なのがこれまた好かった。

上映時間96分。同じ街のなかだけで物語は完結。基本、親子プラス・アルファで展開。

そう、僕らの好きな「あれ」な感じ。ただ、意外と「っぽい!」と言い切れる作風もないかも。

最近のデクスター・フレッチャーが『ロック、ストック~』とか『キック・アス』の印象強い故、

リズミカルだったりアクロバティックだったりする些かカラフルポップな作風を予想するも、

むしろ「深刻すぎないケン・ローチ」的な地に足のついた英国製ワーキングクラス映画。

 

上映後の質疑応答でも話題に出ていたが、

「どの監督の影響を特に受けているか」があまり明瞭ではなかった気がしたが、

そこが好くもあり悪くもある印象。

いろんなエッセンスから自分に合うものを賢明にチョイスしたものの、

それらを一定のヴィジョンで染め上げるほどの作家的アイデンティティは未完。

だから、観始めてしばらく、本作を「どこで受け止めるべきか」が余り定まらなかった。

 

でも、状況説明的な30分(推測)を過ぎると心を直接掴み始める展開が動き出す。

「紙ヒコーキ」の緩やかな時間。屋上という解放感と、遠くを眺める悠久さ。

「バースデープレゼント」のキッチュでファニーな笑い。常套上等な手練で魅せる。

「靴屋の看板」という慎ましやかな精一杯。奇跡や幸運に頼らぬリアリスティック。

もちろん、見た目も性格も対照的な二人の息子はバッチリ御伽噺感を増幅させるけど、

さほど巨悪じゃない敵陣営の現実的な質(たち)の悪さに観客が一緒に頭抱えられたり、

やや都合好く転がり込む女神が出来すぎず出過ぎずな配慮が物語の本筋をブレさせない。

 

本作のラストは主人公ビル(チャーリー・クリード=マイルズ)の顔のアップで終わる。

そして暗転後に映し出される「父、スティーヴ・フレッチャーに捧ぐ」。

本作最大の嗚咽ポイント。反則。でも、正しい。

デクスターの父スティーヴは、本作の制作年である2011年に亡くなっている。

その数字が更に心を打つ。

 

最初から最後まで、殊更に「父親万歳!」も叫ばず、

しっかりヒーローになりきれたわけでもない父親像を慎重に擁護し続けたからこそ、

観客はビルが父親として「合格!」とは言い切れないまでも、

決して「失格」とは口にしない。その真実味が愛おしい。

 

勿論、熟れてない演出や展開も見受けられるし、

ラストに向けての疾走や収束感もややこぢんまりとした印象。

しかし、建設中の五輪スタジアムがしばしば見える風景のもつ特殊性と

それはあくまで遠景でしかなく物語は人間が紡いでいるという普遍性の対照が、

「いつの時代も変わらないもの」を映し出そうとする誠実な営みに説得力を持たせ、

実はたいしたことが起こらずじまいの小品に、たいしたものをそっと手渡されるあったか後味。

手堅くいこうとして綻んだ「未熟」感が心地よい。役者一人一人が活かされてる感も好い。

 

デクスター・フレッチャーは監督として既に二つの新プロジェクトに関わっているとのこと。

1つはミュージカル。もう1つは、イギリスからアメリカに移住したファミリーによる西部劇。

どういう作家性に育っていくのか、少し楽しみに待ちたくなっている。

 

◇作品の内容とは関係ないのだが、上映画質の粗さにがっかり。

   本映画祭は、「デジタルシネマの可能性」に焦点を当て、その未来を拓く目的もある。

   それにも関わらず、何らかの事情があるのかもしれないが、

   DVD程度の画質で作品を上映するのは、

   映画祭の意義を揺るがしかねぬ由々しき事態だと私は思うのだが。

   本映画祭への参加は2年目だし、総観賞数も大してないので不明だが、

   これがあくまで「異例」のアクシデントであってもらいたい。

   (ただ、それは現実的困難を伴うのは承知だが、何らかの説明はあっても好いと思う。

    なぜなら、映画祭では何かにつけ「高画質上映システム」による「高画質デジタル映像」

    を謳っているわけだから、それに大いに反する現実にはエクスキューズが必要でしょう。)

   デジタル素材を扱うとなると、きわめてユニバーサルなフィルムという素材とは違って、

   「想定外」や「規格外」が生じる可能性が極めて(現在はまだ)高いという現状の表れか?

   でも、当然のような不思議なような・・・アナログが確かでデジタルが不確か、という現実。

   あ、でも、ちゃんとした素材で普通に上映される本映画祭の映像はバッチリ美しいですよ。

   (デジタル撮影に合う光景と合わない光景が段々わかってくる気がします。

    ちゃんとしたデジタル撮影+デジタル上映を見続けると。そういう副産物。)

 

ちなみに、デクスター・フレッチャーが観客への挨拶のなかで、

「月曜の昼間にもかかわらず、大勢かけつけて下さってありがとう」的コメントを・・・

誰も彼に「今日は月曜だけどホリデーよ」って教えてないのだろうか・・・

そりゃぁ、確かにデクスター・フレッチャー本人が来場してのプレミア上映となれば、

普通なら(平日でも)満員の会場になっててもおかしくないもんね。

というわけで、20日(金)の2回目の上映にはもっと観客が入ってくれることを祈ります。

(というか、確かに川口は都心からはやや離れてるし、駅からもバス[無料!]乗るけど、

それにしても、自力で発見する喜びに貪欲なシネフィルってまだまだ少ないのだろうか・・・

権威のある誰かに発見されたものに追随する喜びに必死なシネフィルは多いけれど。

とか言いつつ、俺だって去年から、しかもヌリ・ビルゲ・ジェイラン最新作目当てで

初めて足を運んだ訳だから、全然偉そうなこといえないし、むしろ後者タイプなんだけど。

いや、だからこそ、こういう場に身を置くと、改めて自戒も込めて書きたくなるのです。

自由に映画を愛する(或る意味、「博愛」的ですらある)精神こそが、

「映画のある世界」を盛り上げる。と思う。

まぁ、Twitterなんか眺めてると、そういうフリースピリット溢るる猛者は結構いるもので、

勇気づけられる、というよりむしろ身の引き締まる思い(?)もしばしば。

また、この映画祭に足を運ぶ非シネフィルの「普通の映画が好きな市民」たちの

飾らず真っ直ぐで実はかなり核心ついたりもする質問や感想を聞いてると、

数や種類をこなして語りすぎな自分の曇ったレンズが時折浄化される想い。

というわけで、そんな謙虚と新鮮を求め、今週は何度か川口へ足を運びたい。)

 


それでも、愛してる(2011/ジョディ・フォスター)

2012-07-14 22:01:20 | 映画 サ行

 

ウツの状態を英語では《depression》と表現するらしく、

本作でもしばしば《depress》な言葉たちが登場する。

「下に押す」ことで生じる状態というわけだから、

そこにある感覚はやはり「抑圧」だったり「圧迫」だったりするのだろうか。

押される力が痛いのか、圧されてる自己が痛むのか。

おそらく後者のように「抑圧されている自己」が明確な場合、

そうした状態で起こる力の拮抗が、自分の側からの働きかけを促しもする。

やる気は削がれるかもしれないが、むしろその削ぐ力が次なるやる気を生むのかも。

ただ、圧する力が途方もなく巨大であったり、双方の力の拮抗が単なる硬直に堕したとき、

自ら発する力の源泉は枯渇してしまうかもしれない。

 

しかし、本作の主人公のように、自らその源泉の「栓」を抜いてしまう場合もあるだろう。

自我など所詮は水溜まりみたいなもので、どんなに足掻いても落ちてく場所は決まっていて、

そこを満たす水をすべてとりかえることなど出来ない。

新しい成分注入しても、そもそもあった水がなくなるわけじゃない。

アイデンティティ(自己同一性)とは、自らを把握するために必要なものとされてはいるが、

「同一」でしか在り続けられない人間が自己確認や自己実現を快楽とする擬制によって

「私は私である」を無理矢理肯定しようとする涙ぐましい強がりの必須アイテムでしかない。

昔は、現実(現在/現世)の自己を厭うても、「天国」なり「来世」が幸福を用意してくれた。

しかし、現世中心主義の近代社会において、自己を嫌うことなど許されない。

否定などとんでもない。肯定しなさい。それが無理なら、受け容れなさい。

だから、自殺すらままならない。(冒頭、自殺に失敗する主人公。)

 

宗教はしばしば自殺を否定するが、

その代わり死なずとも与えられる希望が用意されている。

確かに「死」は何の解決にもならない。

とよく言われるが、そもそも「解決」を求めて「死」を選ぶのか?

本作の主人公が冒頭で自殺に至らなかったのは、

それが「何にもならない」と悟ったからなのか?

いや、ただ単に「死にたくない」と思う自己が、自分のなかにまだ残っていたからだろう。

 

自我という水溜まりを完全に浄化したり、完全に循環させることは不可能だが、

だからこそ絶望がすべて満たすこともできなければ、希望だけに満たされることもない。

科学や社会には「解決」も「解答」もあるだろうが、人間にそんなものはない。

たまたま死んでしまうこともあれば、たまたま生きていられることもある。

ただ、完全に恣にならない「偶々」を面白がれる心があれば、

「偶々」ばかりの世界に身をおくことも満更ではない。

 

確実性の獲得と偶然性の排除に躍起になってきたはずの近代は、

科学で世界を救えば救うほど、救えたごく一部にだけ目を向けては心酔。

科学で世界を掬えば掬うほど、こぼれる水の多さを痛感してるはずなのに。

 

本作でも医師や医療は「無効」として描かれる。さりげなくではあるが。

そこに、ひとつの「正しさ」を提示しようとする気概も感じる。

主人公がマペットを通じてコミュニケーションをとるという行為にしたって、

医師の診断や判断であるなら何とか受容できたとしても、

本人の選択だとなると承認できないという。

強固なアイデンティティを要求しつつ、社会的判断の絶対性を強制しようとする二律背反。

近代人の憂鬱をうみだしている文明が、近代人を診断し治療する。

文明の壮大苛烈な自作自演。

 

本作のラストは、そうした構図への帰還か、それとも脱却か。

それはどちらの現実も内包した寓意として受け取れる。

私たちはそうした構図から抜けきることもできなければ、

その構図の通りに動くこともできないのだから。

しかし、そうした「からくり」から解放される瞬間があるとすれば、

それは言葉から解放されたときかもしれない。

二人を隔てる言葉の壁が崩れたとき、 

何も介在しない疎通の奇跡が訪れる。

その沈黙が、真実を「語って」くれる。

 

 

◆父親がビーバーを通じ、息子が他人の通じ、自己実現的営みに興じる。

   それは「仮面」を借りることによって、見たくない自己から目をそらす術とも言える。

   しかし、どんな仮面をつけようとも、それをつけているのは常に自分。

   そもそも「つける」という選択も「はずす」という選択も、結局は自分で行うわけだ。

   おまけに、仮面(persona)は外向けの解決策にはなりえても、

   根本的な(内面における)解決策として十全たり得るわけではない。

   しかし、本作においてそうした問題を抱えているのは何も父と息子だけではない。

   妻メレディス(ジョディ・フォスター)だって、3つのパソコンに同時に向かい、

   仮面の付け替えによって自己の均衡を保っているかのようである。

   (仕事の合間に[並行して?]ゲームにまで興じるという分散型)

   次男だって、自己を滅するかのようにして学校で自己防衛を図っている。

   ノラ(ジェニファー・ローレンス)もチアリーダーという仮面をつけることで、

   仮面の下で流れ続ける涙を覆っていた。

   仮面で登壇するスピーチなら、自ら書く必要はない。

   いや、自ら書こうとすれば、仮面の人格で語らねばならない。

   同じウソなら「演じる」だけで終わらせたい。

 

◆「ビーバー」の言葉は、ウォルター・ブラック(メル・ギブソン)自身の発声による。

   それを必ず確かめるかのように、「二つの動く口」を同時に見せることを欠かさない。

   つまり、結局「仮面」も自分という現実に、どこまでも付きまとわれ続ける事実の提示。

   しかし、それを最も端的に表す秀逸な場面はやはり、ウォルターが自暴自棄になって

   部屋で暴れまくった後に現れる「傷ついたビーバー」の姿だろう。

   ビーバー自体の傷ではないのに、「出血」したかのようなビーバー。

   ウォルターの血がついたビーバーは、仮面の内側から滲んだ血。

   本作の結論は、仮面を脱ぐことを一つの答えとして示しているようにもとれるが、

   一方で仮面も自らの一部であるという確認をしながら、

   仮面そのものがどうこうよりも、それを自己がどう扱うかについてこそ関心を払っている。

 

◆エンドロールでは、前後のクレジット(氏名)に共通するアルファベットが

   リレーのバトンのように映し出される。

   誰にも必ず《similarities》があるとでも言わんが如く。

 

自殺大国・日本では精神疾患への認知や治療が遅れてるうちに、

対応しきれないほどの勢いで潜在増殖し、いまやウツ大国のような状況すら聞く。

しかし、一方でそうした現状を直視する覚悟はどこにもないようで、

例えば、『サム・サッカー』や『人生はビギナーズ』の監督マイク・ミルズが

日本の鬱病患者5人を追ったドキュメンタリー『Does Your Soul Have a Cold?』は

一部の自主上映会的な場で公開された以外は、日本では公開も放送もされずじまい。

正しい診断や周囲の理解を得られぬままの個人が独り苦しむ姿が其処彼処な一方で、

早急な診断や周囲の過保護で病の終身刑を宣告されてるが如き「病人」も増える現実。

明確な信仰をもたぬ人間が圧倒的多数の日本において、

(西洋)医学以外にすがるものはなく、その言いなりになるくらいしかできなくなる。

しかし「心の病」を、ということは「心」を科学が解明し尽しも語り尽くせもしないわけで、

だからこそ《物語》の力をもっともっと借りるべきだとも思う。

 

実際、極度な抑鬱に陥ったとき、虚構の世界に身をゆだねることは困難だ。

映画を観てても上の空だったり、録画したものなら何度も同じ場面を巻き戻す羽目にもなる。

でも、それでも、確実に逃避の機能はもっている。そこにバッチリ身を埋められずとも、

そういう場(自らを取り囲む現実世界とは別の世界)があるということを思い知るだけだって、

幽閉膠着した脳に、わずかな隙穴を穿ってくれるに違いない。

それに、現実逃避としての虚構の世界でも、現実の自分で関わる以上、

それもまた十分に「現実」たり得るものだろう。

こうした場(Web上の世界)もまた然り。

(でもそれが故に、シェルターになり得るはずの場を、

現実の延長として用いる[いじめの続きを遂行したり]ことは、

より高次な残酷さで個人を追い詰めてしまうのだろう。)

 

ただ、人間はそうした「場」だけで満たされるわけではない。

そこでも必ず他者の承認を求めてしまう。いや、「そのための場」として結局動き出す。

すべての表現は、内なる抵抗と外への希求が形をもったもの。

《depress》に負けないための、《express》。

巡り巡って、《impress》。

 


アメイジング・スパイダーマン(2012/マーク・ウェブ)

2012-07-13 23:59:19 | 映画 ア行

 

"amazing" は勿論、通例「素晴らしい」意を表す語なのだろうが、

"amaze"の語源には「困らせる」といった意が含まれているらしい。

確かにこの新シリーズのスパイダーマンは、困惑や戸惑いがどこまでも付きまとう。

それは、「新たな古典」と化したサム・ライミによるアメコミ映画の威光がチラつくからだし、

アンドリューもエマも役者キャリアが名実共に絶頂期を迎えたタイミングであるからだし、

マーク・ウェブが楽しくも切ない「僕らの」映画を送り出してくれた直後に手がけるから。

引き受ける方も、そのチャンスのデカさと引き替えに相当のリスク覚悟で臨んだに違いない。

その心意気だけでも正直涙ぐましいものだし、だからこそ実際に観るのが怖くもあった。

驚くほど聞こえてこない評判・・・好いも悪いも。おそらく明言の難しい感想なのだろう。

私も正直巧くまとめられるかわからぬが、逡巡しながらの観賞を終えたとき、

支持したい気持ちが我が身を貫いたことだけは確か。

アメイジング・スパイダーマン is アメイジング!

 

◆私の支持したい気持ちを喚起した最大の理由は、

   マーク・ウェブが「アクション」「ヒーロー」といったジャンル映画にまで執拗に(?)

   自らの青春パステル・スピリットを譲らぬ構えで臨んでいたこと。

   おかげで「ちぐはぐ」な印象は終始拭えないけれど、

   普通に勝負したら「勝ち」でようやく何とか「引き分け」なゲーム。

   しかも、そんな試合はそもそもマーク・ウェブのフィールドじゃない。

   ならば、前シリーズでは描けなかった、サム・ライミじゃやら(やれ)なかった、

   そしてトビー&キルステンでは醸せなかった「ときめき」こそがメモリアル。

   「ヒーローがラブコメに出てる」体で進行していると思いきや、

   「ラブコメの主人公がヒーローだった」的な流れが出来上がりつつある前半。

   後半ではしっかりアクションへと舵を取って手堅くまとめようと努めたものの、

   いっそのこと最後までラブコメ成分全開なのも悪くないんじゃないかとすら思えてきたり。

   勿論、それは多くの人が求めるスパイダーマン映画とは懸け離れているだろうから、

   マーク・ウェブの「反動」は正しいのだろうけれど、ちょっぴり新たな地平を今後も期待。

   (『(500)日のサマー』だって、そもそも相当アクロバティックな恋愛映画だった訳だし、

     恋愛の高低差とアクションの緩急が見事にシンクロ&シナジーする映画、期待できそう。)

 

◆本作を支持したいもう一つの大きな要因は、二項対立を爽やかに氷解させる「健全」さ。

   ベンおじさんの「仕返しは解決ではない(むしろ、エゴを満たすだけ)」という主張。

   アメリカの大作映画には珍しい健気で全うな非弁証法的信じる力。

   勿論、バットマン新シリーズにおける「善悪」の問題に関する本気の煩悶は、

   現代のテキストとして最上の問題提起をもたらして来たし、最新作でも見事だろう。

   しかし、同年の近い時期に公開されることを意識してか否かはわからぬが、

   善と悪が対峙することでうまれる葛藤とは違った形で境界線を消そうとするのが本作。

   だって、本作においてはそもそも「明白な敵」が存在していない。

   トカゲ人間へと変貌を遂げるコナーズ博士(リス・エヴァンス)は

   そもそも悪役でも敵でもない。

   本作における最大の敵は「慢心」であったり(ピーターの調子乗りっぷりも象徴)、

   「利己心」であったり(自らの生命や権力へ固執する研究者や実力者)して、

   罪を憎んで人を憎まず的信条を貫こうとしているように思えてしまう。

   だから、活劇としての醍醐味は確かにいくらか(いや随分と)削がれてしまう。

   何しろ「やれやれ!」といった好戦モードで観戦するお膳立てが皆無だから。

   かといって、ダークナイト的に「ふりあげられない拳の震え」に涙する物語でもない。

   「北風と太陽」なら明らかに「太陽」オンリーで勝負に臨むような非イマドキさ。

   蜘蛛の糸が常に「落とすまい」とし、引き揚げ、重力(悪しきに流れる性)に抗い続ける。

   だからこそ、ラストの「落とすまい」は蹴落とす社会から転倒するための希望の象徴。

   詳しくは語られなかったが、ピーターの父が同僚で親友のコナーズ博士に語ったであろう

   「太陽」の言葉も、そうした重力から自由になるための「糸」として残っていたはずだ。

 

◆個人的には、スパイダーマンのイメージ(これはおそらく私が幼少期に観たであろう、

   日本版ドラマの再放送か何かの影響か!?)はかなりスリム体型だったりもしたので、

   トビー・マグワイアのがっしり体型には当初、正直違和感を覚えたりもしたものだ。

   勿論、次第に慣れはしたが、やはり今回のアンドリュー版を観てこちらの方がしっくり。

   手足を曲げたりしたヴィジュアルにおける「蜘蛛っぽさ」はやはり細長い手足が似合う。

   そのかわり(原作では強調されていたらしい)腕力などが余り発揮されておらず、

   人によってはそのあたりは物足りなかったり貧弱に映ったりするかもしれない。

   私もライミ版は大好きだし成功してると思っているが、

   ウェブ版はキャスティング含め「明らかに違う側面に陽を当てよう」的発想が好感だ。

   全部が全部うまくはいってないと思うし、アクション演出はまだぎこちなかったり、

   活劇としての語りの停滞は致命的と思えなくもない。でも、だからこそ次が観たい。

   マーク・ウェブが続投するかどうかはわからぬが、

   サム・ライミだって「2」で見事な飛躍を遂げたし、マーク・ウェブの「2」が楽しみだ。

   いろんな要素をまとめて全面的に彼らしく仕上げてくれると期待したい。

   そう考えれば、この第一章は上出来な「ホップ」に思えてしまう。

   (クリストファー・ノーランだって「ホップ」はねぇ・・・。だから、やっぱり「ステップ」本命!)

 

◆ただ具体的な不満がないでもなくて、最も微妙なのはやはり「3D」。

   私はIMAX(字幕版)で観賞したのだが、観づらくはないものの、3Dを観てる感覚皆無。

   ごくたまぁ~に飛び出したり奥行きが生まれたりしてて、「そういえば、これ3D映画」程度。

   空からビル群を映している場面で、高層ビルの飛び出し感が異様に強調された時には、

   「あぁ、これが例のAlways3Dで東京タワーしか飛び出さなかった事件ってやつか」気分。

   おまけに、最後の最後でスパイダーマンがこちらに向かって糸を放とうとすると・・・

   「え?何故そこで止める???」という不可解な焦らし3D。

   ただ、予告観たとき頭をよぎった「スパイディの動きに3Dが耐えられるか問題」は、

   こうした3D効果多用(重視)回避によって解決をみたのかもしれず、

   確かに予想以上に眼に優しい上映ではあった。

   ただ、かなり3D感強調してそうな『アベンジャーズ』と、

   あくまで2Dでじっくり魅せます『ダークナイト・ライジング』の間に挟まれて、

   何とも分の悪いハンパ3D映画っぽくなってしまったのは可哀想。

   3Dじゃなくて好いから、もっと派手に動き回ったり飛び回ったりする姿が観たいかも。

   次回は非3Dで、ただ摩天楼空中散歩はIMAX撮影で、とかが個人的には希望。

 

◆ピーターが廊下でスケボー乗ったり、意外と強気でマッチョに立ち向かったり、

   全然イジられキャラじゃない説から人物造形の不可解さを指摘する意見はわかるけど、

   アンドリュー・ガーフィールドをキャスティングした時点でトビーより明らかにイケてる訳で、

   だからこそ「周りからどう思われてるか」よりも「自分で自分をどう思うか」に重きを置いて、

   臆病や慢心や閉塞や勇気という《emotion》を《motion》と直結させるのは「正しい」かと。

   (ラストの授業場面でも、あらゆる物語のテーマは結局《Who am I?》だと語られる。)

   それに「いじめられっ子」的描写を強くすると、「絶対的被害者」的側面が強調されて、

   復讐の正当化(というより、それを希求する起爆装置)となる状況を生み出しかねない。

   だからこそ、「いじめる側も実は好い奴」描写が早々にあっさり挿入されてたり。

   そうした関係が全く硬直化されておらず、容易に転倒されるという点も、やや新鮮。

   やはり、流動するヒエラルキーの背後にある人間の欲望こそを唯一敵視してるのだろう。

 

◆ピーターとグウェンが青い服を着て歩いてるシーンは、

   『(500)日のサマー』オマージュ(って言わない?)な気がして、ちょっと嬉しくなった。

 

◆最近観た『星の旅人たち』(愛おしい映画だった)では息子を亡くした役の

   マーティン・シーン。彼が本作では兄弟を失い、自らも生者にメッセージを残して逝く。

   永い永い旅を終えた『星の旅人たち』の彼の物語の続きを観ている如き感慨も。

 

◆開巻と同時に登場するピーターの父。演じるのはキャンベル・スコット。

   アメリカのTVドラマ『救命医ハンク』の準レギュラーであるボリス役を演じる彼。

   同ドラマが好きな私はその時点で浮かれるも、ピーターがオズコープ社を訪れると

   その受付嬢がなんとジル・フリント!『救命医ハンク』のジル役(レギュラー)!!

 

(結末に触れます)

 

◆グウェンの父、最後の言葉は単純なようで実は意味深長。

   彼は「街に必要とされるヒーロー」としてスパイダーマンを認めるが、

   そうした彼には常に危険が伴うゆえに、娘からは離れろと告げる。

   これは明らかに警官としての自分自身と重ねての発言のようにも受け取れる。

   いま、私もこうして「犠牲」のもとに「ヒーロー」となった訳だが、

   そうした「ヒーロー」を愛する者たち(妻子)は常に傷つく運命にある。

   そんな彼が最後に託した「約束」とは、どんな意味をもつのだろうか。

   次作以降の課題であり、大きなテーマにつながりそうだ。

 


影の列車(1997/ホセ・ルイス・ゲリン)

2012-07-11 23:29:45 | 2012 映画祭(その他)

 

現在、シアターイメージフォーラムにて開催中のホセ・ルイス・ゲリン映画祭。

今回の特集、なんと3本はニュープリントでの上映というこだわり。

その3本はいずれも今回が日本初公開となる『ベルタのモチーフ』(ゲリンの処女作)、

『影の列車』、『工事中』。(『シルビアのいる街で』と『ゲスト』も35mm上映)

そんな垂涎成就の待望企画でかかる8本はいずれも見逃し厳禁の超充実だが、

なかでも特別中の特別な《存在》に震えがとまらぬ傑出作品が『影の列車』。

『ベルタのモチーフ』も処女作ながら現在のゲリン成分が隈無く行き渡っているし、

『シルビアのいる街で』は相変わらず完全に心も体も浮遊するしかない恍惚。

『工事中』はペドロ・コスタと思いっきり「似て非なる」ことの面白さに大興奮!

勿論、その他のドキュメンタリー的作品だってどれも彼ならではの魅力が濃縮されている。

 

しかし、この『影の列車』は絶対に「映画館で暗闇に身を埋めて観る」べき絶品フィルム。

ゲリンの作品を観るときには必ず、「映画とは何か」という自問自答が絶えず反復される。

それはスクリーンのなかで完結する問答などでは決してなく、むしろ観ている者が自然に

内発的に思いを巡らし始める起爆装置として作用する。だから、読まれる側も読む側も自由。

時にその《自由》は出口なき袋小路へと誘ってしまい、気難しさを覚えることもなくはないが、

ホセ・ルイス・ゲリンのしなやかさは、必ずしも「シネフィル」専有特権に幽閉されたりしない。

むしろ、芸術というか表現としての「映画」を追究しているが故に、

「一形態」としての謙虚さから映画の新たな息吹があふれでる。

 

その一つの到達点というか、極北的作品に思えて仕方がないのが、この『影の列車』。

いわゆる従来の「物語」が貫いているわけでもなければ、

「登場人物」という概念からも解放された本作に台詞は皆無。

そして、時制や空間といった序列されるべき《秩序》の基盤も揺蕩う混交。

でも、それこそが実は「映画ができること」、「映画にしかできぬこと」なのではあるまいか。

これほど美しく、厳かな作品でありながら、実はどんな挑発よりも野心の結晶。

ただ、枠を壊そうという野性ではなく、自然に寄り添おうとする理性でもある。

人間が眼を駆使して《世界》を掌握し、制圧し、解明してきたという錯覚を、

カメラという眼を駆使して優しくバック・トゥ・ザ・ベイシック。

機械文明が暗ました真実を、機械で取り戻そうとする文化の営み。

そして、「フィルム」というメディアが人間に見せてくれた《世界》とは?

リュミエール兄弟のシネマトグラフ公開上映から100年目の1996年に撮影された本作は、

この100年間が「見せてきた」ものを脱構築、再構築することで、

「見るべきだった」ものたちの亡霊を喚び覚ます。

しかも、美と畏怖が綯い交ぜに。

 

◆冒頭で、「1930年に行方不明になった映画撮影愛好家の弁護士が残したフィルム」

   との説明と共に、16ミリの「家族映画」がスクリーンに映し出されて本作は幕を開ける。

   これらはゲリンによる「捏造」であるのだが、その「創造」が見事な技術で見事に芸術。

   フィルムには1コマ1コマ異なるキズや汚れが刻まれ、それは《時間》を美しく映し出す。

   デジタルには在り得ない《時間》の刻印に、

   単なる劣化や破損とは異なる「価値の蓄積」を見る。

   と同時に、「1コマ=一瞬」の固有性が自ずと認識される。

   《瞬間》の連なりによって生じる《動き》。

   固有な点の集まりとして生み出される一つのまとまり。

   それは無限の可能性が無限に組み合わされてゆく、選ばれた《世界》。

   カメラの眼が固定されると、《世界》に氾濫し続ける流動性がたちまち雄弁に。

   光も影もつねに揺れ動く。移ろいゆく。震えを起こす。響き合う。語り合う。

 

◆《瞬間》の固有性を起点とした《世界》の無限なる流動性。

   ゲリン監督は、『シルビアのいる街の写真』上映後のトークにおいて、

   「13歳頃から写真を撮り始めた」と語っていた。

   そして、その後「動き(連続性)」を求めるようになったのだと。

   しかし、だからといって彼が写真に単なる静止や《固定》しか見出さぬ訳でなく、

   むしろ瞬間の持つ固有性を起点とした「無限の可能性」を感じると語っていた。

   つまり、そこから何につながるかによって、その瞬間(写真)のもつ意味は変容すると。

   「《固有》=《固定》」ではないという発想をその背後に私は感じもした。

   《固有》と《固有》が連結されるところをを目撃し、

   それを読む主体に更なる《固有》が生まれる。

   ゲリン監督は、「映画とは映し出されたものではなく、観客が見たものだ」とも語った。

   つまり、映画とは《記憶》の源泉であり、そこから放たれた《記憶》は回収されず、

   観客各々の《記憶》の海へと注いでは、多様な航海を展開するのだろう。

 

◆『シルビアのいる街で』でも印象的(象徴的)であった《映像》の連鎖。

   まさに何かに「映っている像」。ガラスや鏡に映る像たちのスリリングな饗宴。

   それは《記憶》の残響が共鳴し、実体よりも力をもった反響に飛躍する瞬間を捉える。

   カメラが動くと、鏡に映し出される世界も動く。変わる。当然のことが何だか恐ろしい。

   「映し」のもつ実在感は、《記憶》というものの無辺なる生命力を象徴しているかのよう。

   人間の実際の体験は《記憶》にその都度閉じ込められ、経験として蓄積される。

   それは、眼前の出来事をフィルムに定着させて記録する営みに何処か似ている。

   フィルムには「変わらぬ」映像が刻まれているようだが、フィルムもまた変貌する。

   そして何より客体たる映像がほとんど変わらずとも、それを認識する主体は常に移ろう。

   《記憶》も掌握しているようでいて、それを認識する為にはその都度把握が必要になる。

   そうするとそこには無限なる《記憶》の動静が、いつも「はじまり」としてある。

 

◆カメラは、瞬間の固有性をあぶり出すと同時に、

   人間が見たことのなかった「途中」を提示する。動きを滅することにより。

   人間が認識し、意識する世界の実相など、無数の「途中」に比すれば微々たるもの。

   しかし、そうした無数の「途中」の一つ一つがもつ価値の蓄積によって初めて、

   私たちが認識するに足ると思っている「終わり」がうまれ、「始まり」をうむ。

   作中の終盤に現れる「途中」の奇妙な美しさ。いや、恐ろしさ。

   しかも、それが「止められたフィルム」によって映し出されるのではなく、

   静止した人物たちによって提示されるという奇天烈。そこに浮かび上がる、不自然。

   常に流動し、移ろいゆくのが《世界》の自然。

   何十年も前から変わらぬ輝きに見える月も、同じようでいて移ろっている。

   羊が歩くのも、川を船がゆくのも、自動車が道路を走るのも、

   物に力を加えることで起こる自然のはたらき。

   《世界》を決して支配しようとはしないが、

   決して流されるままではないホセ・ルイス・ゲリンの語り。

   彼が良寛や小津に魅了されたという事実を一層理会。

 

とにかくこれは壮大な《世界》(それは我々の外部に広がるそれでありながら、

我々の内部で広げるそれでもある)についての映像叙事詩。

或る意味、映画館という空間と観客が語らい合うことによって成立する

インスタレーション的作品とも言えそうだ。

 

時間と空間を自由に移動できる《記憶》の跳躍力と儚さが、戯れながら「現在」をうむ。

物や事の一つ一つに意味を見出そうとするのではなく、一つ一つに眼を凝らし耳を澄ます。

夜という闇は映画館のそれとなり、《記憶》は常に闇へと流れ闇から浮上する。

映画館の暗闇に身を埋める理由のすべてが、そこにある。