今日で映画祭は3日目に入りましたが、私は今日から参戦。いや、参加か。
でも、こう暑いと参戦でも好い気がする。が、今日はかなり風が吹いていたので、
気持ちスイッチ切り替えると(やや強がり気味に)「それほど暑くない」と呟けるくらい。
祝日でもまったりのんびり、のどかなSKIPシティ国際Dシネマ映画祭。
まずは長編コンペの外国映画を2本、観てきました。
沈黙の歌(2012/チェン・ジュオ) Song of Silence
昨年末にポレポレ東中野で開催された中国インディペンデント映画祭で
現代中国のインディペンデント映画にすっかり魅了されてしまって以来、
ヨーロッパ映画にも他のアジア映画にもない滋味を渇望し続け早半年強。
ついに久々に中国インディペンデント映画の新作を観る機会がやってきた。
そんな風に期待のハードルがかなり上がっていた為か、反動的失望が余りに大きく・・・
語り口も、映像も、観念的な側面が強い作品でもあったので、
個人的な相性というか趣味に左右されると思われる。
だから、私も明らかに観念的で理性的思考皆無な勢いで書き殴るとする。
全くもって感情が揺さぶられなかった。
それは、登場人物の誰にも感情移入もできなければ、
登場人物の誰一人として魅力的に映る者がいなかったから。
作品の冒頭から、作り手が「語る」ことに重きを置いてないと感じたので、
私も「読む」よりも「感じる」姿勢で向かうことにしたのが不味かったのかもしれないが、
とにかく誰一人として(極私的美的感覚において)美しくないのだ。
言動においてもそうなのだが、やっぱり大切でしょ、見た目(笑)
主要人物である三人(女性二人と中年男性)が、全く「そそられぬ」ヴィジュアル。
だって、二人とも全然可愛くも綺麗でもない。
いや、一般的な美がなくとも何かしら感じられれば好いのだろうけれど、
見事に素人臭しか漂わず、ドキュメンタリータッチなら味わいにもなったかしらんが、
必要以上に「つくられた世界観」で展開したがるもんだから、ひたすらメルヘンチック。
微妙なヴィジュアルで、ひねくれたマイワールドのぶつけ合いをされたところで、
観ている方は白けるばかり。いや、もう理屈とか理性とかで言い訳しません。
私はやっぱり、きっと、「きれいなもの」が観たくて映画に足を運ぶ人間なんだな、と。
勿論、本作にだって《美》はあふれ、流れ続けていたのかもしれません。
ただ、私の求める《美》とは違ったタイプのそればかりが在っただけなのかも。
ハッとするような美しい光景が、最近の中国映画には確かにある気がする。
現代中国の風景のカオス性に、他では垣間見ることのない刹那の到達をみる。
しかし、本作においてはそうした混沌の瞬間があまり発揮されずに終わってる気がする。
つまり「開発」と「頽廃」と「逗留」が整然と描き分けられてしまっているような。
その分、一つの画面に流れるトーンは一つで終始し、重層性は生まれずに、
薄っぺらな一層一層がふわっふわっと降り積もっていくばかり。
ただ、上映後の監督の話を聞くと、「それもそのはず」的納得も。
つまり、本作はインディペント映画ではありながら、中国の検閲を通っている。
ごく一部ではあるが(北京にあるミニシアターで週に一度程度)劇場公開もされている。
(ただ、映画祭等でかかる完全版よりは10分程度短いヴァージョンになってるらしい。)
検閲通過を念頭においたのかどうかは定かではないが、それゆえの浅薄さに思える。
人間描写に重層性や複雑性が乏しいのも、結局は《裏》というか《闇》が描き切れず、
だからこそ実は《光》だって曖昧。いや、《闇》が描けぬなら《光》に徹すれば好いのに、
それらが葛藤するわけではない妙な調和によるグラデーションみたいなシークエンスが
延々と続く。で、そのシークエンスは各々が「クリップ」的に羅列されていくだけなので、
終盤の「たたみかけ」がもうただのハードルなぎ倒し走法にしか見えず、観るに耐えず。
・・・というのは、まぁあくまで個人的な感想です。思いっきり主観的な。
ちなみに、登壇した監督が育ちの好さそうな爽やかな好青年で、優等生タイプに見えた。
チャン・イーモウやフォ・ジェンチーの純愛物に似合いそうな。これまた主観過ぎ(笑)
ただ、びっくりしたのは、
およそ「シネフィル」とは程遠い年配連が駆けつけている場内が水を打った静けさを保ち、
途中退席する観客もほとんどおらず、皆が辛抱強く最後まで(そこそこの緊張感を持続させ)
完走していたことだ。おまけにちゃんと拍手もそれなりにわいたし、質問も礼儀正しく丁寧。
こういう好い意味での「アットホーム」にこの映画祭は本当に救われているのだろう。
(これが余り「ぬるま湯」に作用しなければ好いのだが・・・。)
いや、本当にのどかな雰囲気は素直に好きですよ。
ただ、参加も2回目になると考えることも少しは出てきます。
ところで、本作は今年の香港国際映画祭のコンペでグランプリを獲ったとか。
その長編コンペは若手中心の部門のようだが、
コンペのラインナップを眺めておけば、ハードル上げすぎずに済んだかも。
今となっては、次点と思しき審査員賞を受賞した『恋に至る病』(木村承子)とか
ますます観るの怖い。(というか、もともと観る気が・・・)
日本からは昨年のTIFFに出品されていた『ももいろそらを』(小林啓一)も同コンペに参加。
同様に昨年のTIFFアジアの風(特集:フィリピン最前線)で上映された『浄化槽の貴婦人』も
同コンペには参加してたり、基本的にアジアの数カ国からの非プレミア上映作が中心か?
ところで、同じく今年の香港国際映画祭の短編部門でグランプリを受賞したのが
山村浩二の『マイブリッジの糸』なのだが、なんと丁度いまSKIPシティ内にある
「彩の国ビジュアルプラザ映像ミュージアム」では彼の特集が組まれている。
映像作品(アニメーション)が6作品(計60分)ループ上映されていたり、
イメージ画や原画の展示、『マイブリッジの糸』のメイキング上映、
『マイブリッジの糸』を共同制作したNFB(カナダ国立映画制作庁)が手がけた作品から
山村浩二セレクトの5作品(計41分)のループ上映までもあるそうだ。
こちらのミュージアムは映画祭期間中、映画祭のチケット(半券)で入場無料。
映画祭上映作品を観る合間に、立ち寄って観てみたいと思う。
ワイルド・ビル(2011/デクスター・フレッチャー) Wild Bill
コンペのラインナップで最もポピュラリティのある作品ではないかと予想していたが、
その期待は裏切られぬのみならず、むしろ思ったよりも地味なのがこれまた好かった。
上映時間96分。同じ街のなかだけで物語は完結。基本、親子プラス・アルファで展開。
そう、僕らの好きな「あれ」な感じ。ただ、意外と「っぽい!」と言い切れる作風もないかも。
最近のデクスター・フレッチャーが『ロック、ストック~』とか『キック・アス』の印象強い故、
リズミカルだったりアクロバティックだったりする些かカラフルポップな作風を予想するも、
むしろ「深刻すぎないケン・ローチ」的な地に足のついた英国製ワーキングクラス映画。
上映後の質疑応答でも話題に出ていたが、
「どの監督の影響を特に受けているか」があまり明瞭ではなかった気がしたが、
そこが好くもあり悪くもある印象。
いろんなエッセンスから自分に合うものを賢明にチョイスしたものの、
それらを一定のヴィジョンで染め上げるほどの作家的アイデンティティは未完。
だから、観始めてしばらく、本作を「どこで受け止めるべきか」が余り定まらなかった。
でも、状況説明的な30分(推測)を過ぎると心を直接掴み始める展開が動き出す。
「紙ヒコーキ」の緩やかな時間。屋上という解放感と、遠くを眺める悠久さ。
「バースデープレゼント」のキッチュでファニーな笑い。常套上等な手練で魅せる。
「靴屋の看板」という慎ましやかな精一杯。奇跡や幸運に頼らぬリアリスティック。
もちろん、見た目も性格も対照的な二人の息子はバッチリ御伽噺感を増幅させるけど、
さほど巨悪じゃない敵陣営の現実的な質(たち)の悪さに観客が一緒に頭抱えられたり、
やや都合好く転がり込む女神が出来すぎず出過ぎずな配慮が物語の本筋をブレさせない。
本作のラストは主人公ビル(チャーリー・クリード=マイルズ)の顔のアップで終わる。
そして暗転後に映し出される「父、スティーヴ・フレッチャーに捧ぐ」。
本作最大の嗚咽ポイント。反則。でも、正しい。
デクスターの父スティーヴは、本作の制作年である2011年に亡くなっている。
その数字が更に心を打つ。
最初から最後まで、殊更に「父親万歳!」も叫ばず、
しっかりヒーローになりきれたわけでもない父親像を慎重に擁護し続けたからこそ、
観客はビルが父親として「合格!」とは言い切れないまでも、
決して「失格」とは口にしない。その真実味が愛おしい。
勿論、熟れてない演出や展開も見受けられるし、
ラストに向けての疾走や収束感もややこぢんまりとした印象。
しかし、建設中の五輪スタジアムがしばしば見える風景のもつ特殊性と
それはあくまで遠景でしかなく物語は人間が紡いでいるという普遍性の対照が、
「いつの時代も変わらないもの」を映し出そうとする誠実な営みに説得力を持たせ、
実はたいしたことが起こらずじまいの小品に、たいしたものをそっと手渡されるあったか後味。
手堅くいこうとして綻んだ「未熟」感が心地よい。役者一人一人が活かされてる感も好い。
デクスター・フレッチャーは監督として既に二つの新プロジェクトに関わっているとのこと。
1つはミュージカル。もう1つは、イギリスからアメリカに移住したファミリーによる西部劇。
どういう作家性に育っていくのか、少し楽しみに待ちたくなっている。
◇作品の内容とは関係ないのだが、上映画質の粗さにがっかり。
本映画祭は、「デジタルシネマの可能性」に焦点を当て、その未来を拓く目的もある。
それにも関わらず、何らかの事情があるのかもしれないが、
DVD程度の画質で作品を上映するのは、
映画祭の意義を揺るがしかねぬ由々しき事態だと私は思うのだが。
本映画祭への参加は2年目だし、総観賞数も大してないので不明だが、
これがあくまで「異例」のアクシデントであってもらいたい。
(ただ、それは現実的困難を伴うのは承知だが、何らかの説明はあっても好いと思う。
なぜなら、映画祭では何かにつけ「高画質上映システム」による「高画質デジタル映像」
を謳っているわけだから、それに大いに反する現実にはエクスキューズが必要でしょう。)
デジタル素材を扱うとなると、きわめてユニバーサルなフィルムという素材とは違って、
「想定外」や「規格外」が生じる可能性が極めて(現在はまだ)高いという現状の表れか?
でも、当然のような不思議なような・・・アナログが確かでデジタルが不確か、という現実。
あ、でも、ちゃんとした素材で普通に上映される本映画祭の映像はバッチリ美しいですよ。
(デジタル撮影に合う光景と合わない光景が段々わかってくる気がします。
ちゃんとしたデジタル撮影+デジタル上映を見続けると。そういう副産物。)
ちなみに、デクスター・フレッチャーが観客への挨拶のなかで、
「月曜の昼間にもかかわらず、大勢かけつけて下さってありがとう」的コメントを・・・
誰も彼に「今日は月曜だけどホリデーよ」って教えてないのだろうか・・・
そりゃぁ、確かにデクスター・フレッチャー本人が来場してのプレミア上映となれば、
普通なら(平日でも)満員の会場になっててもおかしくないもんね。
というわけで、20日(金)の2回目の上映にはもっと観客が入ってくれることを祈ります。
(というか、確かに川口は都心からはやや離れてるし、駅からもバス[無料!]乗るけど、
それにしても、自力で発見する喜びに貪欲なシネフィルってまだまだ少ないのだろうか・・・
権威のある誰かに発見されたものに追随する喜びに必死なシネフィルは多いけれど。
とか言いつつ、俺だって去年から、しかもヌリ・ビルゲ・ジェイラン最新作目当てで
初めて足を運んだ訳だから、全然偉そうなこといえないし、むしろ後者タイプなんだけど。
いや、だからこそ、こういう場に身を置くと、改めて自戒も込めて書きたくなるのです。
自由に映画を愛する(或る意味、「博愛」的ですらある)精神こそが、
「映画のある世界」を盛り上げる。と思う。
まぁ、Twitterなんか眺めてると、そういうフリースピリット溢るる猛者は結構いるもので、
勇気づけられる、というよりむしろ身の引き締まる思い(?)もしばしば。
また、この映画祭に足を運ぶ非シネフィルの「普通の映画が好きな市民」たちの
飾らず真っ直ぐで実はかなり核心ついたりもする質問や感想を聞いてると、
数や種類をこなして語りすぎな自分の曇ったレンズが時折浄化される想い。
というわけで、そんな謙虚と新鮮を求め、今週は何度か川口へ足を運びたい。)