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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

灼熱の魂(2010/ドゥニ・ヴィルヌーヴ)

2011-12-26 02:53:33 | 映画 サ行

 

前作(『POLYTECHNIQUE』)に続き、2年連続でジニー賞(カナダ版アカデミー賞)受賞。

その更に前作(2000年)でもジニー賞を獲得しているから、

今やカナダで名実共にNo.1監督と言えるだろう。

好き嫌いは分かれそうな要素や展開を含んだ本作だが、

監督としての技巧とセンスを十二分に兼ね備えた存在であることは

誰もが認めるところだろう。ポピュラリティと芸術性を併せ持つという意味では、

デンマークのスサンネ・ビアと似た印象を受けるが(作風も似てきている気もする)、

こういった監督こそ、現在の日本映画に最も欠けている才能である気がしてしまう。

おまけに、カナダにはグザヴィエ・ドランという新星までいたりするのだから、

大衆演劇と小劇場が共に充実し牽引し合ってるかのような文化の盛隆に

羨望してしまうのも必至なわけだ。日本は乖離と無関心の悪循環・・・

両者を跨いだり横断して熱情忘れずにいる観客は多くいるのに。

 

 ※余談だが、そうした娯楽とアートの融合って意味では(こじつけだけど)、

    グザヴィエ・ドラン(Xavier Dolan)は、子役上がりな上に、怪作『マーターズ』に出演。

    あっという間に殺されちまう小さな役だけど。その翌年には二十歳で監督デビューして、

    今や世界的に注目を集める(日本で言えば)平成生まれのルーキーさ。

 

本作が「傑作」の部類に入るのは個人的にも異論はない。

(事実、Rottenでは9割以上のフレッシュ、IMDbでも8点台。)

と奥歯に何かはさんで語り始めるのは、ヴィルヌーヴ作品を追いかけてきて

(といっても、全4作しかまだないんだけどね・・・おまけに1作目は未見だし)、

前2作と較べると明らかに個人的趣向からは遠ざかりつつあるからなのだ。

いや、本作だって、トンデモない話を終始穏やかに静観しながら語ろうとするアプローチと、

大河的な手法に飲み込まれずに作家の矜持が踏ん張っているという点では、

私の愛する大きな物語と個人の語りが交錯する社会派映画たちに通ずるところもある。

ただ、前述のスサンネ・ビアとの共通点を私は感じてしまったように(奇しくも、本作と

『未来を生きる君たちへ』は共にアカデミー外国語映画賞を争ったのだが)、

閉塞感のなかでこそ外部の広大な世界や絶望の深淵を浮き上がらせることのできる

凝視型濃密ドラマを魅せる術に長けた稀有な監督である二人が時を同じくして、

大河小説的世界へと羽ばたいてしまったことに対する寂しさがまだ強く残っている。

しかし、反芻すればするほど、本作のもつ巧み(匠)さには感心せざるを得ない。

よって、基本的には本作の「素晴らしさ」について語るところから始めたい。

 

物語の強度が途轍もないということばかりに引きずられては、

本作のもつ豊潤なドラマは咀嚼しきれない。「筋」そのものよりも、

「筋」の解体および再構築にこそ手腕を発揮し、魅了の秘訣がつまっている。

本作は、とにかく〈往来〉にあふれている。現在と過去との往来といった時間のみならず、

場所の往来(往復)も物語全体をまとめる重要なうねりとなるだろう。

更に、過去の人物たちが辿る運命はまさに組織や信条を往する物語なのだ。

そして、そうした数多の往来が我々に突きつける事実とは、

どこにも安息の地などないという悲劇。

行ったり来たり放浪するしかなく、そうした意味では皆、「難民」。

だからこそ、ひとたびホームをみつけたら、何が何でも固執する。

そうして〈他者〉を拒絶(refuse)する。そうして難民(refugee)が産み落とされる。

(語源も違えば、駄洒落的相似でしかないが、勝手に因果を感じる非ネイティヴ発想。)

絶対的なホームなど何処にもなく、国や宗教が永遠に確実な「約束」にならないということを、

母は我が子に伝えようとしたのかもしれない。真の約束は自らのなかにある、と。

拒絶(refuse)ではなく受容(accept)することを期待して。

そして、そのためには過去への接近と面会(access)が必要だったのだ。

 

◆本作の原題「Incendies」とは、炎や火事などを意味する言葉(フランス語)。

   (邦題は、原作である戯曲の題名[焼け焦げる魂]からつけられているようだ。)

   「incendie」は他にも「動乱」や「激昂」なども意味するらしく、本作の題名にもってこい。

   ちなみに、この語は男性名詞らしい。災厄が常に男によってもたらされる社会の有様。

   命を奪うことに長け、命を植え付ける能力で「生」をも「死」の意に転倒する男。

   ちなみに、フランス語で水(eau)は女性名詞。(語源はラテン語のaqua[女性名詞])

   「母(mère)」の中に「海(mer)」がある。三好達治の美しい詩で指摘されている事実。

 

      海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。

     そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある

 

◆2作目の『渦』では、とにかく「水」そのものと関連イメージに溢れていたが、

   焔の意をタイトルに冠した本作でも、要所要所に「水」が入り込んでいる。

   それはただ単に「火消し」のためだけにあるのではないと考えられる。

   むしろ、それは羊水的なそれなのだ。生命は水からうまれるものだ。

   (フランス語の生は「vie」[ラテン語vitaに由来]。やはり女性名詞。・・・しつこいな。)

   勿論、水は時にとてつもない破壊力を持って迫ってくることは忘れられない事実である。

   しかし、焼き尽くし滅する破壊を迫る火(拒絶や根絶を思わせる)と違い、

   あくまで抱擁するごとく飲み込んでしまう水(受容を求めている?)。

   全身を焼かれそうな苦痛が双子に襲い掛かったとき、

   彼らは水に飛び込むだろう。丸めた体躯がゆっくり沈み、

   生を宿した瞬間を確かめるように、水のなかで再び抱き合う二人。

   生を享けたばかりの二人は、水(川)のなかに葬り去られてたかもしれなかった。

   再び絶望の火に焼かれた母が水のなかから出て最後の力を振り絞って遺した遺言。

   火に焼かれても水に身を寄せよ。燃え盛る炎を運んでいた津波の映像を想起した。

 

◆本作で二曲用いられているレディオヘッド。

   冒頭でいきなり「You and Whose Army?」が流れ、あまりにも劇的に幕が開く。

   このシーンは『地獄の黙示録』のオープニングを意識し(オマージュ捧げ)たそうで、

   椰子の木を意味ありげに映したのもそのためだとか(監督インタビューより)。

   あちらはあちらで本作のテーマ(@独断)である「水からの浮上」ってシーンだし(笑)

   監督は元来レディオヘッドのファンで、ダメ元で出来立ての本作をバンドに送ってみたら、

   使用許可を得られたとか。実際には会ってないらしいけど(こういうの何か素敵だよね)、

   「彼らは映画を気に入ってる」って聞いたらしい。何でも複数の彼等の曲が使われる、

   はじめての作品だとか。確かに、そうかもしれないなぁ。勿論、意外な邂逅は効果絶大。

   「You and Whose Army?」は中盤にも再び印象深く響くが、

   同じアルバム『Amnesiac』からは「Like Spinning Plates」も使用されていて、

   こちらはクライマックに向かう序章的な展開(先行して旅を始めたジャンヌに続き、

   シモンが旅を始めようとするときに流れる)を静かに送り出そうとするかのよう。

   ちなみに、この曲は逆回転したものを伴奏に用いているというから、本作と見事に呼応。

   双子の辿ろうとする旅はまさに逆回転。それが「はじめ」から再生されるとき、

   その曲はどんな響きを生むか。

   (そういった意味では、エンディングに流れてくる歌曲[インタビュー記事によれば、

   マーラーかムソルグスキー?]がどんな歌詞なのかが知りたくてたまらない・・・が、

   クレジットにも表記はされていなかったようだし、字幕も出てなかったから残念。)

 

◆2作目の『渦』では、水のイメージと共に、常に「青」につつまれる色彩設計となっていた。

   本作は、画面に重量感のある見出しが真っ赤な文字でたびたび浮かび上がってくる。

   しかし、作品全体が「赤」を印象的に取り込んでいるというわけでもない。

   むしろ、それ以外では従来の寒色テイストな画作りが貫かれているようにも思う。

   だからこそ、表示される文字の強烈さが浮き立ちもするし、それは「血」を想起させもする。

   まさに「血塗られた」人物や土地が明示されてゆく。

   そして、そうした歴史の「血」を受け継いだ二人のロング・ジャーニーが終わって始まる。

   ただ、その血は必ずしも負の歴史のみを象徴しない。

   劇中最も鮮やかに提示される血は、ふたつの出産における生命の血なのだから。

 

◆本作では、宗教や民族の対立がきわめて表層的なものであることを

   戯画的に皮肉っていると思われる箇所がある。

   それは例えば、ビジャブのようにスカーフを巻くことでイスラム教徒を装いバスに乗車して、

   バスがキリスト教徒に襲われれば十字架を手にして難を逃れられるという展開や、

   キリスト教徒として豪邸に入っていくときには、執拗にデートの誘いを受けるものの、

   異教徒であると判るや「ビッチ」と罵られる。(勿論、それ以上の事してますが、

   知らなければラブコールしてしまう・・・というのは、やはり対立の表層性を象徴してる)

   その点は、『サラの鍵』などでもさりげなく(原作では重点的に)描写を重ねていたり。

   いずれの作品でも、そうした表層性から一歩進んで、「だからこそ自分次第」であることの

   重責と呪縛を描こうとしているところが現代的な気がしてしまう。

   「別人」になれてしまう現代。「別人」になることを時に強いられる社会。

   そして、その事実を内に秘めたまま生きることの苛酷と、落とし前。

   両作の間に流れる共通性と、見事に分かれる対照性は、

   奇しくも同日に同じ地で公開された事実と合わさり興味深い。

   (こちらの考察は、『サラの鍵』について書くときに試みてみたい。)

 

◆対立の根深さを描きつつ、表層性を露にするという真摯な並行展開は、

   どちらに就こうとも傷つけられるという事実を反復し続ける。

   そして、それはいつしか自らの属性によって為された「正義」の連鎖が、

   自らに復讐となって還ってくる。しかし、それは還って来たから気づけたわけで、

   還ってこなければいつまでも気づくことのない「正義」の暴力。

   「つながろう」という標語は実は明確な範囲の限定を暗に包含しているが、

   真実はそんな甘えを許さない。事実、全部つながっているのだから。

 

◆最初に産み落とされる子が男で、次に双子(しかも男女)とは、何を示唆しているのだろう。

   男(長男)だけでも女(母親)だけでも憎しみの連鎖は断ち切れない。

   「一緒にいる」ことの大切さを遺言で説いた母。羊水で、プールで、寄り添う双子。

  男(火)と女(水)で、世界は命を産んでは育む。

  水から生まれた生命は、火を得て文明を築き出す。

 

   ジャンヌとシモンは、「アダムとイヴ」を示唆しているのか?などというベタ発想も。

   そうすると、自らの原罪(のようなもの)を明らめ引き受ける旅をする新しい「人類」なのか。

 

◆母にしろ娘にしろ、極めて女性の逞しさや母の強靭さが強調されているようでいて、

   実はそれほど「女性映画」という印象に終始しないのは、恐らく母性の単純な肯定を

   忌避しているからかもしれない。だからこそ、観賞後にこびりつく違和感がありもする。

   例えば、英語では国にしろ言語にしろ「mother」こそがアイデンティティの寄る辺を示す。

   しかし、本作ではそうした「mother(母なる)~」に我々が求める確かさよりも、

   脆さこそが審らかにされるのだ。だからこそ、母性だけでは乗り越えられない人間の現実を

   欠落した父性と、息子と娘が埋めようとする物語なのかもしれない。

   そう考えるならば、この結着はようやく満ち足りた人間の物語。

 

 

(余談)

数多の受賞を重ねて国際的評価抜群の本作も、

アカデミー外国語映画賞ノミネートの看板なしには日本公開は難しかったかもしれないが、

同じくノミネートされた『OUTSIDE THE LAW』はカンヌのコンペに選出されようと、

『DOGTOOTH』はカンヌの「ある視点」部門賞を授けられようが、日本未公開。

そう考えると、シャンテやル・シネマに群がる中高年をいかに動員できるか

(時に、巧く欺けるか)ということに左右されるんだろうなぁ・・・などと、

平日昼間なのに(だから、か)ジジババで溢れかえるシャンテの場内で再認識。

高齢化が病院や映画館を彼らのサロン化する一方、若者は映画館から年々姿を消してゆく。

エンタメやサブカル、ファッションの要素が皆無な映画は大学生ですら観なくなっている。

そんな気がしてしまう。自分は年々老けてるはずなのに、いつまで経っても劇場行くと

最若年層な状況が続いている気がしてしまう。まぁ、観てる時間帯とかにもよるだろうが、

俺が学生時代なんて大学いるより映画館いる時間の方が圧倒的に長かったし(誇れません)

その頃にはそうした同胞(笑)も多かった気がするんだけどな。

そりゃ、映画以外に安価で容易に手に入る娯楽は充満してきているけれど、

それらは実人生と交錯しているかい?

遊びと勉強、遊びと仕事って、単純に分かてるものだと思えない。

むしろシナジーであるべきだというのは我が信条。

それを可能にするのも、仕事での艱難と遊びの享楽が結びついてこそ。

それらが結びつけば、仕事が単なる苦痛の巣窟に陥らず、遊びが単なる発散で終わらない。

そうした姿勢こそ、芸術が現実と交錯しながら世界を映しだしてゆくプロセスと重なるだろう。

そうして世界との対峙や世界との連帯を学びながら、文化も醸成されるだろう。

量的には「少子化」は深刻な問題だと思うし、危急の事態であることは確か。

しかし、質的な問題にももっと真剣に目を向けるべきだと思う。

別に何も「映画を観ない」ことが文化的水準の低下につながるとは言わない。

でも、じゃぁ、他に何か〈culture〉な体験を重ねたり味わったり希求してるのだろうか?

特に若いときに「覚えた」感覚は死ぬまで抜けはしないだろう。

だからこそ、映画館は中高年で溢れかえっているのだろう。美術館も然りだ。

確かに態度で言えば微妙な連中も少なくないが(分母が多いから仕方ないのかも・・・

ただ、明らかに団塊以下からは節操ない度合いは一気に高まってる気がするが)、

それでも文化的な体験に価値を見出し、どことなく飢餓感を覚えもしているからこそ、

精神生活の充実に関心を払おうとしているのが、日本の中高年なんだろう。

ということは、彼等を当て込んで(輸入)配給されたり国内制作される作品はまだ良い方で、

もっと先の日本で配給される外国映画と言ったら・・・いや、外国映画とか観なくなってるかも。

文化的鎖国に突入する日も遠くはない!?

純粋培養のように一見思われる太古の日本も、

命がけの渡航時代から、鎖国時代に至るまで、

〈他者〉を知るたびに興奮し刺激され、〈自己〉を成長させてきた。

それでなくとも経済的な成長はそうそう見込めなくなってきた今、

更なる「引きこもり」は文化的な成長の萌芽すら摘み取って、

物質と精神が共に先細ってゆく悪循環に突入してしまう。

と、精神的引きこもりたる自分が、現実には引きこもらぬよう頑張って(笑)

映画館に足を運ぶ努力を自己肯定。って、そういう結論で好いのか!?

というのは半分冗談で、自分なりにできる「教育」という観点もそろそろ真剣に肝に銘じ、

仕事なり生活なりをしていかなきゃなぁ~、とつくづく思う年の瀬です。

 

 

[追記]

OUTSIDE IN TOKYO監督インタビューが(毎度ながら)大いに参考になる充実内容。

特に「公証人」の存在意義などについて詳述されているところなど、

公式サイトの監督コメントの意図を補完してくれる重要な内容になっている。

本作を反芻する上では必読。(読んでから感想書けばよかった・・・)

 

 


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