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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

アルベルト・セラ Albert Serra

2012-02-06 00:44:32 | 2011 特集上映

 

2012年最初の《再発見》がモンテ・ヘルマンだとしたら、

2012年最初の《発見》はこの人、アルベルト・セラかもしれない。

奇しくも、セラ作品を手がけるカプリッチが『果てなき路』も仏配給していたりする。

(その配給前から対談集の出版準備はカプリッチで進められていたらしい。)

今回、日仏学院でのカプリッチ・フィルム・ベストセレクションでは、

アルベルト・セラの長篇1作目および2作目を上映する。

IMDbによると、そのまえの作品もフィルモ入りしているが、

まぁ特異な制作スタイルを貫いている作家だけに、色々あるのだろう。)

 

なに経由だかは判然としないが、

極私的要チェック作家リストに入っていたアルベルト・セラだったのに、

その記憶と今回の上映が、つい昨日まで結びつかずにいて、本日慌てて参戦。

このインタビュー記事を読んでもわかるように、普遍性を追求する作家というよりは、

強烈な自我の直截な発現を貫き通す作風であろうことは予想していたが、

これぞまさにカプリッチのRADICALとも言えそうな、孤高の美学を透徹敢行。

ブリュノ・デュモンから色気を排し、アピチャッポンより右脳が肥大。

ティエリー・ルナス氏の言葉を借りれば、まさに「ショット」より「シークエンス」の作家。

つまり、「収める」とか「呈する」とかではなく、「流れる」とか「乱れる」なわけ。

だから、そこに身を委ねられるか否かによって評価は大いに二分されもしそう。

しかし、映画の脱構築と再構築を真摯に果たそうと勤しむ姿が見え隠れするかのように、

生ぬるいオマージュごっことは別次元。粉骨砕身な換骨奪胎の次世代の古典。

クラシカル・ネクスト・ジェネレーション。温故知新が神出鬼没。

 

 

『騎士の名誉/Honor de cavallería』(2006)は、

ドン・キホーテと従士サンチョ・パンサの人物像についての考察、監督独自の解釈。

しかし、フランス語字幕(話されているのはカタルーニャ語)で観たこともあり、

私自身がそれを更に解釈しようとする姿勢は端から放棄(笑)して観賞。

すると、この作品(おそらく次の『鳥の歌』も)、《解釈》のための作品とは別地平。

観察、ですらない。ひたすら随行する。同伴しながら見守る。それを求められる。

それでこそ完結するかのような撮り方、見せ方。(デジタル撮影)

 

会話の量は通常の映画より圧倒的に少ないこともあり

音にしろ字幕にしろ「理解」が不能だったとしても、「わかる」のだ。

というより、この作品における《言語》の優先順位は明らかにランク圏外だ。

順位が低い、というのとも違う。画だとか音だとか言葉だとかいった要素がバラバラに

序列化されたり整理されるのとは違う、総体として観客を包み込もうとする作品。

カタルーニャ語(出演する素人演者の使用言語)を選択(というより許容)するのも、

言語によって「伝えよう」とするよりも、ライフそのものが「伝わる」ことを重視するから?

 

時間や空間の制約を超越するために、デジタルでの撮影を積極的に選択したという。

確かに、容赦ない長回しではあるが、それは美の沈潜を促すそれとはやや異なる。

旅の疲れを植え付けるかのような、心地よい倦怠感をお見舞いしてくれる、連続時間。

長回しとは、実際の時間の流れに近づいていくプロセスを伴うものだと又もや実感。

110分が嘘のようにあっけなく去っていった。(ノレないと5時間くらいに感じそうだが)

 

いわゆる「綺麗な画」を撮ろうとしているわけではないが、

美しい光景を忌避しているわけでもないので、当然息を呑む瞬間は度々訪れる。

しかし、デジタル撮影によるランドスケープは、フィルムのそれに求心力は及ばない。

ところが、フィルムの深奥から浮かび上がる《普遍性》が望めぬかわりに、

デジタルのフラットに固着した《固有性》は、反ユニバーサルな世界を表出。

大自然のなか、自然の音につつまれ、陽光や緑にいだかれて、

なお《個人》として世界に身を処し続ける光景。

間違いなく刻まれる《近代》、そして現代。

 

古典としてのモチーフを、デジタルで個人がとらえる現代性。

終盤に突如聴こえてくるギターの音。

違和から芽生えた戸惑いが、

木洩れ陽の瞬きの凝視と共に安らぎをもたらせば、

神秘な慈愛に満たされる。

 

 

『鳥の歌/El cant dels ocells』(2008)は前作から一転、モノクロ。

こちらは同じデジタル撮影でもHDなので、より繊細な画の力でじっくりと迫ってくる。

登場人物に随伴していた前作のカメラとは異なり、偏愛される定点観測。

『騎士の名誉』の即興性が出演者と監督が対等に協同していた印象だったのに比べ、

本作における即興性は、監督がすべてを享け止めながらコーティングしている印象。

大地や砂漠を歩く三賢者の軌跡には、計算や指示とは無縁の流動がひたすら続く。

しかし、カメラのフレームにおさまり、そこに出入りする彼等の動きは、

すべてアルベルト・セラが「描いた」物語として提示されているかのよう。

あらかじめ求められていたかのような即興が結果的に収録される。

そんな多重な矛盾を味わいつくす、至高の俯瞰。無介入によって加工済。

 

そして、アルベルト・セラは闇をおそれない。

暗くなろうが、光が去ろうが、凝視を止めず、対象を眺める。

闇は音であふれてる。かすかに見えるシルエット。凝視はそれを顕在化。

薄れた輪郭の確かな実在感。微かな光の存在感。聴くように見つめる闇の奥。

 

『鳥の歌』は英語字幕での上映だったのだが、ほとんど読まずに観ていた気がする。

前作で勝手に結論付けたセラ作品における言語観を都合好く敷衍したりしてたから。

実際、台詞はほとんどないばかりでなく、言葉で物語を追うよりも、

徹頭徹尾、画面(=世界)と対峙することに全精神を傾けるべきだと思える作品。

むしろ無字幕で観ていたいほどの豊饒さで溢れかえっている神話。

 

 

今回の特集上映では、『鳥の歌』が2月5日(金)13:30、

『騎士の名誉』が2月24日(金)16:00の上映を残すのみ。

アルベルト・セラはお気に入りの映画作家としてソクーロフやタル・ベーラを挙げている。

彼らの作品を愛する映画愛好家ならば、観ておいて好い(観ておくべき)二作だろう。

但し、ちょっとでも睡眠不足や疲労困憊が感じられる際には爆睡まちがいなしなので、

その辺は要注意。確かな物語性や心酔必至な映像美が着実に展開するでもないので、

とにかく自由かつ柔軟な感受性で、開放的精神状況で臨むのがベストかと。

あと、他の観客のイビキ[というか、寝息?]にイラっと来ないこと(笑)

こういった沈黙と自然の音にあふれる作品は、場内の静寂と相俟って完成する。

そういった点では、『騎士の名誉』上映時の場内は素晴らしい静謐さが充満してた。

それに比して『鳥の歌』では、退屈さや落ち着きのなさを発散させる者が散在したりして、

ちょっと残念だったのも事実。静寂の砂漠を歩く賢者たちの姿に重なるフリスクの音。

誰かが咳込むと免罪符得たりと連鎖する咳払い。静寂に包まれて再見してみたい。

(まぁ、普通に静かなレベルでしたよ。ただ、本作がそれだけ静謐な作品なのです。)

 

日本でもようやく《発見》された、アルベルト・セラ。

新作と併せて特集上映が企画される日を切望する。

 

 

『騎士の名誉』の一場面

 

『鳥の歌』の冒頭