現在、ポレポレ東中野で開催中の中国インディペンデント映画祭2011。
そこで『占い師』が上映される徐童(シュー・トン)監督の前作にしてデビュー作の『収穫』。
その上映および講演(監督自身による)が武蔵野美術大学(美術館ホール)にて開催された。
監督自身「遊民三部作」と呼ぶ『収穫』(2008)、『占い師』(2009)、『老唐頭(原題)』(2011)。
最新作は次回の映画祭で上映したいと主催者代表の中山大樹氏は語っていたが、
今回の映画祭で2作目を上映する前日に設けられた1作目の上映イベント。
余りにも粋な計らいに、映画祭上映作品を観賞制覇して、武蔵美に入学したいほど(笑)
思ったよりも小ぢんまりとした規模で、参加者も数十名といった感じではあったが、
実に落ち着いた穏やかな空気の中で(しかも都会の喧騒からはやや離れた場所でもあるし)
ゆったりとした心境で観賞できた本作は、処女作ならではの危うさとヒリヒリ感が見事に結実。
さまざまな非日常が縒り合わせられた稀少な「体験」に邂逅した気がする。
本作の原題は「麦收」。英題が「Wheat Harvest」ということからもわかる通り、
「麦の収穫」を意味する語。その二字のビジュアルの「迫り方」は強烈だが、
本編の終盤に突如現る麦の実りにもグッとくるものがある。
しかし、本作の主人公にとって農耕は「本業」ではない。
北京で娼婦をしている二十歳そこそこのホンミャオは、
得た金の大半を重病を患う父の治療費にあてる。
そして、時折帰郷した彼女は畑仕事を手伝う。
耕し、水を引き、収穫を見守り、種を蒔く。
彼女なりのculture〈栽培〉な営みがある。
彼女なりの文化小革命を日々挑む。
上映後の監督の話では興味深い事実や思想を聴くことができた。
例えば、彼はドキュメンタリーを〈撮る/撮られる〉の関係で制作するのではなく、
まずは「生活」を共にし、その後に「仕事」へと入っていくのだという。
だから、カメラが「人を傷つける武器」だという考えからは程遠く、
既に親交を深めた相手との「交流の道具」として出現するのだと言う。
カメラは「冷たい、温度をもたないもの」ではなく、「私の温度」をもつものだとも。
丁度、前日観た『プリピャチ』でも近いアプローチが採られていたが、
徐童はより深化した関係を模索し、対象の人生をも引き受ける覚悟で向き合っている。
そうした「距離」(もしくは、その喪失)故か、わかりやすいクライマックスは見事に躱される。
主人公が涙を流すシーンが(私の記憶では)二度あるが、その「決定的瞬間」は削られる。
涙を流す瞬間も、涙が溢れるときの言葉も、映画のなかには収められていない。
それは、対象を慈しむ眼による「検閲」が働いているのかもしれないなどと考えるのは
邪推に過ぎるだろうか。そのとき、カメラは回されていたのだろうか。
いや、回っていなくとも好い。友が涙を流すとき、必要なのは記録じゃない。記憶だろう。
ほんの一瞬の暗転後にあらわれる涙の糸で、観客はそうしたジャンプに吸収放出された
彼女の全生活と全思考を一身に浴びるような感覚を得る。ただ、傍にいるだけでない感覚。
どんなに時間を共にしようとも、どんなに言葉を弄しても、埋められない孤立した現実。
しかし、それを悲観するばかりでなく、そっと眼を閉じ「想う」ための確かな「間」。
安易に「演」に走らぬことで、全篇漂う〈生〉なる「艶」。歪な〈生〉を整理しない、誠実さ。
収穫迫った麦畑。その様相から一瞬、『一枚のハガキ』(新藤兼人)を想い出す。
そういえば、あの映画にも聖書の「一粒の麦」が(間接的に)引用されていた気がするが、
本作においても、主人公ホンミャオという「一粒」の存在によってもたらされる実りは豊饒だ。
それは、名も無き中国社会の下層現実を浮き彫りにしながらも、
決して個人の敗北に堕すことの無い彼女の強靭さは、
中国でインディペンデント映画を撮る者たちの使命感と重なりもする。
だからこそ、徐童(シュー・トン)監督は「自分と似ているところがある」と感じもしたのだろう。
◆本作では序盤で何度も高速鉄道が走る街の様子が映し出され、
ホンミャオが自室で語っている際にも、鉄道の騒音が背後に響いていたりもする。
それとは対照的に、彼女が帰郷したときに従事する畑仕事の最中には、
風の轟音が止むことなくカメラ(マイク)に収められ続ける。
どちらの世界にリアリティを感じられるか。俯瞰で観る私たちの「心」は知っている。
◆ホンミャオの恋人シュー・ジアンチャンも都会の孤独を体現している一人かもしれない。
高層ビルの建築現場でクレーンの操作を担当しているのだが、
地上から遠く離れた上空で、巨大なクレーンを一人操縦するときの寂しさを
恋人に語って聞かせる姿はせつない。
◆そうした孤独は当然、ホンミャオの仕事仲間(娼婦たち)にも漂っている。
ホストたちとカラオケに興じる際、ホストたちとの戯れが余りに健全であることが物語る。
ホストの膝に乗っかって、娘が父親に「抱っこ」してもらうかのような安堵を貪る。
そして、そこで歌われる「時の流れに身をまかせ」(テレサ・テン)には、胸いっぱいの愛。
※中国のホスト全体がそうなのかは知らないが、ここで出てくるホストは日本のそれとは
見た目が大きく異なる。「好青年」タイプであり、服装もカジュアル(というかスウェット?)。
それが又、せつなさを助長してしまう。
◆ホンミャオの故郷では、道端で歯の「治療(?)」が行われており、
(おそらく)麻酔もなくペンチで歯を抜いたりしているのだ。
「いやぁ、歯根が深かったなぁ」などと言いながら。
周縁はいつまでも中心の辺境である定め。
しかし、そんな状況で抜歯されるも静かに佇む男性に、
人間の強度が文明と反比例であるという事実もまた垣間見る。
◆ホンミャオが軒先で、壊れたパトカーの模型(玩具?)を見つけ、
足で踏んだり蹴ったりして遊んでいると、「公安」と書かれたそれは転落してしまう。
心なしか嬉しそうに見えるホンミャオ。次の瞬間に映し出されるリアル・パトカー。
「公安」の文字もバッチリ。ユーモアと抵抗、そしてインディペンドである自由の享受。覚悟。
◇本作は、香港の映画祭上映時にちょっとした事件に見舞われたらしい。
「登場する私人のプライバシー侵害」を訴え、人権擁護団体が上映中止を迫ったのだ。
そこに駆けつけた警察は、彼等がスクリーン前に座って抗議を続けることを認め、
そのかわりにスクリーンを高めに設置しなおし、そうした状況で上映が行われたとか。
監督は、彼等の訴えの正当性に理解を示してもいたが、表層的との批判も口にした。
彼女たちのような人間にとって、顔にモザイクを施すことが生活の「保護」にはつながらず、
それが何ら保証にもならなければ、そうした職業に従事した時点で実際には、
中国社会から人権を剥奪されているも同然であるとの見解だった。
だからこそ、堂々と彼女達の「生」を明らめることこそ、人権擁護(確率?)なのだとも。
本作では、登場人物はすべて仮名であり、舞台も特定し難いように暈かしているそうだ。
今回の上映で観た日本語字幕版では、舞台を示すテロップが「日本語のみ」出ていた。
それは、そういうことなのだろう。しかし、そこには「どこにでもある」普遍性を担わせるという
効果も併せ持っているように思う。しかし、中国の人がこの作品を観ることはない。
ホンミャオとの約束で、中国国内では上映しないということになっているらしい。
また、国外での上映においても、なるべくアカデミックな場での上映を心がけているそうだ。
そして、そんな彼女から今年の初め、結婚の報告を監督は受けたという。
最近になって、彼女は長女を出産したとも。
本作のラストで彼女が蒔いていた種は、少しずつ実を結びつつあるのだろう。