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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

ロイドの人気者(1925)/山の王者(1929)

2011-07-29 22:28:09 | 映画 ラ・ワ行

 

自由自在。

とか聞くと、「そんな参考書あったなぁ」などと懐かしんでみたりする。

(今でも、あるのかな。)

 

技術が進歩するってことは、

可能性が拡がるってことで、

選択肢も増えるってわけだ。

 

サイレントがトーキーになり、

モノクロがカラーになり、

2Dが3Dになった。

 

これまでも試みられたことはあったようだけど、

今度のロドリゲスは匂いをつけちゃうようだ。

 

しかし、外に拡がろうとする欲望は、

その無限さゆえに有限という壁を感じる定めにあるだろう。

ところが、内に広がる感動の泉は、

小さな時空しか携えてこなかったはずなのに無限を感じる。

 

拡張の先に、自由自在はあるのだろうか。

 

『ロイドの人気者』のハロルド・ロイドは、実に騒がしい。

そして、画面のなかの騒々しさは、静まり返った場内にいろんな「音」を響かせる。

ハロルドが転ぶたびに、落ちるたびに、表情豊かな「音」が聞こえてくる。

 

ラストの「聞こえるはずのない歓声」に、胸の高鳴りが至福で包まれるとき、

もはや音の欠けた世界で展開されている「現実」の方にリアリティが生まれている不思議。

 

『山の王者』の隅々まで雄弁な画は一体、何なのだろう。

現代の色も空間も贅沢にあたえられた映画が歯が立たぬ情報の多さは、

画で物語ろうとする者にとっては感奮必至の至宝ではなかろうか。

いや、情報「量」が多いというよりは、映り込むものの選択と、映り込み方の必然こそが、

「つかみきれぬ世界」の深遠を微塵も矮小することなく、むしろ増幅さえして、魅せ占める。

 

そして、自然の「音」が世界の厳しさを人間に知らしめるように作中に響き渡ったかと思えば、

時折おとずれる、そこはかとない「沈黙」。特筆すべき静謐さを兼ね備えたサイレント。

 

サイレントなのに、騒がしいサイレントと静かなサイレント。

音も色もなく、当然質量なきものが映りこむこともないサイレント映画。

奥へと分け入っていくために、ストイックでゴージャスに展開する銀幕は最高だ。

 

 

『ロイドの人気者』(The Freshman)1925年 監督:フレッド・ニューメイヤー、サム・テイラー

『山の王者』(Eternal Love)1929年 監督:エルンスト・ルビッチ

シネマヴェーラ渋谷「映画史上の名作番外編 サイレント小特集Ⅲ」 8/5(金)迄

 

 


ラスト・ターゲット(2010/アントン・コービン)

2011-07-08 23:47:52 | 映画 ラ・ワ行

 

写真家(主にポートレート)としての名声を築き上げ、

ミュージック・クリップを手がけるなど、音楽界における優れた演出業を経て、

『コントロール』で映画初監督を果たしたアントン・コービン。

一作目はジョイ・ディヴィジョンの故イアン・カーティスを主人公に、彼の内省が

あまりにも美しすぎて痛みがとめどないモノクロの映像で淡々と綴られており、

私は完全に魅了されてしまった。

彼の来歴からすれば余りにも全うすぎる一作目の「つくり」は、

二作目以降の可能性を計り知ることを困難にさせていた気がするが、

今作を観て、アントン・コービンの映画への真摯かつ本気の決意を垣間見、

近い将来に傑作を送り出してくるに違いないような予感を確信するに至ってしまった。

ただ、それ故に(?)本作には不満というか消化不良を随所に感じもしたが、

それをも蔽わんとする作家としての矜持が全体にしっとり漂ってもいた。

 

公式サイト(プロダクション・ノート)の監督インタビューには、

 「これまで35年、ポートレート写真家としてやってきて、

  映画製作は私にとって新たな試みだ。いまだに自分なりの表現方法を模索している。

  本作が『コントロール』に追随する部分と言えば、人生を変えようとする姿勢だろう。

  悪事を働いた人間にどう善行ができるか。

  人はそれまでの自分を形作っていたものを乗り越えられるのか」

といった言葉がある。これは、アントン・コービン自身の人生哲学なのかもしれない。

前作であれほどまで得意とする表現手段を駆使し、高い評価も得た彼は、

本作で意外とも思われるジャンルに手を出し、ジョージ・クルーニーという色のついた俳優を

色のついた映像で、お色気までふんだんに盛り込んで、自らの可能性を開拓しようとする。

そこには逡巡すら顔を出すかのような「落ち着きの悪さ」も漂ってはいるが、

同時に、どの決断にも「語る」喜びや「描く」喜びがあふれている気がする。

 

物語はシンプルで、殺し屋(というよりカスタムメイド銃器制作のプロ?)稼業から足を洗い、

愛する女性との人生を選択しようとした男の宿命的ドラマがイタリア郊外の美しい自然と

歴史的な街並をバックに、きわめて淡々と禁欲的に描かれてゆく。

ジョージ・クルーニー主演で、あの宣材デザインに、あの予告編だったりするものだから、

アクションやサスペンス、スリラー的な展開をどこかで待ち構えてしまいがちだが、

そういった要素がないでもないが、これはあくまで人間の内省と世界の理の

葛藤を描こうとした作品であろうと思うので、そうした見方で臨むべきなのだろう。

 

物語の始まりで、危険から過去から逃れるようにイタリアのアブルッツォに向かう途上、

トンネルのなかを走る主人公のシルエット〈影〉にクレジットが流れ始める。

トンネルを抜けると画面は白一色で覆われて、〈光〉のなかにタイトルが浮かび上がる。

光を避けるようにして生きてきた「暗闇の蝶」(原作の邦題)が、

光の中で一人のアメリカ人(The American[原題])になろうとする物語。

彼が「背負った」バタフライは、飛び立つことができるのだろうか。

そのとき、彼は何を見るのだろうか。

 

 

 


ロシアン・ルーレット(2010/ゲラ・バブルアニ)

2011-06-30 20:15:20 | 映画 ラ・ワ行

 

ゲラ・バブルアニ監督自身のオリジナル作品『13/ザ・メッティ』のリメイク。

オリジナルの方は劇場では見逃して、WOWOWで夜中にウトウトしながら観た気がする。

本作観賞前に観直そうと思いつつも、結局観ないままリメイク版を観賞。

オリジナルはモノクロで、その静謐な質感とストーリーの苛烈さが相まって、

独自の世界観が「雰囲気」を見事に構築していた気がしたのだけれど(寝たクセに)

色がつくことで、アクチュアリティがリアリティを削いでしまう気がした。

モノクロだと、多少の(いざ実際にあったとしたら)詰めが甘いと思われるところも

心地よい「省略」のような気がし出してしまうものの、カラーではそうはいかない。

「そこでこうしないのかよ?」「なんでそこであきらめちゃうのか!?」「テキトーだなぁ」

みたいなツッコミどころ満載の、ザル組織・ザル企画。あれじゃ、とっくに検挙だろ・・・

しかし、そこは警察も無能と言うかやる気ないというか、どいつもこいつも抜け過ぎで。

だから、死ぬかも殺すかもしれない緊張感は突発的に高まろうとも、

全体を支配する緊迫感が欠如するため、展開するたびに興奮も中断。

 

きっと誰もが思うことだろう豪華キャストの無駄遣いも、驚くほど見事(笑)

特にミッキー・ロークなんて、実は本人じゃなかったんじゃないかって思うほど。

本筋に絡んでこずに、華を添えようとしたオプションにしか過ぎない存在。

『アイアンマン2』にしても、『エクスペンダブルス』にしても、ミッキーは『レスラー』以後、

あのハマりぶりが逆に彼のキャラを演る側も観る側も束縛し始め、不自由な気もする。

 

同じくエクスペダブルス組のジェイソン・ステイサムは、いつもは「動」の人なのに、

本作ではアクションらしいアクションはほとんどないので、観ようによっては「新鮮」だけど、

彼じゃなきゃならぬ必然性が最後まで感じられなかったから、演出も演技もイマイチと独断。

彼もやはりイメージが随分固定しちゃってるから、そろそろ脱皮作が必要なのかも。

 

そして、主演のサム・ライリーは、相変わらず悩める演技が得意なようで、

今回の役どころはマッチしていたとは思うけど、如何せん運頼みなキャラクターだし、

実際も運頼みだけで終ってしまっているわけで、彼の葛藤や煩悶にシンクロし難いのも事実。

ただ、感情移入しやす人物造形(基本善人な小市民で、知能指数も平均的な感じ)なので、

彼の立場に身を置きながら、殺るのも殺られるのも厭で仕方ない気持ち位は共有できる。

 

サム・ライリーは良い役者(になる)と思うけど、『コントロール』以来パッとしない気もする。

昨年のTIFFコンペ作『ブライトン・ロック』でもなかなか好かったけど、作品自体がやや弱く

(とはいえ、結構いろいろ見どころはあった・・・劇場公開はないのだろうか?)、やや不発。

今年公開予定の『On the Road』(ケルアックの『路上』!)で主演しており、

監督はウォルター・サレス(『セントラル・ステーション』『モーターサクル・ダイヤリーズ』)なので

いよいよ第二の代表作誕生の予感に期待が高まるところ。

共演陣も強力で、なんと二人のKristen女優(クリステン・スチュアートとキルステン・ダンスト)

にエイミー・アダムスまで出演と、絶好調女優が総出演といった豪華さ。

おまけに、ヴィゴ・モーテンセンまで出る!こりゃ、楽しみすぎる。

 

さてさて、『ロシアン・ルーレット』に話を戻すと、

キャスト無駄遣い映画に抗うように、マイケル・シャノンはしっかり怪演しておりました。

先日観たヘルツォークの映画でも、エッジの効いた存在感でさすがの役割完遂で、

本作における停滞や凡庸を束の間ブレイクしてくれる、貴重な存在。

彼にもそろそろ決定的な代表作と出会ってもらいたい。

 

ヴィンスは、決勝以外は必ず後ろを振り向いて、後ろの参加者を見つめていたけれど、

あれは「ためらい」を誘っているのだろうか。実際にそれで救われたっぽい描写もあったが、

最初に注意されたのに・・・おまけに、その後には注意しないジャッジって・・・

 

監督の主義信条がどういったものか知らないが、

ハリウッド映画にありがちな「運命論」的展開に陥らなかったのは爽快かも。

神の存在やら運命やらをやたら持ち出したり、それで説明しようとする姿勢がないので。

本作も、結局「運命」が登場人物たちの物語を描くわけでなく、「運」が導く描き方。

ラストも、思いやりある「善行」が救いを喚ぶことなく、むしろ悲劇を生む皮肉。

その上、悲劇をもたらす人間にすら手痛い仕打ちを用意しているあたりは、

ハリウッドで撮ったにも関わらず、なかなか頑張ったなぁと感心したり。

出資者たちは、あれを「ハッピーエンド」と捉えたのだろうか。

ま、そうともとれるし、「その後」を想像すればどうとでも読めるし、

その辺はなかなか興味深い終り方だけれど、100分以内のくせして

いまいち「タイト」な印象に欠ける作品ゆえに、「ここで終わりかよ」と思わせる印象も。

やっぱり、ミッキー・ローク出さず、彼のドラマとか割愛しちゃって(あのパートが好いって声も

ありそうだけど)、ジェイソン・ステイサムの役はむしろ活躍しそうにない役者に廻して、

サム・ライリー中心に一気にかけぬけ、最後は「あれよあれよ」な印象で。

って、あくまで自分の好みでカスマイズ妄想してみたまで。

 

音楽は雰囲気醸し出してたけど、

冒頭から『ハートロッカー』かよ・・・と丸わかりな、マルコ・ベルトラミ。

彼のスコアは好きだけど、あまりセルフ流用繰り返してると

(一時期のジェームズ・ホーナーみたいに)飽きられるから、

要注意ですよ。(余計なお世話)

  

 


わたしを離さないで(2010/マーク・ロマネク)

2011-03-30 23:56:52 | 映画 ラ・ワ行

 

原作のある映画を観る場合、以前は必ず映画から入るようにしていました。

といっても、映画を観てしまうと、原作を読むことはほとんどなかったのですが。

最近は、なるべく原作を読んでから映画を観るようにしています。

それは、映画の制作者が「何を描きたいか」を考えるとき、

原作との比較から見えてくることがあるし、たとえ映画に違和感をおぼえたとしても、

それが新たな観点から原作を照射する契機となり、原作の理解を深めてもくれるからです。

何度も映画化されているような原作や、クラシックにもなっている有名原作であるならば、

その名声や豊かな信頼ゆえの困難は伴う一方、大胆な脚色や独自の解釈も可能でしょう。

その点、同時代のベストセラーを映画化するとなると、映画自体の評価には必ず、

原作の改変を歓迎しないであろう原作愛読者の視点が盛り込まれる宿命を負うことでしょう。

それゆえに、大胆な改変が困難であるものの、

どんなに忠実に再現しようとも微細な齟齬に敏感に反応されるであろう事態も予測され、

不敵な主観か、奉仕の客観かの狭間で作り手は揺れるのではないでしょうか。

そして、そうした微妙な戸惑いは受け手の場合にも観る前から用意されており、

観ている間じゅう逐次「確認する」ような視線で見定めようとする審判になってしまうものです。

 

本作を観る直前に原作を読んだわたしは、まさにそのような眼で終始観察してしまいました。

そのため、観賞直後には戸惑いやぼんやりとした失望(喪失感)に苛まれたのも事実です。

しかし、観賞ではなく観察であるがゆえに観ながら味わえなかった機微が、

後からじんわりと溢れ出て来るようなところもあり、

少しずつ一本の映画としての振り返る距離を獲得しつつあります。

この映画は、カズオ・イシグロ原作の映画化というよりも、アレックス・ガーランド脚色作

というかカズオ・イシグロ原作のアレックス・ガーランドによる翻案作(もうひとつの原作)を

マーク・ロマネク的な方法論で映画化した作品として観るべきであるような気がしてきました。

 

原作は、「カズオ・イシグロ初のSF」と評されることも多いのですが、

設定こそSF的要素をもつものの、物語は主人公キャシーが回顧しながらゆったりと進行し、

描写の中心もあくまで人間模様。しかも、淡々と静かに精緻な描写が積み重ねられてゆく。

しんしんと降り積もる雪が知らぬ間にとり返しのつかない深さになるような悲しみ。

だから、100分ほどで一気に展開される映画のなかに、そうした「時間」は見出せません。

原作で多くの語りを費やされているヘールシャムやコテージでの時間が数場面に短縮され、

場所も時間もあっさりとした飛躍で変化してゆく序盤の展開に、最初はやはり戸惑いました。

しかし、それは原作がもつテーマを別のアプローチで表現しようとしからではないでしょうか。

原作では「過去(想い出)のなかで生きようとする人間」の幸福が、悲哀につつまれながらも

変わらぬ美しさを求め続ける希望として、描かれていたような気がします。

映画においては、そうした過去に生きるしかない人間(映画の冒頭で、「わたしたちが

見られるのは、forward ではなく back だけ」というキャシーの述懐があったと思う)の

寄る辺なき閉塞感をこそ描きたかったのではないでしょうか。

そのためにも、甘く美しい時間は瞬く間に消え去って、

「完了」を待つことしかできない日々が一気に押し寄せてくる必要があったのかもしれません。

 

アレックス・ガーランドが描いてきた世界は、『ザ・ビーチ』や『28日後…』など、

「皮肉な終末」がいずれもモチーフとなっている気がします。

やがて来る未来や、近未来という想定に設定することなく、

SF的皮肉や警鐘が散りばめられている世界。

それは本作の原作にも共通します。

 

カズオ・イシグロはなぜ時代を未来に設定しなかったのでしょうか。

それは、「起こるかもしれない」世界ではなく、「起きている」世界

あるいは「起こってきた」世界として提示したかったからなのではないでしょうか。

科学技術が人間の尊厳を脅かす歴史は、科学技術が人間の欲求に応えるたび、

繰り返されてきました。だからこそ、「まだない」設定で推測されるより、

すでにあった「事実」として振り返る(後悔する)とする視点の獲得を

読者に求めたように私は思います。

 

小説では、あくまでパーソナルな問題として内省的な語りで淡々と事実が提供されます。

しかし、映像という俯瞰の宿命を負ったメディアにおいて、その語りは困難です。

そのかわり、よりパブリックな問題として提起するかのような描写が随所に見られます。

それは、キャシーの独白ゆえにキャシーが見ていても気づかなかっただろうことや

キャシーが直接目にすることはなかっただろうが実際に行われていたことを提示します。

例えば、キャシーたちが乗り込むワゴンにある「ナショナル・ドナー・プログラム」の文字。

例えば、臓器をとりだされて完了したルースがモノとして当然のように放置されるオペ室。

それらはある意味、小説では描けない(描きたくない)ビハインドな事実であり、

読み手にとってはそここそが小説のそこはかとない悲哀をうみだしていたように思います。

しかし、キャシーから見たトミーとルース、あるいはキャシーからみた「世界」ではなく、

あくまで観客から見た三人、観客から見た「世界」のなかの彼らを描かれる映画では、

排除される側に身をおくべきではなく、排除する側の視点を獲得すべきなのでしょう。

わたしたちはあくまで、提供する側ではなく、提供の恩恵をむさぼる立場なのですから。

だからこそ、残酷なまでに美しい映像もメロディーも、同情の涙を一切許しません。

彼らと感情を同じくすることなどできはせず、sympathy(共に苦しむこと)はかないません。

原作では、介護人に留まっているキャシーに、トミーが「提供者の苦しみはわからない」

と告げる場面があります。彼らの間ですらそうなのです。

「わかる」と思うことが既に隠蔽への第一歩なのです。

 

ほんのわずかな部分をのぞいて、小説も映画も静謐な美しさで満ち満ちた作品です。

しかし、それは世界が美しいからではありません。

美しく保とうとした結果として有る世界だからです。

キャシーもルースもトミーも、ヘールシャムだって、皆ほんとうに美しい。

しかし、それは隠蔽されなければならない。彼らが醜いわけでもないのに隠蔽されるのです。

彼らのなかに醜悪さが見えずとも、彼らを生み出した人間の醜悪さを見たくないから。

「われわれ」の規格に同化できない「異なるもの」を収容する場であった監獄はもはや

「同じもの」すら閉じ込める場へと変貌しようとしているのかもしれません。

死という事実も、死がわたしたちを離れさせる悲しみも、同じだというのに。

いや、死から逃れることばかり考え、死の奴隷と化した人間よりも、

逃れがたい死を覚悟しながら、死を受け容れようと苦悩する彼らのほうが、

よっぽど「人間らしい」のかもしれません。