原作のある映画を観る場合、以前は必ず映画から入るようにしていました。
といっても、映画を観てしまうと、原作を読むことはほとんどなかったのですが。
最近は、なるべく原作を読んでから映画を観るようにしています。
それは、映画の制作者が「何を描きたいか」を考えるとき、
原作との比較から見えてくることがあるし、たとえ映画に違和感をおぼえたとしても、
それが新たな観点から原作を照射する契機となり、原作の理解を深めてもくれるからです。
何度も映画化されているような原作や、クラシックにもなっている有名原作であるならば、
その名声や豊かな信頼ゆえの困難は伴う一方、大胆な脚色や独自の解釈も可能でしょう。
その点、同時代のベストセラーを映画化するとなると、映画自体の評価には必ず、
原作の改変を歓迎しないであろう原作愛読者の視点が盛り込まれる宿命を負うことでしょう。
それゆえに、大胆な改変が困難であるものの、
どんなに忠実に再現しようとも微細な齟齬に敏感に反応されるであろう事態も予測され、
不敵な主観か、奉仕の客観かの狭間で作り手は揺れるのではないでしょうか。
そして、そうした微妙な戸惑いは受け手の場合にも観る前から用意されており、
観ている間じゅう逐次「確認する」ような視線で見定めようとする審判になってしまうものです。
本作を観る直前に原作を読んだわたしは、まさにそのような眼で終始観察してしまいました。
そのため、観賞直後には戸惑いやぼんやりとした失望(喪失感)に苛まれたのも事実です。
しかし、観賞ではなく観察であるがゆえに観ながら味わえなかった機微が、
後からじんわりと溢れ出て来るようなところもあり、
少しずつ一本の映画としての振り返る距離を獲得しつつあります。
この映画は、カズオ・イシグロ原作の映画化というよりも、アレックス・ガーランド脚色作
というかカズオ・イシグロ原作のアレックス・ガーランドによる翻案作(もうひとつの原作)を
マーク・ロマネク的な方法論で映画化した作品として観るべきであるような気がしてきました。
原作は、「カズオ・イシグロ初のSF」と評されることも多いのですが、
設定こそSF的要素をもつものの、物語は主人公キャシーが回顧しながらゆったりと進行し、
描写の中心もあくまで人間模様。しかも、淡々と静かに精緻な描写が積み重ねられてゆく。
しんしんと降り積もる雪が知らぬ間にとり返しのつかない深さになるような悲しみ。
だから、100分ほどで一気に展開される映画のなかに、そうした「時間」は見出せません。
原作で多くの語りを費やされているヘールシャムやコテージでの時間が数場面に短縮され、
場所も時間もあっさりとした飛躍で変化してゆく序盤の展開に、最初はやはり戸惑いました。
しかし、それは原作がもつテーマを別のアプローチで表現しようとしからではないでしょうか。
原作では「過去(想い出)のなかで生きようとする人間」の幸福が、悲哀につつまれながらも
変わらぬ美しさを求め続ける希望として、描かれていたような気がします。
映画においては、そうした過去に生きるしかない人間(映画の冒頭で、「わたしたちが
見られるのは、forward ではなく back だけ」というキャシーの述懐があったと思う)の
寄る辺なき閉塞感をこそ描きたかったのではないでしょうか。
そのためにも、甘く美しい時間は瞬く間に消え去って、
「完了」を待つことしかできない日々が一気に押し寄せてくる必要があったのかもしれません。
アレックス・ガーランドが描いてきた世界は、『ザ・ビーチ』や『28日後…』など、
「皮肉な終末」がいずれもモチーフとなっている気がします。
やがて来る未来や、近未来という想定に設定することなく、
SF的皮肉や警鐘が散りばめられている世界。
それは本作の原作にも共通します。
カズオ・イシグロはなぜ時代を未来に設定しなかったのでしょうか。
それは、「起こるかもしれない」世界ではなく、「起きている」世界
あるいは「起こってきた」世界として提示したかったからなのではないでしょうか。
科学技術が人間の尊厳を脅かす歴史は、科学技術が人間の欲求に応えるたび、
繰り返されてきました。だからこそ、「まだない」設定で推測されるより、
すでにあった「事実」として振り返る(後悔する)とする視点の獲得を
読者に求めたように私は思います。
小説では、あくまでパーソナルな問題として内省的な語りで淡々と事実が提供されます。
しかし、映像という俯瞰の宿命を負ったメディアにおいて、その語りは困難です。
そのかわり、よりパブリックな問題として提起するかのような描写が随所に見られます。
それは、キャシーの独白ゆえにキャシーが見ていても気づかなかっただろうことや
キャシーが直接目にすることはなかっただろうが実際に行われていたことを提示します。
例えば、キャシーたちが乗り込むワゴンにある「ナショナル・ドナー・プログラム」の文字。
例えば、臓器をとりだされて完了したルースがモノとして当然のように放置されるオペ室。
それらはある意味、小説では描けない(描きたくない)ビハインドな事実であり、
読み手にとってはそここそが小説のそこはかとない悲哀をうみだしていたように思います。
しかし、キャシーから見たトミーとルース、あるいはキャシーからみた「世界」ではなく、
あくまで観客から見た三人、観客から見た「世界」のなかの彼らを描かれる映画では、
排除される側に身をおくべきではなく、排除する側の視点を獲得すべきなのでしょう。
わたしたちはあくまで、提供する側ではなく、提供の恩恵をむさぼる立場なのですから。
だからこそ、残酷なまでに美しい映像もメロディーも、同情の涙を一切許しません。
彼らと感情を同じくすることなどできはせず、sympathy(共に苦しむこと)はかないません。
原作では、介護人に留まっているキャシーに、トミーが「提供者の苦しみはわからない」
と告げる場面があります。彼らの間ですらそうなのです。
「わかる」と思うことが既に隠蔽への第一歩なのです。
ほんのわずかな部分をのぞいて、小説も映画も静謐な美しさで満ち満ちた作品です。
しかし、それは世界が美しいからではありません。
美しく保とうとした結果として有る世界だからです。
キャシーもルースもトミーも、ヘールシャムだって、皆ほんとうに美しい。
しかし、それは隠蔽されなければならない。彼らが醜いわけでもないのに隠蔽されるのです。
彼らのなかに醜悪さが見えずとも、彼らを生み出した人間の醜悪さを見たくないから。
「われわれ」の規格に同化できない「異なるもの」を収容する場であった監獄はもはや
「同じもの」すら閉じ込める場へと変貌しようとしているのかもしれません。
死という事実も、死がわたしたちを離れさせる悲しみも、同じだというのに。
いや、死から逃れることばかり考え、死の奴隷と化した人間よりも、
逃れがたい死を覚悟しながら、死を受け容れようと苦悩する彼らのほうが、
よっぽど「人間らしい」のかもしれません。