映画に関する情報を事前に皆無に等しいほど持たぬまま、
暇つぶしに(失礼)観た映画。したがって、何の予測も何の期待もせぬまま観賞。
それが好かったのか、純粋にハマったのか、これが意外にも「いい映画」だった。
そんな物言いをしてしまうのも、帰宅後に関連記事とかに目を通してみると、
そりゃぁもう本国じゃ「酷評」「失笑」「罵声」の嵐な様相呈し、こんなんハマるのは
『トワイライト』大好き(だから、ロバート様LOVE!!)な女子限定だろ的結論炸裂散見。
え?俺、結構じんわり来ちゃったんですけど・・・もしかして、俺って・・・ヴァンパイア?(笑)
「ハリー・ポッター」シリーズも早々に脱落してしまった俺にとって、
ロバート・パティンソンは『トワイライト』で苦悩し続けるヴァンパイアというイメージしかなく、
それすらも2作目が個人的には全く面白くなかったので、それっきりだし、
興味も情報もそもそもなくて・・・とんでもないギャラをもらう富豪級青年とは・・・
じゃなくって、キャーキャー言われながらもしっかり自らのキャリアの形成に
能動的に関わろうって姿勢に好感。そう、彼は本作のエグゼクティブ・プロデューサー。
何でも、無名新人の脚本に惚れこんで(『トワイライト』でのブレイク前から)、
自ら製作を請け負って映画化にこぎつけたとか。ハリウッドじゃ最終的な編集で
創作的芸術的文学的観点などが度外視されることも日常茶飯事みたいなようで、
それは悲惨とは思うけど、その分「だったら自分で権利を守る」という自警団的精神(?)が
芽生えもし、プロデューサーを務める(自らが出資もして製作にあたる)俳優が
本当に近年多いが、そうした先輩達の姿勢を早くも見習い試すとは、頼もしすぎる25歳。
おそらく本国の異様なフィーバーぶりとは無縁な空気のなかで暮らしていると、
ロバート君を色眼鏡でみることもなく、「人間」やってる彼を素直に新鮮に見守れもした。
おまけに、脇を固めるのが手堅い面々。それこそが「観てもいいかな」(偉そう)と思った所以。
『マンマ・ミーア』での「のど自慢」でキャリアに暗雲たちこめるも、何とか持ち直しつつりそうな
ピアース・ブロスナンが、ロバート君の父親役。青二才に演技の真髄教えんとばかりに熱演。
母親役には、レナ・オリン(ラッセ・ハルストレムの妻でもある)。
(本作では母親の存在はあまり前面に出てはいけない感じの物語だが、
不在感が際立っても不自然だったりする)微妙な役どころをさりげなく演じる余裕の貫禄。
おまけに、クリス・クーパーが出てるなら、観ないわけにはいきませぬ。
あんなに神経逆撫でしてくれる個性的な顔もなかなかいない。
俺の中では「山椒」的な味わいの役者。(それだけでは味わいたくないけれど・・・みたいな)
タイラー(ロバート)父の秘書(?)を演じるケイト・バートンがなかなか好い味出していて、
調べてみるとテレビの仕事が多いみたい。しかし、なんと『127時間』にも出演していた!
主人公アーロンの母親役!って、わかるかーいっ!?
電話の声と、ラストのファミリー勢揃いシーンだけだろ・・・でも、再見時の確認、楽しみ。
タイラーの友人役のテイト・エリントンは舞台出身のようで、
近年インディペンデント映画に出始めたらしいのだが、一本調子な主演二人の
やや冗長で停滞気味な演技を巧く補完してくれる、極めて優秀な「アクセント」。
今後は脇役では勿論、ハマり役で主演とかできればブレイクしそうな予感もおぼえるくらい。
そして、本作で最も観客の心をつかむのは、タイラーの妹役を演じるルビー・ジェリンズ。
憎ったらしさ直前の「こまっしゃくれ」具合はなかなかユニーク。
いじめられっ子役なのだが、「こいつならイジメる(笑)かもな」と思わせつつ、
でも「可哀想かも」とも思わせられる稀有オーラ。
「大女優」になるか、「鼻持ちならぬビッチ」になるか、二者択一な将来予想。
(『(500)日のサマー』でも年の離れた兄妹[しかも、ダメ兄貴]登場してたけど、流行?)
というわけで、本作の見どころはキャスト各々の丁寧な演技とそのアンサンブル。
おそらく、ロバートの将来を気遣っているかのような老婆心未満なベテランの配慮と、
作品の酷評運命を覚悟しながらも自らの務めを真摯に果たそうとしているかのような気概が、
どう観たって「ありきたり」のパッチワークを力技で「ユニーク」たり得ようとする脚本に、
優しい息吹を吹き込んであげたかのような、不思議な作品。
本国ではとにかく「サイアク脚本」との声が多いみたいだが、それらは大抵、
各キャラクター設定の必然性欠如や各シーンの既視感、展開の破綻などを指摘する。
しかし、ひとたび「好意スイッチ」ONにもなれば、結構どこまでも擁護できたりするぞ(笑)
というわけで、Rottenで「Fresh」が3割を切る本作を、意地でも評価してみるぞ!
と、そのまえに。
本作は、ラストの展開にちょっとした仕掛け(?)があって、
それまでも十分(俺は)味わいがあったのだが、
最後の展開によって浮き彫りになってくることも多いと感じた。
ただ、それを「蛇足」だとか「悪趣味」だとか感じる人も大半なようで、
そういうのが大好物な人、もしくはゲテモノ食い上等!!!な人は、観る価値あり。
もしくは、そういうところは別として、そもそもこういうタイプのおはなし好きよという人で、
青春のほろ苦さとか痛さ(こっちがメイン)を恥ずかしさ全開で見守るの嫌いじゃない
という方は、本作を観てみても好いかもしれません。という注意書き(警告?)した上で、
これからは「あたかも傑作かのよう」な勢いで書きたいと思います!免責確認終了(笑)
で、「よっしゃぁ観てみてやるか!」となった愛しき(あくまで、to me)映画ファンの方々は、
これ以降、結末含めネタバレ全開で語りますので、観賞後に再びお越しくださいませ。
主人公タイラーの父親は敏腕弁護士(しかもデカい事務所経営もしている模様)で、
母親は父とは離婚するも再婚し、それなりに幸せそうで美貌を保ち、
年の離れた妹は絵の才能に恵まれつつも、学校ではボーっとしがちなせいかイジメの標的。
とりあえず過去の色んなフィクションから「ドラマ」発生装置を借りまくってきちゃったよ・・・
的に、確かに見える。おまけに、「復讐」目的で口説いた女を当然本気で好きにもなり、
お約束のバレて、ポシャって、戻って落着。しかも、彼女にも自分と同様に不幸な過去が・・・
そんな手垢重層展開を、大真面目にやっちゃう迷いのなさ。稚拙と言うより、潔い!爽快!
って、そこじゃなく(それもあるけど)、そうした設定や構造とラストの展開はそれなりに
(いや、きちんと?)リンクしてるようにも思うのです。
例えば、「大切なひと」を失う二つの家庭の父親は、弁護士と警官。
つまり、いずれも「法の番人」的というか、法治国家における法の執行を司る存在。
そうした彼らから「大切なひと」を不意に奪うのは、理不尽で無情な運命。
(テロに見舞われた法治国家が採るべき道は?的メタファー込めた?)
しかし、その後の彼らの生き方は、似て非なるものでもである。
アリーの父(クリス・クーパー)は、手荒な仕事ぶりで、やさぐれ風情が漂いながらも、
喪失感を娘と共有し、多少干渉過多気味ながら、賢く凛とした娘に育て上げた。
対するタイラーの父(ピアース・ブロスナン)は仕事こそ成功を維持し続けて、
地位も見た目も高級そのもの。しかし、家族とはずっとギクシャク。
喪失感を家族で共有できずじまい。ということは、穴はぽっかり空いたまま。
空いた穴は容易く埋まりもしなければ、結局空いたままかもしれない。
しかし、その空隙とどう向き合うか、それをどう捉えるか、
それは「その後」を生きる人間にとって、避けては通れぬ主要なテーマ。
勿論、アリーも彼女の父も、喪失の悲しみを忘れたわけでも解決できたわけでもない。
それを無理矢理「抑圧」しながら生活してきたところも否めない。
しかし、彼らは喪失感を憎悪で埋めたりせずに、愛で塞ごうと試みた。
アリーは懸命に勉強し、ソーシャルワーカーといった明確な目標をもつ。
犯罪と闘いながら、他者の喪失感を防いだり、少しでも埋めようとすることで、
犯罪への憎悪を「昇華」させようと努めるのだろう。
アリーの父は、妻への想いを、あるいは母親の分まで、娘への愛を注ぐ。
それがせめてもの「贖罪」かのように。
しかし、タイラーの家庭においては、マイケル(タイラーの兄)の喪失感は、
向き合うことも、まして共有されることもないように見える。
墓参り後の食事の席でも、故人を懐かしむ話すら穏やかにできぬ。
再婚という再出発を果たした母は、ある程度の清算を済ませもしたが、
引きずるどころかどっぷりハマり込んだまま、悲劇性に酔いしれるかのようなタイラーは、
不幸の責任をすべて父親に転嫁して、そんな憎悪がアイデンティティと化しつつある。
つまり、彼は喪失感を憎しみで埋めようと躍起になっているかのようだ。
あまりにも短絡的な反抗や、きわめて幼稚な激昂も、
「被害者」側にもたらされた喪失感からうまれる憎悪なんだから、
俺の痛みも知らない(俺と同じ目に遭ってない)奴に、責めたりされる謂れはない!
そんな子供じみた言い訳が、今にも聞こえてきそうなオーラ。
同情するのも疲れ始めたかのような周囲の友人や家族。
もはや、自分で気づくしかない。(※)
ラストに訪れる9・11の惨劇は、まさに巨大な喪失感をアメリカ国民にもたらした。
その空隙を埋めるかのように高まった、強大な憎悪。それを発散させるための、(仮想?)敵。
まさにタイラーそのものとも言えなくない。父親の(PCの)スクリーンセイバーを観たそのとき、
「大量破壊兵器」などやっぱりなかったんだと気づくタイラー。なんて言ったら穿ちすぎ!?
冒頭の「正義のヒーロー」気取り(でも、暴力に訴える)な姿勢とか、どこか重なる気もしたり。
まぁ、そこまでダブらせなくとも、ラストに待ち受ける喪失感は、
一故人に対する哀悼のみならず、もっと壮大なものでもあったはず。
いや、違う。直接の「喪失」を被った人に、社会的喪失感など無意味かも。
それは、先の震災で「何万人もの命が喪われた」という規模による事実の把捉が、
誰かを失った個人にとっては空虚にしか響かないであろうことと似てるかも。
より抽象的な社会的喪失感が攻撃性を産みもするのに対し、具体的な個人の喪失感は?
受け容れつつも忘れずに、克服しようとする周囲の人々。
そんな彼らを静かに描く。単位を落としては教官に泣きついていた友人は真剣に聴講し、
娘のイジメ解決に学校訪れる母。そして、娘の才能伸ばすべく美術館を共に訪れる父。
そして、トラウマの出発点でもある地下鉄に乗り込むアリー。
二人の故人を再び(Re)記憶(memory)にとどめつつ、静かな決意の優しき表情。
喪われた存在を、残された者はどう捉えてゆけばよい?
故人を見舞った運命が、どんなに理不尽だったとしても、
彼らが望むせめてもの、願いはきっと「リメンバー・ミー」。
時には、再び、心にかけて。そっちじゃなくて、こっちを向いて。
憎しみを膨らませて「敵」を睨みつけたりするのじゃなくて、
僕が何を思っているか、耳をすましてほしいんだ。
タイラーが兄マイケルから長らく受け止められなかったメッセージ。
それは、マイケルを奪ったと思い込みたい「原因」(父の傲慢さ)を敵視する余り、
マイケルを悲劇と結びつけることしかできなくなっていたからでもある。
しかし、タイラーの拘った「悲劇」とは、実はマイケルの悲しみに拠るよりも、
自らの悲しみに起因する。結局、自分を見舞った「悲劇」。
アリーと父の「不運」と違う(マイケルは自ら命を絶ったから)のは、
皆が「何かできたかもしれない」という後悔に苛まれつづけてしまうこと。
それを揉み消すために、過去と向き合わなかったり、過去に固執してみたり。
同じ轍を踏まいと父は、次男に自分をぶつけない。
父が兄を追いつめた、その憎しみを支えにしては、自分の無力さ見ない次男。
しかし、そんな父子が向き合って、互いの内側知ったとき、そこには同じ祈りがあった。
彼らの衝突において、暴力は行使されていない。
会議中に怒鳴り込んだタイラーに、周りは席を外そうとするも、
タイラーの父は「その必要はない!」と不自然なまでに彼らを引き止める。
結局、二人は互いに殴りかかろうともするが、周囲がすかさず止めに入って戦争抑止。
そこに「理解」がうまれたわけでもないが、感情(拳ではない)がきちんと衝突すれば
(対峙すれば)、互いの内面を「知る」ことできて、互いの行動を解ろうとし始める。
妹の学校でイジメっ子たちを威嚇するタイラーの「愚行」。
これまでならただの「ろくでなし」として見なしたであろう父親は、
タイラーの行動をうみだす内面を推し量り、自らも行動する決意を語る。
そうして噛み合ってきた関係は、彼らが「向き合う」ことを許容する。
父は娘と、そしてタイラーは父と。父のパソコンに映し出される家族への想いを知るタイラー。
そうして彼は漸く、マイケルを失った自分でなくて、この世を去ったマイケル自身と
向き合い始めもしたのだろう。画面に映し出されたマイケルの写真と、
画面に映ったタイラーの顔が重なって見えたその直後・・・
彼はこの世を去る運命に。
ツインタワーの姿はあたかも、マイケルとタイラーを思わせる。
そして、画面に彼らの「崩壊」は映らない。あくまで凛と立ってる姿。
それを「記憶」にとどめ、そんな彼らを愛し続ける、遺された者たち。
それは決して、憎悪への端緒としてではなく。
タイラーの声で語られるラストの一説は、それを静かに確認する。
「愛」(I love you)は「哀」(I miss you)であるけれど、「赦し」(I forgive you)も齎しうるものと。
「forgive」とは元来「for(完全に)」+「give(与える)」という意味らしい。
なるほど、喪失感を埋めるのは、確かに「forgive」なのかもしれない。
◆確かに、事象が事象なだけに、傷もまだまだ癒え難い悲劇なだけに、
それをこのように「利用した」(ように捉える人が多いのも解る気がする)作劇には、
怒りを覚える人や、軽率に感じる人も少なくないのだろう。特に、アメリカにおいては。
しかし、一方で、そうした傷口癒そうと、別の世界で傷口広げ続ける現実もあるわけで。
そうした意味では、積極的に評価しようとする姿勢があっても好いとは思う。
米国の批評家のなかには、そうした擁護派もいるようで、安心。
◆こんだけ叩かれまくった脚本家君の将来がちょっと心配。とか思ったりしていると、
俺が本作を評価(というより擁護?)してるのが「判官贔屓」なメンタルからか!?
と思えて来てしまう。でも、結構細かいところまで丁寧につくられてると思うんだけど。
例えば、ヒロインとか、オープニングで殺される彼女の母親の面影バッチリ垣間見られるし。
母親の方をアリー役のエミリー・デ・レイヴィンに合わせてキャスティングしたんだろうけど。
そういう説得力が、(個人的には)それほどキュートにみえないエミリーであっても、
感情移入を容易にさせてた気がする。
ちなみに、俺が最も感心したディテール(?)は・・・
冒頭の方で、妹からモーニングコールもらって受話器をとろうとしたときに、
Tシャツからのぞいたロバート・パティンソンのたるんだ腰周り!
あの微妙な「でっぷり」感が、タイラーの荒み具合を何よりも物語り、
ロバートのやる気というか本気を垣間見た。
◆タイラーの焦燥感を増幅させるのが、兄の年齢を追い抜くという事実。
それは、兄の死がより現実味を帯びるという意味もあるだろうが、
自らがしっかりと「別の道」を歩めているという自信が持てぬ不安と、
「別の道」を歩く寂しさへの抵抗などが交錯する複雑な想いもであるだろう。
更に、ガンジーは22歳で子供が3人いたし、モーツァルトは22歳で33の交響曲を書いた。
(バディー・ホリーは22歳で死んだ、とも)という事実を確認し、自らの空虚さ思い知る。
そうした感覚、わかる人(とりわけ不甲斐なさがパートナーな男子全員)には身にしみる。
実際、「すげぇー」って思った作品をその人が何歳でつくったかという事実を知る恐怖。
死んだ兄の年齢を追い越すとき、兄が大きさ感じるままか、兄が小さくなってしまうのか・・・
いやぁ、本当複雑だろうなぁ・・・とかしみじみ思って、思うツボ(笑)
でも、結局兄と同い年(でも数日年老いてはいるものの)で亡くなるんだよなぁ・・・
◆序盤における、大学の授業シーン。
まだ、アリーと知り合う前のタイラーも聴講している授業のテーマは、テロの起源?
「倫理(ethics)」についての議論を始める教官に、アリーは「道徳(moral)」がより重要では
と問うてみる。これは、明らかにラストへの伏線にもなっているが、と同時に、
「ethics」と「moral」の関係についての二者の齟齬に、作者の意図を感じもする。
アリーも指摘するように、「ethics」は社会通念としての了解に基づく集団の規範であり、
「moral」はより個人的な規範(宗教的な意味合いも強いらしい)である。
教官が促した「ethics」に拠れば、それこそ「報復」といった結論が生み出されかねない。
なぜなら、ある社会における通念において、ある行為を「悪」とみなす基準や根拠は
「ethics」で、それはテロを生みだした「ethics」と中身は違えど構造は似通っていたりする。
だからこそ、より個人的な正義(その場合、一元化を図る思考は薄れ、多様性に寛容で
あろうとする発想が芽生えもしそうである)である「moral」を論じるべきではないか。
また、そもそも「宗教対立」といった根底にある現象に目を瞑り、社会科学的な論法で
明快な説明を期待しようとするような「ethics」に疑問を差し挟んだようにも思う。
つまり、宗教の対立を考えるならば、「そもそも信仰とは?」という根本的な哲学の
確認から始めなければならないだろう、というかのごとく。
そうすると、タイラーに最初声をかけられたとき、
アリーが「社会学を専攻する人とは付き合えない」と言うのもわかる気がする。
※冒頭でタイラーの友人が、一緒に留置所に入れられた際、
「おまえは聴講生だから好いけどなぁ、俺は困るんだよっ!」と言い放つ。
そして、タイラーとは不仲にあるのを知ってる父親に(自らの釈放のため)連絡した、と。
その段階で観客は、「薄情な奴だなぁ」と思いもするが、うじうじタイラー観続けてくと、
あれも友人なりの「喝」に思えてくる。それに、もしかしたら「父親との対話」の機会を
あえてセッティングしようとしたともとれる。そう考えられもする、その後の彼の思いやりは
そこそこ丹念に描かれもする。傷心の友人を、(あろうことか)『アメ・パイ2』に連れてって、
ツレない友人の表情覗き見したりするとこなんて、ベタだがグッときちまった。
彼の優しさは、荒療治に通ず(笑) もしかしたら、タイラーの自棄暴走が
踏みとどまれたのも、彼のような友人の存在があったからかもしれない。
「汚ねぇ手で、俺の妹の手を触るんじゃねー」とかタイラーに言われたりもする。
タイラーが普通の若者でいられるように、自らのキャラ設定をしっかり解した振る舞いで、
俯きがちなタイラーに、ちょっとでも「重力」から解放してやろうって顧慮に充ち満ちる。
◇時代設定を印象付けるための助走なのか、
アメパイ第2作(『アメリカン・サマー・ストーリー』という妙な邦題ついている)を
観に行くシーンが出てくるが(これが、本作のワンシーンかのように非映写状態で
映るもんだから一瞬ドッキリ・・・ってか、何で2001年のアイコンが『アメパイ2』!?
と不思議に思ったが、トワイライト2作目の監督であるクリス・ワイツはアメ・パイ創始者
かつシリーズずっと製作指揮してるんだよな。ってか、いまだにアメパイが続いてたとは・・・
来年には新作(第8弾)も公開されるらしい。最近ではスピンオフ的になってたらしいが、
新作はその名も『American Reunion』ということで、まさに「同窓会」映画となる模様。
高校卒業十周年記念ということらしいが、これは来年TOHOシネマズ六本木で
「イッキ見」やったりするんじゃね?
あー、『恋は負けない』久しぶりに観たくなってきた。(そっち?)
◇エンドロールには、俺のなかで勝手に今年を代表する映画人筆頭の「Ken Ishi」の名が!
IMDbによると、昨年は6本に参加しているが、それら全てが日本公開済!
『ブラック・スワン』に『ジュリエットからの手紙』、そして本作と(一般的にはその順で
評価は急降下なれど)俺としちゃぁみんな良作。未見ながら、こちらも良作臭プンプンな
『アザー・ガイズ』までも!俺のなかじゃ、元祖ケン・イシイ越え決定。
(って、別にもともとケン・イシイに興味あったわけじゃないけれど。)