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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

ラビット・ホール(2010/ジョン・キャメロン・ミッチェル)

2011-11-08 23:14:30 | 映画 ラ・ワ行

 

幼い息子を喪失した夫婦の再生を描いたドラマ。

そうした認識は当たらずも遠からず。いや、遠からずも当たらず。

そんな気がする。そう思いたい。そう思えてくる。

 

前二作で疾走の果てにある喪失を描いたジョン・キャメロン・ミッチェルが、

疾走による喪失(交通事故)から始める物語。

しかし、容易く共有され得ぬ哀しみを描く点は共通している。

いや、本作においても共感や同情などはこれまで同様拒絶されてはいるのだが、

その先に「受容」などという生ぬるい解消(もどき)で物語に安易な決着をつけぬ真摯さが、

私にとっては沁みて響いて、静かに震え。傷とはおそらく、癒えたり消えるものなどではなく、

「それがなかったとしたら」とか「それがなくなったとしたら」ということを想像することにより、

少しずつ痛みだけをもたらすものでないように加工してゆくものなのだろう。

記憶の抹消などではなく、記憶の捏造なんかでもなく、

記憶の再創造なのだろう。それも終ることのない。

 

 

己に宿った哀しみは、誰かと比べ、誰かと分かち、軽くなったり消えるもの。

そんな安易な錯覚は、麻酔で誤魔化す対症療法。

喪失埋めるそのために、喪失事実を隠蔽するも、在りし日々との戯れも、

喪失そのもの脹らます。喪失という名の存在感。

去った人が残した痛み。残った人が去りぬを悼む。

消え去るものほど留まり続ける人生は、不条理だらけのパラドクス。

辿り着ける気はしないけど、確かに在ったパラダイス。

 

同じことが再び生じることを祈ったりする再生ではなく、

再び生じたときには以前より好くなっていたいという願い。

喪失感はシェアできずとも、そうした想いで手をつなぐこと。

喪失からの再生などではなくて、喪失を再生しつづける覚悟を手に入れること。

別れの辛さは出会いの喜びが裏返ったから。満たされた分だけ残される空洞。

悲しみ噛みしめ続けることが、空洞に在りし充足との再会そして別れとなる。

そんなことを繰り返し、空洞につながる穴は少しずつ、小さくなってゆくかもしれない。

 

 

◆二コール・キッドマンの演技に称賛が集中しがちな本作。

   しかし、数多のノミネートにも関わらず受賞には至っていないのは、

   『ブラック・スワン』のナタリーのせいかもしれないが、

   (そのナタリー然り)繊細さよりも大胆さにこそ注目集中のアワード法則なんだろう。

   別にそれが悪いとも思わないが(得てして「賞」なんてパワーバランスの産物だから)

   本作の彼女の演技に感嘆しきりだったのも事実。

   これまでは外へ発散する激しさに本領を発揮してきたかのような彼女がいよいよ本格的に

   外への力を内へと反す葛藤(しかもそれは決して表出し得ずに埋もれてゆく)によって

   細かな襞を重ねてゆくような繊細な緊張感を持続させていた。

   それは、彼女自身が本作に惚れ込んでいたことが陶酔よりも慎重さに作用し、

   そこに一役買ったのも「プロデューサー」という立場に身を置いてみたからかもしれない。

   だから、彼女だけが集中的に称賛の的としてピックアップされるのは、

   (二コール自身も)本意ではないように、私には思えたりするのだが。

   要は、演技合戦でもなければ、二コール出色でもなく、

   キャストが皆きわめて冷静かつ丁寧な演技で作品を編み上げている印象。

 

◆主人公ベッカの母親役を演じるダイアン・ウィーストが巧いのは言わずもがなだが、

   相手役である夫のアーロン・エッカートが、かなりな好演。

   「普通」を演じるほど難しいものはないと思うし、「普通」が「異常」になった姿ほど、

   説得力をもたせるのは至難の業だろう。

   しかし、彼は過度な共感をぎりぎりでかわし、極度な乖離は来たさずに、

   絶妙な匙加減で、二コールに埋もれずも、二コールを引き立てて、

   男性の観客が作品に入り込む為のベストスポットを用意する。

   もう一人の男性としては、ジェイソン演じるマイルズ・テラーもいるのだが、

   彼は役柄の性質上、観客の感情を余りに吸収してしまっては不味いわけで

   (主人公夫妻を相対化し過ぎてしまう危険があるし)、そうした意味では彼も絶妙。

   そのへんはおそらくジョン・キャメロン・ミッチェルの演出力に拠るところが大きそうだが、

   ジェイソンの人物造形も非常な困難を伴うものだが、共感と反感の狭間を逡巡させてくれる

   誠実な演出が見事な機微へと結実している。

   (本作はとにかくあらゆる面で「抑える」というテーマで彩られているかのような抑制の芸術。

   ラスト近くのスローモーションでちょっと「いつものくせ」が出てる気もするけれど。)

 

◆私は本作の予告編を(おそらく何処かで目にして入るはずだが)ほとんど記憶に留めず、

   宣材やサイトなどにも目を通さずに観賞したので、かなり先入観からは自由にみられた。

   日頃から予告編はなるべく注視しない習慣を貫いているのだが、

   本作の予告(及び事前情報)もそのような扱いで好かった・・・

   (だから、いつもは貼り付ける予告編を今回は貼り付けない。)

   得てして「女子モノ」や「婦人向け」の作品の広報は、

   「それっぽさ」を過剰に演出して「釣る」ために、それ用の演出が施されがち。

   本作でも、予告編に入る「人物設定」や明らかにテーマとずれる「引用」なんかに顕著。

   極めつけは、公式サイトのコメント集

   「さて、このなかで実際に映画を観た人は何人いるでしょう?」的レベルの作文で、

   更に「そのうちで、映画をきちんと解釈しようと試みた人は何人いるでしょう」な内容で・・・。

   (レビューとして提示された指摘や批評はさすがに、的を射ながら示唆に富んではいるが。)

   そろそろこの手の一つ覚えから卒業する気はないものだろうか。

 

Anton Sanko の心の震えを優しくなぞるかのような抑えたスコア。

   Frank G. DeMarco のカメラは近づきすぎず遠ざかりすぎずに見守る眼差し。

   Joe Klotz の断片と断片の間に流れる時間がそれらを接着する編集。

   どれもが出色しなくとも、一つ一つを踏みしめ噛みしめする仕事。

   丁寧に、厳かに、和やかに。抑制という名の調和が滲みでる。

 

 

以下、ネタバレ含み(といっても、予告編では完全ネタバレですけどね)詳細感想。

 

◆冒頭の二コール・キッドマンは、特殊メイクかと見紛うほどの「らしからぬ」容貌。

   彼女特有の颯爽をすべて消し去った、衰弱と執意にのっとられた人間の顔。

   そんな彼女の前にあらわれる、至って「善良」な隣人は、細心の気遣いで彼女を労う。

   しかし、そんな隣人の足元で無意識に踏みつけられていた植物。

   悲しみも慈しみも、きわめてパーソナルな営みなんだと教えてくれるファーストシーン。

 

◆本作におけるテーマの一つである「悲しみの共有不可能性」。

   グループセラピーくそ食らえが二度も出てきて面白い。

   しかも、懐疑的な嘲笑と、無関係な爆笑で。

   悲しみは共有できないだけでなく、共有してはならないものかもしれない。

   悲しみを共有し続けることは、悲しみをそのまま保存し続けてしまうかもしれない。

   そうして夫婦としても、グループとしても8年間保持した夫婦の帰結にひとつの示唆が。

   更には、同じ共有するならマリファナファニーなスマイルを。

   これも根本的な解決にはならないが、逃避が「現実」を相対化してくれるかも。

   少なくとも現実に戻ってきた「以後」の感覚は、打開を試みる第一歩につながるかも。

 

◆かつて働いていた職場へ出向くベッカ(二コール・キッドマン)は、「いつもの」颯爽で、

   しかしそれ故にその後に訪れる失意の彼女が痛ましい。

   人間になど容赦もせずに動き続ける回転ドアに、うまく入り込めないベッカの当惑。

   人が皆、運命に抗えず、寄り添うようにくぐっていくしかない現実。

 

◆息子の事故死を招いた(おそらく車を運転していた)ジェイソンの痛みも描かれる。

   これは、立場は違えど(正反対といえども)喪失を埋めるための代償として起こってくる

   自責の念は同じで、そこに生まれる共感が、悲しみを共有する感覚につながるのだろう。

   そうした意味では、人間は「運命」という不可抗力に等しく翻弄されて生きている。

   皆が皆、運命の被害者ともいえるだろう。(現実にはそう寛容にはなれないが)

 

◆ジェイソンがベッカに手渡す自作のコミックが『ラビット・ホール』という物語。

   図書館で延滞しまくった本(罰金払わされてたが、これは事故前に借りてその後しばらく

   『ラビット・ホール』という再創造の物語が止まっていたことを示唆しているのだろうか)を

   参考にしながら書いたという「並行宇宙(パラレル・ワールド)」の物語。

   (その参考図書はずばり『PARALLEL UNIVERSES』)

   父を失った息子が、父のいる世界へと入っていき(その入り口がラビット・ホール)、

   自我を取り戻してゆく物語のようだ。そして、それを描くジェイソンも実際に父を失っている。

   そうした「展開」に興味を示し、そこに何らかの答えを求めるかのように読むベッカ。

   二人とも並行宇宙の存在を信じるわけでも、そこに縋るわけでもない。

   しかし、必ずしもそれは幻視という否定で帰結したりもしない。

   期せずして同時期公開である『ミッション:8ミニッツ』でも軸となった世界観。

   あちらでもそうした存在をひたすら肯定したり享楽するでもなしに、

   想像と創造の可能性として映ずる鏡に見えた。

   二作ともアプローチも作風も異なるが、「人間」を描き、「物語」を語り、

   想像することの可能性に想いを馳せる美しさが刻まれた、愛しさ募る佳作に映る。

 

 


リミットレス(2011/ニール・バーガー)

2011-10-20 20:10:10 | 映画 ラ・ワ行

 

「limitless」ということは、制限がないということ。つまり、無限。

能力的にも時間的にも、限界との格闘に日々勤しむ人間にとって、

それはまさしく「夢」の世界。決して叶わぬ「もしも」のおはなし。

しかし、そうした壁を打ち壊したり乗り越えて、夢の領域を現実化してきた人類。

ところが、壊したはずの壁はただ単に向こうに移動しただけだった。

それまた文明の物語。そうした飽くなき闘争は終焉すべき?

限界という壁のない世界。それこそが人類の最終形?

 

そうした人類の「いたちごっこ」を、本作は一本のなかに凝縮してみせる。

つまり、リミットレスを手に入れたと思った途端に直面するリミットの壁。

本当の無敵とは、「(誰も彼もが)敵わ無い」状態になるのではなく、

まさしく字義通り「敵が無い」ことなのだろう。そう考えると、主人公の無敵さは、

より壮大な敵を相手にしては打倒していく闘いによって初めて保証されるものであり、

それは同時に相手のスケールを凌駕し続けるスケールを自己に課し続ける無間道。

どんなに脳がフルで稼動しようとも、最大スペック自体が更新されなけりゃ、

リミットレスどころか、リミットモア(?)。

 

以前も引用した稀代の名言家ラルフ・W・ソックマンの言葉。

The larger the island of knowledge, the longer the shoreline of wonder.

 

これはむしろ「リミットモア(変な言葉つかってすみません)」こそ建設的だという、

非リミットレスな現実にこそ知的好奇心の源を感じさせる含蓄名言。

しかし、本作においては余り「知」や「思考」の限界には触れられない。

そうした方向性には進まずに、あくまで形而上で無限を手に入れた人間の、

形而下における限界との葛藤でドラマを展開させてゆく。

 

しかし、そうした対比〈精神/身体〉は、精神世界の自由さを強調し、

物質的側面の不自由さ(限界)を露呈させるに十分だ。

ところが、人間の精神も所詮は身体に宿っている以上、

結局はやはり形而下に端を発さざるを得ず、やはり制限つきの自由でもある。

リミットレス@リミット、みたいな。

随分と戯れ観想(感想?)が過ぎたよう。

 

◆NZT48(「フォーティーエイト」ってのは、今の日本じゃ特殊な響きだね)を服用すれば、

   脳はフル回転で、一度でも感知した情報はすべて喚起され得るハイパー検索。

   しかし、それだって「ストック」による限界があるわけで、実はリミットレスではない皮肉。

   それは、終盤でカール・ヴァン・ルーン(ロバート・デ・ニーロ)が主人公に捲くし立てる際、

   「おまえの未経験コレクション」をつきつけ説き伏せようとする術へと帰結する。

   ということは、掛け算の論理なわけで、その効果は結局「元の数」に制約される。

   つまり、皆が使うようになればただのインフレ状態。これは或る意味起こりつつある。

   そう、自らの脳の延長たる「電脳」の利用によって引き起こされる情報インフレ。

   検索対象が厖大になれば、検索結果もしくは検索の利用結果が優れてゆくとは限らない。

   ましてや皆が検索ばかりに明け暮れるなら、記憶の海は干上がるだろう。

   検索を意味する「reference」の「refer」の語源は「re(後ろへ)」「fer(運ぶ)」。

   運ぶという動きだけを繰り返し、運ぶ「もの」はうみださない。

   いつしか運び戻されきったなら、干上がった記憶の底が罅割れる。

 

◆そうしたアイロニカルなアプローチで眺めてみると、

   「ブルース・リー」の格闘シーンを思い描いて闘うシーンもシニカルだ。

   これは一見、「脳」の産物たる人間存在の可能性を提示しているかのようではあるが、

   近代人の模倣に終始し、型へと収斂されゆく創造性喪失な現実を嘲笑っているともとれる。

   他にも、本作は多少の斬新さを撮影や風景に見受けることができはするものの、

   ほとんどのシーンが屋内であれ屋外であれ、既視感にあふれかえる光景ばかり。

   「これ、このまえの映画で観たとこと似てるなぁ」などとばかり思わせる。

   ニューヨークの街並みだってそんな「紋切り型」を意識してるとしか思えない。

   その際たるものが(超お馴染みの)スケートリンクだったりもする。

   (ただ、あの場は「ありえない」使い方で妙味をプラスしているが)

   それはきっと「観客の記憶」と「眼前の現実(この映画に映し出される世界)」との

   検索パラダイスを演出しているかのようでもある。従って、どこか常につきまとう虚構感。

   「これは主人公の脳内世界」だと、いつ宣告されても好いほどの覚悟をもたせる映像質感。

   いつまでたっても「リアル」な感覚を、把捉できないもどかしさ。

   浮遊感あふれるピコピコスコアが、常に地上数センチを漂う感覚増強させる。

 

◆その音楽を担当しているのが、ポール・レナード=モーガン(Paul Leonard-Morgan)。

   本作で World Soundtrack Awards の「Discovery of the Year」にノミネートされている。

   彼の終始一貫した音世界が、苛立つほどに統一された(ある意味幽閉された)世界を

   見事にコーティングし続ける。ある種の「ゲーム感覚」を演出し得ているのかも。

 

◆先見性や洞察力の高さの秘訣を問われた主人公が発する答えに、

   「the ultimate formula」という表現が繰り出されるが、ここに西洋と東洋の違いを感じる。

   定義したり公式化することで、世界を「支配」「統御」しようとしてきたヨーロッパ。

   言語化という矮小化からの解放で、世界と一体化しようとしてきたアジアの純真。

   後者に「リミットレス」を感じる私はきっと、東洋人(あたりまえか)。

 

◆本作の名シーンの一つに、床に伏した主人公が、床に広がる血の海にうつる自分の映しと

   対照されては、(線[床])対称となり、対象化(血を啜る)しては飲み込んでゆく。

   映像とテーマの見事な競演、饗宴極致。

 

◆惜しむらくは、アビー・コーニッシュの活躍が控えめだったこと。

   まぁ、物語的にあまり前面(全面)に出てきたらおかしいんだけど、

   スケートリンク・シークエンスでの『ハンナ』を超えんばかりのキレ味堪能したならば、

   お飾り程度じゃ寂しくもなる。彼女も絶対、薬の「餌食」になると思ったんだけどな(笑)

   そういえば、餌食というか虜になってるのは全て男性ばかりなり。

   やはり「脳」の男、「心」の女?(どちらが無敵かといえば、やっぱり・・・)

 

◆絶好調なブラッドリー・クーパーですが、いよいよ「批評家」受けも画策中(!?)。

   今後の出演予定としては、『ブルー・バレンタイン』のデレク・シアンフランス監督作と、

   『ザ・ファイター』のデヴィッド・O・ラッセル監督作がラインナップ。

   アカデミー賞を初め、高評価を随所で得た二人の新作だけに、大いなる飛躍の期待大。

 

 


ワイルド・スピード MEGA MAX (2011/ジャスティン・リン)

2011-10-05 23:58:13 | 映画 ラ・ワ行

 

どうしよう・・・おもしろすぎる。というより、たのしすぎる!

やばい、このままでは今年いちばん楽しんだ映画になっちまうぅ~

(と、終始ニヤニヤしながら観賞)

 

そもそも「ワイルド・スピード」というタイトルは、原題のカタカナ表記でもなんでもなく、

もともと日本オリジナル(?)の邦題なわけだけど、これってなかなか好い気がする。

しかも、前作(4作目)以降は「数字」を入れずに、「MAX」そして「MEGA MAX」なんて

「正しく」ダサい題名つけてるあたり、宣伝的にもセンス的にもイケてんじゃね?

(あくまで「俺的」ですけどね・・・)

そもそも、『ワイルド・スピード5』とかにしちゃうと(大抵の邦画タイトルはこの手が多い)、

「えぇ~、5本もつくられてんのぉ~?1本も観たことない~(or 1本しか観たことなぁ~い)」

みたいなハードル高っ!な印象を与えてしまうところを、「MAX」!とか「MEGA MAX」!!

とかって勢いで押し切れそうな感じ(実際、そういう作風なわけだし)や、

常連さんもアガりそうな盛り上げ感はなかなか好くない?

 

ちなみに、原題はこれまで「fast」と「furious」を含んだ組み合わせで

構成されてきたんだけど、今回の原題は『Fast Five』。

つまり、今回は「furious」が外れている。

「furious」には、スピードなどが猛烈な様子を表す意味もあるけれど、

激しい怒りなどを表す語でもあることからすると、確かに今回はそうした成分は控えめ。

復讐譚的な要素が随所に散りばめながらも、恨み辛みをいちいちぶちまけることなどせず、

むしろそのあたりはあっさり処理し、「見せ場」を焦らしたり途切れさせたり致しません!

まさに「FAST」オンリーな手堅さがたまらないっ!

 

(おいおい、こんな優良シリーズだったっけぇ~???)

って思うほど、今回はド嵌りだった自分だが、実は劇場観賞は本作で(おそらく)3本目。

2&3は、劇場以外ですら観てない気がする。というか、観てるかもしれないけど記憶にない。

いや、正直言うと、1作目だって前作だって、内容なんてほとんど憶えちゃいない。

でも、それなりに楽しめたような印象は残ってる。とはいえ、平均点そこそこなイメージだった。

それが急に「デキる奴」というか「わかってる奴!」に化けて帰ってきたから、さぁ大変!!

馴染みのキャストが再結集!とかなると、そうしたお祭り感に気を大きくするからか、

冒険回避で手堅くいこうとするからか、「遊び」も「やらかし」も何もないこと多し。

本作を語る際によく比較されている「オーシャンズ」シリーズなんてその典型。

しかし、なんじゃこの破れかぶれ紙一重の突き抜け感はっ!?

もうサイコー!!!!!

 

◆リオ・デ・ジャネイロってロケーションも、これまたイカして活かしてる。

   序盤での、車をつかわぬ追いかけっこにおける袋小路&坂&ボロ屋根の活用も丁度好く、

   おまけに、その「しつこさが心地好い」リオの街の空撮映像随所挿入。観光気分も上々さ。

   昨年観た『リオ40度』(ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス)に引き続き、2年連続で

   リオ映画の傑作に遭遇すると、これからはあの景観だけで惹かれるものを感じそう。

   昨年観たときも思ったけど、日本とか(アメリカもそうだろうけど)って「丘の上」の方に

   富裕層が密集してるのに(黒澤明の『天国の地獄』とかでも象徴的)、リオでは逆。不思議。

 

◆まずは、本作で俺のハマったオバカ・ポイント。

   監視カメラに映らずに侵入するためには?って問いの答えが、

   カメラに映らないくらいに速く(車で)走行すればいいんだ!

   ・・・って、おい。確かに「目にも留まらぬ」って言うけどさぁ。

   で、メンバー皆で「目にも留まらぬ」選手権、始めちゃったりする始末。

   なんて原始的な奴らなんだ・・・惚れちまうぜっ!

   でもって、あっさり「別解(正解)」見つけて選手権無意味!!!

   そのへんのムダさ加減も最高(にバカ)すぎる。

 

◆本作観ながら、「このワクワク感は何なんだろう」と思っていたら、

   「そうだ!」と気づいちまった。そう、「ドロケイ(泥警)」だ!

   (地域によっては、「ケイドロ」か?) そして、それは「泥棒」役でこそ楽しめるゲーム。

   しかも、別に「警察」役でも正義の大儀があるわけでもなく(本作じゃ大半が汚職警官だし)、

   ひたすら牢にブチ込むことだけ考えてるだけだから、泥棒にこそ正義を感じもするスリル。

   中盤で泥棒チームが「牢屋」をみんなで眺めながら(向かいのビルの屋上で)

   プチ会議してる場面の高揚感なんて、ハンパないっすよ。

 

◆そうそう、序盤でリオの貧民地区で散々走りまくりダイブしまくった後で、

   ミア(ジョーダナ・ブリュースター)が「私は一緒に盗みには参加できないわ」などと言い、

   すかさず「妊娠してるから」と告げる。普通なら、今までのハード・アクションからして

   「それなのに、こんな無理しちゃダメじゃないかぁ~」的リアクションが来ると思いきや、

   そこでブライアン(ポール・ウォーカー)はすかさず抱き合って歓喜のキス、だかんね。

   思わず吹き出しちまったよ。

 

◆バカばっかやってるわけじゃなく、たまにグッと来る台詞とかもあったりする。

   例えば、ストリートレースの場に乗り込んでいって(レースに参加して車を戴くため)

   ドミニク(ヴィン・ディーゼル)の口にする「Home Sweet Home」という言葉。

   その後、警察をその場におびきよせ、アウェーにおける「およびでない」感を味わわせて

   退散させるときにFBIに吐き捨てる「Long Way Home」の言葉。

   「home」とは、母国であったり故郷であったりする土着性のものである場合もあれば、

   リオのストリートレースという「場」のように、車をレースをドライヴを心から愛する者なら

   分かち合える「home」感。ユニヴァーサルな絆を感じて、ニンマリしちまう瞬間だ。

 

◆出動前(だったかな?)に、ドミニクが仲間を鼓舞するときの締め台詞。

   「Right here, Right now」。まさしく、「いまここ」な仲間たち。一回性の真実。

   一回性ゆえに観終わったら「あぁ楽しかった」で見事なまでに爽快消去も厭わぬ軽さ(笑)

   そして、何が「right」なのかという問いなんかも、さりげなく隠れてそうな気までする。

 

◆ま、そんな奴らの痛快さっていうのは、リオの暗黒街のボスたるレイエスに

   真正面から喧嘩売ってるところなんだけど、レイエスの「金庫」を最初に襲った際、

   リオ警察でGood Copのエレナは言う、「奴らに違いない!」と。

   「なぜわかるんだ?」と訊かれると、エレナは答える。

   「レイエスを襲うなんて、stupid 以外の何者でもないからよ」

   わーい、わーい、Stupid 上等!!!  Stupid 万歳!!!!

 

◆クライマックスのハチャメチャな展開は、ノレない人もいるみたいだけど、

   こちとら一度のっちまえば、テンションあがりっぱなしで何でも来いっ!

   「金庫」をああいう風につかうなんて、マジ最高だし(金庫「で」銀行襲っちゃうし)、

   あれを「あの二人で」ってところが又、「これしかない」と思わせる最高の友情プレイ。

 

◆美女ア・ラ・カルトな競演(饗宴)は、特筆すべきながらも、筆舌を尽くし難い(大袈裟)。

   タイプの多様もさることながら、「母性」と「色気」と「健気」という3タイプの配置は憎すぎる。

   なぜなら、全部が欲しくなっちまう(笑)

 

◆話が前後しすぎるが、オープニングではしっかり堪能させる「列車プレイ」。

   映画の元祖醍醐味乗物「列車」(©リュミエール兄弟)から始める「わかってらっしゃる」感。

   そして、そこから「生まれる」車たち。

   個人的には車には全く興味もなければ、運転だって全然しないけど、

   なぜか映画における「車」はとことん愛おしい。(映画好きには定番メンタリティだろうけど)

   飛行機も船も好いけれど、列車や車はそこにバッチリ感じられる「重力」や「質量」が

   どことなくロマンチシズム刺激する。そうそう、それ言うならやっぱりどことなく漂う

   「アナログ」な(ある意味「クラシック」な?)アクション映画って風格が

   たまらなく愛おしくさせた要因なのかもしれないな。

   3Dばっかで(まさしく)目先の鮮度ばかりを追い求める瞬発力。

   僕らが映画に期待してるのは、そんなんじゃないんだよ!

   質量を感じない、フワフワしたCGだとか3Dとかには血も湧かなけりゃ、肉も躍らない!!!

   ポール・ウォーカーの微妙にキレはないけど精一杯な体当たりとか、

   ヴィン・ディーゼルの流れる汗や一瞬ヒクつく胸筋とか、

   誘惑にむかうガル・ガドットの乳ぷるるんとか、

   そういう人間の質感こそ大事だろ?

   そんな「ぼくらの代弁者」的でもあり、原点回帰的ハリウッドアクションとして

   CG&3D依存症(まぁ、本作もバリバリCGだろうけど)へのアンチテーゼの極北的潔さ。

   こういう映画を断然支持したい気持こそ、我ながら嬉しくなれちゃう心地よさ。

 

 


ラビットホラー3D(2011/清水崇)

2011-09-22 23:57:44 | 映画 ラ・ワ行

 

やっぱり3Dは吹替に限るなぁ~、などと心地よく観賞。

ま、「吹替」ではないですけどね。

邦画の3Dを観るのは初めてだったりするので、

それだけで序盤はなんか新鮮な気分で観始めました。

 

撮影がクリストファー・ドイルだし、こんな記事まで書いちゃったし、

これはやっぱり落とし前(笑)つけなきゃならんよなぁ・・・とか思いつつも、

そもそも俺はそんなにドイル好きだったのか?などと改めて自問自答。

俺が一番好きなドイルものは、『パラノイド・パーク』で主人公の伯父さん演ってるところ。

って、本業じゃないし・・・でも、その次の『リミッツ・オブ・コントロール』での仕事ぶり最高!

近年の好調具合は今年の邦画仕事で途切れそうで気が気でならぬが、

彼のデビュー作がエドワード・ヤンの長篇デビュー作『海辺の一日』であるという事実は、

まだまだこれからアジア映画における貢献を果たしてくれることを期待してしまう。

 

というわけで、そんな言い訳を用意しながら観ようと思っていたものの、

『川の底からこんにちは』を観て以来、あれだけ出演作をわくわく見ていた自分が、

マジで苦手になってしまった、満島ひかり。でも、あれは役としての彼女なわけで・・・

とか思ってたら監督と結婚。ということは、あれが彼女自身に近かったりするのか!?

とはいえ、そんな個人的趣味にばかり縛られては、いかんいかん。

というわけで・・・もなく、ただ空いた時間に勢いで観てしまったというのが真相ながら、

いやぁ~、よかったぁ~~>上映時間83分!

 

別に、つまらなくもないし、ダメダメなどと思わせられたりすることもなく、

タイトルに「ホラー」って入れた時点で、作品内で恐怖演出せにゃならんプレッシャーから

解放されたかのごとく、全くもって肩に力が入っていない(脱力感とは別種の)、

きわめて軽~い(と、普通はゆる~くなるのだが、そこは90分を切るタイトな上映時間ゆえ、

グダグダになったりもしない)ノリが、ほとんどテレビと変わらぬ空気が漂う。

まぁ、『世にも奇妙な物語』とか、黒沢清やら高橋洋やらも結構関わってた気がするから、

そういうタイプの延長上にある印象。しかし、そうなると83分は意外と長い・・・

おかげで中盤ウトウトしちゃったよ(コラッ!)。

 

別に驚きも慄きもしない「謎」が終盤に明かされるのだが、

それを基に脳内復習すれば盛り上がれそうなものの、そんなん別にする気も起きず・・・

エンドロールに出てくる「報告」も、反芻すれば恐怖が滲むのかわからんが、

全篇漂う「で?」的なキョトーンが弾けて、おしまい。

 

そんな書き方してると、随分と駄作っぽく聞えるだろうし、

俺があまり楽しめなかったみたいだけど、300円分はしっかり楽しめた!

(つまり、3D料金分は十分堪能)

カメラも3D用で撮影したみたいだし、清水監督は3D映画が2作目だし、

最初から最後まで、地味ながらも「3D」効果を丁寧に活用していた気がします。

特に、飛び出したり引っ込んだりする動的演出以上に、何気ない日常風景における

「物の配置」などの微妙な距離感が繊細な奥行で見事に再現されてるところには、

「奥」の文化を誇る国の面目躍如って気がして、感心感心。

棺の中から、小窓の向こうに遠ざかっていく世界の奥行感など、見事な活用。

憶測に過ぎぬが、撮影後の3D処理などが実に丁寧に施されているような気がする。

 

というわけで、画を中心に「ふぅ~ん」とか「へぇ~」とか思いながら観てたもんだから、

肝心の物語に関しては、しっかり読み込めないどころか、捉える気すら消え失せて(笑)

 

ただ、作中で『戦慄迷宮3D』を姉弟で観に行く場面がたびたび出てくるのだが、

そこでの展開や見せ方は興味深い。スクリーン(虚)と客席(実)の交錯や力関係が、

しっかりと即物的に描かれる「ホラー映画」的話法が絶妙に駆使された名場面。

ただねぇ、そこで観てるのが自作の駄作っていう失笑エッセンスは、さすがに笑えない・・・

 

そうした虚実の混沌のみならず、重層的な物語の相互乗り入れ状態は、

最近のトレンド(昨年なら『インセプション』!)おさえた適度な鮮度はもちながらも、

「ドラマ」や「演出」に全く迫真性が感じられず、肝心の観客が没入する機を逸してしまう。

 

ただ、非常に感心したというか、観想を刺激された場面があって、

それは、放り投げられたウサギのぬいぐるみが螺旋階段の中心を上昇していくシーン。

それが(撮り方、見せ方の効果もあって)いつしか落下していくようにも見えてくる妙。

そして、それはその後もう一度繰り返される。螺旋状が象徴するように、

背景には「輪廻」的な発想もあるだろうが、確かに「落下」と「上昇」とは表裏一体で、

「表」が変われば「裏」の意味も変わるわけ。

それは、虚実のリアリティが逆転したりする本作の語りを見事に象徴した見応えのある場面。

 

そんな「技術」に関してはしばしば感心するも、

その分「人間」に関しては関心薄に思えたのも事実。

 

 

◇先週『ピラニア3D』を最大箱でかけてくれたTOHOシネマズ府中で観たのだが、

   あそこは最近、「午前十時の映画祭」を大抵その最大箱でかけてくれたりしているのだ。

   今週は『タクシードライバー』だったので久々に駆けつけたが、ここでは今年、

   『ダーティハリー』や『フレンチ・コネクション』も観られて、本当に本当に感謝している。

   そういえば、今年のオープニングだった『ブラック・サンデー』も最大箱だった。

   それに引き換え、今年から「午前十時の映画祭」上映館となった立川のシネマシティは・・・

   (ちなみに、本作における姉弟の映画観賞シーンはシネマシティ[新館の方]で撮影)

   夜にも一回上映してるのは感心するも、いっつも最小箱に押しやられている始末。

   開始当初や集客見込める人気作のときだけは、そこそこの大箱で上映してたが。

   シネコンでやってる意味ないじゃんよ。名画座よりも小さい箱でかけられても有難みゼロ。

   基本、昨年のラインナップで組まれているものの、

   今年から新しく加わった『ストリート・オブ・ファイヤー』なんか、

   音響を売りにしている劇場なんだから、頑張ってほしかったのに、

   それでもやっぱりショボショボ小箱上映。

   昨年の『鉄男』新作の爆音上映なんてマジサイコーだったのに、

   平日会員女性1000円とか、マイケル・ジャクソンで荒稼ぎとか、最近おかしい・・・

 

◇しかし、TOHOシネマズ府中も好いことばかりではなく、

   客層の不味さは相変わらずで、本作を観賞時も、

   かろうじて二桁いるかいないかの観客なのに(むしろ、だからか?)、

   超絶騒がしい高校生だか大学生だかのカップル二組・・・

   お喋りは勿論、足で床をバタバタたたかいてセルフ恐怖演出したかと思えば、

   意味不明のところで笑い出したり・・・最初は、「あちゃぁ~」と思っていたものの、

   まぁ、この映画だってある意味「お化け屋敷」みたいなものだから、

   こういう観賞スタイルの方が「正しい」のかもしれないなぁ・・・

  などという逡巡が始まりもして。

   まぁ、『英国王のスピーチ』観賞時の教訓もあったわけだし、

   今後はやっぱり「午前十時」専門館として利用するにとどめておくべきか!?

   (「午前十時」観るなら本当オススメです。

     『タクシードライバー』をあの大スクリーンで観られてるって事実だけで

     至福の2時間でしたから。『ダーティハリー』のオープニング時にも鳥肌立ちまくったっけ。)

 

 


リメンバー・ミー(2010/アレン・コールスター)

2011-09-02 01:23:42 | 映画 ラ・ワ行

 

映画に関する情報を事前に皆無に等しいほど持たぬまま、

暇つぶしに(失礼)観た映画。したがって、何の予測も何の期待もせぬまま観賞。

それが好かったのか、純粋にハマったのか、これが意外にも「いい映画」だった。

そんな物言いをしてしまうのも、帰宅後に関連記事とかに目を通してみると、

そりゃぁもう本国じゃ「酷評」「失笑」「罵声」の嵐な様相呈し、こんなんハマるのは

『トワイライト』大好き(だから、ロバート様LOVE!!)な女子限定だろ的結論炸裂散見。

え?俺、結構じんわり来ちゃったんですけど・・・もしかして、俺って・・・ヴァンパイア?(笑)

 

「ハリー・ポッター」シリーズも早々に脱落してしまった俺にとって、

ロバート・パティンソンは『トワイライト』で苦悩し続けるヴァンパイアというイメージしかなく、

それすらも2作目が個人的には全く面白くなかったので、それっきりだし、

興味も情報もそもそもなくて・・・とんでもないギャラをもらう富豪級青年とは・・・

じゃなくって、キャーキャー言われながらもしっかり自らのキャリアの形成に

能動的に関わろうって姿勢に好感。そう、彼は本作のエグゼクティブ・プロデューサー。

何でも、無名新人の脚本に惚れこんで(『トワイライト』でのブレイク前から)、

自ら製作を請け負って映画化にこぎつけたとか。ハリウッドじゃ最終的な編集で

創作的芸術的文学的観点などが度外視されることも日常茶飯事みたいなようで、

それは悲惨とは思うけど、その分「だったら自分で権利を守る」という自警団的精神(?)が

芽生えもし、プロデューサーを務める(自らが出資もして製作にあたる)俳優が

本当に近年多いが、そうした先輩達の姿勢を早くも見習い試すとは、頼もしすぎる25歳。

 

おそらく本国の異様なフィーバーぶりとは無縁な空気のなかで暮らしていると、

ロバート君を色眼鏡でみることもなく、「人間」やってる彼を素直に新鮮に見守れもした。

おまけに、脇を固めるのが手堅い面々。それこそが「観てもいいかな」(偉そう)と思った所以。

『マンマ・ミーア』での「のど自慢」でキャリアに暗雲たちこめるも、何とか持ち直しつつりそうな

ピアース・ブロスナンが、ロバート君の父親役。青二才に演技の真髄教えんとばかりに熱演。

母親役には、レナ・オリン(ラッセ・ハルストレムの妻でもある)。

(本作では母親の存在はあまり前面に出てはいけない感じの物語だが、

不在感が際立っても不自然だったりする)微妙な役どころをさりげなく演じる余裕の貫禄。

おまけに、クリス・クーパーが出てるなら、観ないわけにはいきませぬ。

あんなに神経逆撫でしてくれる個性的な顔もなかなかいない。

俺の中では「山椒」的な味わいの役者。(それだけでは味わいたくないけれど・・・みたいな)

 

タイラー(ロバート)父の秘書(?)を演じるケイト・バートンがなかなか好い味出していて、

調べてみるとテレビの仕事が多いみたい。しかし、なんと『127時間』にも出演していた!

主人公アーロンの母親役!って、わかるかーいっ!?

電話の声と、ラストのファミリー勢揃いシーンだけだろ・・・でも、再見時の確認、楽しみ。

 

タイラーの友人役のテイト・エリントンは舞台出身のようで、

近年インディペンデント映画に出始めたらしいのだが、一本調子な主演二人の

やや冗長で停滞気味な演技を巧く補完してくれる、極めて優秀な「アクセント」。

今後は脇役では勿論、ハマり役で主演とかできればブレイクしそうな予感もおぼえるくらい。

そして、本作で最も観客の心をつかむのは、タイラーの妹役を演じるルビー・ジェリンズ。

憎ったらしさ直前の「こまっしゃくれ」具合はなかなかユニーク。

いじめられっ子役なのだが、「こいつならイジメる(笑)かもな」と思わせつつ、

でも「可哀想かも」とも思わせられる稀有オーラ。

「大女優」になるか、「鼻持ちならぬビッチ」になるか、二者択一な将来予想。

(『(500)日のサマー』でも年の離れた兄妹[しかも、ダメ兄貴]登場してたけど、流行?)

 

というわけで、本作の見どころはキャスト各々の丁寧な演技とそのアンサンブル。

おそらく、ロバートの将来を気遣っているかのような老婆心未満なベテランの配慮と、

作品の酷評運命を覚悟しながらも自らの務めを真摯に果たそうとしているかのような気概が、

どう観たって「ありきたり」のパッチワークを力技で「ユニーク」たり得ようとする脚本に、

優しい息吹を吹き込んであげたかのような、不思議な作品。

 

本国ではとにかく「サイアク脚本」との声が多いみたいだが、それらは大抵、

各キャラクター設定の必然性欠如や各シーンの既視感、展開の破綻などを指摘する。

しかし、ひとたび「好意スイッチ」ONにもなれば、結構どこまでも擁護できたりするぞ(笑)

 

というわけで、Rottenで「Fresh」が3割を切る本作を、意地でも評価してみるぞ!

 

と、そのまえに。

本作は、ラストの展開にちょっとした仕掛け(?)があって、

それまでも十分(俺は)味わいがあったのだが、

最後の展開によって浮き彫りになってくることも多いと感じた。

ただ、それを「蛇足」だとか「悪趣味」だとか感じる人も大半なようで、

そういうのが大好物な人、もしくはゲテモノ食い上等!!!な人は、観る価値あり。

もしくは、そういうところは別として、そもそもこういうタイプのおはなし好きよという人で、

青春のほろ苦さとか痛さ(こっちがメイン)を恥ずかしさ全開で見守るの嫌いじゃない

という方は、本作を観てみても好いかもしれません。という注意書き(警告?)した上で、

これからは「あたかも傑作かのよう」な勢いで書きたいと思います!免責確認終了(笑)

 

で、「よっしゃぁ観てみてやるか!」となった愛しき(あくまで、to me)映画ファンの方々は、

これ以降、結末含めネタバレ全開で語りますので、観賞後に再びお越しくださいませ。

 

 

主人公タイラーの父親は敏腕弁護士(しかもデカい事務所経営もしている模様)で、

母親は父とは離婚するも再婚し、それなりに幸せそうで美貌を保ち、

年の離れた妹は絵の才能に恵まれつつも、学校ではボーっとしがちなせいかイジメの標的。

とりあえず過去の色んなフィクションから「ドラマ」発生装置を借りまくってきちゃったよ・・・

的に、確かに見える。おまけに、「復讐」目的で口説いた女を当然本気で好きにもなり、

お約束のバレて、ポシャって、戻って落着。しかも、彼女にも自分と同様に不幸な過去が・・・

そんな手垢重層展開を、大真面目にやっちゃう迷いのなさ。稚拙と言うより、潔い!爽快!

って、そこじゃなく(それもあるけど)、そうした設定や構造とラストの展開はそれなりに

(いや、きちんと?)リンクしてるようにも思うのです。

 

例えば、「大切なひと」を失う二つの家庭の父親は、弁護士と警官。

つまり、いずれも「法の番人」的というか、法治国家における法の執行を司る存在。

そうした彼らから「大切なひと」を不意に奪うのは、理不尽で無情な運命。

(テロに見舞われた法治国家が採るべき道は?的メタファー込めた?)

しかし、その後の彼らの生き方は、似て非なるものでもである。

アリーの父(クリス・クーパー)は、手荒な仕事ぶりで、やさぐれ風情が漂いながらも、

喪失感を娘と共有し、多少干渉過多気味ながら、賢く凛とした娘に育て上げた。

対するタイラーの父(ピアース・ブロスナン)は仕事こそ成功を維持し続けて、

地位も見た目も高級そのもの。しかし、家族とはずっとギクシャク。

喪失感を家族で共有できずじまい。ということは、穴はぽっかり空いたまま。

空いた穴は容易く埋まりもしなければ、結局空いたままかもしれない。

しかし、その空隙とどう向き合うか、それをどう捉えるか、

それは「その後」を生きる人間にとって、避けては通れぬ主要なテーマ。

 

勿論、アリーも彼女の父も、喪失の悲しみを忘れたわけでも解決できたわけでもない。

それを無理矢理「抑圧」しながら生活してきたところも否めない。

しかし、彼らは喪失感を憎悪で埋めたりせずに、愛で塞ごうと試みた。

アリーは懸命に勉強し、ソーシャルワーカーといった明確な目標をもつ。

犯罪と闘いながら、他者の喪失感を防いだり、少しでも埋めようとすることで、

犯罪への憎悪を「昇華」させようと努めるのだろう。

アリーの父は、妻への想いを、あるいは母親の分まで、娘への愛を注ぐ。

それがせめてもの「贖罪」かのように。

 

しかし、タイラーの家庭においては、マイケル(タイラーの兄)の喪失感は、

向き合うことも、まして共有されることもないように見える。

墓参り後の食事の席でも、故人を懐かしむ話すら穏やかにできぬ。

再婚という再出発を果たした母は、ある程度の清算を済ませもしたが、

引きずるどころかどっぷりハマり込んだまま、悲劇性に酔いしれるかのようなタイラーは、

不幸の責任をすべて父親に転嫁して、そんな憎悪がアイデンティティと化しつつある。

つまり、彼は喪失感を憎しみで埋めようと躍起になっているかのようだ。

 

あまりにも短絡的な反抗や、きわめて幼稚な激昂も、

「被害者」側にもたらされた喪失感からうまれる憎悪なんだから、

俺の痛みも知らない(俺と同じ目に遭ってない)奴に、責めたりされる謂れはない!

そんな子供じみた言い訳が、今にも聞こえてきそうなオーラ。

同情するのも疲れ始めたかのような周囲の友人や家族。

もはや、自分で気づくしかない。(※)

 

ラストに訪れる9・11の惨劇は、まさに巨大な喪失感をアメリカ国民にもたらした。

その空隙を埋めるかのように高まった、強大な憎悪。それを発散させるための、(仮想?)敵。

まさにタイラーそのものとも言えなくない。父親の(PCの)スクリーンセイバーを観たそのとき、

「大量破壊兵器」などやっぱりなかったんだと気づくタイラー。なんて言ったら穿ちすぎ!?

冒頭の「正義のヒーロー」気取り(でも、暴力に訴える)な姿勢とか、どこか重なる気もしたり。

 

まぁ、そこまでダブらせなくとも、ラストに待ち受ける喪失感は、

一故人に対する哀悼のみならず、もっと壮大なものでもあったはず。

いや、違う。直接の「喪失」を被った人に、社会的喪失感など無意味かも。

それは、先の震災で「何万人もの命が喪われた」という規模による事実の把捉が、

誰かを失った個人にとっては空虚にしか響かないであろうことと似てるかも。

より抽象的な社会的喪失感が攻撃性を産みもするのに対し、具体的な個人の喪失感は?

 

受け容れつつも忘れずに、克服しようとする周囲の人々。

そんな彼らを静かに描く。単位を落としては教官に泣きついていた友人は真剣に聴講し、

娘のイジメ解決に学校訪れる母。そして、娘の才能伸ばすべく美術館を共に訪れる父。

そして、トラウマの出発点でもある地下鉄に乗り込むアリー。

二人の故人を再び(Re)記憶(memory)にとどめつつ、静かな決意の優しき表情。

喪われた存在を、残された者はどう捉えてゆけばよい?

故人を見舞った運命が、どんなに理不尽だったとしても、

彼らが望むせめてもの、願いはきっと「リメンバー・ミー」。

時には、再び、心にかけて。そっちじゃなくて、こっちを向いて。

憎しみを膨らませて「敵」を睨みつけたりするのじゃなくて、

僕が何を思っているか、耳をすましてほしいんだ。

タイラーが兄マイケルから長らく受け止められなかったメッセージ。

それは、マイケルを奪ったと思い込みたい「原因」(父の傲慢さ)を敵視する余り、

マイケルを悲劇と結びつけることしかできなくなっていたからでもある。

しかし、タイラーの拘った「悲劇」とは、実はマイケルの悲しみに拠るよりも、

自らの悲しみに起因する。結局、自分を見舞った「悲劇」。

アリーと父の「不運」と違う(マイケルは自ら命を絶ったから)のは、

皆が「何かできたかもしれない」という後悔に苛まれつづけてしまうこと。

それを揉み消すために、過去と向き合わなかったり、過去に固執してみたり。

同じ轍を踏まいと父は、次男に自分をぶつけない。

父が兄を追いつめた、その憎しみを支えにしては、自分の無力さ見ない次男。

しかし、そんな父子が向き合って、互いの内側知ったとき、そこには同じ祈りがあった。

 

彼らの衝突において、暴力は行使されていない。

会議中に怒鳴り込んだタイラーに、周りは席を外そうとするも、

タイラーの父は「その必要はない!」と不自然なまでに彼らを引き止める。

結局、二人は互いに殴りかかろうともするが、周囲がすかさず止めに入って戦争抑止。

そこに「理解」がうまれたわけでもないが、感情(拳ではない)がきちんと衝突すれば

(対峙すれば)、互いの内面を「知る」ことできて、互いの行動を解ろうとし始める。

妹の学校でイジメっ子たちを威嚇するタイラーの「愚行」。

これまでならただの「ろくでなし」として見なしたであろう父親は、

タイラーの行動をうみだす内面を推し量り、自らも行動する決意を語る。

そうして噛み合ってきた関係は、彼らが「向き合う」ことを許容する。

父は娘と、そしてタイラーは父と。父のパソコンに映し出される家族への想いを知るタイラー。

そうして彼は漸く、マイケルを失った自分でなくて、この世を去ったマイケル自身と

向き合い始めもしたのだろう。画面に映し出されたマイケルの写真と、

画面に映ったタイラーの顔が重なって見えたその直後・・・

彼はこの世を去る運命に。

 

ツインタワーの姿はあたかも、マイケルとタイラーを思わせる。

そして、画面に彼らの「崩壊」は映らない。あくまで凛と立ってる姿。

それを「記憶」にとどめ、そんな彼らを愛し続ける、遺された者たち。

それは決して、憎悪への端緒としてではなく。

タイラーの声で語られるラストの一説は、それを静かに確認する。

「愛」(I love you)は「哀」(I miss you)であるけれど、「赦し」(I forgive you)も齎しうるものと。

「forgive」とは元来「for(完全に)」+「give(与える)」という意味らしい。

なるほど、喪失感を埋めるのは、確かに「forgive」なのかもしれない。

 

 

◆確かに、事象が事象なだけに、傷もまだまだ癒え難い悲劇なだけに、

   それをこのように「利用した」(ように捉える人が多いのも解る気がする)作劇には、

   怒りを覚える人や、軽率に感じる人も少なくないのだろう。特に、アメリカにおいては。

   しかし、一方で、そうした傷口癒そうと、別の世界で傷口広げ続ける現実もあるわけで。

   そうした意味では、積極的に評価しようとする姿勢があっても好いとは思う。

   米国の批評家のなかには、そうした擁護派もいるようで、安心。

 

◆こんだけ叩かれまくった脚本家君の将来がちょっと心配。とか思ったりしていると、

   俺が本作を評価(というより擁護?)してるのが「判官贔屓」なメンタルからか!?

   と思えて来てしまう。でも、結構細かいところまで丁寧につくられてると思うんだけど。

   例えば、ヒロインとか、オープニングで殺される彼女の母親の面影バッチリ垣間見られるし。

   母親の方をアリー役のエミリー・デ・レイヴィンに合わせてキャスティングしたんだろうけど。

   そういう説得力が、(個人的には)それほどキュートにみえないエミリーであっても、

   感情移入を容易にさせてた気がする。

 

   ちなみに、俺が最も感心したディテール(?)は・・・

   冒頭の方で、妹からモーニングコールもらって受話器をとろうとしたときに、

   Tシャツからのぞいたロバート・パティンソンのたるんだ腰周り!

   あの微妙な「でっぷり」感が、タイラーの荒み具合を何よりも物語り、

   ロバートのやる気というか本気を垣間見た。

 

◆タイラーの焦燥感を増幅させるのが、兄の年齢を追い抜くという事実。

   それは、兄の死がより現実味を帯びるという意味もあるだろうが、

   自らがしっかりと「別の道」を歩めているという自信が持てぬ不安と、

   「別の道」を歩く寂しさへの抵抗などが交錯する複雑な想いもであるだろう。

   更に、ガンジーは22歳で子供が3人いたし、モーツァルトは22歳で33の交響曲を書いた。

   (バディー・ホリーは22歳で死んだ、とも)という事実を確認し、自らの空虚さ思い知る。

   そうした感覚、わかる人(とりわけ不甲斐なさがパートナーな男子全員)には身にしみる。

   実際、「すげぇー」って思った作品をその人が何歳でつくったかという事実を知る恐怖。

   死んだ兄の年齢を追い越すとき、兄が大きさ感じるままか、兄が小さくなってしまうのか・・・

   いやぁ、本当複雑だろうなぁ・・・とかしみじみ思って、思うツボ(笑)

   でも、結局兄と同い年(でも数日年老いてはいるものの)で亡くなるんだよなぁ・・・

 

◆序盤における、大学の授業シーン。

   まだ、アリーと知り合う前のタイラーも聴講している授業のテーマは、テロの起源?

   「倫理(ethics)」についての議論を始める教官に、アリーは「道徳(moral)」がより重要では

   と問うてみる。これは、明らかにラストへの伏線にもなっているが、と同時に、

   「ethics」と「moral」の関係についての二者の齟齬に、作者の意図を感じもする。

   アリーも指摘するように、「ethics」は社会通念としての了解に基づく集団の規範であり、

   「moral」はより個人的な規範(宗教的な意味合いも強いらしい)である。

   教官が促した「ethics」に拠れば、それこそ「報復」といった結論が生み出されかねない。

   なぜなら、ある社会における通念において、ある行為を「悪」とみなす基準や根拠は

   「ethics」で、それはテロを生みだした「ethics」と中身は違えど構造は似通っていたりする。

   だからこそ、より個人的な正義(その場合、一元化を図る思考は薄れ、多様性に寛容で

   あろうとする発想が芽生えもしそうである)である「moral」を論じるべきではないか。

   また、そもそも「宗教対立」といった根底にある現象に目を瞑り、社会科学的な論法で

   明快な説明を期待しようとするような「ethics」に疑問を差し挟んだようにも思う。

   つまり、宗教の対立を考えるならば、「そもそも信仰とは?」という根本的な哲学の

   確認から始めなければならないだろう、というかのごとく。

   そうすると、タイラーに最初声をかけられたとき、

   アリーが「社会学を専攻する人とは付き合えない」と言うのもわかる気がする。

 

※冒頭でタイラーの友人が、一緒に留置所に入れられた際、

「おまえは聴講生だから好いけどなぁ、俺は困るんだよっ!」と言い放つ。

そして、タイラーとは不仲にあるのを知ってる父親に(自らの釈放のため)連絡した、と。

その段階で観客は、「薄情な奴だなぁ」と思いもするが、うじうじタイラー観続けてくと、

あれも友人なりの「喝」に思えてくる。それに、もしかしたら「父親との対話」の機会を

あえてセッティングしようとしたともとれる。そう考えられもする、その後の彼の思いやりは

そこそこ丹念に描かれもする。傷心の友人を、(あろうことか)『アメ・パイ2』に連れてって、

ツレない友人の表情覗き見したりするとこなんて、ベタだがグッときちまった。

彼の優しさは、荒療治に通ず(笑) もしかしたら、タイラーの自棄暴走が

踏みとどまれたのも、彼のような友人の存在があったからかもしれない。

「汚ねぇ手で、俺の妹の手を触るんじゃねー」とかタイラーに言われたりもする。

タイラーが普通の若者でいられるように、自らのキャラ設定をしっかり解した振る舞いで、

俯きがちなタイラーに、ちょっとでも「重力」から解放してやろうって顧慮に充ち満ちる。

 

◇時代設定を印象付けるための助走なのか、

   アメパイ第2作(『アメリカン・サマー・ストーリー』という妙な邦題ついている)を

   観に行くシーンが出てくるが(これが、本作のワンシーンかのように非映写状態で

   映るもんだから一瞬ドッキリ・・・ってか、何で2001年のアイコンが『アメパイ2』!?

   と不思議に思ったが、トワイライト2作目の監督であるクリス・ワイツはアメ・パイ創始者

   かつシリーズずっと製作指揮してるんだよな。ってか、いまだにアメパイが続いてたとは・・・

   来年には新作(第8弾)も公開されるらしい。最近ではスピンオフ的になってたらしいが、

   新作はその名も『American Reunion』ということで、まさに「同窓会」映画となる模様。

   高校卒業十周年記念ということらしいが、これは来年TOHOシネマズ六本木で

   「イッキ見」やったりするんじゃね?

   あー、『恋は負けない』久しぶりに観たくなってきた。(そっち?)

 

◇エンドロールには、俺のなかで勝手に今年を代表する映画人筆頭の「Ken Ishi」の名が!

   IMDbによると、昨年は6本に参加しているが、それら全てが日本公開済!

   『ブラック・スワン』に『ジュリエットからの手紙』、そして本作と(一般的にはその順で

   評価は急降下なれど)俺としちゃぁみんな良作。未見ながら、こちらも良作臭プンプンな

   『アザー・ガイズ』までも!俺のなかじゃ、元祖ケン・イシイ越え決定。

   (って、別にもともとケン・イシイに興味あったわけじゃないけれど。)