リアリティー(2012/マッテオ・ガローネ)
今年のカンヌ国際映画祭でグランプリを獲得した本作。
下馬評では受賞の可能性などほとんどなかったにも関わらず、のなかでの受賞。
審査員長のナンニ・モレッティによるイタリア贔屓によるものだと報じたメディアも複数。
あまりにネガティヴな声が際立っていて、正直観るまえは不安が期待を大きく凌駕。
『ゴモラ』に心酔した自分としては、観ておかねばならぬという義務感から選択。
しかし、やはり、メディアはメディア。運び屋の気まぐれに踊らされてはならぬ。
傑作!怪作などではなく、見事な快作!語りは重層的で単純では無いが、
それでも(『ゴモラ』でそうであったように)直球勝負を辞さぬ気概の構え。
リアリティ・ショーという変化球を背景にしながらも、
そこに描かれるのは紛れもなく人間存在の宿命。
喜劇的悲劇を、悲劇的な喜劇として語る。
突き放しては抱きしめる、人間の可笑しさ。
忌むべきところを見つけて慈しむ。
こんな語りこそ、映画の語り。
◇本当、一つ一つの場面・展開・台詞、そのどれもが示唆に富みに富む。
アレクサンドル・デスプラのキラキラ・スコアが見事に皮肉と慈愛の両義を演出。
改めて語りたい作品。これは劇場公開して欲しい。いや、すべき。
イエロー(2012/ニック・カサヴェテス)
最近ではメジャー作品を手がけ、雇われ監督な仕事が続いていたニック・カサヴェテス。
彼が自らの作家性を花開かせようと挑んだ、第二のデビュー作。
そりゃぁ、父親がジョン・カサヴェテスとなれば、その重圧までも「偉大」過ぎ。
彼が上映後のQ&Aで語っていた「若い頃は完璧を目指した」という言葉の「完璧」とは、
おそらく《父の影》が創作の現場に終始彷徨いていたことをも指すのかもしれない。
「今では間違っても好いと思ってる」とも語っていたニック。
そうやって「ふっきれた」彼の解放感で本作はあふれている。
主人公(ヘザー・ウォールクィスト)の安定剤依存の副作用的幻覚シークエンスは、
あの手この手で楽しませてくれる。
アイロニカルなミュージカルから、カラフルポップなアニメまで。
ミュージカル仕立てや、劇場が突如舞台となる現実の「相対化」。
しかも、それを反復するというループ。
「観客に好かれなきゃダメよ」(周囲の人間には好い顔しなきゃ)
「台詞を忘れたくらい気にしちゃだめよ」(でも、求められた言葉を口にしてね)
といった外野の声は随分示唆的で、主人公の破綻のみならず葛藤をも共感へ。
劇場の一連で『オープニング・ナイト』を想起したかと思えば、
実家で家族がテーブルを囲む場面では『こわれゆく女』!
他にもいろいろなオマージュ的場面がありそうだが、
二度も出てくるヒッチコックの『鳥』のような場面が好い。
不穏の極致だったあの場面を、さらりと流すという「自分のことでいっぱいいっぱい」感。
レイ・リオッタが主人公に語る「君はどんな女よりもノーマルだ」
という多重誤謬なトラップ・トリップ。交通標識まで「DON'T STOP」。
音楽は選曲からタイミングまでバッチリで、やや冒険心不足に思われながらも、
適材適所の安心感は蛇行な本作には不可欠要素だったかも。
ただ、全体としてバランスの悪さが後半やや顕著というか、
キッチュとシリアスの融合があまり巧くいっているようには思えず、
それらが有機的に相互作用を産み出せば、作品全体で語る力が増したと思う。
とはいえ、ニックが踏み出した新たな一歩が大きなものとなりますように。
呪縛からの解放が、むしろ正当たる継承者への有資格ともなりそうだし、
今後彼が創り出す作品がいよいよ楽しみになってきた。
◇スクリーン7で観る場合、必ず後ろのブロックで、できるだけ後ろ目で観たいのだが、
本作は空席状況の影響もあり、前のブロック中段で観賞。(目も首もつかれた…)
それゆえに、スクリーン全体を見渡せるなかで観たかったし、
そうすれば印象がまた変わってたかもしれないな、とは思う。
ただ、上映後のQ&Aを随分と近くで見られたことには感動!
ヘザー(ニックの妻)の美しさや人間味なんかもなかなか見所ながら、
やっぱりニックに滲み出るジョンの面影に、感極まって胸いっぱい。
おまけに、二人ともめっちゃいいひと!
長い回答を訳し終えた通訳に、「ブラボー」といって拍手するユーモア&優しさ。
会場外に出てからも、写真撮影やサインに快く応じる姿も美しく。
(翌日の上映後にも、同様の光景を目撃。
しかも、少し離れたところで退屈そうに地べたに座る息子と思しき若者と、
母親にかけよっては観客とじゃれあう幼い娘。微笑ましい新生カサヴェテス・ファミリー。)
インポッシブル(2012/フアン・アントニオ・バヨナ)
スマトラ島沖地震の津波に巻き込まれた家族の実話を映画化した作品。
その程度の情報にしか触れずに臨んだ観賞は、途轍もない体感を強いられる時間に。
てっきり津波後の「再生」に焦点が当てられているとばっかり勘違いしていたこともあり、
上映時間のほとんどが津波とその爪痕を正面から凝視する容赦ない語りに驚愕。
主演はハリウッドでもおなじみの二人だが(とはいえ、英&豪の出身)、
スペイン主導で製作されたこともあり、最大効用を求めるばかりではない真摯。
津波の場面のリアリティは観たもの誰もが口にするところだろうが、
莫大な恐怖を味わわせつつも、自然を敵視する眼差しが一切混入していないことに感心。
征服できなかったことへの苛立ちや、克服のための格闘などに語りは向かわない。
人間の傲慢さを固持するために、人間の逞しさを誇示してみせたりなどしない。
身に降りかかった運命を受け容れつつも、立ち向かう。
書き直すとか、書きかえるとかじゃなく、とにかく自分が今書ける「運命」を書く。
そして、人間に与えられた最も辛い試練が《絶望》であるとするならば、
最も美しい力が宿る《希望》はその闇を突き破って射し込む光。
絶望に希望が打ち克つためには、恐怖を知らなければならない。
冒頭、乱気流に恐怖を感じる母(ナオミ・ワッツ)を笑うルーカス(トム・ホランド)は、
津波の後、絶望に押しつぶされて脆弱な希望未満の焦慮に侵食されてゆく。
「僕って勇敢(brave)なはずなのに、恐くて仕方が無いよ」と口にするルーカス。
「brave」の語源となったラテン語は、《乱暴》等といった悪い意味を表していた。
恐怖を感じてこそ、その絶望に負けてはならぬといった葛藤を身内に感じられるだろう。
そして、その葛藤こそが、人間の尊厳を想起させてくれるのかもしれぬ。
ラストシーンに見える表情たちが意味するもの。
それは恐怖を知り、恐怖を内に秘め、
それでも、いやそれだからこそ希望を宿し続けるための覚悟と決意に奮えた貌。
《恐怖》のもつ威力を、闇から光まで縦横無尽に描き出し、
美しさへと昇華させるJ・A・バヨナの語りは健在どころか進化。いや、深化した真価。
今の日本では「観られない」人たちへ十分な配慮は必要だと思う。
その一方で、大半の「観るべき」人たちへどのように届けるか。
そういった観点が映画関係者の中に生まれることを期待したい。
(実際がそうだったのだろうが)主人公の家族が「日本滞在」だったという事実は、
決して単なる偶然とは思えない。そういった「つながり」こそ注視すべき絆に思う。
スプリング・ブレイカーズ(2012/ハーモニー・コリン)
元祖コリン星からの使者、ハーモニー。まだ30代なのか。
彼の新作、しかもカラフル・ポップなビッチのパーティーが、
六本木の7番スクリーンでかかるというビヨンド感。それだけでもう興奮。
シネスコの画面をうめつくす、たわわな果実、ビッチ繚乱。
ただ・・・
寝不足続きな上に、4本目ということもあるけれど、
それ以上に「一身上の都合」により、本作を楽しむことは困難な為、
物語の序盤で没入不能を察すると、やっぱりそのまま終わってしまう。
これにハマれたらめっちゃ楽しそうだなぁ~と終始羨望な気分で観賞。
ま、仕事やら経験やら趣味やら立場やら、そういうのに呪縛されてしまうのも又、
より具体的でより現実的な芸術たる映画の宿命ですからね。
でも、ハマれたら至高のドラッグ・ムービー間違いなし!