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imaginary possibilities

Living Is Difficult with Eyes Opened

東京国際映画祭2012/Day4

2012-10-24 11:25:24 | 2012 東京国際映画祭

 

木曜から日曜まで(2012/ドミンガ・ソトマイヨール)

 

ロッテルダム映画祭タイガー・アワード(作品賞)を受賞。

   

 

ストラッター(2012/カート・ヴォス、アリソン・アンダース)

 

クラウドファンドによって制作されたという本作。

名だたる映画人たちが、撮影で使用したアイテムをオークションに出品してくれたという。

たとえば、コーエン兄弟は『ビッグ・リボウスキ』で使ったボーリングのボール。という具合に。

「でも、ハリウッドで映画人たちが日頃から協力してるって訳じゃないからね。

  今回は本当に極めて稀なケース。人格者アリソン・アンダースのおかげ。」

とは、上映後に登壇した監督カート・ヴォス(アリソンと共同監督)。

 


東京国際映画祭2012/Day3

2012-10-23 17:06:14 | 2012 東京国際映画祭

 

テセウスの船(2012/アーナンド・ガンディー)

ギリシア神話に由来するという「テセウスの船」というパラドックスをモチーフに、

臓器移植を巡る3つの物語。事実上、オムニバス形式。勿論、横断する仕掛けもあるが。

 

弱冠32歳のアーナンド・ガーンディーは、初長編監督ということもあってか、

「語りたいテーマ」や「撮りたい画」で溢れているといった印象を作品から受ける。

3つの物語のいずれにもそれぞれの重要なテーマが潜んでいることに感心しつつも、

それらが各物語のなかで強力な語りを持ってしまうが故に、1本の長編作品への帰依稀薄。

芸術(表現)論、宗教(哲学・人生)観、社会問題、それらの要素が混在するだけの結果とも。

確かにその一つ一つは興味深く、とりわけ1つめの物語は極めてユニーク。

視力を失った女性カメラマンは注目を集めつつあったが、

ある日角膜の移植により視力が回復。

彼女は新たな「世界」とどう対峙するのか、どう表現するのか。

人間の《感覚》を芸術(写真家)を介して芸術(映画)で文学的に思索する。

彼女が自然のなか、腰掛けた橋からカメラのキャップを落とす場面で終わる。

つまり、レンズの蓋(=目蓋)を水に流す・・・というメタファーだろうか。

しかし、そこまでの道程を観念的な映像(自然の美しさ)に依存しすぎなために、

雄弁過ぎるようでいて迫り来る語りには不足しているような物足りなさも。

 

2つめの物語も、最も臓器移植に対して懐疑的な主人公を登場させている割りに、

内的な葛藤を具に描こうとはせずに、外的変遷で語らせて終わらせてしまうのが残念。

その一方で、映像のつくりは観念的な陰陽を表象しているようなものとなっている為に、

俯瞰としての観察に徹することも難しく。最後の決断もやや唐突な印象に。

 

3つめの物語が妙にサスペンス的に展開するのも、全体の調和をあえて壊すため?

スウェーデンまで飛んでゆくカメラに、どこか置いてけぼりをくらう観客の心。

とはいえ、3つの物語のなかでは最もテーマと葛藤した痕跡が明らか。

作品全体をつつもうとしている空気とはやや齟齬を感じるが、目は覚める(笑)

 

というわけで、あまり「成功」しているという印象を清々しく享受することはできないが、

ただ、処女作ゆえに欲張りすぎたのかもしれない。

各テーマはそれぞれ掘り下げれば実に興味深い。

特に最初の物語などはかなりオリジナリティを感じもした。

しかし、そのように思えるということは、「臓器移植」という核がぼやけてしまい、

結果、「テセウスの船」というパラドックスそのものとの対峙は曖昧になってしまう。

とはいえ、そのパラドックスを矛盾として糾弾するというよりは、

自然の継承の一つとして受容する構えであったという新鮮は、

インド的というかアジア的というか、確かに日本とも通ずる部分を感じる。

そこで或る程度意図的な近代性との対比などへの目配せがあっても好かった気もする。

また、撮影機材の影響か、映像があまり美しく撮れていなかったのが残念だ。

光景や被写体自体には美がそこはかとなく漂い続けていただけに。

監督が「撮りたい画」の為には、それなりの機材(or フィルム)が必要なのではないか?

などと思いながら観ておりました。

 

とりあえず次回作を観てみたい気持ちは強い。

そこで初めて、この監督の真の力量やら作家性が明らかになってくるようにも思うので。

 

 

シージャック(2012/トビアス・リンホルム)

 

トマス・ヴィンターベアの『光のほうへ』や『The Hunt』で

脚本を担当しているトビアス・リンホルム

監督作としては2作目だが、1作目は共同監督だったので、単独での監督作は初となる。

 

見事な脚本は、さすが。(脚本賞あたり授与されるのでは?)

ザラついた感触は映像のみならず、その語りにもドライなフラットさがつきまとう。

どの被写体にも必ず「適切な距離」を保たせることを忘れず、

安易な寄り添いはそこにない。敵も味方もない。

本作が実に巧いのは、「敵」がいないこと。

それは、ただ単に海賊を一面的な悪として描かないというだけではない。

(いや、それどころかむしろ海賊に特段の「人格」を与えすらしていない。)

海賊側にしても、人質にしても、企業にしても、彼らが対決すべきものが見えてこない。

数多の駆け引きが描かれているにも関わらず、その「首謀者」は判然としない。

具体的な存在としてのそれが示唆されぬのみならず、

欲望やら社会やら政治やらといったものの《作用》すらにも興味はない。

つまり、「真の犯人」を仕立てることで、社会構造の明瞭な批判を捻出するのではなく、

如何ともし難い現実を如何とも断罪できぬままに現出させる。

 

例えば、シージャック犯の言葉は一切わからない(字幕も出ない)。

通訳のために雇われた男が英語で「要求」および「交渉」の言葉は口にするも、

犯人たち自身の願望や思惑が語られることはない。彼らの背景も全く不明。

そうすることで、観ている者は犯人たちを憎みも憐れみもできぬまま進んでく。

犯人たちの情報があればあるほど、観る者は自らの判断の正当化に必要な材料を得る。

しかしそれは同時に、自らの観点が固定される過程をうみ、正否の境界が引かれてしまう。

その瞬間に生じる「肩入れ」。それこそが映画という語りのスリルを醸造することもある。

ただ、本作における「肩入れ」の徹底排除は、すべての立場が巨大な一つの機構に

つながれている(囚われている)事実を否が応でも認識させる。

 

終盤で人質の料理人が(海賊に強いられ)する場面がある。

それを契機に(と見える)料理人は精神に破綻を来し始めるのだが、

そうしたこそ、現実社会では不可視な弱肉強食という食物連鎖や適者生存を

可視化し意識上へと浮上させるのだろう。善悪とは無関係(判別不可能)に、

誰かを「食い物」にしなければ生きてゆけない現実が突きつけられる。

 

◇トビアスの脚本最新作は、ソーレン・クラーク=ヤコブセン監督の新作のようだ。

   ソーレン・クラーク=ヤコブセンはドグマ作品『ミフネ』がシネマライズで公開され、

   その前作にあたる『マイ・リトル・ガーデン』も銀座テアトルシネマでレイトショー公開。

   それ以来、日本では紹介される機会がなかったようだが、2作とも気に入っていたので、

   彼が監督業を続けていたことを知って嬉しく思う。その新作も観られたら好いのにな。

 

◇本作は、9月にヴェネツィアとトロントの映画祭で上映され、

   本国デンマークでは既に9月20日に公開されている模様。

 


東京国際映画祭2012/Day2

2012-10-22 23:59:10 | 2012 東京国際映画祭

 

リアリティー(2012/マッテオ・ガローネ)

 

今年のカンヌ国際映画祭でグランプリを獲得した本作。

下馬評では受賞の可能性などほとんどなかったにも関わらず、のなかでの受賞。

審査員長のナンニ・モレッティによるイタリア贔屓によるものだと報じたメディアも複数。

あまりにネガティヴな声が際立っていて、正直観るまえは不安が期待を大きく凌駕。

『ゴモラ』に心酔した自分としては、観ておかねばならぬという義務感から選択。

しかし、やはり、メディアはメディア。運び屋の気まぐれに踊らされてはならぬ。

傑作!怪作などではなく、見事な快作!語りは重層的で単純では無いが、

それでも(『ゴモラ』でそうであったように)直球勝負を辞さぬ気概の構え。

リアリティ・ショーという変化球を背景にしながらも、

そこに描かれるのは紛れもなく人間存在の宿命。

喜劇的悲劇を、悲劇的な喜劇として語る。

突き放しては抱きしめる、人間の可笑しさ。

忌むべきところを見つけて慈しむ。

こんな語りこそ、映画の語り。

 

◇本当、一つ一つの場面・展開・台詞、そのどれもが示唆に富みに富む。

   アレクサンドル・デスプラのキラキラ・スコアが見事に皮肉と慈愛の両義を演出。

   改めて語りたい作品。これは劇場公開して欲しい。いや、すべき。

 

 

 

イエロー(2012/ニック・カサヴェテス)

 

最近ではメジャー作品を手がけ、雇われ監督な仕事が続いていたニック・カサヴェテス。

彼が自らの作家性を花開かせようと挑んだ、第二のデビュー作。

そりゃぁ、父親がジョン・カサヴェテスとなれば、その重圧までも「偉大」過ぎ。

彼が上映後のQ&Aで語っていた「若い頃は完璧を目指した」という言葉の「完璧」とは、

おそらく《父の影》が創作の現場に終始彷徨いていたことをも指すのかもしれない。

 

「今では間違っても好いと思ってる」とも語っていたニック。

そうやって「ふっきれた」彼の解放感で本作はあふれている。

主人公(ヘザー・ウォールクィスト)の安定剤依存の副作用的幻覚シークエンスは、

あの手この手で楽しませてくれる。

アイロニカルなミュージカルから、カラフルポップなアニメまで。

ミュージカル仕立てや、劇場が突如舞台となる現実の「相対化」。

しかも、それを反復するというループ。

「観客に好かれなきゃダメよ」(周囲の人間には好い顔しなきゃ)

「台詞を忘れたくらい気にしちゃだめよ」(でも、求められた言葉を口にしてね)

といった外野の声は随分示唆的で、主人公の破綻のみならず葛藤をも共感へ。

 

劇場の一連で『オープニング・ナイト』を想起したかと思えば、

実家で家族がテーブルを囲む場面では『こわれゆく女』!

他にもいろいろなオマージュ的場面がありそうだが、

二度も出てくるヒッチコックの『鳥』のような場面が好い。

不穏の極致だったあの場面を、さらりと流すという「自分のことでいっぱいいっぱい」感。

レイ・リオッタが主人公に語る「君はどんな女よりもノーマルだ」

という多重誤謬なトラップ・トリップ。交通標識まで「DON'T STOP」。

音楽は選曲からタイミングまでバッチリで、やや冒険心不足に思われながらも、

適材適所の安心感は蛇行な本作には不可欠要素だったかも。

 

ただ、全体としてバランスの悪さが後半やや顕著というか、

キッチュとシリアスの融合があまり巧くいっているようには思えず、

それらが有機的に相互作用を産み出せば、作品全体で語る力が増したと思う。

とはいえ、ニックが踏み出した新たな一歩が大きなものとなりますように。

呪縛からの解放が、むしろ正当たる継承者への有資格ともなりそうだし、

今後彼が創り出す作品がいよいよ楽しみになってきた。

 

◇スクリーン7で観る場合、必ず後ろのブロックで、できるだけ後ろ目で観たいのだが、

   本作は空席状況の影響もあり、前のブロック中段で観賞。(目も首もつかれた…)

   それゆえに、スクリーン全体を見渡せるなかで観たかったし、

   そうすれば印象がまた変わってたかもしれないな、とは思う。

   ただ、上映後のQ&Aを随分と近くで見られたことには感動!

   ヘザー(ニックの妻)の美しさや人間味なんかもなかなか見所ながら、

   やっぱりニックに滲み出るジョンの面影に、感極まって胸いっぱい。

   おまけに、二人ともめっちゃいいひと!

   長い回答を訳し終えた通訳に、「ブラボー」といって拍手するユーモア&優しさ。

   会場外に出てからも、写真撮影やサインに快く応じる姿も美しく。

   (翌日の上映後にも、同様の光景を目撃。

    しかも、少し離れたところで退屈そうに地べたに座る息子と思しき若者と、

    母親にかけよっては観客とじゃれあう幼い娘。微笑ましい新生カサヴェテス・ファミリー。)

 

 

インポッシブル(2012/フアン・アントニオ・バヨナ)

 

スマトラ島沖地震の津波に巻き込まれた家族の実話を映画化した作品。

その程度の情報にしか触れずに臨んだ観賞は、途轍もない体感を強いられる時間に。

てっきり津波後の「再生」に焦点が当てられているとばっかり勘違いしていたこともあり、

上映時間のほとんどが津波とその爪痕を正面から凝視する容赦ない語りに驚愕。

主演はハリウッドでもおなじみの二人だが(とはいえ、英&豪の出身)、

スペイン主導で製作されたこともあり、最大効用を求めるばかりではない真摯。

 

津波の場面のリアリティは観たもの誰もが口にするところだろうが、

莫大な恐怖を味わわせつつも、自然を敵視する眼差しが一切混入していないことに感心。

征服できなかったことへの苛立ちや、克服のための格闘などに語りは向かわない。

人間の傲慢さを固持するために、人間の逞しさを誇示してみせたりなどしない。

身に降りかかった運命を受け容れつつも、立ち向かう。

書き直すとか、書きかえるとかじゃなく、とにかく自分が今書ける「運命」を書く。

 

そして、人間に与えられた最も辛い試練が《絶望》であるとするならば、

最も美しい力が宿る《希望》はその闇を突き破って射し込む光。

絶望に希望が打ち克つためには、恐怖を知らなければならない。

冒頭、乱気流に恐怖を感じる母(ナオミ・ワッツ)を笑うルーカス(トム・ホランド)は、

津波の後、絶望に押しつぶされて脆弱な希望未満の焦慮に侵食されてゆく。

「僕って勇敢(brave)なはずなのに、恐くて仕方が無いよ」と口にするルーカス。

「brave」の語源となったラテン語は、《乱暴》等といった悪い意味を表していた。

恐怖を感じてこそ、その絶望に負けてはならぬといった葛藤を身内に感じられるだろう。

そして、その葛藤こそが、人間の尊厳を想起させてくれるのかもしれぬ。

ラストシーンに見える表情たちが意味するもの。

それは恐怖を知り、恐怖を内に秘め、

それでも、いやそれだからこそ希望を宿し続けるための覚悟と決意に奮えた貌。

《恐怖》のもつ威力を、闇から光まで縦横無尽に描き出し、

美しさへと昇華させるJ・A・バヨナの語りは健在どころか進化。いや、深化した真価。

今の日本では「観られない」人たちへ十分な配慮は必要だと思う。

その一方で、大半の「観るべき」人たちへどのように届けるか。

そういった観点が映画関係者の中に生まれることを期待したい。

(実際がそうだったのだろうが)主人公の家族が「日本滞在」だったという事実は、

決して単なる偶然とは思えない。そういった「つながり」こそ注視すべき絆に思う。

 

 

 

スプリング・ブレイカーズ(2012/ハーモニー・コリン)

 

元祖コリン星からの使者、ハーモニー。まだ30代なのか。

彼の新作、しかもカラフル・ポップなビッチのパーティーが、

六本木の7番スクリーンでかかるというビヨンド感。それだけでもう興奮。

シネスコの画面をうめつくす、たわわな果実、ビッチ繚乱。

ただ・・・

寝不足続きな上に、4本目ということもあるけれど、

それ以上に「一身上の都合」により、本作を楽しむことは困難な為、

物語の序盤で没入不能を察すると、やっぱりそのまま終わってしまう。

これにハマれたらめっちゃ楽しそうだなぁ~と終始羨望な気分で観賞。

ま、仕事やら経験やら趣味やら立場やら、そういうのに呪縛されてしまうのも又、

より具体的でより現実的な芸術たる映画の宿命ですからね。

でも、ハマれたら至高のドラッグ・ムービー間違いなし!

 


東京国際映画祭2012/Day1

2012-10-21 02:29:58 | 2012 東京国際映画祭

 

ヒア・アンド・ゼア(2012/アントニオ・メンデス・エスパルサ)

[WORLD CINEMA] Aquí y allá *2012年カンヌ国際映画祭 批評家週間グランプリ

 

 

まさかTIFF初日からこんなにも好みの作品との邂逅が待っていたなんて。

しかも、観賞スケジュールを組んだ当初は押し出されてしまっていた作品。

チケット発売当日、仕事の都合で少し遅れてからの購入参戦だったため、

いくつかの作品が完売しており、それゆえのリスケの結果、観ることのなった本作。

そんな背景のバックアップもあるかもしれない。

でも、こういう作品がちゃんと紹介される映画祭ということだけで嬉しくなる。

地味ながらも新鋭監督の注目作品を堅実に紹介してくれる枠の存在は極めて貴重。

同じワールドシネマ部門では位置的に似ている『木曜から日曜まで』への期待も高まる。

PD矢田部氏のブログでは、今年のカンヌ国際映画祭における流れの一つに、

ラテンアメリカ映画の確かな存在感が指摘されていた

ラテンビート映画祭で観た『獣たち』もカンヌの批評家週間で一定の評価を得、

今年のTIFFコンペで上映される『NO』は監督週間でグランプリ。

カンヌのコンペで(賛否真っ二つのなか)監督賞を受賞したカルロス・レイガダスの新作

『闇の後の光』だってワールドシネマ部門で上映。

いずれも観賞予定なので非常に楽しみ。

 

さて、この『ヒア・アンド・ゼア』に話を戻す。

監督のアントニオ・メンデス・エスパルサは、

主演のペドロ・デ・ロス・サントスとはコンビニで偶然出会い、

短編作品への出演依頼をしたのが始まりとのこと。

そして、ペドロの人生譚に耳を傾けるうちに「そこに映画がある」という直感が。

そこで、彼の地元を訪れてみると、「ここで映画を撮るべき」だという確認へ。

ペドロ演じる主人公の妻や娘は役者とのことだが、表情の自然が実にきらきらしてる。

 

5年間もの構想や取材などを経て、実際の撮影期間は2ヶ月。

当初はドキュメンタリーとして仕上げようかとも考えたらしいが、

フィクションにこだわりたいという想い、フィクションでしか描けぬものへの信頼もあり、

映画のための「物語」を紡ぎ始めたという。しかし、役者をとにかく信頼し、

彼らの自由を保証。シナリオも彼らの演技を見ながら更新していったという。

会話にもアドリブがしばしばあるようなのだが、それは演技からのぞく自然というより、

演技と自然の臨界点。彼ら自身の想い出からうまれた表情や仕草にあふれてる。

 

4部構成となっている本作。

大きな3つのチャプター(THE RETURN/HERE/THE HORIZON)と

エピローグ(THERE)。

上映後のQ&Aでは、「THE HORIZON」は《未来》を示唆したとの監督の弁。

《HERE》と《THERE》の間にある《THE HORIZON》。

それは、見えない向こうを象徴しながらも、その向こうにある希望を予感させるもの。

そして、此処と彼処は地平線でつながっているのだと。

だから、そこには必ず《THE RETURN》が還ってくるはずだ。

 

自然光のみよる屋内撮影(おそらく)では、

太陽が雲にかくれてはまた顔を出すといった動きまで感じさせる光の動き。

南米の暖かな夜の空気に灯る点綴たる街灯の小さな存在感。

フレームから消えた人物の不在を凝視し続けるカメラ。

どの細部にも慈愛が宿っているようで。

 

ダルデンヌ兄弟がヨーロッパ性を全て捨象して、心優しく語ろうとした感じ?

(それはもはやダルデンヌ兄弟ではない・・・か)

他にもいろいろな作家との類似性は指摘できそうだが、

明らかに監督のアントニオ・メンデス・エスパルサにしか出せない「香り」がある。

ため息の出るようなフォトジェニックさはないものの、じっくり浸透してくる日常美。

淡々としているようでいて、巧緻を極める編集の妙。(小津を敬愛してるだけある?)

 

厳しい現実をあくまで「後景」として処理することなく、

かといってそれを「前景」として強調するわけでもなく、

人間をも含めた「全景」をそっとずっと眺めてる。

見つめ過ぎずに切り替わる。決して睨んだりはしない。

それでも、ラストにあふれる情景と、橋上のカイトと光と塵は、

幸福の残響と予感が交錯し、いつまででも見つめていたい。

   

◇本作は今年のカンヌ批評家週間でグランプリを受賞しているが、

   その審査委員長を務めていたのは、ベルトラン・ボネロ。

   昨年のワールドシネマ部門で上映された『ある娼館の記憶』の監督。

   奇遇ながらも「継承」みたいで、勝手にちょっと嬉しくなってみたりする。

 

◇ちなみに、昨年のカンヌ批評家週間グランプリは『テイク・シェルター』。

   本作は、先日発表されたゴッサム・アワードでもブレイクスルー監督賞にノミネート。

   アントニオ・メンデス・エスパルサ。憶えておきたい名前が増えた。

   カルロス・レイガダスやクリスチャン・ヒメネスのように、

   再びTIFFへ帰還する日を楽しみに。

 


東京国際映画祭2012/Day0

2012-10-19 23:57:17 | 2012 東京国際映画祭

 

いよいよ明日から始まる第25回東京国際映画祭。

一年で最もハードな一週間の始まりです。

ブログ始めてから(事実上)初めての昨年は、

全く感想を記事化できずじまいで残念無念だったので、

今年こそは鑑賞作品全部に多少でも何かしらの記録を残せればと。

ということで、自らにプレッシャーをかけるためだったのです。今月の毎日更新。

それゆえに、内容のない記事が続いたりしておりますが・・・。

よって、映画祭期間中は何とか頑張って毎日更新を継続するためにも、

ごく簡単に直感的であっても観た直後に感想を「つぶやき」レベルで残せればと。

 

コンペ12作品、ワールドシネマ10作品、他2作品を観賞予定。

仕事の都合とかで(もしくは、自分の体調や気分次第でも?)

多少の増減(増はないな…)はあるかもしれないけれど、なるべくちゃんと観ておきたい。

昨年なんかも疲れて見送った(情けない…)作品に評判好いのもあったし。

 

六本木という地も、六本木駅(大江戸線)も、TOHOシネマズ六本木も本当に苦手だが、

レア・セドゥとの邂逅に淡い期待を抱きつつ、新たなる才能との出会いを確信しつつ、

階段上りの9日間。階段上るのが楽しくなるよな(絶対ならない)映画祭になるといいな!