今朝、実家から電話があった。
中越地震から1年。
あの地震の夜に我が実家で食べる予定だった
夕飯のメニューで1周年の食事をするという。
思いがけない提案に、「さすが我が母」だと
思った。
---
きょうは、午後からテレビではローカル各局で
復興に向けた特集番組をしていた。山古志で、
小千谷で、川口で、大変な現実と向き合っている
人々の口から、繰り返し出てくる言葉が、とても
印象的だった。
当たり前が、有り難い。
当たり前が、幸せなんだ。と。
大変な状況にありながらも、自分たちよりももっと
大変な人がいると気づかい、また、笑顔で報道の
人々に希望を語る人達。人間のしなやかな強さを
見る思いだった。
---
で、迎えた午後5時56分。
テレビ中継の追悼セレモニーで黙祷をするのに
合わせて我が家でも娘と妻と、合掌して黙祷した。
その後、震災1周年の花火が上がった。
急いでアパートの駐車場に駆けて出て、寒空に
打ち上げられる10発ほどの花火を見た。
美しかった。あの日の夜、保育園の隣の公園で、
いつ終わるともわからない余震の恐怖の中で、
ふと見上げた空にはまぶしいくらいの星が
瞬いていた。
一年前と同じ空に、きょうは花火が上がっている。
花火が開いて、ドンという音が響くたびに、
近所の子ども達の歓声が聞こえる。あの夜は、
余震の揺れが来るたびに、人々の叫ぶ声、悲鳴が
あちこちで聞こえた。
長岡市民は、長岡まつりの花火といい、今回の花火と
いい、嬉しい時にも悲しい時にも花火なのだ。
そうして、心に積もった喜びも悲しみも空に咲く花に
託して、気持ちを昇華しているのだろう。
そんなことを感じながら、きょうは停電もしていない、
ガスも水道もきている、実家に向かう。
---
あの日の夜中、一人実家に残り、自家用車の
中で夜を明かすと言って聞かない父に自販機の缶コーヒーと
リポビタンDを原付バイクで届けたことを思い出す。
実家は、まだ玄関に登る階段に亀裂があちこち残った
ままだった。地震後、幾度となく行っているが、あらためて、
この1周年の日に見ると、まだ直っていないことに驚く。
地震から3~4日後に行った実家が無惨な状態で、バイクの
ヘルメットをかぶって土足で入ったことを思い出す。
地震の揺れがきた時、母は台所で夕食を作っていたという。
その日のメニューは「こけ汁」。この辺りでは(?)、
キノコ類の入った具だくさんのみそ汁をそう呼ぶ。
その「こけ汁」の大鍋のフタが吹っ飛び、中身は散乱し、
食器棚から落ちて割れた皿やグラスの破片に混ざり、
食べることなど出来なくなった。こけ汁。
そのこけ汁をメインにきょうは、温かい夕食を食べようと
いう企画だった。
夕食会とは名ばかりで、娘も妻も、母も、兄の家族も来ていて、
子ども達はいとこ同士で大喜びで大騒ぎで、いつもどおりの
にぎやかな夕食だった。
あの夜は、保育園の体育館の闇の中で、大きな声を立てる
ことさえ出来ないなんとも言えぬ緊張感の中で、夜を明かした。
平和な時間が戻っているんだと実感した。
そして、当たり前のことを当たり前に喜べることの
ありがたさを感じた。
震災復興へ向けた我が家の1周年の日は、こうして終わった。
---
震災で亡くなられた方のご冥福と、
被災された皆様の一日も早い復興を心よりお祈りいたします。
---
Step by step, IKUEI!!!
by 川上
中越地震から1年。
あの地震の夜に我が実家で食べる予定だった
夕飯のメニューで1周年の食事をするという。
思いがけない提案に、「さすが我が母」だと
思った。
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きょうは、午後からテレビではローカル各局で
復興に向けた特集番組をしていた。山古志で、
小千谷で、川口で、大変な現実と向き合っている
人々の口から、繰り返し出てくる言葉が、とても
印象的だった。
当たり前が、有り難い。
当たり前が、幸せなんだ。と。
大変な状況にありながらも、自分たちよりももっと
大変な人がいると気づかい、また、笑顔で報道の
人々に希望を語る人達。人間のしなやかな強さを
見る思いだった。
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で、迎えた午後5時56分。
テレビ中継の追悼セレモニーで黙祷をするのに
合わせて我が家でも娘と妻と、合掌して黙祷した。
その後、震災1周年の花火が上がった。
急いでアパートの駐車場に駆けて出て、寒空に
打ち上げられる10発ほどの花火を見た。
美しかった。あの日の夜、保育園の隣の公園で、
いつ終わるともわからない余震の恐怖の中で、
ふと見上げた空にはまぶしいくらいの星が
瞬いていた。
一年前と同じ空に、きょうは花火が上がっている。
花火が開いて、ドンという音が響くたびに、
近所の子ども達の歓声が聞こえる。あの夜は、
余震の揺れが来るたびに、人々の叫ぶ声、悲鳴が
あちこちで聞こえた。
長岡市民は、長岡まつりの花火といい、今回の花火と
いい、嬉しい時にも悲しい時にも花火なのだ。
そうして、心に積もった喜びも悲しみも空に咲く花に
託して、気持ちを昇華しているのだろう。
そんなことを感じながら、きょうは停電もしていない、
ガスも水道もきている、実家に向かう。
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あの日の夜中、一人実家に残り、自家用車の
中で夜を明かすと言って聞かない父に自販機の缶コーヒーと
リポビタンDを原付バイクで届けたことを思い出す。
実家は、まだ玄関に登る階段に亀裂があちこち残った
ままだった。地震後、幾度となく行っているが、あらためて、
この1周年の日に見ると、まだ直っていないことに驚く。
地震から3~4日後に行った実家が無惨な状態で、バイクの
ヘルメットをかぶって土足で入ったことを思い出す。
地震の揺れがきた時、母は台所で夕食を作っていたという。
その日のメニューは「こけ汁」。この辺りでは(?)、
キノコ類の入った具だくさんのみそ汁をそう呼ぶ。
その「こけ汁」の大鍋のフタが吹っ飛び、中身は散乱し、
食器棚から落ちて割れた皿やグラスの破片に混ざり、
食べることなど出来なくなった。こけ汁。
そのこけ汁をメインにきょうは、温かい夕食を食べようと
いう企画だった。
夕食会とは名ばかりで、娘も妻も、母も、兄の家族も来ていて、
子ども達はいとこ同士で大喜びで大騒ぎで、いつもどおりの
にぎやかな夕食だった。
あの夜は、保育園の体育館の闇の中で、大きな声を立てる
ことさえ出来ないなんとも言えぬ緊張感の中で、夜を明かした。
平和な時間が戻っているんだと実感した。
そして、当たり前のことを当たり前に喜べることの
ありがたさを感じた。
震災復興へ向けた我が家の1周年の日は、こうして終わった。
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震災で亡くなられた方のご冥福と、
被災された皆様の一日も早い復興を心よりお祈りいたします。
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Step by step, IKUEI!!!
by 川上