(写真と下記の文章は関係ありません)
子ども達は、その時、周りにいる大人に、
いったい何を求めているのだろうか。
そして、周りにいる大人として、いったい
子ども達に何をしてあげるべきなのか。
二つのことを考えさせられる機会が、
続けてあった。
そして、それは嬉しい話と残念な話だった。
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一人は、育英センターで、友達と些細なことで
喧嘩をしてしまった。友達とはそれ以来気持ちが
すれ違ったまま。
そして、放課後育英センターに行くことを考えると、
気が重くなり、おなかが痛くなるという人。
勇気を出して、お母さんと相談をしに訪れてくれた。
川上を含めて3者で長い話し合いをした結果、結局
今まで通りに来てくれることになった。
これは嬉しい話。
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もう一人は、保育園でマーチングをしている年長さんで、
週末に発表の機会がある。が、どうしても参加しなくては
いけないのだろうかと問い合わせをしてくるお母さん。
その言葉は子どものものではなく、お母さんの都合や考えに
よるもののようだ。
「会場までのお迎えがね…」とか、「バス代が…」とか、
「参加する行事に優先順位はあるのか…」とか。
クラスの副任と担任がそれぞれ電話で応対して、
説得にあたり、結局参加することになったのか、
ならないのかは不明。
これは、いささか残念な話。
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二つの話。問題は違うが、共通しているのは、
まず子どもがそれぞれの話で主役にいるということ。
問題の中心にいると言ってもいい。
もう一人の主人公は「お母さん」。それと職員。
子どもにとって、必要な母の、保護者の態度は
なんだろうか。いずれの場面も、子ども達は、
本当はそのものに向かって行きたいのではないかと
川上は考える。つまり、マーチングはやりたいし、
センターには来たい。
マーチングにしても、育英センターにしても、
もともと嫌いな理由なんか無いのだ。
育英センターはもともと楽しい場所だし、本人に
聞いてみると、家にいるよりは楽しいと言っている。
マーチングでは、子ども達は毎日のように、この週末の
発表を目指して、努力を重ね、稽古を積み上げてきている。
大人がこの子ども達の意志に反して覆す理由や権利は
どこにも無いのではないだろうか。いや、「無い」と
きっぱり言いたい。
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「子どももそういうのは苦手なんだ」と、マーチングの方の
お母さんは言った。
「自分もお父さんもそうだったから、それでいいんです」と。
親も苦手だったから、子どもも得意じゃないし、それは
それでいい、という親の言葉を、子どもは電話をする
母のそばで、いったいどんな気持ちで聞いているだろうか。
そして、それを語るお母さんの気持ちは、たとえ冗談交じりで
あったとしてもどんなものなのか。
真意ではなく、単なる愚痴だったとしても「バス代が(もったい
ないから)…」と行事への参加を渋る言葉を、子どもはどんな
気持ちで聞いていたのだろうか。
川上は、本気で言ってるのかな?と、ひどく残念な思いがした。
毎日努力している子どものがんばりは、じゃぁ、誰が最終的に
認めてあげるのだろうか。それは、保護者の一番大切な役割
なんじゃないだろうか。
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一方のセンター小学生のお母さんは、
「やめてしまうことは簡単だけど、そのままでいいの?」と、
子どもに問いかけた。
元をたどってみれば、些細な子供同士の喧嘩だということも
わかったし、その子の方にも若干の対応の失敗もあったようだった。
失敗を認めて、それでもそこから逃げないで、心のトゲを抜いて、
心の重荷をほどいて、お互いに気持ちよく生活していくことを話した。
「少しくらい失敗したって、いいじゃない。今はどれだけ失敗したって
いいんだよ。」と、川上も共に話した。
はじめは硬かったその子の表情も、ようやく、明るさを取り戻し、
最後には「明日から来る」と約束して、帰ることが出来た。
そして、きょうは元気な姿を見せてくれた。
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子どもが迷っている時、「本当はこうしたい」という気持ちを
間違いなく読み取ったら、あとは大人に出来ることはそれを
後ろからそっと背中を押してあげることだけじゃないだろうか。
「それでもいいんだよ。失敗したっていいんだよ。」
「君の気持ちは間違ってないよ。」
「そうか、がんばってるんだね。きっと応援してるよ。」
「君の思う通りにやってごらん。あとはわたし(大人)が
なんとかするから。」
しかし、子どもが伸びようとしているのに、それを見逃したり、
押さえつけたり、伸びなくてもいいと考えたり、子どもの意志を
否定する言葉を口にしたり…。
大人の勝手な判断で、子どもの気持ちをねじ曲げてしまったら、
それこそかわいそうなことだ。
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川上の個人的な経験でも、買い物にひどく悩んでいる時、
欲しいのは「これ」と決まっているのだが、本当にこれで
間違いないのか迷うことがある。これでいいのか、それとも
他社のあれがいいのか、それがいいのか、それともまったく
別の選択肢を選ぶべきなのか。
そんな時に店員に尋ねることがあるが、答えてほしいことは
自分の選択が間違っていないという裏付けだったりする。
他社のものが欲しいのではなく、
「あなたの選んだのは正解ですよ!」というお墨付きが
ほしいだけなのだ。
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子ども達の迷いにぶつかった時、大人に求められている
答えも、「君の選択は間違ってないよ」という言葉なのでは
ないだろうか。
つまり、自分の考えに自信を持てなくて躊躇する子どもを、
後ろから背中をそっと押すような言葉。
それは時には、言葉である必要もなく、ただ黙って
「うんいいよ」と目でうなずいてあげれば良いだけの
時もある。
子ども達はいつだってわたし達大人に、
「これやっていい?」
「こうしたいんだけどいい?」
「間違ってないかな?」
と、問いかけている。目と言葉で。
遊びでも、学習でも、日常の中でも。
大人はそれに時に言葉で、時に態度で、子どもの
判断を「後押し」してあげる必要があるのだ。
そしてそれが、大切な大人の仕事なのだろうと思う。
それでこそ、子どもは自分で判断したことに自信を
持てるようになるだろうし、更に伸びようと努力する
のだろう。
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なんて、偉そうなことを書いているが、自分に
言い聞かせるつもりもあって、書いていたり
するのだ。
きっと出来ていないのだ。この川上も。
だが、最終的な目標は、子ども達の自立である。
この最終目標さえ見失わなければ多少の道草や、
迷い道もいいんじゃないだろうか。
「いいんだよ。少しくらい失敗したって」
と、大人も気負わず、大きく構えていた方が、
気が楽だし。自分にプレッシャーをかけると、
それも再び子どもにツケが回るのだ。
大人も気負わず行きましょう。
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ガンバロウ長岡!!!
ガンバロウ育英!!!
by 川上