ラティハン日記

ラティハンと人生の散歩道

雑記帳46・19年2月2日のトークについて/

2019-06-25 | 日記
まあどうという事はない、読後感想のようなものですが、一応記録しておきます。

二代目は今、トークをする時に忘れてしまう、忘れっぽくなる、と言う事の様です。
前もって話そうと思っていた事を思い出せなくなる、そう言う事の様です。

そうでありますから、二代目はトークの前にはメモを作っておくそうです。
そうしてメモを見ながらトークをするのだそうです。

さて、そう言うやりかたはバパはなさいませんでした。
いつ、どんな時でさえ「メモなしで、前もっての準備なしで、受けて話す」というのが「バパのトークである」と自他ともに認められておりました。
しかしながらバパは91歳までは生きられませんでしたから、このような比較が何を意味するのかはなかなか難しい所があります。


そうではありますが、ジワ(Jiwa)とスクマ(sukma)について語られる、通常ではとても考えられない様な神秘的、奇跡的な体験をされたと主張している二代目においてさえ、「普通の人の様に加齢による記憶障害がおこる」と言う事は明らかな事の様であります。

何故それが注目されるのか、といいますと、バパによれば、
『・・・
そうすれば人生の終わりが来たとき、皆さんは完全な姿で、この世での全ての経験の完璧な記憶をジワに託してあの世に持ってゆく事ができるのです。
と申しますのも、ジワが働けば、頭脳が目覚めるからです。
そしてその時に頭脳の中にあるのはもはや(肉体としての)頭脳の働きではなく、人間としての理解力なのです。
・・・
それは皆さんの生命の一部なのです。
この世を去る時にあの世に持ってゆくものなのです。
・・・』(81年6月25日)
となります。

そうして、当然の事ながらすでに二代目はそのようなレベルには到達しているであろう、と期待され、推察されます。(注1)

しかしながら、実際には、この世で暮らす限りにおいては二代目においてすら、どーやら「普通の人の様に加齢による記憶障害がおこる」と言う事の様です。

そうでありますから、バパが言う「完全な記憶をジワは持つ事ができる」という宣言と、そうして、現実に二代目におこっている状況という事の間には、無視する事ができないギャップが存在している様に個人的には思えるのでありました。

注1
「1月19日2001 」のトークにそのあたりの事、jiwaが目覚めて働いている人についての記述があります。
そのトーク詳細については「ジワJiwaとスクマSukmaの物語(その1・バパと二代目の認識)」にありますので、ご参照願います。<--リンク


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雑記帳25・やっぱりねえ

2019-06-01 | 日記
かつて先輩から「ラティハンをやっていればそれだけで全てがうまくいく、というものではない。」と口を酸っぱくして言われたものです。

「世的な事は世的なルールに従え」とも言われました。

今になって振り返ってみれば、まさにその通りでありました。

ラティハンには確かに恩恵があります。

しかしながらそれを頼りにして、自分たちが当然受けなければいけない教育やら訓練、そうして思慮深い行動を抜きにして世の中を渡っていけると考えるのは誤りであります。

人並みの事は人並みに行う。

そこでは手抜きは許されません。

そういうものでありました。


それは我々が食べる食べ物と同じであります。

一つの食物から全ての栄養素を取る事は不可能です。

そのような万能の食物はありません。


同様にラティハンの性質は「良いもの」ではありますが、それだけでは人間の生活は成立しないのです。

そうでありますから、我々は普通の人と何ら変わりのない学習、訓練、生活体験が必要なのであります。

その上でのラティハンでありましょう。

そうであってこそ、ラティハンの成果、結果と言うものも現われてくる、表現する事が可能になる様であります。

そうして、この辺りの事はバパも十分に承知されていたと思われます。

そういうこともあってラティハンを始める事ができる最少年齢を決められた様にも思われます。<--リンク


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雑記帳45・Budhiについて

2019-05-16 | 日記
September 12, 1977 - Bapak トークからの引用

『兄弟姉妹の皆さん、全能の神は、人間の生命の中で、あるいは人間の自己の中で、思考心と感情心があるべきであることを宣言しました。
そしてこれらの他にもBudhiまたは内なる力があるようにしました。

Budhiと思考心または知性との関係は何ですか?

Budhiというコトバは力やエネルギーを意味します。それは強さです。

感情心と思考心、あるいは知性は考える事と感じる事です。

人類の中には、自分自身の内なる自己の感動/動きを知りたい、受けたいという人がたくさんいます - それはBudhiなのですが- 思考からも感情からも解放されています。

しかし、人々は低次の諸力の影響を受けているので、好きであろうとなかろうと、Budhiとその動きから離れ、思考と感情/感覚の領域に入ることを強いられます。

そして、思考と感情は、生命と人生の問題を研究する上での主な原動力となっています。
つまり、これらは一つの全能の神に対する彼らの礼拝の中心となっています。

このようにして、人々は思考と感情の領域にとどまるとき彼らの表情は平坦であり続けます。

ですから人々はすべて、ラティハンの時のようにジワの動きや生命からではなく、Budhiからではなく、思考心から考えています。

兄弟姉妹のみなさん、現在に至るまで人類の習慣は、彼らの感情や彼らの考えと関係を持ち、それらの考えによって影響を受けています。
従って彼らの神への礼拝と彼らがジワで証拠と確証を得る方法は彼らの思考と感情によって非常に影響される事になります。注1

そしてこれらの感情や思考は常に低次の諸力とつながっていますが、それらの性質は真の人間のありようからはかけ離れてしまっています。


聖地と呼ばれるものをとても好むのは、人間の習慣のようです。

彼が過去の機会にイギリスに来たとき、バパ自身はしばしば歴史的に興味のある場所にベネット氏によって連れて行かれました。 「聖地」へ。

実際、これらの聖地を探すのは霊的専門家の習慣です。
彼らが物質力によって彼らの実践において影響を受けるように、一方、これらの物質力は悪魔的と呼ばれる力です。

それは過去に起こったことのようなものです。

それは現時点でまだ起こっています、そしてこの習慣はまだインドネシアに存在します。

多くの人々は、彼らがilmu(霊的知恵)を求め、霊的慣行に従事していると言いますが、実際には彼らは禁欲主義を実践しているので、バパが今言及した「聖地」の場合のように悪魔的と呼ばれるものである物質的な球(訳注:あるいは物質的な領域)に巻き込まれるようになります。
・・・・・』
注1
つまり、過去からの習慣、あるいは伝統にしたがった形で、それはバパから見ると「誤ったやり方」となるのですが、「神への礼拝と彼らがジワで証拠と確証を得る方法」を実行している、という注意喚起、あるいはクレームになります。

その一例としてここでは「聖地巡礼」のような方法、そのような礼拝の仕方について語っているのであります。

さてそれではBudhiというのはいったい何であるのか?
それはまた後日言及する事にいたしましょう。

参考記事はこちら、あるいはこちらになります。
・スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力-2<--リンク
・スシラ ブディ ダルマ・はじめに<--リンク

PS
さてそれではバパにこう問わねばなりません。

「イスラムで決められているメッカへの巡礼はどうなるのか」と。

あれこそまさに「聖地巡礼の最たるものではないのか?」と。

さて、そう言う訳でバパは決してメッカに出かける事はありませんでした。

中東の上空は何度も飛行機で通過しましたが、その地に着陸する、ということはなかったのであります。

そうして「バパのイスラム」というのはそのようなイスラムでもありました。

PS
BudhiはBodhi:菩提(ぼだい、梵: बोधि)からのインドネシアにおける派生である様に思われます。<--リンク
あるいはGonda, J:. "Sanskrit in Indonesia" (New Delhi 1973)によれば
Budhi = Buddhi = intelligenceとしてブッディをとるか(漢訳では覚と訳されるもの)、そのどちらかでありましょう。<--リンク
以上、ご参考までに。

PS
以下、上記相当部分の英語版です。

Brothers and sisters, the One Almighty God has decreed that in human life, or in the human self, there should be the mind and the heart, and besides these there is also the budhi or inner force.

What is the relationship between the budhi and the mind or intelligence?

Budhi, the word budhi, means force or energy; it is strength.

The heart and mind or intelligence is thinking and feeling.

In the human race there are many who would like to know and to receive the stirring of their own inner-selves - that is, the budhi - free from thought and from feeling.

But because people are influenced by the lower forces, they are forced, whether they like it or not, to go away from the budhi and its actions and to enter into the realms of thinking and feeling.

And thinking and feeling have become the prime movers in studying questions of life and living; that is, these have become the mainstay of their worship of the One Almighty God.

In this way people continue to fall flat on their faces when they remain in the realms of thought and feeling.

So human beings consider everything from the mind, not from the budhi, not, as happens in the latihan kejiwaan, from the actions and the life of the jiwa.

Brothers and sisters, up to the present time the customs of mankind are still involved with and affected by their feelings and their minds, their thoughts, so that their worship of God and the way that they obtain proof and evidence in their jiwas are very much influenced by their thinking and feeling.

Whereas these feelings and thoughts are always connected with the lower forces, whose nature is far removed from the reality of the true human being.


It seems to be a habit of human beings to be very fond of what are called holy places.

Bapak himself, when he came to England on past occasions, was often taken by Mr. Bennett to places of historical interest; to 'holy places'.

For it is indeed the custom of spiritual experts to seek out these holy places, so that they are influenced in their practices by the material forces, while these material forces are the forces which are called satanic.

It is like what used to happen in times past.

It is still happening at the present time, and this custom still exists in Indonesia.

Many people say that they are seeking for ilmu ( spiritual wisdom ) and engaging in spiritual practices, but in reality they are practicing asceticism, so that, as in the case of the 'holy places' to which Bapak has just referred, these people eventually become involved in the material sphere which is what is called satanic.

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雑記帳24・会の運営はボランティア//

2019-05-01 | 日記
協会の運営は基本的にボランティアで行われています。

そう言う意味では社会一般の組織とはちがって「手作りの組織」、「アマチュアの組織」になります。

一番近い形態が「町内会」とか、せいぜいが「マンションの管理組合」と言ったところでしょうか。

そして運営は確かに低いコストで行う事が可能ではありますが、それゆえに「属人的な部分」がどうしても多く存在することになります。

そのことは協会のメリットでもありまた同時に弱点にもなっています。

そうして、残念ではありますがそのような会の運営方法では世間一般ではそれなりに常識である、ボトムラインとなる運営規則が抜け落ちる事にもなります。


さて結論はこうなります。

会の運営は出来る限り属人的にならないようにする。

そうして、キーポイントになる所は世間並みのルールに従う。

まあそういうことになるのでしょうね。

PS
町内会というのは互助会的です。

そうして、上部組織としての「市役所」がその上に存在します。

これもまた我々の組織形態と相似的です。

かつてはバパが各国の協会の上部組織でした。

バパ亡き後は「協会の国際組織」がその役目をしています。

そして、「国際組織の常任理事国相当の国」がそれをリードし、それ以外の国の協会はただ「お達し」を受け取る、つまり町内会と同様の存在に成り下がっています。

町内会がビジネスを始めた、と言う話は聞きません。

町内会が何か創造的な事を始めたという話もありません。

町内会というのはそういう事を目的としないからです。

しかしながら、各国の協会の在り方はまさに「町内会の組織運営をやりながら、なおかつ創造的な事をするのを目的とする」というような、「矛盾に満ちた存在」になっています。

そうであれば、なかなかその目的は達成される事はありません。


各国の協会は各々の国でのラティハンの普及に責任を持たなくてはなりません。

というよりも協会の存立基盤そのものが「ラティハンの普及」と同義語、as-isの関係になっているのです。

その事から目をそむけ、単にバパや上部組織のいう事のみに目を向けてきた結果が、今の日本の協会のありようを招いています。

そこには何の独自性も創造性もみられない様です。

ラティハンの成果というものが団体としての協会のありように反映されている、という本来あるべき姿からは遠いものになっているのが現状の様であります。

PS
少なくとも日本の協会の運営には「団体を代表する精神、ガイスト」が存在してはいない様です。

その時々の風でどちらにでも動いていく。

そういうありさまです。

本来は組織には精神・ガイストがあり、それを明文化した規則・ルールがあり、それにそって組織は運営され成果を出していくものでありましょう。

しかしながら、我々の協会には会則は存在しますが、そのバックボーンになっている精神・ガイストはなかなか見えてきません。

つまり「会則は形式的な物」にすぎず「団体の精神・ガイストを表現していない」のであります。

PS
ボランティアによる組織運営のもう一つの弱点は「私が善意で、無償でやってあげている」のだから、「これだけ会に貢献しているのだから」、「この事に関して何もしていないあなた方の批判はゆるさない」というものです。

何かを提案すると、すぐにそれを「自分に対する批判」として受け取るような「独善的な態度」に落ち込む可能性がそこにはあります。

そう言うものはどうやったら防げるのか?

やはり第一歩はコミュニケーションをとる、それについて話しをする、という以外に道は無いように思われます。

そうでありますから、「コミュニケーションすら存在しない」としたならば、その組織はもはや「停滞の中」「マンネリの中」にあり、行く先は「衰退」という事になってしまうのは世の中の常道であり、我々の協会もそのルールからは逃れる事は無いのであります。


PS
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雑記帳23・アブラハムの宗教に従う人たち

2019-04-17 | 日記
イスラムやクリスチャン、そうしてユダヤ教などのアブラハムの宗教に従う人たちがラティハンを修しています。

(ラティハンを修するイスラムの多くはインドネシア人で、クリスチャンは欧州と南北アメリカ大陸各国とオーストラリア、ニュージーランド、そうしてユダヤ教はイスラエルとなります。)

バパがイスラムでしたから上記のような方たちはバパのトークの多くの部分に共感をもてたものと思われます。

そうして、バパもそれをよしとされたようです。


さて、上記のような信仰を持っている方たちは「唯一の神を信じなさい」という要求に対しては当然ながら、「わが意を得たり」と反応したのであります。

自分たちが従ってきた宗教はバパによっても認められたと感じたでありましょう。

そうしてバパも「今まで従ってきた宗教にこれからも従って行きなさい」といわれましたから。

ラティハンを受けるようになっても、従来の信仰には何の影響もなかったものと思われます。

そうしてバパがいう「ラティハンは神への礼拝である」というコトバは心地よく彼らの耳には聞こえたでありましょう。

従来通りの自分の信仰をもちながら、従来通りの宗教が教える礼拝を実践しながら、その上にさらにラティハンという「新しい神の礼拝方法」も実行できる、と言うのは何と素晴らしいことであるか!

そのように感じてもおかしくはありません。


さてそれで、ラティハンが到達すべきステージ、ロハニ、あるいは理解のステージにはどれくらいの方が到達できたのでありましょうか?

ラティハンというものはそれ自体で、それぞれの人が進むべき道を示してくれるものであります。

そうして人は其の道を歩くことによってのみ、内部が成長し、自分のジワを認識できるようになるのであります。

そのようにして成長してゆく時に、あるところまではそれまで自分が持っていた宗教はシェルターのようにその人を守ってくれますが、あるところからはそのように「外部にある教え」の頼るのではなく、内部から来る導きに従う必要が出てきます。

そうしてそのように内部から来る導きに従う事ができなければ、ラティハンの進歩というものはそこで足踏み状態になるでありましょう。

そうでありますから単に「ラティハンは神への礼拝である」というコトバを喜び、そうして自分の宗教を信仰している、というステージで満足してしまっては、それではラティハンがもたらしてくれる成長を実現することは、実感することはできないものと思われます。


さて、この話のポイントはなんでしょうか?

「ある特定の宗教のよき信者さんである、と言う態度と、ラティハンでロハニのステージに、あるいは理解というステージに到達する、ということははたして両立する事なのか?」という問いかけであります。

個人的な見解ではありますが、そこには意識して乗り越えなくてはならない壁が存在している様に見えるのです。

単純に素直にある宗教の教えを守って生活しラティハンを続けている、というだけでは、それは悪くはないのですが十分ではないと思われるのですよ。

PS
いくら慣れ親しんだ服であってもそれはやはり既製服であります。

それはけっしてオーダーメイドの服を超える事はないのであります。

しかしながら、「いや俺はこの服が好きなんだ」というならば仕方ありません。

その人は其の服を着続けることでありましょう。

PS
さてそれでバパのトークは、バパが与えてくれたガイドラインは既製服でしょうか?

それともオーダーメイドの服ですか?

まあその判断は読者の方々にお任せすることにいたしましょう。

PS
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。

さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。

それではラティハンではどうでしょうか?

ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。

そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。

さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。

追伸
以上のような事はバパは強調されませんでした。

バパが暮らしたジャワはインドネシアではほとんどの協会の会員はイスラムでした。

そのような中で「単にイスラムであるだけでは天国に(あるいは緑園に)いけませんよ」と声高に言う事は相当の反発を覚悟する必要がありました。

そうして、そのような事はバパは望まれませんでした。

したがって「分かるものだけに分かる」様にしか話されませんでした。

しかし、本質はごまかす事はできません。

そういう意味では、アブラハムの宗教が宣言している内容と、バパの主張は実は鋭く対峙しているものなのであります。

追伸2
さてその様でありますから、逆に自分の信仰に絶対の信頼を置いておられるムスリム、あるいはクリスチャンはバパの協会に入会するだろうか、という疑問がそこにはあります。

通常の宗教的な行為、実践だけで信者さんは天国に至る、あるいは緑園に至る、というものが宗教が教える事であります。

その事を本当に信じる、とするならばそこにはラティハンが入る余地は見当たりません。

さて、その事はやはりパラドックス、矛盾でありましょう。

こうしてアブラハムの宗教に従いながらラティハンを受けている人たちにも本質的な疑問点が存在している事が分かるのでありました。

そうしてその事がまさにイスラム発祥の地にラティハンが広まらない理由でもある様に見受けられます。


PS
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