September 12, 1977 - Bapak トークからの引用
『兄弟姉妹の皆さん、全能の神は、人間の生命の中で、あるいは人間の自己の中で、思考心と感情心があるべきであることを宣言しました。
そしてこれらの他にもBudhiまたは内なる力があるようにしました。
Budhiと思考心または知性との関係は何ですか?
Budhiというコトバは力やエネルギーを意味します。それは強さです。
感情心と思考心、あるいは知性は考える事と感じる事です。
人類の中には、自分自身の内なる自己の感動/動きを知りたい、受けたいという人がたくさんいます - それはBudhiなのですが- 思考からも感情からも解放されています。
しかし、人々は低次の諸力の影響を受けているので、好きであろうとなかろうと、Budhiとその動きから離れ、思考と感情/感覚の領域に入ることを強いられます。
そして、思考と感情は、生命と人生の問題を研究する上での主な原動力となっています。
つまり、これらは一つの全能の神に対する彼らの礼拝の中心となっています。
このようにして、人々は思考と感情の領域にとどまるとき彼らの表情は平坦であり続けます。
ですから人々はすべて、ラティハンの時のようにジワの動きや生命からではなく、Budhiからではなく、思考心から考えています。
兄弟姉妹のみなさん、現在に至るまで人類の習慣は、彼らの感情や彼らの考えと関係を持ち、それらの考えによって影響を受けています。
従って彼らの神への礼拝と彼らがジワで証拠と確証を得る方法は彼らの思考と感情によって非常に影響される事になります。注1
そしてこれらの感情や思考は常に低次の諸力とつながっていますが、それらの性質は真の人間のありようからはかけ離れてしまっています。
聖地と呼ばれるものをとても好むのは、人間の習慣のようです。
彼が過去の機会にイギリスに来たとき、バパ自身はしばしば歴史的に興味のある場所にベネット氏によって連れて行かれました。 「聖地」へ。
実際、これらの聖地を探すのは霊的専門家の習慣です。
彼らが物質力によって彼らの実践において影響を受けるように、一方、これらの物質力は悪魔的と呼ばれる力です。
それは過去に起こったことのようなものです。
それは現時点でまだ起こっています、そしてこの習慣はまだインドネシアに存在します。
多くの人々は、彼らがilmu(霊的知恵)を求め、霊的慣行に従事していると言いますが、実際には彼らは禁欲主義を実践しているので、バパが今言及した「聖地」の場合のように悪魔的と呼ばれるものである物質的な球(訳注:あるいは物質的な領域)に巻き込まれるようになります。
・・・・・』
注1
つまり、過去からの習慣、あるいは伝統にしたがった形で、それはバパから見ると「誤ったやり方」となるのですが、「神への礼拝と彼らがジワで証拠と確証を得る方法」を実行している、という注意喚起、あるいはクレームになります。
その一例としてここでは「聖地巡礼」のような方法、そのような礼拝の仕方について語っているのであります。
さてそれではBudhiというのはいったい何であるのか?
それはまた後日言及する事にいたしましょう。
参考記事はこちら、あるいはこちらになります。
・スシラ ブディ ダルマ・2章 物質力-2<--リンク
・スシラ ブディ ダルマ・はじめに<--リンク
PS
さてそれではバパにこう問わねばなりません。
「イスラムで決められているメッカへの巡礼はどうなるのか」と。
あれこそまさに「聖地巡礼の最たるものではないのか?」と。
さて、そう言う訳でバパは決してメッカに出かける事はありませんでした。
中東の上空は何度も飛行機で通過しましたが、その地に着陸する、ということはなかったのであります。
そうして「バパのイスラム」というのはそのようなイスラムでもありました。
PS
Budhiは
Bodhi:菩提(ぼだい、梵: बोधि)からのインドネシアにおける派生である様に思われます。<--リンク
あるいはGonda, J:. "Sanskrit in Indonesia" (New Delhi 1973)によれば
Budhi = Buddhi = intelligenceとして
ブッディをとるか(漢訳では覚と訳されるもの)、そのどちらかでありましょう。<--リンク
以上、ご参考までに。
PS
以下、上記相当部分の英語版です。
↓
Brothers and sisters, the One Almighty God has decreed that in human life, or in the human self, there should be the mind and the heart, and besides these there is also the budhi or inner force.
What is the relationship between the budhi and the mind or intelligence?
Budhi, the word budhi, means force or energy; it is strength.
The heart and mind or intelligence is thinking and feeling.
In the human race there are many who would like to know and to receive the stirring of their own inner-selves - that is, the budhi - free from thought and from feeling.
But because people are influenced by the lower forces, they are forced, whether they like it or not, to go away from the budhi and its actions and to enter into the realms of thinking and feeling.
And thinking and feeling have become the prime movers in studying questions of life and living; that is, these have become the mainstay of their worship of the One Almighty God.
In this way people continue to fall flat on their faces when they remain in the realms of thought and feeling.
So human beings consider everything from the mind, not from the budhi, not, as happens in the latihan kejiwaan, from the actions and the life of the jiwa.
Brothers and sisters, up to the present time the customs of mankind are still involved with and affected by their feelings and their minds, their thoughts, so that their worship of God and the way that they obtain proof and evidence in their jiwas are very much influenced by their thinking and feeling.
Whereas these feelings and thoughts are always connected with the lower forces, whose nature is far removed from the reality of the true human being.
It seems to be a habit of human beings to be very fond of what are called holy places.
Bapak himself, when he came to England on past occasions, was often taken by Mr. Bennett to places of historical interest; to 'holy places'.
For it is indeed the custom of spiritual experts to seek out these holy places, so that they are influenced in their practices by the material forces, while these material forces are the forces which are called satanic.
It is like what used to happen in times past.
It is still happening at the present time, and this custom still exists in Indonesia.
Many people say that they are seeking for ilmu ( spiritual wisdom ) and engaging in spiritual practices, but in reality they are practicing asceticism, so that, as in the case of the 'holy places' to which Bapak has just referred, these people eventually become involved in the material sphere which is what is called satanic.
PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク