古事記と仏教 蘇我入鹿暗殺 に続いてです。
再度、歴史をまとめてみると。
5世紀には、朝鮮半島は高句麗が南下して百済を支配、多くの百済人が倭国へ移住
538年 百済の聖明王から仏教が伝来した。
552年 百済が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上
神道派の物部氏 と 仏教派の蘇我氏の争いとなり、結果は
587年 丁未の乱、物部氏が滅びる。(蘇我馬子が物部守屋を倒す)
592年 蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺させ,蘇我稲目の孫にあたる推古天皇を即位させます。
593年 聖徳太子が皇太子となり,推古天皇の摂政となる。(太子20歳) 四天王寺を建立する。
605年 飛鳥の大仏(飛鳥寺の御本尊の「釈迦如来坐像」)
聖徳太子や蘇我馬子や皇子とともに発願し、鞍作鳥(百済の仏師)によって造られた日本最古の大仏。
607年 法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町 )創建
645年 中大兄皇子と中臣鎌子による蘇我入鹿暗殺(乙巳の変)が起きます。
蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』を焼いて自殺し、蘇我本宗家は滅びた。
同年に大化の改新
672年 中大兄皇子(天智天皇)の二人の子供 大友皇子(弘文天皇の称号を追号)VS大海人皇子(後の天武天皇)の争い
壬申の乱(近江朝廷軍が応援する大友皇子軍 を 周囲の国々が支援する大海人皇子に勝利)
始めての大和朝廷の都 飛鳥京(奈良県高市郡明日香村)が作られた。
694年 藤原京(奈良県橿原市と明日香村にかかる地域)唐(中国)の長安をモデルにした。
710年 平城京(奈良県奈良市及び大和郡山市近辺)唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣
712年 古事記完成
720年 日本書紀完成
744年 難波京(大阪府大阪市)に都をうつす
745年 再び、平城京
747年 東大寺大仏の鋳造開始
752年 東大寺大仏の開眼供養がおこなわれる
784年 長岡京(京都府向日市、長岡京市)に都をうつす
794年 平安京(京都府京都市)に都をうつす
文化的には、645年の蘇我入鹿暗殺(乙巳の変)の前と後で大きく変わります。
5世紀~645年 蘇我氏の保護を受ける百済人にとる仏教の普及、寺院、仏像の建築
645年以降 大陸、唐の都「長安」など真似した都(遣隋使、遣唐使など、大陸へ直接の航海)
まもなく「古事記」の編集が始まります。
天照大御神崇拝、天孫降臨の神話は既にあります。
前方後円墳と云う古墳を使った先祖崇拝もあります。
近畿奈良に百済人街が出来て仏教(大乗仏教)が普及します。
蘇我氏滅亡以後は百済人が権力座から離れていきます。
交易が大陸の国(隋、唐)へ変わります。当然、魏志倭人伝など大陸に史記も読みます。
倭国、邪馬台国、卑弥呼などの記載は無視できなかったでしょう。
そこで、国内、海外へ向けて天皇制度の正当性を示すヤマト朝廷の歴史書「古事記」を作成するわけです。
神仏習合を支持する権力者はいません。
大乗仏教の宇宙観に負けないもの仕上げる必要もあります。
既にあった天照大御神に先代イザナギ・イザナミを加え、更にその先祖も加えます。
天孫降臨したニニギや神武東征も仏教の御釈迦様をイメージした挿入部分の様な気がします。
国生みなどが追加されたのも。大乗仏教の影響でしょう。
中巻は、聖徳太子らの「天皇記」の影響が大きい
下巻は、既に知る人が多い身近な歴史です。蘇我氏も聖徳太子も本当は記述したくなかったでしょう。
蘇我氏全盛の645年前と古事記編集開始の時代のほんの少し前です。
その影響は必ずあったでしょう。
再度、歴史をまとめてみると。
5世紀には、朝鮮半島は高句麗が南下して百済を支配、多くの百済人が倭国へ移住
538年 百済の聖明王から仏教が伝来した。
552年 百済が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上
神道派の物部氏 と 仏教派の蘇我氏の争いとなり、結果は
587年 丁未の乱、物部氏が滅びる。(蘇我馬子が物部守屋を倒す)
592年 蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺させ,蘇我稲目の孫にあたる推古天皇を即位させます。
593年 聖徳太子が皇太子となり,推古天皇の摂政となる。(太子20歳) 四天王寺を建立する。
605年 飛鳥の大仏(飛鳥寺の御本尊の「釈迦如来坐像」)
聖徳太子や蘇我馬子や皇子とともに発願し、鞍作鳥(百済の仏師)によって造られた日本最古の大仏。
607年 法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町 )創建
645年 中大兄皇子と中臣鎌子による蘇我入鹿暗殺(乙巳の変)が起きます。
蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』を焼いて自殺し、蘇我本宗家は滅びた。
同年に大化の改新
672年 中大兄皇子(天智天皇)の二人の子供 大友皇子(弘文天皇の称号を追号)VS大海人皇子(後の天武天皇)の争い
壬申の乱(近江朝廷軍が応援する大友皇子軍 を 周囲の国々が支援する大海人皇子に勝利)
始めての大和朝廷の都 飛鳥京(奈良県高市郡明日香村)が作られた。
694年 藤原京(奈良県橿原市と明日香村にかかる地域)唐(中国)の長安をモデルにした。
710年 平城京(奈良県奈良市及び大和郡山市近辺)唐の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣
712年 古事記完成
720年 日本書紀完成
744年 難波京(大阪府大阪市)に都をうつす
745年 再び、平城京
747年 東大寺大仏の鋳造開始
752年 東大寺大仏の開眼供養がおこなわれる
784年 長岡京(京都府向日市、長岡京市)に都をうつす
794年 平安京(京都府京都市)に都をうつす
文化的には、645年の蘇我入鹿暗殺(乙巳の変)の前と後で大きく変わります。
5世紀~645年 蘇我氏の保護を受ける百済人にとる仏教の普及、寺院、仏像の建築
645年以降 大陸、唐の都「長安」など真似した都(遣隋使、遣唐使など、大陸へ直接の航海)
まもなく「古事記」の編集が始まります。
天照大御神崇拝、天孫降臨の神話は既にあります。
前方後円墳と云う古墳を使った先祖崇拝もあります。
近畿奈良に百済人街が出来て仏教(大乗仏教)が普及します。
蘇我氏滅亡以後は百済人が権力座から離れていきます。
交易が大陸の国(隋、唐)へ変わります。当然、魏志倭人伝など大陸に史記も読みます。
倭国、邪馬台国、卑弥呼などの記載は無視できなかったでしょう。
そこで、国内、海外へ向けて天皇制度の正当性を示すヤマト朝廷の歴史書「古事記」を作成するわけです。
神仏習合を支持する権力者はいません。
大乗仏教の宇宙観に負けないもの仕上げる必要もあります。
既にあった天照大御神に先代イザナギ・イザナミを加え、更にその先祖も加えます。
天孫降臨したニニギや神武東征も仏教の御釈迦様をイメージした挿入部分の様な気がします。
国生みなどが追加されたのも。大乗仏教の影響でしょう。
中巻は、聖徳太子らの「天皇記」の影響が大きい
下巻は、既に知る人が多い身近な歴史です。蘇我氏も聖徳太子も本当は記述したくなかったでしょう。
蘇我氏全盛の645年前と古事記編集開始の時代のほんの少し前です。
その影響は必ずあったでしょう。