古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

蘇我氏VS物部氏(3/3) 朝廷の財政を握る蘇我氏

2016-10-08 17:54:14 | 歴史
天皇家内部で後継者争いが続き弱体化の一方、豪族が力をつけてきます。
その中の一人、蘇我 稲目
大臣の役につき、朝鮮半島から得られる莫大な財政を自由に操る様になります。
その中には、仏教に関するものもありました。
古くから天皇に使える大連 物部尾輿と新興勢力 大臣 蘇我氏稲目対立が始まります。
・争いの始まり
552年 百済が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上
 優れた文化である仏教を受け入れるべきと蘇我稲目が答えたのに対して
 物部尾輿や中臣鎌子らは外国の神を受け入れれば,日本古来の「国つ神」が怒ると反対
 欽明天皇は試しに拝んでみるようにとこれらを蘇我稲目に授けた。
 稲目は小墾田の自宅に安置し,家を浄めて寺とした。向原の家は日本最初の寺となる。
稲目の二人の娘は天皇家に嫁ぎ、その孫として厩戸皇子(後の聖徳太子)が生まれており

国内で疫病が流行った時,尾輿はその原因が仏教のせいだと批判した。
物部尾輿は寺を焼き、仏像を難波の堀江に流した。

570年 蘇我稲目死亡、物部尾輿も死亡したとされています(生没年不詳)
 蘇我馬子VS物部守屋の時代へ
この後も疫病は続き,天皇までも病死してしまう。続く用明天皇も2年で病死し
蘇我氏と物部氏の対立は宗教対立からやがて武力衝突へと発展します。
587年 丁未の乱(ていびのらん)
蘇我馬子は厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の守屋の館へ進軍します。
物部守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。雨のように矢を射かけた。
皇子らの軍兵は恐怖し、一度退却しますが、
厩戸皇子は仏法の加護を得て、戦勝を祈願して、蘇我馬子は軍を立て直して進軍させた。
大木に登っている守屋を射落として殺した。物部守屋の一族らを殺した。
物部守屋の軍は敗北して離散した。

・争いの終結後
592年 蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺させ,蘇我稲目の孫にあたる推古天皇を即位させ。
聖徳太子が摂政となり,政治を行った。
ここに,推古天皇,聖徳太子,蘇我馬子という蘇我氏の血族による権力集中の政治体制が確立します。
この権力一極体制が律令国家の形を作り上げます。

・蘇我蝦夷(えみし)、蘇我入鹿(いるか)父子が朝廷での実権を握ります。
643年 蘇我入鹿は「大臣-紫の最高位」となり,外交・財政を一手に担います。

蘇我氏は全盛を極めますが、物語は続きがあります。
次の機会に紹介したいと思います。

日本古代の歴史に興味を持って頂ければ幸いですが、
ちょっと生々しい話になりましたね。
ジャンル:
文化
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