古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

神功皇后と14代仲哀天皇と15代応神天皇

2016-12-23 19:52:16 | 歴史
神功皇后と14代仲哀天皇と15代応神天皇の関係
・仲哀天皇の妻が神功皇后
・この夫婦の子供が応神天皇
その第四子が16代 仁徳天皇となります。
この時代には諸説あります。日本書紀が云うには
199年 神功皇后と仲哀天皇が熊襲討伐のため儺県(奴国)の香椎宮を訪れる。
そこで、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。
託宣では熊襲よりも宝のある新羅を攻めよとされた。
しかし、仲哀天皇は、これを信じず、熊襲征伐を行うが、敗北し、撤退した。
200年 筑紫の香椎宮で崩じた。
皇后らはこれを「神の託宣を聞かなかったためだ」と嘆いた。

時代的には、魏志倭人伝に紹介される卑弥呼であるが
卑弥呼は独身、子供はいないのである。

神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。
齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。
その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。
お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。
新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。(三韓征伐)
身重の皇后が、直接出兵する。出産を遅らせる為、石でおなかを冷やす。
帰国後、九州で応神天皇を出産、神功皇后が長寿ですので、応神天皇が71歳で即位

皇后在籍期間が68年、卑弥呼が180年から248年とすると68年で一致するのですが
5世代子孫の継体天皇が509年、25代武烈天皇までが兄弟で即位しているケースもあるので6世代
1代が40~50年ほどになり、あり得ない。
当時の事は、魏志倭人伝にあり、狗邪韓国(朝鮮半島南端 プサン辺り)が倭国の領土である。
神功皇后は130歳まで生きているともあります。
卑弥呼=神功皇后 はちょっと無理としか言えません。

この問題を解くがカギは紀年です。
年号を120年、或いは60年繰り上げて読み直してみます。
>神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。
神功皇后が261年から269年までの8年間政事を執り行なった。
神功皇后が321年から329年までの8年間政事を執り行なった。
後の仁徳天皇も在位87年、399年に崩御です。


どちらにしても、古事記・日本書紀共にこの時代の記述は信ぴょう性をかなり失います。
古事記の
2.中つ巻(初代から十五代天皇まで)
3.下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)
で表現が変わったと思うのですが・・・
加えて、仲哀天皇は52歳で亡くなり、父 ヤマトタケル(日本武尊)の薨後36年目に生まれ
神功皇后を妊娠させている。
神功皇后が応神天皇を出産する際は仲哀天皇は既に亡くなっており、近畿を離れた九州で出産
下世話な発想だが、仲哀天皇が熊襲征伐の間に不倫したと想像してしまう。

26代天皇 継体天皇

2016-12-23 17:24:45 | 歴史
33代推古天皇(女帝)から遡る26代天皇 継体天皇は重要人物です。
最大古墳 大仙陵古墳で有名な16代天皇 仁徳天皇の家系で繋がる天皇家
そして、悪逆非道で有名な武烈天皇の死で大きな変換点となるのが継体天皇

506年 武烈天皇が後嗣定めずして崩御
     当時の大臣ら(大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人ら)が協議したしたが後継者が決まらない。
     近畿地方は乱れていて、天皇は暗殺される危険がある立場、地域の一族は怖くて天皇になろうとしない。
507年 応神天皇から5世代子孫となる継体天皇を地方から呼び寄せる。
     男大迹王(をほどのおおきみ)として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
     いわゆる人物主義の人選を行ったのです。既に高齢であったと云われています。
527年 即位後19年経過、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが。
     筑紫碧の乱に突入
     筑紫碧の乱に勝利後、九州から日本海ー琵琶湖ー宇治川ー淀川ー瀬戸内海までを統治を可能にした。
27代  安閑天皇 第一子
28代  宣化天皇 第二子
29代  欽明天皇 第四子 と当時として一族の長期政権となります。
しかし、この長期政権も物部氏と蘇我氏の対立、仏教と神道の取り扱いが原因で内乱になりますが。
16代仁徳天皇から直系血筋で繋がった25代武烈天皇の血筋が切れて、15代天皇子孫とされる継体天皇
実際は、天皇家の血統が一度、途切れているとも云われています。
各地方の9人の女性との間に21人の子供を作ったともいわれています。
古墳は、茨木市の太田茶臼山古墳とされていますが、近年の調査では数百メールと離れたところにある今城塚古墳が有名です。
過去の天皇が河内・羽曳野に古墳を作ったことに対して、茨木・高槻に古墳を作ります。
過去の天皇とは異なる事を示唆しています。
しかし、この古墳時代も仏教の伝来と共に飛鳥時代に突入してなくなります。
古墳時代にヤマト王権が西日本を統一したのが、この継体天皇ではないでしょうか。
中国が倭国と呼んだのは九州北部であったなら、
西日本一帯を大倭と呼び近畿を中心にヤマト王権が権力を付けた時代です。

邪馬台国(卑弥呼)が200年前半とすれば、大倭国が出来るまで250年以上かかりました。

「天皇記」と「国記」

2016-12-23 16:21:20 | 歴史
古事記・日本書紀より以前に、天皇家の歴史と国の成り立ちを記載した日本の史記がありました。
「天皇記」と「国記」です。
聖徳太子と蘇我馬子がこの時代に共同で編纂しました。
しかし645年の中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼした乙巳の変で焼失したとして現存はしていません。
つまり、聖徳太子は既に、自らの一族を天皇と呼び、大陸の皇帝と比較して国を治めるトップ一族として紹介した。
国記では、天皇家一族が古代から日本を統一していく歴史が書いてあったはずです。
その内容が古事記・日本書紀に引き継がれたでしょう。
日本神話や神武天皇から推古天皇以前までの武勇伝が書いてあったはずです。
古事記では、更に33代天皇推古天皇の記述が加えられます。
672年壬申の乱後、天武天皇が、天皇記・国記に代わる国史の編纂を命じています。
古事記・日本書紀と天皇記・国記の内容が類似ている事は間違いないでしょう。

古事記
1.上つ巻(序・神話)
2.中つ巻(初代から十五代天皇まで)
3.下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)
の3巻より成っている。
中つ巻は15代天皇 応神天皇で終わり
下つ巻は16代天皇 仁徳天皇で始まります。

皇帝と天皇と国王

2016-12-23 14:51:45 | 歴史
天皇は、日本独特である事は皆さんご存知の通りです。
では、いつから天皇と云う名前が始まったのでしょうか。
古代中国で、秦の始皇帝が初めて、大陸の国々を無力で統合して秦と云う帝国を作り
自らを始皇帝と名乗ります。
既にローマ等で皇帝(エンペラー)がありましたので、大国が周囲の諸国を統治したら
そのてっぺんに立つものが帝王、皇帝という事です。
その後、大陸から 「漢の倭国王」(紀元前57年)と「親魏倭王」(238年)に送られています。
皇帝から諸国の王に贈られていますので、日本は帝国の一部となる国という事です。
しかし、倭国には、古くは100余、親魏倭王の時代には30国で、その集まりが倭国です。

天皇は、600年に聖徳太子が遣隋使を通じて、隋の煬帝にあてた手紙のなかに「日出る処の天子」
皇帝と対等の称号を使い、天武天皇の時代(673年)に律令制度において規定されました。

しかし、古事記・日本書紀では、初代天皇が神武天皇でBC660年です。
出来たのが両方とも平安時代ですので、時の都合によって書き加えられて事は間違いありません。
信ぴょう性が高い部分で
539年 第29代欽明天皇(きんめいてんのう)・・・仏教公伝から
物部尾輿と蘇我稲目の争い
33代 推古天皇と摂政 聖徳太子
乙巳の変(中大兄皇子と中臣鎌子が蘇我入鹿を暗殺)は事実だと思います。
勿論、まだ天皇と云う呼び名はありません。

29代欽明天皇以降は、実存した天皇であることは間違いありません。
では、それ以前の天皇と古代の出来事について考えてみます。