神功皇后と14代仲哀天皇と15代応神天皇の関係
・仲哀天皇の妻が神功皇后
・この夫婦の子供が応神天皇
その第四子が16代 仁徳天皇となります。
この時代には諸説あります。日本書紀が云うには
199年 神功皇后と仲哀天皇が熊襲討伐のため儺県(奴国)の香椎宮を訪れる。
そこで、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。
託宣では熊襲よりも宝のある新羅を攻めよとされた。
しかし、仲哀天皇は、これを信じず、熊襲征伐を行うが、敗北し、撤退した。
200年 筑紫の香椎宮で崩じた。
皇后らはこれを「神の託宣を聞かなかったためだ」と嘆いた。
時代的には、魏志倭人伝に紹介される卑弥呼であるが
卑弥呼は独身、子供はいないのである。
神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。
齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。
その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。
お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。
新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。(三韓征伐)
身重の皇后が、直接出兵する。出産を遅らせる為、石でおなかを冷やす。
帰国後、九州で応神天皇を出産、神功皇后が長寿ですので、応神天皇が71歳で即位
皇后在籍期間が68年、卑弥呼が180年から248年とすると68年で一致するのですが
5世代子孫の継体天皇が509年、25代武烈天皇までが兄弟で即位しているケースもあるので6世代
1代が40~50年ほどになり、あり得ない。
当時の事は、魏志倭人伝にあり、狗邪韓国(朝鮮半島南端 プサン辺り)が倭国の領土である。
神功皇后は130歳まで生きているともあります。
卑弥呼=神功皇后 はちょっと無理としか言えません。
この問題を解くがカギは紀年です。
年号を120年、或いは60年繰り上げて読み直してみます。
>神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。
神功皇后が261年から269年までの8年間政事を執り行なった。
神功皇后が321年から329年までの8年間政事を執り行なった。
後の仁徳天皇も在位87年、399年に崩御です。
どちらにしても、古事記・日本書紀共にこの時代の記述は信ぴょう性をかなり失います。
古事記の
2.中つ巻(初代から十五代天皇まで)
3.下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)
で表現が変わったと思うのですが・・・
加えて、仲哀天皇は52歳で亡くなり、父 ヤマトタケル(日本武尊)の薨後36年目に生まれ
神功皇后を妊娠させている。
神功皇后が応神天皇を出産する際は仲哀天皇は既に亡くなっており、近畿を離れた九州で出産
下世話な発想だが、仲哀天皇が熊襲征伐の間に不倫したと想像してしまう。
・仲哀天皇の妻が神功皇后
・この夫婦の子供が応神天皇
その第四子が16代 仁徳天皇となります。
この時代には諸説あります。日本書紀が云うには
199年 神功皇后と仲哀天皇が熊襲討伐のため儺県(奴国)の香椎宮を訪れる。
そこで、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。
託宣では熊襲よりも宝のある新羅を攻めよとされた。
しかし、仲哀天皇は、これを信じず、熊襲征伐を行うが、敗北し、撤退した。
200年 筑紫の香椎宮で崩じた。
皇后らはこれを「神の託宣を聞かなかったためだ」と嘆いた。
時代的には、魏志倭人伝に紹介される卑弥呼であるが
卑弥呼は独身、子供はいないのである。
神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。
齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。
その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。
お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。
新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。(三韓征伐)
身重の皇后が、直接出兵する。出産を遅らせる為、石でおなかを冷やす。
帰国後、九州で応神天皇を出産、神功皇后が長寿ですので、応神天皇が71歳で即位
皇后在籍期間が68年、卑弥呼が180年から248年とすると68年で一致するのですが
5世代子孫の継体天皇が509年、25代武烈天皇までが兄弟で即位しているケースもあるので6世代
1代が40~50年ほどになり、あり得ない。
当時の事は、魏志倭人伝にあり、狗邪韓国(朝鮮半島南端 プサン辺り)が倭国の領土である。
神功皇后は130歳まで生きているともあります。
卑弥呼=神功皇后 はちょっと無理としか言えません。
この問題を解くがカギは紀年です。
年号を120年、或いは60年繰り上げて読み直してみます。
>神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。
神功皇后が261年から269年までの8年間政事を執り行なった。
神功皇后が321年から329年までの8年間政事を執り行なった。
後の仁徳天皇も在位87年、399年に崩御です。
どちらにしても、古事記・日本書紀共にこの時代の記述は信ぴょう性をかなり失います。
古事記の
2.中つ巻(初代から十五代天皇まで)
3.下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)
で表現が変わったと思うのですが・・・
加えて、仲哀天皇は52歳で亡くなり、父 ヤマトタケル(日本武尊)の薨後36年目に生まれ
神功皇后を妊娠させている。
神功皇后が応神天皇を出産する際は仲哀天皇は既に亡くなっており、近畿を離れた九州で出産
下世話な発想だが、仲哀天皇が熊襲征伐の間に不倫したと想像してしまう。