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古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

邪馬台国(卑弥呼)の歴史と日本神話

2016-12-18 14:38:42 | 歴史
古事記・日本書紀に冒頭に出てくる日本神話
これが邪馬台国(卑弥呼)の歴史を表している様に思えるので、対比してみました。
日本神話 国生み、神産み 天上の世界を高天原に住む、男神のイザナギノミコトと女神のイザナミノミコトが日本の島々を作ります。
 女神イザナミが亡くなり、イザナギがアマテラス、スサノオ、トキヨミの三貴神を産みます。
 このイザナミが初代卑弥呼、イザナギがその弟を例えているのではないでしょうか。

日本神話 アマテラスとスサノオの誓約
 スサノオは、後に出雲の国造りに登場しますが、ここでは、仲の悪い二人の兄弟です。
 アマテラスが女性で、優しい性格で高天原を収める命令を受けます。
 スサノオは、地上階を治める様に命令を受けますが、子供っぽい乱暴者です。
 アマテラスが邪馬台国で祈祷を行い、スサノオは朝鮮征伐を行った軍隊一族とみます。

日本神話 天岩戸
 アマテラスが岩戸に隠れたため世の中が暗闇になる。アマテラスが出てくることで元の明るい世界に戻る話です。
 2代目の卑弥呼が亡くなり、3代目の卑弥呼が誕生するまでの話を例えています。

日本神話 国譲り
 アマテラスがスサノオの子孫に出雲の国を自分の子供に譲る様に要求する話です。
 親魏倭王となった卑弥呼が、その権力を武器に出雲国を倭国連合にいれて、自分の子孫に継がせる。
 邪馬台国と同じような館を作らせた事を、卑弥呼側に有利にまとめています。
 ここで登場するスサノオも最初のスサノオが荒々しい性格の持ち主の軍人であったのに対して
 ここでは戦いごとが無く話し合いで国を譲ります。スサノオがおとなしい性格の王となっています。
 この事実が、後にアマテラストスサノオを兄弟として扱う理由となります。

日本神話 天孫降臨
 アマテラスの子孫ニニギが高天原を下りて日向の土地で国造りを始める話です。
 九州北部の卑弥呼崇拝の邪馬台国連合が九州北部を追われて、逃げ延びる話です。
 もちろん、日本国の祖となる天皇家の話ですので、逃げる話ではありません。
 武力、財力で勝る筑紫一族に攻められる吉野ケ里の様な守備防衛しか持たない弱小国が国を捨てたはずです。

日本神話 神武東征
 ニニギの子孫であるカムヤマトイワレビコが、九州を離れて瀬戸内海の国々を討伐しながら近畿の奈良盆地で
 初代天皇 神武天皇となる話です。
 実際は、日向に住むニニギ一族(旧邪馬台国一派)が近畿に住む最終代の卑弥呼を応援するために近畿へ移動した話です。
 東征の途中でカムヤマトイワレビコは福岡に寄り滞在しています。
 これは九州北部の一族が東征に参加したという事ではないでしょうか。
 日向、大分の土地を譲る代わりに武器、軍人をえたのです。捨て身の技に打って出たという事です。
 武力に勝るニニギ一族が近畿で政権のトップになり女性神の時代に終止符を打ちます。

古事記も日本書紀も300年ほどの後に、京都に都をおいて平和な時代をきづいた天皇家の為に書かれた書物です。
事実はかけ離れてはいるでしょう。それぞれの諸国にも歴史はあったでしょうが、すべて排除されます。
唯一、出雲国のみがスサノオとしてアマテラスノ兄弟に扱われます。
神話では、ヤマタノオロチ退治にも登場します。
それだけ出雲が強国であったのでしょう。
高天原は、九州北部にあった邪馬台国で初代、二代目の卑弥呼が過ごした国です。
天孫降臨の神話では、日向や出雲など場所を特定できる地名がでてきますが、九州北部の地名はありません。
九州北全体を高天原と称していたと思います。
イザナミ、イザナギが産んだ多数の神々は、九州北部の邪馬台国連合の王たちであり、その国で祀られていた神々
当時の生活で重要だった自然崇拝の神様たちです。

二代目卑弥呼が天岩戸事件の前のアマテラス、三代目卑弥呼が後のアマテラスとなります。
少なくとも卑弥呼は4人はいました。
そして3人は九州で亡くなっています。しかし、卑弥呼は神ですの死体があってはなりません。
最終代の卑弥呼は、近畿で亡くなり箸墓古墳に埋葬されます。既に神ではありませんので
後に神功皇后、倭迹迹日百襲姫命などで幾度も登場します。
180年から260年位までの話を古事記・日本書紀では数千年の歴史として物語に仕上げました。
国の名前は 邪馬台国は ヤマト国と呼び、後のヤマト朝廷まで国の呼び名が続きます。
邪馬台国は、諸国から集められた女性の国なので、血筋はありません。
天皇家の血統とされるの神武天皇以後ですので、それ以前は神として扱わざるを得なかったのでしょう。
その後も天皇家が時の権力者との血縁関係で継続します。

180年の倭国の大乱以後、ヤマト朝廷までの時代は全てがヤマト朝廷に成り立ちだったのです。
歴史上では、古墳時代にヤマト王権の影が薄れて諸国の豪族の時代と扱われます。



卑弥呼の人柄(その4)

2016-12-18 12:03:21 | 歴史
前投稿、卑弥呼の人柄(その1~3)の続き、最終話です。
238年 魏へ朝貢、親魏倭王の金印を受ける。
248年 卑弥呼死す。
これは、同一の人物ではないでしょうか?
230年位から権力を握った、20代中頃の女性
彼女の行動と判断
1、漢が滅び、魏蜀呉の三国時代、中国大陸が乱れる。
  公孫氏が朝鮮北部で独立、公孫氏との友好関係を築く
2、魏が公孫氏を滅ぼしにかかる
  魏へ朝貢し、親魏倭王の金印を受ける(238年)
3、金印を利用して、出雲国へ倭国連合へ加わるよう圧力をかける。
  出雲に、卑弥呼の館を作り、出雲へ移住、周囲の諸国から女性を集める。
  九州連合と同じように、出雲を中心に中国地方連合国を作り上げる。
  多分に、240年後
4、近畿地方の諸国にも同様の圧力をかけるが、近畿有力一族が納得せず。
  大陸との交易がない近畿地方では、金印が有効でない。
  卑弥呼は、奈良盆地で新しく国造りから行う事とした。
5、各地の豪族の王が権力を象徴するために大きな古墳(円墳)作っていた。
  近畿の卑弥呼は、新しい祈祷の薬価たとしても使える卑弥呼流の前方後円墳の作成に取り掛かる。
  労働力が必要なため、九州から一族を呼び寄せる(後の物部氏、蘇我氏)
中国、朝鮮半島の外交で権力をわが物にした卑弥呼の暴走です。

6、九州地方で筑紫氏が邪馬台国に従わず朝鮮半島島の交易の利益を独り占めする。
  九州邪馬台国が財力を失い、卑弥呼信仰の国々が筑紫氏など新興権力から攻撃される。
  吉野ケ里など邪馬台国連合が九州北部を追われて移住する。
  南には狗奴国があるため、東へ進み大分、宮崎に集結し生活する。

7、近畿地方でも卑弥呼が死す。邪馬台国の有力者が集まり、女性を神として信仰する卑弥呼信仰を終わりにして
  現実路線へ政治の舵取りを変える。
  卑弥呼を古墳に埋葬することで、不老不死の卑弥呼(神)の存在に終止符を打ち、
  新しく男性を中心としたヤマ王権国家に取り掛かる。(248年)

初代・・・九州北部で、無理やりに祈祷を行い国をまとめる役に着いた卑弥呼
中間代・・自分を神の存在に信仰を強める卑弥呼
中間代・・財力を蓄え九州北部の国々を従わせる卑弥呼
最終代・・中国 魏から金印をもらい、中国地方、近畿地方と権力の範囲を広げようとした卑弥呼
最終代・・九州北部の豪族が従わなくなり、財力を失い、亡くなる(或いは葬られた)卑弥呼
近代にあったバブルの崩壊にも似ているような???

九州北部を離れて大分にて国造りした邪馬台国一派は、台与 を代表として再興を図ります。
中国でも 魏が内部クーデーターにより滅びます。
中国の西斉との交流を図りますが、失敗に終わります。

これらの流れを日本神話に当てはめてみると面白いので次に紹介します。

  

卑弥呼の人柄(その3)

2016-12-17 14:58:02 | 歴史
先の投稿
卑弥呼の人柄(その1)
卑弥呼の人柄(その2)の続きです。
220年から238年までを考えてみましょう。

この時代で、知っておくべきことは中国情勢です。
三国時代に突入、魏が優勢になる。朝鮮半島で
遼隧の戦い(238年 りょうすいのたたかい)で、公孫氏の滅亡、一族が滅びます。

ここで、卑弥呼が下した判断と時期が実に巧妙です。
朝鮮半島北部(現 北朝鮮)が公孫氏の領土、南部(現 韓国)は倭国の領土です。
大陸の情報は得にくい状態です。

それまでは、公孫氏とも友好であった倭国
魏が公孫氏と戦いになると知ると、魏に貢物を贈ります。卑弥呼の朝貢です。
この背景は、当時の航路にあります。
1、朝鮮半島内側(黄海)経由、プサン、壱岐対馬経由、末盧国、伊都国
2、プサン、沖ノ島経由、不弥国(宗像市)
3、新羅、隠岐の島経由、投馬國(出雲国)
4、中国黄河=>済州島=>五島列島=>華奴蘇奴国(かなさきなこく長崎)
の大陸との航路あったでしょう。
当時、魏志倭人伝に出てくる国については諸説ありますが
華奴蘇奴国(かなさきなこく)は長崎で、雲仙や小浜温泉が蘇奴国と阿蘇山と同じイメージだったと考えています。
この4番目の航路、特に済州島からの情報が魏国の情報だったはずです。

その年に、公孫氏が滅亡して、倭国の卑弥呼は親魏倭王となるのです。
朝鮮半島北部が魏の領域になる事で、倭国と魏との直接交易が出来る様になりました
つまり、倭国は公孫氏を見限り、魏と友好を結びます。
この判断をした卑弥呼は、どの様な人物だったでしょうか。
感情に流されず、国益を優先とした、かなり冷静な判断を下しています。
祈祷や国王接待だけではなく、外交と云う政治戦略を身につけているのです。

三代目、四代目の卑弥呼は、諸国の国王に贈られた卑弥呼一族の女性が産んだ女の子が
奴国、伊都国で育てられ政治的考え方を身につけて、邪馬台国へ戻り卑弥呼として活躍を始めていたのです。
多分に伊都国、奴国、不弥国など倭国連合でも交易に強い国と密な関係を持つようになったのです。
この卑弥呼は、出雲国にも連合に加わる様に要請、近畿へも勢力を伸ばし始めます。
出雲にも卑弥呼の館を真似した建物が作られます。後の出雲神社です。
同様に、近畿の奈良盆地でも同様に新しい国造りが興ります。
魏志倭人伝に紹介される 
 女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。
近畿のことでしょう。
近畿の国王を招いて接待を行うには九州は遠いです。
第二の社(館)を近畿に作り祈祷と接待政治を行おうとしたのです。
欲望は、勢力地域の拡大の方向へ向かいます。
この行動に反旗をおこしたのが狗奴国の男王 卑弥弓呼です。
日本海沿岸の国々が交易の優位に立つ体制に反対する九州南部一族が
女性主導体制に対して、男性主導型の主張をもつ国からの反乱です。

こうして邪馬台国の中では、数代に続く卑弥呼政治が続きます。
魏志倭人伝に
  その(地の)人(たち)は寿考(考は老)で、あるいは百年、あるいは八・九十年ぐらいである。
と考えられない長い寿命が書いてあるのは、卑弥呼の様に代々同じ名前を使う風習があったからではないでしょうか。
元々、中国では東方の島に不老不死に薬草ありと云われていましたから、この伝説が影響した可能性もあります。
卑弥呼は、この伝説に従って生まれた女王です。
不老不死の神(仙人)になろうとしたのです。

続いて、卑弥呼政治の終焉時の卑弥呼の人柄について考えてみます。

卑弥呼の人柄(その2)

2016-12-17 08:53:45 | 歴史
卑弥呼の人柄(その1)の続きです。
結婚することなく、子供を産むことなく年をとった卑弥呼
両親も亡くなり、天涯孤独となったところで倭国連合の祈祷国家の長とさせられます。

しかし、その後の卑弥呼の活躍がすごい。
1、朝鮮半島の支配
  倭国大乱がおさまり、各地で軍力があまります。当然、地元に戻り農耕などの労働力になった人もいます。
  しかし、剣など武器があります。これが九州北部の諸国に残っている事が争いの原因になりかねません。
  卑弥呼は、余剰の軍人、武器など軍力を朝鮮半島へ向かわせ、支配するように命令(祈祷の結果)を出します。
2、祈祷や祭りごとが豪華になります。
  邪馬台国では、蚕から絹を作ったり、織物をする女性が集められます。
  儀式をするための道具もつかられてでしょう。美女は、接待役、踊り手となります。
  周囲は兵隊で守られて、邪馬台国の中を覗くことは許されないです。
  諸国からは、食べ物の他に鉄製品、鏡など青銅製品、若い女性などが貢物として集まります。  
  邪馬台国では、諸国の王が集まり宴会が行われます。
  竜宮城伝説の通りです。若い女性が踊り、珍しい料理や飾り物が飾られてでしょう。
  宴会が終わると若い女性が国王に連れられて行きます。
  卑弥呼は諸国の王との関係を強くして、連合体制を強固にし、そのトップの座に君臨するようになるのです。

邪馬台国では、二代目、三代目卑弥呼の時代となったのです。
初代のころに諸国から集まった女性(たぶん10代、20代の働き手としての女性)で国造りが始まります。
農耕や織物など、支配される労働力となる女性と卑弥呼の身の回りを世話する女性(支配する側)に分かれます。
倭国大乱を経験して、諸国から贈られた女性陣が30代になり二代目、三代目に卑弥呼になります。
幼いころに邪馬台国へ送られた女性陣が労働力として使われていたでしょう。
周囲の様子を知らない、男性を知らない幼女が成人となります。
国王の息子の結婚相手には邪馬台国の女が良いという風潮も作り上げたのです。

1も2も周辺諸国の状況を周知しており、国造りを真似しています。
祈祷の中に、物欲、権力欲が出てくるのです。
卑弥呼の人柄が初代の卑弥呼とは違ってくるのです。
たぶんに、西暦200年前後の出来事と思います。
この時代には、邪馬台国が諸国へ送り出した女性陣に子供が生まれて、5~6歳になります。
卑弥呼は、この子供らの内、女性を邪馬台国へ呼び戻します。
いわゆる人質政策です。更にこれらの女性は血統がはっきりしているので、次に諸国の王へ貢ぐ際のブランドでもあります。
朝鮮半島の征伐も成功し、倭国の支配下になり、卑弥呼の権力は益々つよくなります。
次の世代、230年頃に、次の段階へ発展します。


卑弥呼の人柄(その1)

2016-12-12 19:14:56 | 歴史
先の投稿の続きです。
こちらも参考にして下さい。
やはり、魏志倭人伝からです。

その国は、もとまた男子をもって王としていた。
7~80年まえ倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴る。
すなわち、ともに一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼という。
鬼道につかえ、よく衆をまどわす。年はすでに長大であるが、夫壻(おっと・むこ)はない。
男弟があって、佐(たす)けて国を治めている。
(卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。婢千人をもって、自(身)にはべらしている。
ただ男子がひとりあって、(卑弥呼に)飲食を給し、辞をつたえ、居拠に出入りしている。
宮室・楼観(たかどの)、城柵、おごそかに設け、つねに人がいて、兵(器)をもち、守衛している。

80年ほど続いた倭国大乱の時代に、諸国の王が卑弥呼を王とすることで納得した。
卑弥呼は、既に老人です。つまり両親も既に死んでいます。
独身ですので、子供もいません。
家族と呼べるのは、弟がひとりいました。
九州北部の一族に属して育ったのでしょうが、一族とは別れて、兄弟二人で独立した事になります。
男性と結婚もせず、子供を産むこともなく年老いたのですから、当時の状況を考えると
追い出されても仕方がなかったでしょう。見方を変えると、一族から見放されました。
そのような卑弥呼であったから、諸国の王も反対することなく国の代表としました。

しかし、王となって以来、卑弥呼は人前にでなくなります。
つまり、卑弥呼は年老いて人前に出れる状況ではない。
既に病状にふしていた。まもなく亡くなったのです。
しかしこれでは、倭国は大乱の時代に戻ってしまいます
仕えていた女性から卑弥呼を選び、役を演じさせます。
加えて卑弥呼は神であり、不死であると思わせるのです。
完全に密室な状態で、神 卑弥呼を作り上げ、祈祷を行うわけです。
初代、2代目の卑弥呼が実際に無くなっても、お墓は作られません。
ひっそりと土に戻されます。
当時の一般的な葬儀で甕棺に入れられて埋められたのではないでしょうか。

続いて、その後の卑弥呼を考えてみます。

弥生時代の葬儀

2016-12-11 19:07:44 | 歴史
当時の葬儀の様子の手がかりは、3つありました。
①魏志倭人伝
 その(地の)死(事)には、棺があって槨(そとばこ)がない。土を封(も)って冢(つか)をつくる。
 死ぬと、まず喪(なきがら)を停めること十余日、(その)当時は、肉をたべない。
 喪主は哭泣し、他人は歌舞飲酒につく。すでに葬れば、家をあげて(家じゅう)水中にいたり、澡浴(みそぎ)をする。
 それは(中国における)練沐(ねりぎぬをきての水ごり)のようにする。
この棺は甕棺だったでしょう。他にも木棺もあったはずです。
槨(そとばこ)は、文字がないのでなくて仕方がありません。
死者に対して残された家族が悲しんだ事が伺えます。
家族愛、同族愛とか、生んで育ててくれた事に対する感謝もあるでしょう。


②吉野ケ里の北墳丘墓、甕棺墓列
 吉野ケ里の歴史、紀元前100年位から3世紀までの九州北部の国の状況が遺跡として発掘されました。
 何といっても3000基の甕棺列と14基の王家の甕棺の墳丘墓が貴重な手がかりです。
③甕棺の分布と年代
 日本人の源流を探して
がみつかりました。

性と死
これは、古代も現代も変わりません、これからも不変です。
誰もが、自分が生まれた時を覚えている人はいませんし、死ぬ時を知る人もいません。
しかし、人は生活の中で、他の人が生まれてくる時に出会い、他の人が死ぬ時に出会います。
生まれる時(性)では喜びを感じて
死んでいく時(死)では悲しみや恐怖を感じます。
それだけに、老いていく行くことに恐怖を感じたでしょう。
死後には肉体が残ります。そこで葬儀が始まります。
儀式には、幾つかの理由が考えられます。
1、死体が蘇る事を恐れた。
2、死者、先祖を崇拝する。
3、老いを感じた時、死を感じた時に自分を残しておきたいと希望した。
等が考えられます。

紀元前300年、中国から徐福一団が不老不死の薬草を求めて日本へ来ます。
既に中国、黄河中流では甕棺による葬儀はありました。
儒教や道教の影響を受けた葬儀の儀式が日本にも伝わった事でしょう。
吉野ケ里や九州北部で発見される甕棺による葬儀は、弥生式土器の土器の発展と共に倭国でも実施されるようになります。
吉野ケ里の3000基の甕棺でわかる様に王以外の子供を含む、支配者層の遺体が埋葬されます。
王家一族は、一段高い墳丘に埋葬されます。

この葬儀の歴史に終止符を打つのが卑弥呼の墓です。
 卑弥呼はすでに死んだ。大いに冢つかをつくった。
 径(さしわたし)は百余歩・徇葬者(じゅんそう)のは百余人であった。
卑弥呼は、当時の時代に全く新しい儀式、祭りごとを始めたのです。
一人に大きな塚がつくられ、多くの徇葬者が道連れとなります。
これが古墳時代の始まりです。
但し、徇葬者と云う風習はすぐになくなり埴輪と云う形に変わります。
徐福など渡来人が作った弥生時代
それに終止符を打ち、古墳時代の始まりとなった卑弥呼
この卑弥呼の行動について考えてみたいと思います。




魏志倭人伝「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」の謎

2016-12-04 09:42:49 | 歴史
邪馬台国(卑弥呼)が登場するのは中国の史記の中でも魏志倭人伝だけです。
後の宋書などにも登場しますが、魏志を参考にしているだけです。
魏の王が金印や鏡などを贈ったりして、交流があった事は事実なので女王国は確かにありました。
しかし、その場所の特定で常に論争になるのが
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」
女王国は、南にあり、水行10日と陸行1月かかる と内容
奴国、不弥国まで到着した後に記述されているので
奴国、不弥国(現在の福岡)から南へ水行10日陸行一月 と多くの人が考えています。
既に投稿した通り
帯大群から女王国まで1万2千理とあり
帯大群から奴国、不弥国まで既に1万3百里かかっているので
女王国まで残り1700里
倭国の周囲が5000里ですので九州北部位です。

この矛盾を解決する手段は一つです。
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月」は
帯大群から女王国まで1万2千理の道のりを日数で表現したのです。
帯大群から南へ船で移動、途中で陸路で東に歩き狗邪韓国
ここで再度、船に乗り換え、対馬・壱岐を経由して末廬国(松浦半島)
ここから陸路(湾岸沿い)に歩いて奴国(福岡)さらに女王国まで〇〇日
という事です。
実際の問題として、奴国など九州北部から40日もかかる場所に女王が住み
祈祷を行った場合、その領地を統治する事が可能でしょうか。
仮に、日照りが続いて、雨ごいの祈祷を行う。
依頼するのに40日かかれば水田は干からびます。
卑弥呼が祈祷を行った館(邪馬台国)は九州北部(福岡、佐賀、熊本南部)に限られます。

南へ水行20日で、投馬国に至る について
帯大群を出港し、朝鮮半島で上陸せずに、そのまま船で南へ進みますので
済州島を経由して、五島列島(長崎)が投馬国(ずまこく)です。
紀元前に徐福船団が済州島を経由して日本へ来ています。
当然、最初の上陸地は五島列島です。五島列島は、古代より中国と密接な関係がありました。
高天原は五島列島の福江島とする説もあります。

邪馬台国と博多弁(方言)

2016-12-03 09:12:33 | 歴史
古代を知る方法は、中国の史記など歴史書と古墳などの遺跡の研究が一般的です。
他にも古代と現代を繋ぐものとして
1、神社、儀式など
2、地形、地名など
3、勾玉、織物など
古くから伝わるもの、あまり変わらない物があります。
神社もそうですが、祭りの神輿やだんじりは、平安時代、室町時代の物が多いようです。

そこで、九州弁(方言)と魏志倭人伝と比較しながら修正してみては
と、ふと思っただけです。

初心者向け博多弁の三つの簡単方法
1、形容詞の最後の い を か に変える。
例 寒い、熱い=> さむか、あつか  おいしいい、まずい => うまか、まずか
  白い、黒い=> しろか、くろか  早い、遅い => はやか、おそか
  他にも、うるさい=>せからしか 怖い=>えすか 小さい、大きい=>ちっちゃか、おおっきか  等
  ちょっと変形で 好き=>すいと~ きらい=>すかん
 
2、~する。~ですね。 を ~たい。 ~ばい。 ~だから は ~けん。に変える。
  そう思う =>そぎゃん思ったたい、そぎゃん思うばい、そぎゃん思うけん。
  博多地下鉄のICカードの名前が はやかけん

3、地名で 原 は はら と読まない、ばる と読む。
  前原 まえはら=>まえばる 黒原(くろばる)、白木原(しらきばる)等
  例外 唐原(とうのはる),塔原(とうのはる) など、途中に の を入れる場合。
  この 原 を ばる と読むのも九州弁の特徴の様です。
  これで、地元の人と他から来た人がわかります。
  この原(ばる)の地名も福岡と佐賀の県境と大分に多く分布しています。
  このふたつの地域が古代からあった地名ではないでしょうか。

この3つをマスターするとかなり、地元人になれた気がするでしょう。
邪馬台国のヤマタイも
魏の役人 山をゆびさして「あればなんですか?」
倭の役人 「ありゃ、ヤマタイ」 となるわけです。
ふつうに 「そりゃ ヤマばい」「ヤマと思うばい」ともなります。

古事記・日本書紀に出てくる 高天原(神様が住む天空の世界)も
何故、原の文字?と思うところがあります。
天空であれば、空 とか 宙 とかが神秘的ですよね。
原 だと、草が生えている地面ですので、地上です。
誓約の神話でも、機織の娘が高天原で働いています。
神様なら、指をパチンと鳴らして服を出してもおかしくないです。
天の岩戸の神話でも、岩穴にアマテラスが隠れる。周りで桶を叩いて、踊る。
天空界に岩穴があるの?かなり地上界の話になっています。
高天原も地上のどこかに話ではないでしょうか?
福岡、佐賀の県境あたり、大分市、別府市辺りが高天原(邪馬台国)の想定地と思うのですが。