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古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

古代日本の言葉「親魏倭王」は親魏倭(ヤマト)王だった。」

2016-11-19 19:09:46 | 歴史
魏志倭伝人に出てくる国の名前をひらがなで表示されているサイトを参考に分析してみました。
当時の倭人の言葉を勝手に漢字に当てはまられて、現在の読みに合わせて国名
さらに、ひらがなも後世に作られたものですので、当たらずとも遠くない程度です。
魏志倭人伝には、対馬、一支国など30国の国名が記述されています。その国名をひらがなに
して、使われたひらがなを分析してみました。
最も多いひらがな
8回 き
7回 な
6回 い、ま
5回 なし
4回 こ、と、や
残り、ばらばら
や、ま、と も上位の文字にあります。

最も多い母音
あ 28回
い 19回
お 11回
う  7回
え  0回
母音に え はなかったかもしれません。
あ行が多いですが、わ と は を会わせても 2回でした。
他の言葉で、卑弥呼(ひみこ)や卑弥弓呼(ひみひこ)など
い も結構使われていたようです

最も多い子音
か行  18回
あ行   9回
た行   8回
さ、ま、な行 7回

但し、な行は な が7回で、他はありません。
ここで 金印 漢委奴国王
主説では 漢の倭の国王 と読みますが、
つまり (我が国)漢は、あなたを 倭 の国王 と認める と訳しています。
委 は 倭 ではありません。 い です。
他にも 漢は 委奴(伊都国)を王とします と云う説もあります。

しかし 委 を 譲る、奴 を 奴隷 としたら如何でしょうか。
元々、 わ と云う発音を使った可能性は低いです。 い の方が正しいでしょう。
その意味は
(我が国)漢は、あなたを奴(隷)国王 に委ねる(とする) と訳されます。
何と金の印鑑で紫の袋に入った高尚な贈り物の意味は最悪の意味となります。
倭人が漢字を読めないことを良い事に、漢字が読める国々へとんでもない表示をしてくれています。

後に、魏の皇帝が卑弥呼に贈った金印は 親魏倭王(親 魏 わ 王) です。
倭とニンベンがついています。
魏の国は倭王と親しい と云う他、意味の取りようがありません。
魏志倭人伝に、邪馬台国の卑弥呼の朝貢に対するお礼で金印を送るとあります。
金印は 親魏邪馬台国王 でなければなりません。
金印では、使われる文字も限られます。邪馬台国と4文字も割くわけにはいきません。
つまり、倭 と云う新しい文字を作って 邪馬台(ヤマト)と呼び名も変えたのです。
親魏倭王 は 親魏倭(ヤマト)王 と呼びのが正解でしょう。

漢委奴国王 の 委 は い   であり
親魏倭王  の 倭 は やまと です。
我が国の人が自国の事を倭国(わこく)と呼んだことはないのです。
武皇帝は金印以外にも多数の鏡や絹布など送っています。
わざと、見下がる意味で 倭 と云う文字を使うはずはないでしょう。
元々、当時の古代人には わ も は も発音しにくい文字です。
わ国 と名前を付ける確率は皆無です。
古代より 倭国(わこく)存在しなかったのです。
漢委奴国王 は 漢は、あなたを委奴(伊都国)国王にする。 或いは 漢は奴国王に委ねる。
親魏倭王  は 魏は倭(ヤマト)王と親しい
なのです。



ヤマト王権の最大の武器 文字

2016-11-19 17:45:23 | 歴史
言語には、会話するための 話し言葉 と 文書を通じて伝える 書き言葉 があります。
書き言葉(会話)は古くよりあったはずですが、弥生時代に農耕や鉄製農具・武器が伝わっても文字(漢字)は浸透していません。徐福が日本列島へ来たのが紀元前3世紀で、仏教伝来で漢字が伝わるのが6世紀であれば、何と、漢字を覚えるチャンスがあったにも関わらす
千年近く、文字を書かななった事になります。
これこそが、日本古代史の一番の不思議ではないでしょうか。
文字を書くには、硯(すずり)筆、紙が必要ですが、これが大陸から伝わっていません。
紙が無くても、木片に炭で文字を書く、大きな石に小石で文字を書く方法もあります。
しかし、仏教と共に漢字が伝わるまで文字を持たなかった様です。
*一部には対馬文字など古代の日本の文字も発見されています。
現在でも、地方に方言がある様に、古代では、離れた国同士のことばによる話し言葉も有効な
手段ではなかったでしょう。
魏志倭人伝においても奴国まで魏の役人が往来して確かな情報が伝わっていますが
邪馬台国やその他の国々については、倭の民、生口から聞き伝えですでの精度が低くなってしまいます。
小さな国々(ムラ)が統合して少しづつ大きくなるのですが、会話や文書による統合ではなく
お互いの子孫を結婚させることで国の統合が主流だったはずです。
しかし、それがうまくいかなかった時に争い(戦争)が始まります、(倭国大乱)
その様な時代に、結婚しない(生涯独身)の女性陣 卑弥呼(巫女)に権力を委ねることで国をまとめるとはどの様な意味があったのでしょうか。
或いは、結婚しない女性陣であったから国がまとまったのかもしれません。
祈祷や占いで物事を判断する時代ですので文字は不要だったかもしれません。
会話も結婚を繰り返して同じ言葉を話すようになり国が大きくなると云う気ながい時代です。
この時代を打破したのが大和王権です。(古墳時代の終了)
大陸から離れていて、鉄や銅の入手で不利な地域、奈良盆地から権力者になりうる最大の武器
これが 文字 ではないでしょうか。
実際に、3世紀ぐらいに氏姓制度を出しています。離れた地方の一族に 氏名 と姓を与える
これには、文字を使ったと思います。
姓の中には、漢字を書く渡来人と思われる役職があります。
各地の権力図の様な地名、地図みたいなものがあったのではないでしょうか。
聖徳太子の時代に仏教と漢字の普及があります。
この漢字の普及こそが日本国家の統一を意味していると思います。
同じ文字(漢字)と話し言葉を使う事で、一つの国になりましょう。
これがヤマト朝廷の国家統一の手段だったのです。
出雲の国譲りや神武東征の神話も共通の言葉を使う国の広がりではないでしょうか。
今では、ちょっとした言葉が争いの元になったりしますが、当時では共通の言葉で意思を
伝える手段は大きな力だったはずです。


古代日本独特の文化

2016-11-19 16:07:49 | 歴史
日本にしかない文化という事でいくつか紹介します。
1、縄文式土器・土偶
  縄文式土器と弥生式土器でも紹介していますが、
  何と、縄文時代の土器(縄文式土器・土偶)は世界最古です。
  つまり、古代日本人が土に水を含ませて粘土にし、形を整えて、熱を加えると固くなる。
  この事実を自力で開発したのです。
  しかし、後に大陸から伝えられる弥生式土器に変わります。
2、勾玉(まがたま)
  こちらも 古代を知る三番目の手がかり 遺跡(勾玉)で紹介していますが
  縄文時代より存在、女性の飾りなのか、男性の権力を象徴、狩猟の際のお守り
  胎児を表している 等、諸説ありますが、とにかく、この形は他の国にはありません。
  そして、天皇の三種の神器 のひとつとして現代に伝わっています。
3、古代神道
  古く縄文時代から邪馬台国の時代までは、山の神、海の神など自然崇拝の時代です。
  他の国にも自然崇拝の多神教はありますが、特にどこの国から伝わったものでもない
  日本独特の宗教です。やはり、地震、洪水など自然の力は神様の仕業として、恐れていた
  に違いないでしょう。卑弥呼の鏡を使った鬼道、占いなどは大陸の儒教の影響でしょう。
  7世紀には、仏教の伝来があり、神仏融合の時代もありましたが、後に神仏分離の時代に
  なり、平然時代に現在の 神社・神道 の作られます。
  同じ時代に、日本書紀・古事記が作成されていますの、これらの史記に当てはまる構図に
  意図的に仕上げた事は間違いありません。
  現在の神社・神道は、混血となりますが、1800年前の平安時代から受け継がれた
  かなり古いもので、やはり日本独特と云えます。
4、前方後円墳の古墳
  古代国王の巨大墓という事では、エジプトのピラミッドなど多数あります。
  円墳や四角い古墳などが朝鮮半島にありますが、前方後円墳の形は日本が発祥地です。
  弥生時代に甕棺に遺体を入れて墓地に埋める葬儀の形があり、その中でも王クラスの首長
  は、特に大きな塚に埋められていたようです。
  魏志倭人伝に紹介されている卑弥呼の墓では、100人の殉教者を埋めて祭事をしており
  日本初の前方後円墳ではないかと云われています。円墳の中央に遺体をいれて、台形の
  部分で祭事を行っていたと云われています。
  この前方後円墳の形が世界初であり、後に朝鮮半島などへ伝わっています。
4、銅鐸
  青銅は朝鮮半島から入手、鋳造技術は大陸から伝わって来ましたので混血ではありますが
  この銅鐸の形は他国にはありません。その用途も祭事の打楽器として使われただろう程度
  真意のほどは不明です。古墳時代後期に無くなります。
この時代、中国は三国時代、朝鮮半島も侵略されたり、独立したりの繰り返しです。
島国、日本は中国の侵略を受けていない稀な国です。
倭国の大乱など豪族同士争いや後継者争いなど内紛に近い争いが繰り返されます。
平安時代から続く神社や天皇制度など、これほどの長い歴史を現在に伝えている稀な国です。