ハーバード・ケネディスクールからのメッセージ

2006年9月より、米国のハーバード大学ケネディスクールに留学中の筆者が、日々の思いや経験を綴っていきます。

対話式の授業

2006年11月02日 | ケネディスクールの授業

 

 明日、というか日付変わって今日までに提出しければならないレポートと格闘中ですが、行き詰ってしまったので気分転換もかねて…  

 昨晩遅く、東京から弟がやってきました。せっかくの機会なので、教授の許可を得て彼をケネディ・スクールの授業に参加させたのですが、日本の大学で典型的に見られる、一方通行な講義形式で、静かに、100名以上の大人数で、大教室で行われる授業、いわゆる「マスプロ授業」に慣れていた彼にとって、ケネディ・スクールの授業はそれなりに衝撃的だったようです。  

 これはケネディ・スクールに限らず米国の大学・大学院であればどこも同様かと思いますが、日本の大学の「マスプロ授業」と比較して以下のような相違点があります。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

① 教授と学生、あるいは学生同士の議論・質疑応答という「対話」により授業が展開される。

② Course Evaluationと呼ばれる、学生による教授と授業の詳細な評価(定量的・定性的評価)が組織的に行われいて、その結果は、学内のウェブサイトで全て開示される。

③ 教授のほかに、TA(Teaching Assisitant)やCA(Course Assistant)が複数名いて、宿題の添削や質問の受付等、教授と学生のサポートを行う。

④ 典型的な教室の形は、教壇を中心に、学生の机といすが「馬蹄形」に並べられているもの。生徒の数はどんなに多くても100名を超えることはない。大教室の場合は、学生の机にもマイクが据え付けられ、一人一人の発言が皆で共有される設備が整っている。

   

⑤ 授業が時間きっかりに始まって終わる。(教授が遅れて登場 する、講義が当日突然休講になる、なんていう日本の大学で日常的に見られる光景は、少なくともここでは、全くといっていい程ありません。寧ろ、始業前から教室で待っている教授が殆ど!)

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆  

特に、①に挙げた「対話式」の授業は、アメリカの教室風景として日本との対比でよく指摘されるところです。そして、その違いの原因を、「アメリカ人は小さいときからSpeak out(自分の意見を(遠慮せず)口にする)ことに慣らされている。日本人はそれが苦手なんだよね。」といって、両国の国民性に求める人は多いかと思います。

 本当にそれが原因なんでしょうか?  

 こちらで実際に教育を受けて、異なる要因が見えてきたように思います。それは一言で言うと、「教授と学生双方の努力と、努力を促す有形・無形のインセンティブの存在」ということです。  

 まず、学生側については、確かに皆、Speak outします。しかし、自分の考えやとっさに浮かんだ疑問を好き勝手に発言している訳ではなく(時にはそういうこともありますが、少なくとも、求められているのはそういうことではなく)、毎回数十ページ、時には100ページを超える膨大な量のReadingに取り組んだ上で、そこに記されている、これまでの学説・判例・データに基づいて、質問や議論をするのです。 

 次に教授側については、学生の発言や質問を促しつつ授業を進めるのは簡単なことではありません。「脱線」することも増え、予定通りのペースで進まなくなってしまうこともあるでしょうし、予想も出来ない質問に戸惑うこともあるでしょう。そういった「対話式」のデメリットを最小に抑えながら、一方で「多様な学生の様々な視点を共有できる」、「典型的な疑問点を皆で共有できる」という「対話式」のメリットを最大化するよう、うまく学生の議論をリードするよう、教授は研鑽をしている訳です。 

 また、こうした双方の持続的な努力を促すインセンティブが、例えばCourse Evaluationの実施、TA・CAによるサポート、Class Participationの成績へのカウントという形でビルトインされていますし、「対話式」をしっかり成り立たせる設備面での配慮も、例えば「馬蹄形」の机の並べ方や、マイクの配置等の形でなされています。  

 こうした、教授・学生双方の努力、ソフト・ハード、両面からの設備の充実があって初めて、意味のある「対話式」の授業が成立することになる訳です。 

 現在、少子化や国立大学の独立法人化等を受けて、日本のどの大学もその質の向上に苦慮しているようですが、質を競う時代だからこそ、「マスプロ授業」からの脱却はその一つの重要な要素だと考えます。そして、授業に関わる一人一人が、教授も学生もスタッフも、その質の向上に対して主体的に責任を負い、それぞれの努力の結果手に出来る「果実」を平等に楽むことのできる「対話式」の授業は、「マスプロ授業」の先にある一つのモデルのように思います。そしてまた、「対話式は、日本人の国民性に合わないから出来ない」といってあきらめてしまう必要もないと思うのです。

 そろそろ、レポートのほうに戻ります・・・


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。