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高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

11月29日 スタイリスト電話相談室

2005-11-30 | 千駄ヶ谷日記
ある日、私のブログに小学6年生からコメントが入った。
それが、とっても本質的な質問。
短く即答しましたが、足りないのでここに書かせていただく。
おとなの皆さまもお付き合いください。

「私は青森県の小学6年生です。
 私は今「総合学習」で将来の夢のことについて勉強しています。
 私の将来の夢はスタイリストです。人に合った物を合わせたりすることに興味あるからです。そこで、スタイリストとして活躍している高橋さんに質問したいのす。どうかよろしくお願いいたします。
 1、なぜスタイリストになろうとしたのですか?
 2、仕事で大変なことはありますか?
 おいそがしいと思いますが、よろしくお願いします。」


私が小学6年生の時、将来の夢という作文で「道端に咲く野の花になりたい。平凡な結婚をして、良き妻、良き母になりたい」と書きました。ずいぶんマセたこと書いたみたいだけど、その気持ちの半分は本当。それとうらはらに、「ものを創る世界で、きらきらとした人生を送りたい」という気持ちも、つねに持っていました。

遠くのきらきらした世界に近づきたくて、東京の大学に、そしてその頃新しかった広告界へ入り、まず、コピーライターのたまごになりました。そのたまごは孵化の途中で、いつのまにかスタイリストになってたのです。
なぜなら、たのまれたり、自分で見つけたりする仕事は、お使いとか、ものを手配することとか、雑用と呼ばれるようなことが多かった。
街を歩いて、何かを探す、、、そんなことが大好きで、それが次第に職業と結びついていったわけでした。
35歳ぐらいになって、ようやくスタイリストが私の仕事なのだ、と納得したけれど、この仕事は楽しさと、不安が隣り合わせです。
世の中の、自由業と呼ばれるものは、大体そういうものがつきまといます。

2
その時、その時代によって、大変なことはいっぱいあります。
明日から、私は建物関係の撮影にはいるはずでした。
ところが、今、世の中を揺るがす大変な事件が起きました。それで、数時間前にこの仕事はキャンセルとなってしまいました。
そんなふうに時代の波や出来事に左右されるのことも多いのです。

でも、基本は、好きなことをコツコツと続けること、好奇心と情熱をもち続けること、でしょうか。大変でも、なにか喜びがあったら、苦労は飛び散ってしまいます。
ではまたね。

写真 (とらばーゆ編集長の河野純子さんに撮っていただく)  神宮外苑にファッションウィークのテントがあったとき、さまざまなデザインのブースが出現した。そこで働いていた友人が、「ヤッコさんらしいよ、、、」として購入してくれた。ジョークっぽいものだけど、電磁波よけに、真面目に使う日もある。特に長電話の時は。

11月18日 横須賀功光の写真魔術「光りと鬼」

2005-11-22 | 千駄ヶ谷日記
美しい秋の日が続く。
東京郊外のロケで、広い日本家屋での撮影。
なかば紅葉した大きな木々からの木漏れ陽が、芝生に光りのまだら模様をつくる。
太陽が回って、その模様が刻々変化する中、撮影は順調に終ってはやい夕方には、家に戻っていた。

着替えて、恵比寿の写真美術館へ。
2年前に亡くなられた横須賀功光さんの遺作展のオープニング。
長友啓典さんの会場構成がすばらしいから混まないうちに観るように、という事前情報があったので、はやめに駆けつけた。
会場をさまよっていたら、涙が出てきた。
横須賀さんは今はもうエーテルになってしまって、違う世界にいる。
姿がない横須賀さんは、この純度の高いご自分の作品群とこの場所で呼応していることだろう。

息子さんの安里さんを、幼い頃から知っている親戚のおばさんみたいに眺めたり、松岡正剛さんや、館長の福原さんとお話させてもらったりしてたら、なぜか、プラスティックスの中西俊夫さんを発見。即、ミーハーに戻る。
「やっこさん、千駄ヶ谷日記のブログすごくおもしろいよ」
「えっ! みてくれてたの?」
と奇跡的みたいに喜んじゃったんだけど、後で考えたら彼の友だちの桑原茂一さんが宣伝してくれてたんじゃないかしら。

そのあと、スパイラルホールの、ひびのこずえさんのラストパーフォーマンス。
ほぼ若い人たちが長い列を作って、始まりを待っていた。
実は私はすでに初日に拝見していたのだけれど、今日は、横須賀さんのオープニングと、こずえさんのラストショーに、リトアニアのファッションデザイナーを連れて行ったのだった。
ニューヨークやロンドンで、私がその時代の何かに触れたり、仲間に入れてもらえたのは、たった一人でふらりと行った私に、糸口を与えてくれた人たちがいたおかげだ。
見知らぬ国でただ、風景を眺める旅行者ではなく、クリエイティブに生きている人の何かに連なることが出来たことが、人生のいちばんの幸運だったと思う。
だから、東京で、同じような外国人にあったら、私も彼らの役に立てたらいいな、と考える。

刺激的なことですっかり脳が目覚めっぱなしで、夜中まで「猫と小石とディアギレフ」(福原義春著 集英社)を読む。
朝から次の夜明けまで、こんなに張り切ってしまって、果たして明日は正常に生きられるだろうか。

写真 ・恵比寿写真美術館にて、中西俊夫さんと。ふたりとも、いまだに鋲が打ってある服を着てる。湘南でやるライブにさそわれたけど、残念ながら行けない。またこんど。

11月3日、4日 学園祭

2005-11-15 | 千駄ヶ谷日記
学園祭の季節で、文化服装学園で両日、女子大と学園のファッションショーを見た。
何千人の中から、やる気満々の学生たちが名乗り出て、オーデションを重ね、ショーのスタッフが決たったそうだ。
盛りだくさんのテーマで次々と出てくるが、デティールまできっちりできていてすごい。

この頃はコンピュータを使ってかなりふくざつなテキスタイルも作り出す。
プロのデザイナーの方たちのコレクションとは異なった迫力がある。この中から、近い将来、さまざまな才能が噴出するのだろう。
モデルも自分たちで堂々とやっているが、驚くほど小顔で背の高い女の子もちらほら。

彼女たち、もしかしたら、プロのモデルさんになるのでは?
私自身はこれでもか、と念の入ったロリータや、宝塚調がだーい好きだった。

この頃は、秋が短いような気がするけど、学園祭って、まさしく秋の行事だ。
早稲田では清志郎さんがライブをやったみたいだけど、追っかけられなくて残念。

写真 (撮影・Yacco) 

11月3日 秋のこぐれさんち

2005-11-08 | 千駄ヶ谷日記
秋の美しい日、こくれひでこさんのお宅にうかがった。
70年代表参道のイラストマップを描いていただくため。
今度出る私の本に、「若い読者のために、その頃のマップをつけたら?」と、大学でファッションを教えている先生にいわれて、「そうしよー」と即座に決心した次第。
そしたら、ひでこさんのお顔がこれまた即座に浮かんで、お願いにあがったのだ。
こぐれさんちは、新築になってからは初めて。
本やテレビで拝見していたけど、うかがいたいなと密かに思ってから、もう7年半も経っていた。
秋の陽射しがなくなるまで打ち合わせをして、あわてて撮ったけど、おっ、雑誌の取材には決して映らない洗濯物なども後方にあるぞ。
帰りには、下のスタジオで撮影中のこ小暮徹さんにご挨拶をし、高所恐怖症も忘れて、スケスケの階段を降りた。
季節が部屋の内外にゆったりと流れるように存在している家。
住んでいる人に大切な事は健康でいることだけど、その健康を家が運んでくれている。

都会でそういう生活が成立してるのがうらやましいな。

そこで、我が家のはなしですが、うちも都会にはめずらしく、季節と共存しているけど、共存の仕方が、時々しんどい事態となる。
そろそろ老齢に達してきた我が家は雨が続いたとき、事務所側の部屋が、ものすごい雨漏りで、停電の繰り返し。
これは大家さんが修繕してくれた。
今は住居側のバスタブに蟻の集団が出現する。地下の水道管がどこかずれていて、蟻の住宅と接しているらしい。
最初は数匹だったので、見つけるとつまんで、そっと庭に放していた。
次第に数が増えてきて、地面に返す作業も、大変になってきて、ある日ついに百匹、二百匹近い蟻が続々と現れた。
お風呂が使えないので、申し訳ないけどその時はシャワーで流しました。
私って、やさしいのか、残酷なのか、、、
昨日、お風呂場に近い庭の一角に蟻塚を発見。
蟻さん、私みたいにいつまでも働いてないで、早く冬眠しておくれ。

写真 (撮影・貝瀬裕一)

11月1日 東京コレクション2006春夏

2005-11-02 | 千駄ヶ谷日記
40年間一匹(♀)狼でスタイリストをしてきて、どこに所属するわけでもなく、どこの洋服のクレジットを紹介するわけでもない(大抵は広告やCMのしごとなので)のに、コレクションのシーズンになると招待状をいただいたりする。
新しいシーズンのためのクリエーションを観ることが出来るのは、すっごく楽しいし、ありがたいことです。
今年は絵画館前に大きな仮設の会場ができて、これには国からも援助があったときく。


今日はショーのあと、スタイリストの中村のんちゃんと、青山の川上庵へ。
秋になって、自分の家でもずいぶんお蕎麦をつくって食べてるし、外でもちょくちょく新そばを食べる。
もともとのんちゃんとはおしゃべりの周波数があうので、気がついたら11時近い。出し巻き玉子と鴨煮込み蕎麦で、時間も忘れてしゃべりあった。
それから閉店前のスーパー、ピーッコックにとびこんだ。私の「デパ地下」癖、「スーパー」癖は、いかなる時でも、発揮される。

絵画館前ばかりではなく、時には麹町の庭園のあるレストランや、青山のパティオのあるお店などのこともある。
写真は青山、ラスチカスでおこなわれた「ネ・ネット」という新しいブランドの風景。

日常的な若者の服がちょっと過剰なスタイリングとメイクでこんなメキシコになる。眉が繋がったフリーダカーロ・メイクで、花やラグを織る時みたいなリボンがびっしりと密集した帽子がすごくかわいい。
ショーが終って、出口のガラスのところに、モデルさんたちがデパートのショーウインドウのマネキン風に並んでいるところ。みんな立ち止まって写真を撮っていた。私もこうして。

写真 (撮影・Yacco)「Ne・net」のデザイナーはタカシマカズアキさん。1973年生まれ。

10月28日 東京国際映画祭

2005-11-01 | 千駄ヶ谷日記
10時と10時20分に、アシスタントの悠子ちゃんが下見していた服を渋谷と青山で大急ぎでチェックして、11時前に六本木ヒルズへ。
東京国際映画祭にさそわれて、「ドジョウも魚である」という中国映画を観るためだ。

11時20分の上映時間までちょっとだけ時間があったので、バージン・シネマの前にあるロブションのコーヒーとクロワッサンを買って、お腹を整える。

映画の舞台は現在、オリンピック開催国などのため、北京の街中で行われている大規模な工事現場に集まった出稼ぎ農民たちの話。紫禁城を再建するための現場での砂埃と泥んこの毎日。そのなかに厳然と光る命の尊さと儚さ。
「人間てみんなこうやって生きているんだよね」と思わず自分に言い聞かせてしまう映画だった。
映画のあと、主演男優とのティーチインがあった。
映画の熱演とうって変わって、小声で静かな話しぶりが心に響く。
中国語を通訳のかたが日本語に直し、司会者が日本語と英語で解説する。3ヶ国語がうまくチェーンのように繋がって、まさに国際的。

そうそうこの空気、味わったことがある。
3年前、本橋成一監督の「アレクセイと泉」 で映画のスタッフ10人ぐらいとベルリン映画祭に行ったとき、上映4回目がうわさを呼んで集まった観客で超満員になった。
スタンディング・オベーションのあと、本橋監督を囲んでティーチインがあったのだった。
ベルリンでは最初、自分達で、会場のいちばんいい場所を探してポスターを貼って歩いた。
上映するごとに観客が増えて、4回目には立ち見がでるほどの大盛況となり、賞もふたつもらった。
小さなホテルでは、アジアの若い監督たちと仲良くなったけど、彼らの映画をみる時間がないまま、私たちはエコノミーのチケットで帰ってきた。
あの時の高揚感を思い出した。

映画をいっしょに観た俳優さんたちと「堀井」で新そばをいただいた。
先週まで北京にいたという男優さんは北京の風景があまりにもリアルで余計胸にきたという。
そんな興奮と感動を反芻しながら、そのあと夕方までひとり銀座、馬喰町、神田と生地捜しに歩く。
神田の出版社で別の打ち合わせをして、深夜生地見本をみつつさらに衣装制作の打ち合わせ。
いろんな緊張と興奮で、頭の中はパンパンだし、足は棒のようになった。
明日はゲルマニウム温浴(足湯)に行こうっと。

写真 (撮影・Yacco)「ドジョウも魚である」の会場で、主演男優のニー・ターホン。映画は何という賞か忘れたけど、賞をもらったそうで、よかった、よかった。

10月22日 「セントラルアパート物語」 

2005-10-23 | 千駄ヶ谷日記
浅井慎平さんの小説、「セントラルアパート物語」を読み終わる。
10年ぐらい前に読んだものだけど、私自身が「表参道のヤッコさん」でセントラルアパートのことを書いているので、久々に取り出して読み直した。
まるで新しく読むような新鮮さと切なさを感じた。
私自身が存じ上げている方々がつぎつぎと出てくるので、あまり客観的になれないことが多少はあったかもしれない。
文章の進行とともに、私の中にある原宿や青山のマップをとぼとぼととたどる。
主人公とともに、スーパーマーケットの「ユアーズ」あたりから、交差点を右に曲がり、同潤会アパートを通りすぎて、冷たい雪のなかを、セントラルアパートに戻る、、、それらは、みんな消えてしまった風景なのだけど、雪で真っ白に覆われたあの風景、あの時間がページのなかから痛いほどくっきりと立ち上がり、広がった。
あの時代、あの場所で繰り広げられた人生が、本の中でいきいきと呼吸している。

私が以前住んでいたマンションが取り壊され目下工事中だ。
近所なので、時々通る。
私は一階に住んでいたので、引っ越した当時、伊勢丹の屋上で千円ぐらいの杏の苗木を買ってきて、部屋の裏側にある小さな庭に植えた。
数年後、か細い枝に数十個の実をつけ、その後、杏の数は年々増えていった。
夏はその広くない裏庭にテーブルを置いて、家族で日曜のブランチを食べたこともあった。
引越しの時、杏の木を引き抜くことがはばかれて残してきた。
時々、寄り道してどんどん大きくなる杏の木を見上げて、話をした。
言葉にすると照れくさいけど、木は私の友だちだ。私は中国の星占いで、「樹の星」の生まれなのだ。
工事が始まって、杏の木が心配だったけど、無事生き残っていた。
春、工事の囲いの中で、今までにみたこともないぐらい見事なピンクの花が満開になった。
きっと枝もたわわに杏の実がなるだろう。「すっごくきれいだよ」と私は話しかけた。

それからしばらくして現場を通ると、囲いスレスレにあった木々は一本を残して、みんな消えていた。
きっと工事に支障が生じたのだろう。
あの満開の杏の花は、ずっと前にそれを察していて、ありったけの命を ピンク色に燃やしたのかなー、と思った。
でもあんまり感傷的になっちゃいけない、街は刻々と変わってゆくのだ。
写真 (撮影・Yacco)

10月17日 個食の時代

2005-10-17 | 千駄ヶ谷日記
私の家にはイギリスの農家からやってきた大きなテーブルがある。
26年ぐらい前、サザビーで購入したもので、サザビーの社長さんである鈴木さんが直接もってきてくださった。いくら26年前とはいえ、私はびっくりして大いに恐縮したものだった。
イギリスの田舎で、何百年か生きつづけた農家具は、ここ数十年なんて時間はなんのその、がっちりした4本の足で、どんと居間の中央に存在している。

このテーブルでたくさんの「みんなでご飯」があった。
15年前、神宮前から千駄ヶ谷に引越してきて、ある夜6、7人のご飯に作家の宮内勝典さんご夫妻がいらした。
宮内さんは部屋に入るなり、このテーブルに歓声をあげた。それから壁にあるアフリカのカマンテのクレヨンで描いた象の絵に再び歓声をあげた。(宮内さんは声の大きいかたなので、ご本人はそういう意識はなかったかもしれないが)
人生で、このふたつのセレクションをしたということで、私を尊敬すると、たいそうほめてくださった。
ご本人はもうお忘れかもしれないが、私はすごく嬉しかったので忘れられない。
私にとっても、今でも、きっとこれからも、テーブルと象の絵は人生で最良の道連れに違いないものだ。
この大きなテーブルで、毎朝いっしょに朝ごはんを食べる人(連れ合い)がいなくなってからも、私の周りにはさりげなく私を心配してくれる人たちで溢れた。
誕生日などには、このテーブルひとつでは足りなくて、ピクニック用のテーブルを組み立てて繋ぎ合わせて賑やかに食事をした。

今、テーブルはパソコン台と隣あわせになっていて、放っておくとプリンターや紙で本来の食事やお茶のスペースをどんどん犯してゆく。
最初は、「おじゃまします」だった文房具がいっぱいで、ご飯スペースの方が小さくなっている。世の中、個食の時代というが、私は私なりに、いや応なしに個食なわけだ。
土曜日、東大久保のポレポレ坐で、収穫祭のバザーがあるというので、事務所をシェアしているきよみさんと出かけた。
お米、リンゴ、チーズ、野菜、とふたつの袋いっぱいに担いで帰ってきてさっそく台所に立つ。
キャベツが山盛りに入ったスープ。(昔パリでかった少女趣味なピンクのホウロウ鍋で)

あとは紅玉一個をハチミツとキッチンワインで煮たジャム。
キャベツや大根を煮てつくるココの餌。
この頃は、長いこと使ったアムウエイのステンレスの(ナサで開発されたという)鍋類はやめにして、土鍋とホウロウの小鍋を使っている。
スープは土、日、と2回いただいてから、3回目は秘密のご飯。
冷ご飯を入れてオジヤランチに。(リゾットという言い逃れもできるが、、)
バザーで買った300円の生わさびは、丁寧にすって、普通にかまぼこやお茶漬けでいただいてたけど、このオジヤにのせていただく「わさびオジヤ」も超おいしかった。
個食では、こういうやんちゃな秘密のご飯が、実はとってもおいしい。

写真 (撮影・Yacco) 左下のホウロウ鍋はもやっとしたアンテイックなピンクで
パリのプランタンで、20年ぐらい前に)

10月9日 リリー・フランキー「東京タワー」

2005-10-12 | 千駄ヶ谷日記
日曜日の快楽のひとつに、午前8時から始まる「週間ブックレビュー」がある。
「すべてを失くして」(内藤ルネ)と「夏の家、その後」(ユーティット・ヘルマン)

を買いに行かねば、と思う。
でも、この3連休は、「東京タワー」と「楽園のシッポ」(村上由佳)と「細野晴臣インタビュー」(細野晴臣・北中正和)を抱えてるし、前に紹介された「告白」(町田康)、「ポーの話」(石井しんじ)もまだ読んでないし、、、

ベッドサイドには「楽園のシッポ」と「インタビュー」、居間には「東京タワー」を設置する。
まず、「東京タワー」の追憶の時間に飛び込む。
リリー・フランキーと、オカンとオトン、家族の物語。
人は誰でも、自分の人生という一大小説のテーマを抱えているというが、彼の生い立ちの話にどんどん引き込まれてゆく。
彼の幼少の頃の九州、筑豊の炭鉱町の話は、ピンクドラゴンのヤマちゃんが育った北海道、赤平炭鉱の話を彷彿とさせる。
端々に現れる生きてゆくうえでの価値観にも共鳴した。
たとえば「ポケットの中に納められた百円は貧しくないが、ローンで買ったルイ・ヴィトンの札入れにある千円の全財産は悲しいほどに貧しい」

後半の後半、オカンがガンの末期になったあたりを読みながら、私はしばしば、ソファーに本をガバッとうち捨てた。
どうしても、自分の介護体験とだぶり、息が苦しくなって読み進むことができなくなる。

10分ぐらいしてから、また本を取り上げ、そこにある世界に入ってゆく。
私なんてさ、どれだけの肉親と長い過程の別れ、そして予期せぬ突然の別れがあったことか。
その時その時の光りを放ちながらも、ジワジワと消えていったた命も、いっしょに生きてきたのに、あれよっというまに目の前から消えていった生きている人間同志の絆の脆さもふくめて、さ。
読んでいて、うなずいたり、チクチクしたけど、号泣はしなかった。
そして読み終わったら、なんだかさっぱりした。
最後のほうに渋谷のスクランブル交差点をみる著者の心境の記述があった。

私もまったく同様のことを、こんなふうに日記に記したことがある。
渋谷のスクランブル交差点を、人々がかき回されながら渡る。
その中の一人である私は、たったひとり、大きな苦悩を背負った糞ころがしのようだ。そう感じると、明るい陽射しのなかで、突然どっと涙が出てきた。
でも、ここにいる人たち、実はみんな何かを背負った糞ころがしなのだ。
誰でもいつか経験することなのだ。

写真 (撮影・ガリバー) ヤマちゃんたちの故郷、赤平炭鉱で。71年。

10月1-6日 東京駅で再会

2005-10-11 | 千駄ヶ谷日記
1日 突発的に映画「メゾンドヒミコ」を友だちと観に行く。
土曜日の第一回目だから、座れないことはないだろうと思ったら、甘かった。整理券が出ていて、最終ぐらいだったので、辛うじて前から2番目の席が空いていた。
「ジョゼと虎と魚たち」の監督で、あの時同様、臭覚を効かせた人たちで、混んでいるのかしら。
オダギリジョーと柴崎コウはすごく魅力的だった。

でもちょっと冷静になると、あの物語の中のゲイの方々はどうなんだろう。
たとえば、反射的に思い起こすのは、オーストラリアの映画で、ゲイのロードムービー「プリシラ」。
ファッションが素敵で、いつも画面の中に、お祭り騒ぎがあった。あの度外れの賑やかさと、ゲイとして生きることの悲しさ、そしてオーストラリアの雄大な自然。
いろんな要素がてんこ盛りの中に、毅然とした品格があった。
今回の田中ミンさんは、「蜘蛛女のキス」のモリーナや「プリシラ」の誇り高いゲイを連想させたけど、、、うーん、、、、
ダンスシーンでは、友だちも私も泣いてしまった。あの踊りのなかには、CMでいっしょになるカオルコさんのお弟子さんがいっぱいいたはず。
ともあれ、これからも千円の快楽(シルバーなので)を忘れないようにしようと思った。

このあと伊勢丹会館の「あえん」で、自然食の定食を食べ、ゲルマニウム温浴(足湯)に行き、残っていた風邪を吹き飛ばした。

4日
劇団新感線の「吉原御免状」を観た。
堤真一、松雪泰子ともに素晴らしかった。
特に松雪さん、実は九の一で、花魁(おいらん)の身とあっては壮絶な死は約束されたようなもの。この世にこんな色っぽいひとがいるのだろうか、というぐらい美しかった。
数年前、テレビで昔の女流作家を演じたとき、「あれ、こんなに地味な役なのにステキ」と驚いたけど、彼女って才能ある。

6日
東京駅南口のドームのなかにある「精養軒」で、約40十年ぶりに編集者の椎根和(やまと)さんと会う。
実は書き終わった「表参道のヤッコさん」に椎根さんのことを書かせてもらったし、60年代、70年代をいろいろチェックしていただくため。
あらかじめ送っておいた原稿を、たんねんに読んでいただいていたことに、恐縮する。

それとあの時代の写真で、撮影者不明としていたもの、主にロンドンの写真には、椎根さんに撮ってもらったものが多いことが判明。
そのあと、私の原稿からはみだしたいろんなことを教えていただいた。
たとえば、写真家の十文字美信さんの六本木スタジオのアシスタント時代のこと(ブログ8月28日「六本木スタジオで」を参照して)は、平凡パンチに「六本木スタジオのブリリアントなアシスタントたち」というタイトルで見開きで特集したことがあるとか、、、お宝のエピソードを いっぱい聴いて興奮した。(椎根さん、いつか、書かせてね)

椎根さん自身は、平凡パンチ時代に担当していた三島由紀夫に関して執筆中とのこと。
世間にあまた出ている三島由紀夫論があまりに椎根さんが接していた三島由紀夫とかけ離れているためだそうだ。椎根さんは紅いシャツを着て、短髪で、若々しかった。
私は40年前と同じように、目をきらめかせながら、椎根さんの話を聴いていたことだろう。

写真 (撮影・椎根 和) 71年ロンドン。椎根さんもいっしょに滞在していたイレブン・カドガン・ガーデンという、実はかなり格の高いプライベート・ホテルの前で。「KANSAI IN LONDON」の準備中の寛斎さん、ヘアメイクの鈴木輝雄さん、私。ここはキングスロードにも近かった。