鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

吉江忠景の動向 ー天文期ー

2021-03-06 16:32:38 | 吉江氏
吉江忠景は長尾景虎、上杉謙信の家臣の一人として確認できる武将である。しかし、忠景に関する詳しい検討を目にすることは殆どない。今回は吉江忠景関連文書を基に、特に天文期における忠景の動向を検討していきたい。


[史料1]『越佐史料』三巻、819頁
御懇書具令披見候、去ハ正印御合力被申候かきり□筑州へ返被申候哉、御本領之義候間、無余儀候歟、然者御家風中へ御はいたふ候間可有御詫言之由、是又無余儀候、付之御意見可申之由承候、左候に、吾等如何共可申定様無之候、但渡御申有間敷之由仰被切候者、始末之義如何ニ存候、畢竟ハ御合力被申候付分約束被申旨可有之候より幾も御思案不過之候、委細御使申宣候、恐々謹言、
  八月十三日              吉郷中務丞
   平子殿参人々御中              忠智


[史料2]同上、820頁
以長尾越前守方、連々如承者、被属味方可被抽忠信之由候哉、尤以簡要之至候、然者西古志郡内皆以可被抱候、不可有相違候、委細越前守方へ相断候、定可有伝語候、恐々謹言、
  八月十七日                  定兼
   平子弥三郎殿


[史料1]は『越佐史料』において天文4年8月に比定されている文書である。同書は発給者を「吉郷忠智」としている。

[史料2]は天文の乱の最中に上条定兼(前名:定憲)が平子弥三郎に対し陣営への勧誘と所領の安堵について交渉しており、日付が近いことから[史料1]もそれに関連した文書と捉えられてしまったと思われる。

しかし、発給者、年時の比定双方誤りである。


まず発給者であるが、正しくは吉江忠景である。

忠景の官途名が「中務丞」であることは文書から判明している(*1)。

郷と江、智と景はそれぞれくずし字が似ている場合がある。東京大学史料編纂所がこの文書を「吉江忠智書状」としていることからも「吉江」であることは確かである(*2)。智と景を混同された事例として長尾景信発給の書状がある。『栃木県史』所収「長尾智信書状」(*3)について佐藤博信氏(*4)が「智信」は「景信」と読むべきであると指摘している。よって、「忠智」も実際には忠景と読むべきであろう。


続いて、年時比定について言及したい。正しくは、天文21年8月である。


[史料3]『新潟県史』史料編5、3500号
去年以来御詫言候、西古志郡内山俣参拾貫分之事、松本様々雖申子細候、先以堅申付、彼地事進置之候、年来景虎以加世義、若干御知行分被入御手候、此上之義者、筑後守領分隠接待屋、近年被拘置候地事、速彼方へ可被打渡事簡要候、恐々謹言、
                   長尾弾正少弼
   八月七日                 景虎
   平子孫太郎殿

天文21年8月頃、越後国主の地位を固めた長尾景虎は平子氏と周辺領主との所領問題について介入していた。それが[史料3]である。注目は景虎が平子氏へ「筑後守」という人物の所領を返還するように求める点である。[史料1]の「筑州へ返被申候哉」と合致する。[史料2]で見た天文4年の上条氏-平子氏の交渉は所領の安堵について伝えているから、所領の返還を要請する[史料1]はそぐわない。よって、[史料1]が天文21年の「筑後守」の所領を巡る平子氏への交渉に関連した文書であることがわかる。

『越佐史料』は[史料1]「去ハ正印御合力被申候」の「正印」を上条定兼と見るが、天文21年時に定兼は死去している。「正印」は主人・君主を指す語(*5)とされ、長尾景虎もしくはこの頃越後へ亡命し関東出陣を要請していた山内上杉憲政を指すと考えられよう。


年時比定の誤りを訂正したことにより、吉江忠景が天文の乱において上条方に与したとは言えなくなった。またその初見も天文18年本庄実乃書状[史料4]まで繰り下がる。私見では、後述するように吉江氏は譜代家臣として活動しており天文の乱でも守護代長尾氏陣営に与したと考えている。さらに、忠景の初見が天文18年となったことを踏まえると、天文の乱時の吉江氏が忠景の前代であった可能性も高いであろう。

ちなみに、[史料1]と同じ天文21年8月には吉江茂高が平子孫太郎へ関東出陣や所領問題について音信を交わしている(*6)。茂高と平子氏の関係には同族である忠景の存在も影響している可能性があり、吉江氏の系譜関係を考える上でも貴重な検討材料になるといえる。


では、ここからは[史料1]が発給された天文末期頃における吉江忠景の存在形態について考えていきたい。まず、平子孫太郎と吉江忠景の関係は[史料4]天文18年本庄実乃書状にも見える。本庄実乃は長尾景虎の重臣である。


[史料4]『越佐史料』四巻、13頁
御屋形様へ為御音信被仰立候、則景虎披露被申候処、御悦喜候段被遣御書、御目出ニ存計候、景虎も一段喜悦候由候、
(中略)
一、如斯義軽千万ニ候へとも、代々被懸御目ニ候間申入、雖被申迄、時分相急キ候、御近辺ニ者吉江中務踞候間、いかにも御懇切簡要存候、人如何ニ違候共、せうせう義御堪忍候而、御懇切尤候、目出重而、恐々謹言、
                庄新
    七月四日          実乃
   平子孫太郎殿御宿所

省略した部分には、宇佐美氏居城が対立する上田長尾氏によって放火されたこと、平子氏居城の整備を命じること、関東出陣を命じることなど軍事関係のみならず、平子孫太郎舎弟を出仕させることなど政治的な部分もある。

特に政治的な条項について、井上鋭夫氏(*7)は上杉定実を中心とした解釈を取っている。つまり、平子氏は舎弟を上杉定実の元へ出仕させ、定実への取次も頼んでいるという。しかし、この構図は疑問である。景虎方、平子方の両者にとって、既に実力の伴わない上杉定実の必要性は薄い。文書が「御屋形様」=上杉定実への音信を謝す一文で始まっていることを以て、その後の内容も全て定実に関係するものとして捉えてしまったように思える。

この頃の定実の政治的立場を示す例として、同年11月平子孫太郎宛長尾景虎安堵状(*8)には「御館様御判之儀者、追而可申成候」、つまり守護上杉氏の文書なしに景虎が平子氏へ土地が安堵していることが挙げられる。木村康裕氏(*9)は守護御判の裏づけを必要としない文書であることから、この時期長尾景虎が守護上杉氏権力を抑えて実質的権利を掌握したと指摘する。当時、定実の存在は形式的なものに留まり本質は伴わないわけであるから、[史料4]本文の内容は長尾景虎と平子孫太郎間での政治交渉と見るべきである。

平子氏舎弟の出仕先も定実ではなく景虎の元であろう。安堵状からわかるように平子氏も定実より景虎との繋がりを重要視し、景虎も有力領主の近親を定実と結びつけるより自らの手元に置いておきたいと考える方が自然である。


その上で、吉江忠景に関する条項を見ていきたい。「代々被懸御目ニ候間申入」なる部分は、同年長尾景虎書状(*10)で平子氏は「道七以来無別条方に候」と述べているように、守護代長尾氏との良好な関係を表わしている。平子弥三郎が上条方についた享禄・天文の乱においても平子右馬允なる人物は為景に味方しており(*11)、この言葉に間違いはない。つまり、代々の関係性から平子氏の取次として本庄実乃が景虎へ申入れた、という文章とわかる。その実乃が忠景との関係強化を勧めていることから、実乃と同様に吉江忠景も景虎の重臣にあったことが窺われる。記載順に政治的立場が反映されている天正3年『上杉家軍役帳』では、本庄実乃の後継者清七郎や直江景綱、山吉豊守といった重臣に並び記載されており、その立場は明らかである。井上氏(*7)を始めとして、彼らは「旗本」と呼ばれることが多い。


続いて、実乃が忠景との関係強化を勧めた理由を表わす「御近辺ニ者吉江中務踞候」の意味を考える。「時分相急キ」とあり政治的な交渉を伴うと思われ、忠景の役割とは平子氏と景虎間の取次ではないだろうか。「人如何ニ違候共、せうせう義御堪忍候」は、取次が実乃であるか忠景であるかという少々のことは我慢するように求めていると捉えられる。

ただ、[史料5]において「景虎も一段喜悦」とあるように、形式上定実を立てるため景虎へ丁寧な言葉遣いはされていないから、「御近辺」とあるのは景虎に関する事柄ではないようにも思える。つまり、これは平子孫太郎の「御近辺」を意味すると考える。平子氏の本拠は小千谷であり、その周辺地域に忠景が在城していたと推測される。

その根拠として、天文19年長尾景虎書状(*12)から忠景が庄田定賢と共に小千谷に程近い下倉城周辺に派遣されていることがわかる点が挙げられる。忠景が派遣されたのは上田長尾氏との緊張関係が高まっていた時期であり、前線において軍事・政治面での活躍が期待されたのであろう。庄田定賢は天文21年宇佐美定満書状(*13)から宇佐美氏の取次を務めていることがわかる。忠景も庄田定賢と同様に、軍事的・政治的活動は魚沼郡周辺との関係の中で成されていたと推測される。

その上で、忠景が永禄9年に下野佐野城へ派遣され交渉用印判の使い分けを説明されている点は注目である(*14)。つまり、永禄9年時に忠景は前線への在番と周辺との交渉が任せられていたのである。この事実は、天文末期に当時の前線下倉城周辺で軍事・政治活動を求められたという上記の推測と相似形を成す。忠景の「旗本」としての具体的な活動内容が浮かび上がるといえる。


ここまで、吉江忠景について天文末期を中心に検討した。忠景は長尾景虎の家督相続と同時期に文書上初見され、本庄実乃や庄田定賢らと並ぶ重臣(=「旗本」)に位置していたと考えられる。天文末期には景虎と上田長尾氏の対立の高まりに伴い、その前線に派遣され周辺領主である平子氏の取次を果たしていたことがわかった。

今回は「旗本」に位置づけられる忠景の活動についてその一部を素描できたものの、それがそのまま「旗本」全般に当てはまるとは限らないだろう。他の譜代家臣の検討も踏まえた上で「旗本」の存在形態について、さらに掘り下げていきたい。

また吉江忠景本人についても、天文期以降の動向を今後検討していきたい。


*1) 『新潟県史』資料編5、3938号など
*2) 東京大学史料編纂所データベース
*3) 『栃木県史』史料編中世、1132号
*4)佐藤博信氏 「越後上杉謙信と関東進出」(『上杉氏の研究』吉川弘文館)
*5)小和田哲男氏、鈴木正人氏『戦国古文書用語辞典』東京堂出版
*6) 『越佐史料』四巻、77頁
*7)井上鋭夫氏『上杉謙信』
*8) 『新潟県史』資料編5、3497号
*9) 木村康裕氏「上杉謙信発給文書の分析」(『戦国期越後上杉氏の研究』岩田書院)
*10) 『新潟県史』資料編5、3496号
*11)『越佐史料』三巻、829頁
*12)『越佐史料』四巻、263頁、書状中「吉江・庄田」とあり、これを忠景に比定している。派遣先は宛名の福王寺氏から下倉城と推測されるが、長尾景虎書状(『越佐史料』4ー263)より天文18年2月には庄田定賢が下倉城近隣の真板平城に在城しており、「下倉城周辺」という表現に留めた。
*13) 同上、80頁
*14) 『新潟県史』資料編5、3683号