鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

上杉房安を考える

2021-02-23 17:42:42 | 上条上杉氏
今回は、上杉房安を考える。その所見は下掲[史料1]が唯一であるとみられる。詳細不明の人物であるがその所見から政治的中枢に近い人物であったことは間違いない。


[史料1]「春日社越後御師と上杉氏・直江氏-『大宮家文書』所収の文書の紹介-」(*1)
春日大明神御□□□
毎月御神楽、同御供之事、
一、御釼 □庫かけり 五社へ各五ツ、
一、五社神馬毎月五疋、
従永正十七年始而、七ヶ年之間参詣之事、
此外、神馬・三千疋、於本意之上、□々可致進納者也、
     松上院上椙殿上杉殿御年卅五歳
永正十六年五月十八日  房安
           生年卅四歳
          長尾 弾正左衛門尉
            為景
             卅二歳
          長尾 泰蔵軒
            安景

[史料1]は三名の寄進状の写である。署名に書きとめられた年齢等の情報は文書の受給者が後に記したものという。

内容は、春日社に対して奉納や寄進、参詣を行うことを約束し「本意」の成就を祈願するものである。片桐昭彦氏(*1)はこの時期に長尾為景が畠山氏らと共に越中へ出陣していることに注目し、「本意」が越中攻略を表わす可能性を示唆する。

また、同氏はこの文書の発給された永正16年が守護上杉定実の活動が確認できない時期にあたることも重要視している。


[史料2]『越佐史料』三巻、615頁
蒲原郡菅名庄長井保安出条、上野新左衛門尉跡内十五人壱分、先以可有御知行、御屋形様御定上、追而御判可申義者也、仍如件、
 永正十一年 
十二月廿三日             為景
  大窪鶴寿との

[史料2]は永正10年から11年にかけての内乱を長尾為景が平定した直後に発給されたものである。この乱を契機に上杉定実の守護としての活動は天文13年上杉定実知行宛行状(*2)まで長期間見えなくなる。永正10年に上杉定実の挙兵が長尾為景に鎮圧された際に、「御屋形様某館へ御移」(*3)つまり定実が為景の居館に移送されたことが明かであることなどから、乱後に定実は為景の監視下におかれたと思われる。

その上で[史料2]「御屋形様御定上、追而御判可申義者也」を見ると、定実に代わる守護の擁立が画策されていたことが見て取れる。

為景は定実を退けたものの、守護権力そのものを完全に排除するまでには至らなかったと考えられる。天文期に定実の後継者を巡り伊達氏を巻き込んだ抗争がおき、長尾晴景の代には定実自身が再び守護権力を行使していることはその証左であろう。


その代替守護こそ上杉房安だったのではないか。

房安が為景と共に「本意」の成就を祈願する立場はそれにふさわしいと感じる。[史料1]には房安の偏諱を受けた長尾安景なる人物も確認でき、房安がそのような政治的立場であったならば自然である。

実名「房安」は守護上杉房定、房能父子の一字を用いており、定実に代わる守護としての正統性を表明したのではなかろうか。


しかし、房安は以後その所見がなく結局定実が守護に留まっている。その理由は国外情勢、特に幕府との政治関係に求められる。

永正14年に上杉定実が京都の「上杉屋敷」を前守護上杉房能の菩提として新善光寺に寄進しているが(*4)、享禄2年の時点でその地を長尾為景が「十カ年以前」にわたり横領していることが文書からわかっている(*5)。享禄2年から十数年前はちょうど永正後期にあたり、定実が没落したその頃の情勢と合致する。所領を横領されながらも定実が上杉房能の菩提を弔っていることは、為景とその代替守護に対抗して自身が正統な守護後継であるとアピールしているようにも感じる。

幕府は、足利義澄法要のため大永3年に越後国役の納入を上杉定実に要請している(*6)。この時点で、幕府が越後守護を上杉定実と認識していることがわかる。上杉定実の抵抗と幕府の意向により、長尾為景の思惑は外れたといえる。


ここまで、永正後期上杉房安が長尾為景により上杉定実に代わる守護として擁立されたものの、幕府が上杉定実を守護として認めるなど房安が正式な守護になることはなかったことを推測した。



では次に、さらに踏み込んで房安の出身を考えてみたい。房安については情報が少なく、上条氏や山浦氏、山本寺氏などとある庶家の中でどの系統なのかもわからないため、確実なことは不明と言わざるを得ない。そのためここでは全くの仮説として、少し想像を加えながらにはなるが考察してみたいと思う。

まず、この頃上杉氏の庶家の中では上条上杉氏が最も有力であったから、房安が上条上杉氏であると仮定して話を進めてみたい。上条上杉氏は刈羽上条を拠点とする一族、古志を拠点とする一族、為景正室の実家上条上杉弾正少弼入道朴峰の一族の三系統が確認される。

上杉房安の擁立は永正10、11年の内乱後であるが、その乱では刈羽上条を拠点とする上条氏の上条定憲が為景に敵対している。古志を拠点とした上条氏の動向は不明であるが、定実の実家は古志上条である。こういった状況を踏まえると、代替守護が刈羽・古志上条両氏から出たとは考えにくい。上条氏であれば、為景に親しい朴峰系と思われる。

では、朴峰=房安であろうか。これを年齢の点から考える。房安は永正16年の時点で35歳である。為景と天甫喜清の子である晴景は『平姓長尾氏系図』によると永正6年生まれだから、永正6年時点で25歳の房安に孫ができるのは無理がある。

また、晴景の生年に誤りがあったとしても『越後過去名簿』には朴峰娘である為景の妻が永正11年に母を供養している。この年為景は29歳なわけであるから正室との婚姻は少し遡ると考えられ、同年31歳の房安の娘とはやはり考えにくい。

よって、房安と朴峰は別人であると見られる。

では、前回検討した上条上杉美濃守はどうであろうか。その活動時期は大永期頃と推測され、永正末期に所見される房安と近接する。美濃守の妻は『越後過去名簿』において筆頭に記される上杉定実、三番目に載る上条上杉定憲に挟まれる形で二番目に記されているから、美濃守=房安なら代替守護としてその立場にふさわしい。前回、美濃守は朴峰系上条氏と関係がある可能性を想定したが、その点も房安とリンクする。

所見される詳細不明の上杉氏一族の中から推測するならば、上条上杉美濃守が最も房安にふさわしいといえる。この場合、房安はやはり為景に親しい朴峰系上杉氏出身であることになる。

尤も管見の人物に強引に当てはめるやり方では限界があり、房安が全く別系統の別人である可能性は十二分にある。後考に期待する点である。


*1)片桐昭彦氏「春日社越後御師と上杉氏・直江氏-『大宮家文書』所収の文書の紹介-」(『新潟史学』75号)
*2)『新潟県史』資料編4、1495号
*3)『新潟県史』資料編3、164号
*4)『新潟県史』資料編5、4227号
*5)『越佐史料』三巻、755頁
*6)『新潟県史』資料編3、798号