鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

大見水原氏の系譜

2020-11-07 20:57:05 | 大見水原氏
戦国期越後における大見水原氏の系譜を整理してみたい。


[史料1]『新潟県史』資料編4、1524
 譲渡文書重代并当知行所々事
一所 白川庄内水原条并船江条
一所 山浦一分方
一所 豊田庄本田村
一所 新御恩黒川知行内所々
一所 新御恩津波目分         (長尾能景裏花押)
 右所領者、為又三郎景家名代譲渡処実也、不可有他妨候、仍譲与状如件、
  明応六年丁巳十二月十三日       憲家
    水原又三郎殿

明応6年には[史料1]にあるように、水原憲家から又三郎景家へ家督が譲られている。

憲家は伊勢守を名乗り(*1)、景家は死去時まで又三郎である(*2)。よって、文亀3年に知行の検断不入を認められている「水原伊勢守」も憲家である。

永正3年9月に長尾能景が越中に出陣し般若野の戦いで戦死するが、この戦いで景家が戦死している(*2)。この際、景家息女「水原祢々松女」に対して上杉房能は「雖為女子、遺跡事相計、以代官軍役奉公勤之、当地行領掌不可有相違」と伝えている。これを『越佐史料』は「遺子ヲシテ相続セシム」と解釈し、渡辺勇氏(*3)も祢々松が水原氏を継承し短期間の支配の後にその伯父政家が相続した、としている。


永正17年5月には長尾為景が「水原伊勢守」に「御舎兄伊勢守憲家遺跡并本新当知行地事、此如間、御執務不可有相違」と伝えている(*1)。この時点で憲家の弟である政家が伊勢守を名乗り水原氏を継承したと考えられよう。

享禄4年1月越後衆軍陣壁書写(*4)において「水原伊勢守政家」という署名が確認される。天文4年には天文の乱で長尾為景と対立する上条定兼(前名、定憲)の味方として政家が活動している様子がわかる(*5)(*6)。『越後過去名簿』の天文5年5月に供養された記録がある「等巖成公 水原トノ」は政家を指す可能性があろう。


『越後平定以下太刀祝儀写』には永禄2年に太刀を献上した者の中に、「水原小太郎」が所見される。政家の次代にあたるだろう。永禄後期と思われる上杉輝虎書状(*7)には宛名として「水原蔵人丞殿」が確認でき、小太郎の後身であろう。


天正3年の『上杉家軍役帳』には「水原能化丸」が記載されている。小太郎/蔵人丞の次代とみて良いだろう。天正5年3月の梶原政景書状(*8)の宛名、天正6年跡部勝資書状(*9)の宛名に「水原弥四郎殿」が見られ、能化丸の後身であろう。


「平姓水原氏系譜」によれば、政家-隆家-実家-満家、と続くとしており、これは一次史料からみえる水原氏の世代数とも一致する。よって、上記の小太郎/蔵人丞は隆家に、能化丸/弥四郎は実家に比定できる。共に一次史料では確認できない実名ではあるが、前後の政家、満家は確認され、永禄から天正にかけての細かい人物の変遷とも合致することなどから信用できるのではないか。実家と満家は年代的に父子関係とは考えにくく、年代的に推測すれば二人は兄弟で共に隆家の子であろうか。


天正10年3月には「水原平七郎満家」の活動が見える(*10)。弥四郎の次代であろう。この満家は、天正10年10月新発田重家の乱に関連した放生橋の戦いにおいて戦死した、と『景勝一代記』『管規武鑑』に伝わる(*11)。

『景勝一代記』『越後治乱記』は満家戦死後、水原氏家臣の二平(二瓶)氏が水原城に置かれていた荻田三左衛門を殺害して新発田方に寝返ったと伝え、『管規武鑑』は、満家戦死後水原城を家老細越氏が預かるも、同年12月に番手衆の過半を殺害して新発田氏へ降った、とする。すなわち、満家の死を契機に水原城が新発田氏の支配下になったと想定される。

のち水原城は上杉方に奪還され、『増補改訂版上杉氏年表』(*12)や『上越市史通史編2』では、天文15年5月13日のこととしている。


満家の次代として大関親憲が入嗣する。のち、慶長末期の大阪の陣などでの活躍は有名である。『文禄三年定納員数目録』には「水原常陸介」として確認される。親憲についてはまた別の機会に詳しく検討したい。

しかし、親憲の入嗣に至るまで水原氏の家督について問題が生じている。


[史料1]『新潟県史』資料編4、1671号
尚々下衆廿九日風雨之きらいなくうちこし申へく候由、いかにもいかにもきふく可申付候、
今度当方不安弓矢にて候間、下衆ことごとくまかり立へきの由、可申付候、然者小田切左馬助子すいばらの名代つき候とて越後へうちこし候由呼候、当方のもの越後へうちこし候事ハ、謙信代よりきふく申あハせ、たかひにこさす候、せひうちこし候ハハ、くちおしかるへく候、ゆくえのためにて候間、理候、かしく、

[史料1]は年不詳、差出人宛名不明の文書であるが、その内容は注目すべきものである。伝来と文脈から蘆名氏よりその配下で越後小河庄を拠点とした小田切氏への書状であろう。要約すると、満家の戦死の後に小田切左馬助の子が水原氏を継ぐ計画があったが、謙信時代に蘆名氏と上杉氏の間では”互いに越さず”ことをきつく結んでおり、将来のためにも中止するように命じた、となる。

ここから、謙信は戦国大名領国下での領主統制の一環として、近隣大名と相互に傘下領主の入嗣禁止協定を結んでいたことが明らかになる。謙信の領主層に対する支配体制の一端について具体的に記されている貴重な文書である。また、これは上杉氏、蘆名氏が共に支配下領主を自勢力と他勢力にしっかり線引きしていたと捉えられ、大名による領国境界の形成、維持に関する好史料ともいえる。


以上戦国期水原氏の系譜をまとめると以下の通りである(明らかに父子関係でない部分を=で表わした)。

憲家(伊勢守)-景家(又三郎)-祢々松=政家(伊勢守)-隆家(小太郎/蔵人丞)-実家(能化丸/弥四郎)=満家(平七郎)=親憲(常陸介)


*1)『新潟県史』資料編4、1529号
*2)同上、1528号
*3)渡辺勇氏『水原氏の研究』、水原町教育委員会
*4)『新潟県史』資料編3、269号
*5)『越佐史料』三巻、811頁
*6)同上、823頁
*7)『新潟県史』資料編5、3275号
*8)『越佐史料』五巻、373頁
*9)『新潟県史』資料編5、3475号
*10)『越佐史料』六巻、138頁
*11)『景勝一代記』には「菅名但馬守、水原、上野九兵衛討死也」とある。
*12)『増補改訂版上杉氏年表』編池亨・矢田俊文、高志書院


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