鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

長尾晴景と天文11年の乱

2024-04-20 17:15:55 | 長尾氏
戦国期越後において長尾晴景期の史料は少なく、晴景の事績については不明な点が多い。これまで当ページでは、晴景の家督相続が天文9年8月頃であり、天文10年12月の長尾為景死後から本格的に越後長尾氏当主として活動を開始し、天文12、13年頃までに伊達入嗣問題を発端とした伊達氏、揚北衆中条氏らとの抗争を鎮静化させたことを示してきた。しかし、伊達氏、揚北衆との抗争、長尾為景の死は越後国内の反長尾氏勢力の活発化にも繋がったと考えられ、天文11年から13年にかけてその痕跡が見受けられる。今回は、天文10年前半期における越後国内の紛争に注目してみたい。

[史料1]『越佐史料』三巻、873頁
今度一乱以来、守前々旨走廻致忠信間、蒲原郡相残堀越半地、金津保下条村之事長尾弥六郎別而申沙汰尤可然条、永令知行、弥以相嗜可為簡要者也、仍如件
   天文十三年
     十月十日            定実
    安田治部少輔殿

[史料2]『越佐史料』三巻、873頁
先年国中各以同心対府内雖企不儀、被相守前々筋目、被抽忠功条、無比類次第、因茲蒲原郡堀越半分、同郡金津保下条村之事申沙汰之上、被成御判了、御執務不可有相違弥可被励軍忠事簡要候也、仍如件
   十月十日              晴景
    安田治部少輔殿

[史料1]、[史料2]は揚北衆で白川庄安田を拠点とする大見安田長秀に与えられた上杉定実知行宛行状と長尾晴景によるその副状である。「今度一乱」、「国中各以同心対府内雖企不儀」とあり、天文13年以前に晴景と越後国内勢力との間で抗争が生じていたことが確実である。天文13年4月20日後奈良天皇綸旨(*1)には「当国中令静謐」とあり使者として「勧修寺入道大納言」が下向していることを見ると、天文13年初めにはにはほぼ終結していたと推測される。晴景は抗争の終結と共に、綸旨、後奈良天皇の「御心経」を獲得し、国内統治のために朝廷の権威を利用しようとしたと考えられる。

そもそも国内情勢の悪化の原因はといえば、やはり天文10年12月の長尾為景の死去であろう。天文9年8月頃に晴景へ家督を移譲していたといえども、長年に渡り越後に君臨してきた為景の死は越後に動揺をもたらしたことは想像に難くない。恐らくは為景の死去程なく国内の情勢は悪化したと考えられる。以前の記事(*2)で検討したように天文11年4月上杉定実起請文は晴景が定実に対して締め付けを図った結果であり、この時既に国内において反乱が生じていた可能性が考えられる。

私が敵対勢力の一つと推測するのが白川庄八条上杉氏である。『高野山清浄心院越後過去名簿(写本)』(*3)に「雲高居士 白川庄八条憲繁 天文十一 八月三日」、「理帝宗郭 蒲原水原八条与四良殿 天文十一 十月廿三日」の所見がある。私は以前の記事(*4)で、近接した時期に二人が死去していること、これ以降越後において八条上杉氏が所見されないことを踏まえると、天文11年頃に八条上杉氏が没落したと推測した。その理由については保留としたが、総合すれば、ここまで見てきた為景死去後の国内紛争において反晴景派として活動、その中で晴景方の攻勢に敗北、八条憲繁、八条弥四郎は死亡し八条上杉氏は越後において滅亡したと推測できる。[史料1]、[史料2]において安田氏へ宛がわれている「堀越」という地名は白川庄水原の近隣であり、八条上杉氏の没落により生じた闕所であった可能性も考えられる。

ここまでのように、抗争は為景の死去後から天文11年を中心に展開し、天文11年の乱と呼べるような抗争であったと考えられよう。[史料2]において去年ではなく「先年」ある点も天文13年時点から天文11年を意識した表現だったのかもしれない。


このような点からは天文10年12月の為景死去後紛争を晴景が乗り切り、越後の統治を進めていく様子がうかがわれる。また、白川庄八条上杉氏の没落がこの時のことであったことも推測できる。天文11年頃には伊達入嗣問題に端を発した羽越国境の紛争の余波で奥山庄や小泉庄で中条氏や色部中務少輔、本庄亀蔵院らが伊達稙宗と通じ晴景方へ抵抗を続けていたわけだが、「国中各以同心対府内雖企不儀」という表現からはそれの他にも晴景政権へ敵対した国内勢力がいたことを見逃してはならないだろう。

ちなみに、[史料1]、[史料2]は知行宛行に定実、晴景の両者の文書が必要とされた例として挙げられ、晴景期における定実の復権があったとする根拠とされている。しかし、これは抗争直後の文書であること、宛がわれた土地が八条上杉氏所領であったという特殊性、そもそも晴景関連文書が少なく他の事例が少ないことなどから、その評価についても慎重であるべきではないかと考えている。この点について別に検討していきたい。


*1) 『新潟県史』資料編3、776号
*3)山本隆志氏『高野山清浄心院「越後過去名簿」(写本)』(『新潟県立博物館紀要』9号)