鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

天文11年上杉玄清起請文の解釈

2023-12-18 19:43:32 | 上杉定実
[史料1] 『新潟県史』資料編3、241号
   起請文文事
晴景事者不申及、於御舎弟達モ、別条有間敷候、今度ふつけいと申も、連々世上大くつ安閑無事ニ残世過し度計候、此義偽候者、梵天帝釈四大王、惣而日本国中大小神祇、殊春日大明神賀茂石清水、七千余社、当国一宮居多大明神府中六所弥彦二田御罰可深蒙者也、仍起請文如件
  天文十一
     四月五日          玄清
      長尾弥六郎殿

[史料1]は天文11年に上杉玄清(定実)が長尾晴景に提出した起請文である。この文書は伊達入嗣問題との関連などでも有名なものであるが、その解釈については検討の余地があると考える。今回は、この文書について検討し、長尾晴景権力の一端を見ていきたい。

まず、通説では以下のような解釈がもたれている(*1)。伊達氏からの養子を守護上杉氏の後継者にするという計画が一時合意に至ったが、天文11年の時点で交渉は難航、それに抵抗した玄清が晴景に隠遁を申し出た、という。そして、晴景は玄清の申し出に驚き再び養子入りの交渉を開始し再合意、竹雀の家紋を贈るなど準備を進めるが、伊達稙宗・晴宗父子間での抗争(伊達天文の乱=洞の乱)が勃発し立ち消えとなってしまったとされる。

結論から言えば、玄清が自ら隠居を宣言したとする点を始めとして通説は誤りであろう。検討していきたい。


まず、前回まで伊達入嗣問題について検討した結果(*2)、天文11年4月以降に越後長尾氏と伊達氏の間で交渉が再開されたとは考えられない。むしろ、天文11年末までに晴景、伊達晴宗の間で入嗣は中止とする方針で合意している(*3)。つまり[史料1]は入嗣問題の進行とは関係なかったと考えられる。

次に、起請文という形式が気になる。玄清の引退宣言なのであれば、起請文とした点が不自然である。鶴巻薫氏(*4)は戦国期越後国等における起請文を検討し、「戦国期武家の起請文は、神に向けられた宣誓文書ではなく、人と人との契約文書であるといえる」と述べている。よって、 [史料1]も晴景と玄清間で何らかの政治的契約や誓約が背景にあったと見るべきと思う。

さらに通説は本文後半「世上大くつ安閑無事ニ残世過し度計候」に重きを置きすぎている感があり、誓約として重要なのは前半の「晴景事者不申及、於御舎弟達モ、別条有間敷候」ではないかと思われる。すなわち、[史料1]は長尾晴景が上杉玄清に越後長尾一族へ敵対しないことを誓約させた文書と考えられる。

この背景として[史料1]が発給された時期が、これまで玄清を傀儡化し越後に君臨し続けた長尾為景の死去した天文10年12月の直後という点が重要である(*5)。為景の死で越後国内が動揺したことは想像に難くない。そうした動揺に乗じて守護権力の回復を果たす可能性があった玄清を先んじて制止する目的を[史料1]は持っていたのではないか。

そう意味で[史料1]は晴景が為景の後継として活動を開始したことを示す文書ともいえよう。また、余談ではあるが「御舎弟達」という表現からは晴景の弟が複数いるように読める。景虎の他にも弟がいた可能性が示される。


[史料1]の性格について検討した。長尾晴景の越後支配の一端が見られるようで興味深い。また、[史料1]が発給された理由として、為景死去後の不安定な情勢を踏まえて国内の不穏分子の蠢動を警戒する必要があったことも挙げられよう。実際、為景死後越後国内では「国中各以同心対府内」「企不儀」という事態が生じている(*6)。為景死後、国内の政治体制を引き締めるための意味があったと考えられる。


*1)池亨氏・矢田敏俊文氏『上杉氏年表・増補改訂版』高志書院
*2)以前の記事
*3)『新潟県史』資料編3、2045号
*4)鶴巻薫氏「中世戦国期武家における起請文の機能についてー越後国と安芸国を中心にー」『新潟史学』59号
*5) 山本隆志氏『高野山清浄心院「越後過去名簿」(写本)』『新潟県立博物館紀要』9号
*6)『越佐史料』三巻、873頁