マラッカの続きからスタートです。
旅の第2弾では、下の地図の➌➍を訪れました(①②は旅の序盤に足を運んだ場所です)。また、後の下線部の数字にも対応しています。
3 マラッカ (2019年12月28日)
この日はじっくりマラッカを観光。
朝食はナシルマ【ココナッツミルクで炊いたお米。付け合わせの定番は画像右のピーナッツ、イカンビリス(イワシの稚魚を揚げたもの)、画像左のキュウリ。他にゆで卵、サンバル(唐辛子と玉ねぎで作るソース)も一般的だが、自分は取らなかった。肉を添えることもある。朝食の定番メニュー】。
9時にホテルを出て、トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)をそぞろ歩く。通りの両側にひしめく屋敷は、貿易で財を成したプラナカン(中国から移住してきた男性が現地のマレー系女性と結婚して生まれた子孫)たちの。クリスマス装飾と漢字が共存
窓の下の装飾が細やか。
側壁に祭壇が備えられている。
日帰りの観光客がまだ到着していない時間帯だからか、人影はまばら。
マラッカ川に架かる橋から上流の方向を望む。
橋を渡ると、赤い建物群が印象的なオランダ広場に出る。
さすがマラッカいちの繁華街、華やかに飾ったトライショー(人力でこぐ自転車タクシー)が客待ちをして賑わっている。
まずはラクサマナ通り沿いを進み、教会を目指す。セント・フランシス・ザビエル教会へは300mもない。
が、新郎新婦が到着して、まさに結婚式が始まろうとしている模様。
後にまわすことにして、さらに北上する。東南東にのびる通りを越えベンダハラ通りに入ると、インド人街となる。鮮やかなお花のレイがならび、雰囲気が一変。
そーいえば・・・その昔インドを旅していた時、車のバックミラー周りにお花のレイが下がってたなぁ(もっと短くてお花も小ぶりなのだったけど)。
オランダ広場から1km余り、セント・ピーター教会に到着。1710の数字が目を引く【記事その1で紹介したセント・ポール教会(1521年築)に創立年は遠く及ばないが、オランダ統治時代の18世紀初頭にポルトガル人が建てた由緒をもち、現存するという点では東南アジア最古のカトリック教会のひとつ】。
が、ここでも結婚式が執り行われようとしていた きっと佳き日なのね・・・中に入るのはあきらめる。
なお、前庭が広大で現代アート風のオブジェがあった。
舟に漁網・・・イエスの弟子となる前、若き日のペテロを象徴しているのかな。
同じ道をたどり、再びセント・フランシス・ザビエル教会へ(下の画像は後刻、マラッカ川対岸から撮影)。
【1849年、ザビエルの功績を讃えて建設されたカトリック教会】
まだ式は続いているようだったが、入れるようだったのでそ~っと入場。
全体的に白くて新しい感じがするけど、200年近く経過しているわけで・・・信者の方々が大切に扱いつつ 丁寧に補修してきたんだろうなぁ。
左上には聖家族のステンドグラス。
こちらは最後の晩餐。
そして、教会の前にはザビエル(右)とヤジロー(左)の像がある【名はアンジロー説もあるのだが、碑にYajiroと書いてあるのをここでは尊重する】。
両者の出会いについて説明する碑も。
【生没年不詳のヤジローは、薩摩の武士出身といわれる。人を殺し、山川(港)から船で海外逃亡を企てたが、彼の話を聞きいた船長が友人であり高徳の聖職者であるザビエルに相談することを勧めた。1546年にヤジローはマラッカに到着したが、ザビエルはモルッカ諸島へ伝道に出ていてすれ違ってしまう。あきらめてマラッカを離れたヤジローだが、嵐に遭って結局マラッカへ戻り、1547年ついにザビエルに会うことができた。ヤジローと話してみてその礼儀正しさ・勤勉さ・賢さに驚いたザビエルは、ヤジローをゴアへ送り聖パウロ学院で半年間学ばせる。洗礼を受けたヤジローとともにザビエルは1549年8月に来日。歴史を語るうえで「れば」「たら」は御法度とされる。しかし敢えて踏み込むならば、ヤジローと出会わなかったら果たしてザビエルは日本への布教を思いたっただろうか・・・否であろう。それほどに歴史を動かした出会いであった】
なお、ヤジローとザビエルが出会ったのはここではなく、セント・ポール教会である(記事その1で紹介した、今や廃墟となっている丘の上の教会)。正確を期すならば、現地に建立してほしいなと思ってしまうが・・・記念像を残したい日本の団体サイドと、その意を汲んでくれたマレーシアの教会サイドの、いわば大人の事情なのだろう。
オランダ広場まで戻って来て、マラッカ・キリスト教会に入る【1753年、オランダ統治時代に建設されたプロテスタント教会】。
マラッカのランドマークゆえ、前夜にこの前を通った時から気になっていた。教会3連発になるのだが、やむをえまい
木製の梁を渡す平らな天井【梁は接ぎ木せず、1本の木から切り出されたという】。
時節柄、クリッペが展示されていた。
タイル製の最後の晩餐。
次は、南に隣接するスタダイスを見学(下の画像、時計台の奥。撮影はこの日朝)。
【東アジアに唯一現存する、オランダ東インド会社ゆかりの建造物。1641年、バタビア商館(かつてジャワ島にあったオランダ東インド会社の本拠)を模倣し、オランダ総督の邸宅として建設開始。このスタダイスを中心にオランダ広場が形成されていった。なお、オランダ統治時代は漆喰で固めた白い建物だったのが、19世紀前半 当時の統治者イギリスによって赤く塗り替えられた。労働者たちが噛んで吐き捨てるビンロウ(マレーシア原産のヤシ科植物。口内清涼剤として用いる)により壁が所々赤くなったため汚れを隠そうと全部を赤くした等、その理由には諸説ある】
現在は博物館となっていて、広大な館内をまわりながら学ぶことができる。
自分にとって印象的だったのは、こちらの展示。マラッカ王国を破った後、次々とこの地を支配した統治者たちが並ぶ。
奥(画像左端)からポルトガル(1511~1641年)、オランダ(1641~1824年)、イギリス(1824~1957年)、日本(1942~1945年)。
地理的要衝であり、その繁栄ゆえに厳しく複雑な競争に巻き込まれてきたマラッカの歴史が凝縮されている・・・
結婚式を再現するマネキンたち。宗教が異なれば、スタイルも様々なわけで・・・
個人的には、どのマネキンも虚ろな表情をしているのが気になってしまうが
それぞれの民族衣装を身につけたマラッカの人々(記事その1で紹介した国立織物博物館の展示と若干かぶるけど)。ホントに多彩だわ~
「ザビエルの到着」と題する絵。画像中央やや左、黒い衣を身にまとうのがザビエルであろう【説明ボードには、「丘の上の聖ポール教会に隣接する学校でザビエルはカトリックを布教した。1545~1552年の間にザビエルはマラッカを5回訪れたが、期待したほどカトリックは広まらなかった」とあった】。
この博物館、古銭の展示が圧巻
ポルトガル統治時代の貨幣(16~17世紀)。十字架・錨・船・花などが描かれている。
以下は全てマラッカ王国の貨幣たち。動物モチーフが可愛すぎる
ニワトリ、魚ともに13世紀制作。
亀、蟹、ワニのは14世紀制作。
気がついたら12時半をまわっていて、さすがにお腹がすいてきた スタダイスを去り、マラッカ川沿いでお店を探す。
ふと川面を見ると、ワニが泳いでいるではないか。しかも、さっき見たばかりの貨幣のようなフォルム。なんてタイムリー
リバークルーズ船越しにオランダ広場を眺める。
マラッカ川沿いは、観光開発が近年進んでいるエリアのようだ。
エキゾチックな傘と提灯が浮かぶ脇道(写っているのは通りすがりの旅人)。
壁画アートが鮮やかな建物があったり・・・
ランチを食べられるお店も星の数ほどあったが、ちょうど繁忙な時間にあたってしまい、何軒かあきらめた。
そして、一度は通り過ぎた川沿いテラスのお店に決定。
暑いから、休日だから、と昼間からビール。対岸にセント・フランシス・ザビエル教会を拝める絶好のロケーション・・・色々な意味で幸せ
【タイガーはイギリス統治時代に生産を開始したシンガポールの銘柄】
シーフード炒飯。
sabahチキン【ボルネオ島にsabah州があるので、sabah風といったところか。記事を書くにあたり調べてみたが、特に郷土料理というわけではなさそうで・・・不明】。
これらをCちゃんとシェアして、1人あたり22RM(≒647円)。
再び橋を渡り、オランダ広場を横目に海の博物館と海軍博物館へ。入場券が共通になっているため訪れたのだが、いずれも画像を残していない
最後に、サンティアゴ砦へ【1511年にマラッカ王国を破ってこの地を占領したポルトガルだが、その残党の攻撃に悩まされたためマラッカ川の河口に砦を建設した。高さ15~20m・厚さ3~5mの壁がそびえていたという。1641年、オランダは8ヶ月にわたりこの砦を包囲し、ポルトガルを陥落させた。その時はさほど砦に被害はなかったらしいが、1807年にイギリスの攻撃により砦の大半が破壊された】。
残されているものは多くないが、復元された大砲に往時をしのぶ。てか、かつてここが海岸線だったとはにわかに信じがたい(いまや1kmほど内陸になっている)。
門の上部正面の彫刻はヨーロッパ風。男女の間、足元に船を表現しているあたりが大航海時代の覇者ポルトガルっぽい。
帰りがてら、丘に登ってみた。
前日は逆光だったが、マラッカ・タワーの向こうに海を見晴らすことができた【タワーは高さ110m。円盤状の展望台がゆっくり回転しながら80mの高さまで上下する。所要7分・定員66名】。
翌日にはここを発つため、トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)とハン・ジュバッ通り(ジョンカー・ストリート)に並ぶショップを往き来して買い物。荷物を置きがてら、18時に一旦ホテルへ戻る。
19時前、夕食のために外出。トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)をひたすら北西に進み、これまで全然歩いていないエリアに敢えて踏み込んでみる。
とはいえ明確なアテがあったわけではなく、目についたお店に入ることになった。
前日から気になっていたbeer bucketを注文。
備忘録によると チーズ・スティックなどをつまんだようだが、画像を撮っていない
21時前、宿に帰着。入浴の前後に衣類を洗濯してテラスに干しておいたら、翌朝にはすっかり乾いていた。
後は寝るだけの状態で、テラスにて晩酌。どんだけ飲むんかい
【SKOLはカールスバーグ(デンマーク)からライセンスを受けて、ブラジルで生産が始まった銘柄】
3・4 マラッカ ⇒ジョージタウン (2019年12月29日)
午前中は引き続きマラッカを楽しみ、14時台の飛行機でペナン島へ飛ぶことになっていた。
9時少し前にホテルを出ると、週末に開かれるという蚤の市が通りでお店を広げていた。
何度も歩いてきたハン・ジュバッ通り(ジョンカー・ストリート)を越え、ひとつ北のハーモニー・ストリート(トコン通り)に進む。緑の屋根のカンポン・クリン・モスクが見えてきた【1748年、インドから移住してきたムスリム商人によって建てられた。ひときわ高いミナレットも、お堂の三角屋根も独特のフォルムである。スマトラ様式というらしいが、ミナレットは中国の仏塔のようにも見える。様々な国の影響を受けていて、西アジアで一般的な細いミナレットにドーム状の屋根とは異なるのが特徴】。
履き物を脱ぎ、中へ入ろうとする。
と、この回廊の柱を支える基壇にほどこされたタイル装飾に惚れてしまった
パステルカラーの繊細な花模様。
ピンクのはリボンのように見える。
かと思えば、はっきりとした色づかいのもあり・・・
色ガラスがふんだんに光を取り込む。
木目の天井が重厚感を与えている。
見学しているうちに、Cちゃんは居合わせたオジちゃんからマンゴーを3個もらっていた。Cちゃんといると、こういうことがよくあるので驚きはしない
この日の夜、美味しくいただいた。
次は目と鼻の先のチェン・フン・テン寺院へ【青雲亭ともいう。1646年築、マレーシア最古の中国寺院。本尊は観音菩薩だが媽祖(道教における航海・漁業の守護神)も祀り、仏教・道教・儒教のための施設という】。
門からして装飾に気合いが入っている。
屋根の上を拡大してみる。陶製の装飾は細やか且つ絢爛豪華
こちらが本堂。
中央部はこんな感じ。「慈悲」って書いてあるし、仏教エリアだろうな。
仏様のような気がする(自信はないけど)。そして、漆塗りの装飾だぁ・・・
門から入って、右端のエリア。知識がなさすぎて、道教だか儒教だか分からない むむっ、下段が気になる。
というわけで、ズームアップ。 古くから大切に祀られてきたんだろうなぁ・・・
【この記事を書くにあたり調べたところ、トラの神様と判明。中国では野獣の王として敬われていて、悪事を取り去る・泣く赤ん坊をなだめる・仕事が成功するように助ける、等の御利益があるという】
寺院を出てなおもウロウロしていたら、こんなのを発見。まるでシーサーやないかい
【調べてみたところ、ルーツは古代オリエントにあると判明。百獣の王を権力や聖なるものの象徴とし、獅子像を盛んにつくっていた。これがシルクロードを通じて中国へ、そして沖縄に伝わりシーサーが誕生(ちなみに、中国から朝鮮半島を経由して本州に伝わった流れからは狛犬が生まれた)。マレーシアを含む東南アジアへはインドを経由して伝わったらしい。伝播のルートは違えど、起源は同じなのね~】
付近は雰囲気抜群なのだった。個人的には、トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)やハン・ジュバッ通り(ジョンカー・ストリート)よりもこっちの方が好みだな
マラッカ観光の最後は、ババ・ニョニャ・ヘリテージ【プラナカンの男性をババ、女性をニョニャという。1861年、チャン一族によって建てられた邸宅が公開されていて、中国・マレー・西洋を融合したユニークな文化を生み出したプラナカンの生活の一端を垣間見ることができる】。
入口から奥まで見通せる構造になっている。
逆方向(奥)から見るとこんな感じ。
陶器に魅かれてしまう・・・
清潔感ある台所。
大きな陶製の鉢には蓮の花。
階段をのぼって2階へ。見下ろしたアングル。
いや、その狭い所に座らないのでは マネキンの再現が無理め
婚礼衣装らしい(ガラスに写りこんでいる自分にモザイクをかけた)。
手の込んだ細工の寝台。
ん 花瓶の意匠が日本的・・・
ヘリテージを辞して、最後のお土産タイム。前日からショップで目に入るたび気になっていたレンゲをついに購入(長さ12㎝)。アンティークなど手が出ない値段だし、そもそも大切に扱えそうもないのでザ・お土産用の製品だけど 3つで114RM(≒3,352円)、そう安くはない。でもお花のモチーフがお気に入り、また右端の白いのを漆器に合わせるとしっくりくるのが意外な発見で、愛用している(この記事を書くにあたり撮影)。
そして、ガイドブックでチラ見していたニョニャ・クエに手が伸びてしまった【クエはお菓子の意で、プラナカンの家庭で祝い事やおもてなしのためにつくられるお菓子を指す。シンガポールにもあるらしい(←いつか訪れたなら、ぜひ食べ比べてみたい)】。
日頃は目もくれない辛党のはずなのだが、そのカラフルでポップな魅力たるや
数種類の中から選んだのは、オンデ・オンデ【パンダンリーフで緑色をつけたもち米粉のお団子の中にグラムラカの蜜を包み、仕上げにココナッツパウダーをかける。グラムラカとはマラッカ産のパームシュガーのことで、各地で製造される椰子砂糖の中でも特に質と味が良いという】。
ひと噛みすると、蜜がジュワッと飛び出してくる。黒糖の粒を舐めたことあるけど、やっぱり違うなぁ。これは液体感が強くて、舌触りが全然別モノ。
正午過ぎ、ホテルに戻ってフロントにタクシーを呼んでもらう。単純に空港と言ったら、クアラルンプールの空港と勘違いされて一時的に話が混乱
マラッカ空港っていまひとつマイナーなのかなぁ・・・【この記事を書くにあたり調べたところ、1日に数便しかフライトがないと判明。ペナン島への便とて1日1便なのだった】
ともあれ12時半にホテルを後にして、25分ほどで空港に到着。離陸の1時間50分前に着いてしまった。国内線だからそんなに早くなくてもと思わなくもないが、ギリギリに動いて焦るのは避けたいので、いつもこんな感じになってしまう
マリン〇airに初めて搭乗。
50分でペナン島に着陸。島の南東部の空港からジョージタウンへはタクシーで移動。
ムントゥリ通りの宿は、古い建物を修繕したヘリテージ・ホテル。我々が泊まったのは、階段をのぼって目の前の2階の部屋だった(撮影は後日)。
扉を開くと・・・
上の画像を右に折れると、バス&トイレ。
窓側の一番奥には天蓋ベッドその1。
そこから扉側を振り返ると、天蓋ベッドその2と机。
オーナーがアンティーク家具を厳選したというだけあって、素敵な空間になっている
18時半、夕食のために外出。ターゲットがあったわけではなく、なんとなく人通りがあってお店が多い方向へと歩き、チャイナタウンのお店に入った。
肉骨茶【バクテーと読む。スペアリブなどの骨付き肉を生薬(八角・ニンニク・熟地黄など)と煮込んだ料理。白米にかけたり、油条をスープにひたしたりして食す。発祥はマレーシアとシンガポールの二説あり、それぞれ特徴が異なる。前者はマレーシアの港湾都市クランで荷物運び等に従事する労働者が故郷・福建省の豚肉醤油煮込みに思いを馳せつつ、そぎ落とし切れなかった肉付きの骨と、滋養がつくように漢方スープを合体させてあみ出したといわれ、中国醤油を使用しスープの色は濃い。後者は広東省潮州出身者が考案したとされ、スープの色は薄くコショウが効いている】。赤い皿のが油条。
これ、食べたいと思ってたのよね~ 薬臭くなくて、全然想像とは違う味わい。おまけに身体にいいなんて、最高
魚入りの汁ビーフンも食す。
20時前、ホテルへ戻る。入浴後の晩酌ビールはホテルの近所の小売店でget。この日も大いに飲んで、夜は更けていくのだった。
【アンカーは19世紀末にアメリカで創業した銘柄。2017年に日本のサッポロビールが買収したが、コロナ禍を経て2023年に廃業を発表】
★ 中締め ★
マラッカはセント・フランシス・ザビエル教会のヤジローとザビエルの像は、鹿児島のザビエル公園のそれをもとに造られたそうです。
その像がこちら、左がヤジローで中央がザビエル(2024年3月撮影)。最初から数えて18枚目の画像と見比べてみてくださいね~
ちなみに、右はベルナルド【薩摩出身、本名は不詳。1549年8月、ザビエルが来日した直後に洗礼を受けた。1551年11月、ザビエルが日本を離れる際に行動を共にし1552年にゴアへ到着。ザビエルと別れた後、1553年にリスボンへ到着。1555年にはローマでイエズス会の総長に謁見。その後、ポルトガルに戻りコインブラの修道院で学んでいたが1557年に死去。日本人最初のヨーロッパ留学生といわれる】。
ザビエル像に3羽も鳩がとまっているのはご愛嬌
次回はペナン島の様子をじっくりお届けします。これ以降、ザビエルは出てこないのですが
それではまた~
旅の第2弾では、下の地図の➌➍を訪れました(①②は旅の序盤に足を運んだ場所です)。また、後の下線部の数字にも対応しています。
3 マラッカ (2019年12月28日)
この日はじっくりマラッカを観光。
朝食はナシルマ【ココナッツミルクで炊いたお米。付け合わせの定番は画像右のピーナッツ、イカンビリス(イワシの稚魚を揚げたもの)、画像左のキュウリ。他にゆで卵、サンバル(唐辛子と玉ねぎで作るソース)も一般的だが、自分は取らなかった。肉を添えることもある。朝食の定番メニュー】。
9時にホテルを出て、トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)をそぞろ歩く。通りの両側にひしめく屋敷は、貿易で財を成したプラナカン(中国から移住してきた男性が現地のマレー系女性と結婚して生まれた子孫)たちの。クリスマス装飾と漢字が共存
窓の下の装飾が細やか。
側壁に祭壇が備えられている。
日帰りの観光客がまだ到着していない時間帯だからか、人影はまばら。
マラッカ川に架かる橋から上流の方向を望む。
橋を渡ると、赤い建物群が印象的なオランダ広場に出る。
さすがマラッカいちの繁華街、華やかに飾ったトライショー(人力でこぐ自転車タクシー)が客待ちをして賑わっている。
まずはラクサマナ通り沿いを進み、教会を目指す。セント・フランシス・ザビエル教会へは300mもない。
が、新郎新婦が到着して、まさに結婚式が始まろうとしている模様。
後にまわすことにして、さらに北上する。東南東にのびる通りを越えベンダハラ通りに入ると、インド人街となる。鮮やかなお花のレイがならび、雰囲気が一変。
そーいえば・・・その昔インドを旅していた時、車のバックミラー周りにお花のレイが下がってたなぁ(もっと短くてお花も小ぶりなのだったけど)。
オランダ広場から1km余り、セント・ピーター教会に到着。1710の数字が目を引く【記事その1で紹介したセント・ポール教会(1521年築)に創立年は遠く及ばないが、オランダ統治時代の18世紀初頭にポルトガル人が建てた由緒をもち、現存するという点では東南アジア最古のカトリック教会のひとつ】。
が、ここでも結婚式が執り行われようとしていた きっと佳き日なのね・・・中に入るのはあきらめる。
なお、前庭が広大で現代アート風のオブジェがあった。
舟に漁網・・・イエスの弟子となる前、若き日のペテロを象徴しているのかな。
同じ道をたどり、再びセント・フランシス・ザビエル教会へ(下の画像は後刻、マラッカ川対岸から撮影)。
【1849年、ザビエルの功績を讃えて建設されたカトリック教会】
まだ式は続いているようだったが、入れるようだったのでそ~っと入場。
全体的に白くて新しい感じがするけど、200年近く経過しているわけで・・・信者の方々が大切に扱いつつ 丁寧に補修してきたんだろうなぁ。
左上には聖家族のステンドグラス。
こちらは最後の晩餐。
そして、教会の前にはザビエル(右)とヤジロー(左)の像がある【名はアンジロー説もあるのだが、碑にYajiroと書いてあるのをここでは尊重する】。
両者の出会いについて説明する碑も。
【生没年不詳のヤジローは、薩摩の武士出身といわれる。人を殺し、山川(港)から船で海外逃亡を企てたが、彼の話を聞きいた船長が友人であり高徳の聖職者であるザビエルに相談することを勧めた。1546年にヤジローはマラッカに到着したが、ザビエルはモルッカ諸島へ伝道に出ていてすれ違ってしまう。あきらめてマラッカを離れたヤジローだが、嵐に遭って結局マラッカへ戻り、1547年ついにザビエルに会うことができた。ヤジローと話してみてその礼儀正しさ・勤勉さ・賢さに驚いたザビエルは、ヤジローをゴアへ送り聖パウロ学院で半年間学ばせる。洗礼を受けたヤジローとともにザビエルは1549年8月に来日。歴史を語るうえで「れば」「たら」は御法度とされる。しかし敢えて踏み込むならば、ヤジローと出会わなかったら果たしてザビエルは日本への布教を思いたっただろうか・・・否であろう。それほどに歴史を動かした出会いであった】
なお、ヤジローとザビエルが出会ったのはここではなく、セント・ポール教会である(記事その1で紹介した、今や廃墟となっている丘の上の教会)。正確を期すならば、現地に建立してほしいなと思ってしまうが・・・記念像を残したい日本の団体サイドと、その意を汲んでくれたマレーシアの教会サイドの、いわば大人の事情なのだろう。
オランダ広場まで戻って来て、マラッカ・キリスト教会に入る【1753年、オランダ統治時代に建設されたプロテスタント教会】。
マラッカのランドマークゆえ、前夜にこの前を通った時から気になっていた。教会3連発になるのだが、やむをえまい
木製の梁を渡す平らな天井【梁は接ぎ木せず、1本の木から切り出されたという】。
時節柄、クリッペが展示されていた。
タイル製の最後の晩餐。
次は、南に隣接するスタダイスを見学(下の画像、時計台の奥。撮影はこの日朝)。
【東アジアに唯一現存する、オランダ東インド会社ゆかりの建造物。1641年、バタビア商館(かつてジャワ島にあったオランダ東インド会社の本拠)を模倣し、オランダ総督の邸宅として建設開始。このスタダイスを中心にオランダ広場が形成されていった。なお、オランダ統治時代は漆喰で固めた白い建物だったのが、19世紀前半 当時の統治者イギリスによって赤く塗り替えられた。労働者たちが噛んで吐き捨てるビンロウ(マレーシア原産のヤシ科植物。口内清涼剤として用いる)により壁が所々赤くなったため汚れを隠そうと全部を赤くした等、その理由には諸説ある】
現在は博物館となっていて、広大な館内をまわりながら学ぶことができる。
自分にとって印象的だったのは、こちらの展示。マラッカ王国を破った後、次々とこの地を支配した統治者たちが並ぶ。
奥(画像左端)からポルトガル(1511~1641年)、オランダ(1641~1824年)、イギリス(1824~1957年)、日本(1942~1945年)。
地理的要衝であり、その繁栄ゆえに厳しく複雑な競争に巻き込まれてきたマラッカの歴史が凝縮されている・・・
結婚式を再現するマネキンたち。宗教が異なれば、スタイルも様々なわけで・・・
個人的には、どのマネキンも虚ろな表情をしているのが気になってしまうが
それぞれの民族衣装を身につけたマラッカの人々(記事その1で紹介した国立織物博物館の展示と若干かぶるけど)。ホントに多彩だわ~
「ザビエルの到着」と題する絵。画像中央やや左、黒い衣を身にまとうのがザビエルであろう【説明ボードには、「丘の上の聖ポール教会に隣接する学校でザビエルはカトリックを布教した。1545~1552年の間にザビエルはマラッカを5回訪れたが、期待したほどカトリックは広まらなかった」とあった】。
この博物館、古銭の展示が圧巻
ポルトガル統治時代の貨幣(16~17世紀)。十字架・錨・船・花などが描かれている。
以下は全てマラッカ王国の貨幣たち。動物モチーフが可愛すぎる
ニワトリ、魚ともに13世紀制作。
亀、蟹、ワニのは14世紀制作。
気がついたら12時半をまわっていて、さすがにお腹がすいてきた スタダイスを去り、マラッカ川沿いでお店を探す。
ふと川面を見ると、ワニが泳いでいるではないか。しかも、さっき見たばかりの貨幣のようなフォルム。なんてタイムリー
リバークルーズ船越しにオランダ広場を眺める。
マラッカ川沿いは、観光開発が近年進んでいるエリアのようだ。
エキゾチックな傘と提灯が浮かぶ脇道(写っているのは通りすがりの旅人)。
壁画アートが鮮やかな建物があったり・・・
ランチを食べられるお店も星の数ほどあったが、ちょうど繁忙な時間にあたってしまい、何軒かあきらめた。
そして、一度は通り過ぎた川沿いテラスのお店に決定。
暑いから、休日だから、と昼間からビール。対岸にセント・フランシス・ザビエル教会を拝める絶好のロケーション・・・色々な意味で幸せ
【タイガーはイギリス統治時代に生産を開始したシンガポールの銘柄】
シーフード炒飯。
sabahチキン【ボルネオ島にsabah州があるので、sabah風といったところか。記事を書くにあたり調べてみたが、特に郷土料理というわけではなさそうで・・・不明】。
これらをCちゃんとシェアして、1人あたり22RM(≒647円)。
再び橋を渡り、オランダ広場を横目に海の博物館と海軍博物館へ。入場券が共通になっているため訪れたのだが、いずれも画像を残していない
最後に、サンティアゴ砦へ【1511年にマラッカ王国を破ってこの地を占領したポルトガルだが、その残党の攻撃に悩まされたためマラッカ川の河口に砦を建設した。高さ15~20m・厚さ3~5mの壁がそびえていたという。1641年、オランダは8ヶ月にわたりこの砦を包囲し、ポルトガルを陥落させた。その時はさほど砦に被害はなかったらしいが、1807年にイギリスの攻撃により砦の大半が破壊された】。
残されているものは多くないが、復元された大砲に往時をしのぶ。てか、かつてここが海岸線だったとはにわかに信じがたい(いまや1kmほど内陸になっている)。
門の上部正面の彫刻はヨーロッパ風。男女の間、足元に船を表現しているあたりが大航海時代の覇者ポルトガルっぽい。
帰りがてら、丘に登ってみた。
前日は逆光だったが、マラッカ・タワーの向こうに海を見晴らすことができた【タワーは高さ110m。円盤状の展望台がゆっくり回転しながら80mの高さまで上下する。所要7分・定員66名】。
翌日にはここを発つため、トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)とハン・ジュバッ通り(ジョンカー・ストリート)に並ぶショップを往き来して買い物。荷物を置きがてら、18時に一旦ホテルへ戻る。
19時前、夕食のために外出。トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)をひたすら北西に進み、これまで全然歩いていないエリアに敢えて踏み込んでみる。
とはいえ明確なアテがあったわけではなく、目についたお店に入ることになった。
前日から気になっていたbeer bucketを注文。
備忘録によると チーズ・スティックなどをつまんだようだが、画像を撮っていない
21時前、宿に帰着。入浴の前後に衣類を洗濯してテラスに干しておいたら、翌朝にはすっかり乾いていた。
後は寝るだけの状態で、テラスにて晩酌。どんだけ飲むんかい
【SKOLはカールスバーグ(デンマーク)からライセンスを受けて、ブラジルで生産が始まった銘柄】
3・4 マラッカ ⇒ジョージタウン (2019年12月29日)
午前中は引き続きマラッカを楽しみ、14時台の飛行機でペナン島へ飛ぶことになっていた。
9時少し前にホテルを出ると、週末に開かれるという蚤の市が通りでお店を広げていた。
何度も歩いてきたハン・ジュバッ通り(ジョンカー・ストリート)を越え、ひとつ北のハーモニー・ストリート(トコン通り)に進む。緑の屋根のカンポン・クリン・モスクが見えてきた【1748年、インドから移住してきたムスリム商人によって建てられた。ひときわ高いミナレットも、お堂の三角屋根も独特のフォルムである。スマトラ様式というらしいが、ミナレットは中国の仏塔のようにも見える。様々な国の影響を受けていて、西アジアで一般的な細いミナレットにドーム状の屋根とは異なるのが特徴】。
履き物を脱ぎ、中へ入ろうとする。
と、この回廊の柱を支える基壇にほどこされたタイル装飾に惚れてしまった
パステルカラーの繊細な花模様。
ピンクのはリボンのように見える。
かと思えば、はっきりとした色づかいのもあり・・・
色ガラスがふんだんに光を取り込む。
木目の天井が重厚感を与えている。
見学しているうちに、Cちゃんは居合わせたオジちゃんからマンゴーを3個もらっていた。Cちゃんといると、こういうことがよくあるので驚きはしない
この日の夜、美味しくいただいた。
次は目と鼻の先のチェン・フン・テン寺院へ【青雲亭ともいう。1646年築、マレーシア最古の中国寺院。本尊は観音菩薩だが媽祖(道教における航海・漁業の守護神)も祀り、仏教・道教・儒教のための施設という】。
門からして装飾に気合いが入っている。
屋根の上を拡大してみる。陶製の装飾は細やか且つ絢爛豪華
こちらが本堂。
中央部はこんな感じ。「慈悲」って書いてあるし、仏教エリアだろうな。
仏様のような気がする(自信はないけど)。そして、漆塗りの装飾だぁ・・・
門から入って、右端のエリア。知識がなさすぎて、道教だか儒教だか分からない むむっ、下段が気になる。
というわけで、ズームアップ。 古くから大切に祀られてきたんだろうなぁ・・・
【この記事を書くにあたり調べたところ、トラの神様と判明。中国では野獣の王として敬われていて、悪事を取り去る・泣く赤ん坊をなだめる・仕事が成功するように助ける、等の御利益があるという】
寺院を出てなおもウロウロしていたら、こんなのを発見。まるでシーサーやないかい
【調べてみたところ、ルーツは古代オリエントにあると判明。百獣の王を権力や聖なるものの象徴とし、獅子像を盛んにつくっていた。これがシルクロードを通じて中国へ、そして沖縄に伝わりシーサーが誕生(ちなみに、中国から朝鮮半島を経由して本州に伝わった流れからは狛犬が生まれた)。マレーシアを含む東南アジアへはインドを経由して伝わったらしい。伝播のルートは違えど、起源は同じなのね~】
付近は雰囲気抜群なのだった。個人的には、トゥン・タン・チェン・ロック通り(ヒーレン・ストリート)やハン・ジュバッ通り(ジョンカー・ストリート)よりもこっちの方が好みだな
マラッカ観光の最後は、ババ・ニョニャ・ヘリテージ【プラナカンの男性をババ、女性をニョニャという。1861年、チャン一族によって建てられた邸宅が公開されていて、中国・マレー・西洋を融合したユニークな文化を生み出したプラナカンの生活の一端を垣間見ることができる】。
入口から奥まで見通せる構造になっている。
逆方向(奥)から見るとこんな感じ。
陶器に魅かれてしまう・・・
清潔感ある台所。
大きな陶製の鉢には蓮の花。
階段をのぼって2階へ。見下ろしたアングル。
いや、その狭い所に座らないのでは マネキンの再現が無理め
婚礼衣装らしい(ガラスに写りこんでいる自分にモザイクをかけた)。
手の込んだ細工の寝台。
ん 花瓶の意匠が日本的・・・
ヘリテージを辞して、最後のお土産タイム。前日からショップで目に入るたび気になっていたレンゲをついに購入(長さ12㎝)。アンティークなど手が出ない値段だし、そもそも大切に扱えそうもないのでザ・お土産用の製品だけど 3つで114RM(≒3,352円)、そう安くはない。でもお花のモチーフがお気に入り、また右端の白いのを漆器に合わせるとしっくりくるのが意外な発見で、愛用している(この記事を書くにあたり撮影)。
そして、ガイドブックでチラ見していたニョニャ・クエに手が伸びてしまった【クエはお菓子の意で、プラナカンの家庭で祝い事やおもてなしのためにつくられるお菓子を指す。シンガポールにもあるらしい(←いつか訪れたなら、ぜひ食べ比べてみたい)】。
日頃は目もくれない辛党のはずなのだが、そのカラフルでポップな魅力たるや
数種類の中から選んだのは、オンデ・オンデ【パンダンリーフで緑色をつけたもち米粉のお団子の中にグラムラカの蜜を包み、仕上げにココナッツパウダーをかける。グラムラカとはマラッカ産のパームシュガーのことで、各地で製造される椰子砂糖の中でも特に質と味が良いという】。
ひと噛みすると、蜜がジュワッと飛び出してくる。黒糖の粒を舐めたことあるけど、やっぱり違うなぁ。これは液体感が強くて、舌触りが全然別モノ。
正午過ぎ、ホテルに戻ってフロントにタクシーを呼んでもらう。単純に空港と言ったら、クアラルンプールの空港と勘違いされて一時的に話が混乱
マラッカ空港っていまひとつマイナーなのかなぁ・・・【この記事を書くにあたり調べたところ、1日に数便しかフライトがないと判明。ペナン島への便とて1日1便なのだった】
ともあれ12時半にホテルを後にして、25分ほどで空港に到着。離陸の1時間50分前に着いてしまった。国内線だからそんなに早くなくてもと思わなくもないが、ギリギリに動いて焦るのは避けたいので、いつもこんな感じになってしまう
マリン〇airに初めて搭乗。
50分でペナン島に着陸。島の南東部の空港からジョージタウンへはタクシーで移動。
ムントゥリ通りの宿は、古い建物を修繕したヘリテージ・ホテル。我々が泊まったのは、階段をのぼって目の前の2階の部屋だった(撮影は後日)。
扉を開くと・・・
上の画像を右に折れると、バス&トイレ。
窓側の一番奥には天蓋ベッドその1。
そこから扉側を振り返ると、天蓋ベッドその2と机。
オーナーがアンティーク家具を厳選したというだけあって、素敵な空間になっている
18時半、夕食のために外出。ターゲットがあったわけではなく、なんとなく人通りがあってお店が多い方向へと歩き、チャイナタウンのお店に入った。
肉骨茶【バクテーと読む。スペアリブなどの骨付き肉を生薬(八角・ニンニク・熟地黄など)と煮込んだ料理。白米にかけたり、油条をスープにひたしたりして食す。発祥はマレーシアとシンガポールの二説あり、それぞれ特徴が異なる。前者はマレーシアの港湾都市クランで荷物運び等に従事する労働者が故郷・福建省の豚肉醤油煮込みに思いを馳せつつ、そぎ落とし切れなかった肉付きの骨と、滋養がつくように漢方スープを合体させてあみ出したといわれ、中国醤油を使用しスープの色は濃い。後者は広東省潮州出身者が考案したとされ、スープの色は薄くコショウが効いている】。赤い皿のが油条。
これ、食べたいと思ってたのよね~ 薬臭くなくて、全然想像とは違う味わい。おまけに身体にいいなんて、最高
魚入りの汁ビーフンも食す。
20時前、ホテルへ戻る。入浴後の晩酌ビールはホテルの近所の小売店でget。この日も大いに飲んで、夜は更けていくのだった。
【アンカーは19世紀末にアメリカで創業した銘柄。2017年に日本のサッポロビールが買収したが、コロナ禍を経て2023年に廃業を発表】
★ 中締め ★
マラッカはセント・フランシス・ザビエル教会のヤジローとザビエルの像は、鹿児島のザビエル公園のそれをもとに造られたそうです。
その像がこちら、左がヤジローで中央がザビエル(2024年3月撮影)。最初から数えて18枚目の画像と見比べてみてくださいね~
ちなみに、右はベルナルド【薩摩出身、本名は不詳。1549年8月、ザビエルが来日した直後に洗礼を受けた。1551年11月、ザビエルが日本を離れる際に行動を共にし1552年にゴアへ到着。ザビエルと別れた後、1553年にリスボンへ到着。1555年にはローマでイエズス会の総長に謁見。その後、ポルトガルに戻りコインブラの修道院で学んでいたが1557年に死去。日本人最初のヨーロッパ留学生といわれる】。
ザビエル像に3羽も鳩がとまっているのはご愛嬌
次回はペナン島の様子をじっくりお届けします。これ以降、ザビエルは出てこないのですが
それではまた~
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